杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -14ページ目

新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

日本の伝統的な社会では、

それぞれ個人の誕生日ではなく、

元旦にみんな一斉に年をとったそうです。

 

元旦にやってくる年神様に

「魂」を分けていただき、

新しい一年を生きていく。

 

その名残が「お年玉(魂)」だそうです。

 

現代でもこの年のとり方は、

「数え年」という形で残っています。

 

それぞれの誕生日を祝うのも楽しいですが、

「みんなで一斉に年をとる」というのも、

なんだかほっこりしてうれしい気がします。

 

ところで、現代のように

「個人の誕生日」を基準にした

年の数え方(満年齢)になったのは、

そんなに昔のことではないそうです。

 

まず1902年(明治35年)に、

明治政府が「年齢計算ニ関スル法律」を定め、

満年齢を導入しようとしました。

 

ところが、これが全く普及しませんでした。

要するに民衆にガン無視されたわけです(笑)。

 

当時の人々にとっては、

個人がそれぞれ年をとるという感覚が

あまり腑に落ちなかったのかもしれません。

 

結果的に、

「国が定めた法律を、民衆が却下した」

という形になったわけです。

なんだか愉快ではありませんか。

 

それから48年後の1950年(昭和25年)に、

今度は「年齢のとなえ方に関する法律」が定められ、

ようやく現代の満年齢が普及することになります。

 

この「年齢の数え方」は、

「いのちとは何か」という問いと

深く関わっている気がします。

 

もしかすると、

いのちを「個人の所有物」のように捉えるよりも、

「年神様からいただいた一年分のいのち」と捉えた方が、

案外それを大胆に、いきいきと生かせるのかもしれません。

 

そんな答えのないことをぼんやり考えながら、

今年もぼちぼち過ごしていけたらいいなーと思います。

友人夫妻が、二人目の子どもを妊娠した。

「杉原さん、名前考えてよ」

と依頼されたので、その瞬間のインスピレーションによって浮かんだ名前を、さっそくお伝えした。

「サウザーにしよう」

彼らは怪訝な顔をしながら、遠慮なく不満をぶつけてきた。

「なんで?」

「誰だよサウザーって」

僕は〝サウザー〟と聞いてピンとこない彼らに半ばあきれながら、「北斗の拳」という漫画に登場する「聖帝サウザー」について滔々と説明した。

サウザーは、南斗聖拳最強の男であること。
秘孔の位置が左右逆であるため北斗神拳が通用しないこと。
「聖帝十字陵」を築こうとしたこと。
「愛などいらぬ!」という名言を吐いたこと。

しかもちょくちょくモノマネも入れながら、だ。

にもかかわらず、彼らは全く納得していない様子である。

むしろ不満なのはこっちの方だ!と言いかけた瞬間、僕は大事なことを伝え忘れていたことに気づいた。

「あ、ごめん!漢字やんな(笑)」

確かに〝サウザー〟をどう書くかは大事な問題で、それを抜きに名前は語れない。

 

「キラキラネーム」みたいなのはイヤだし、かといって難しい漢字では子どもが苦労する。

かなりの難題に思えたが、それも得意のインスピレーションによって一瞬にして解決した。

「〝左右左〟って書いて〝サウザー〟でどう?」

聖帝サウザーの「秘孔の位置が左右逆」という特徴も表現した、完璧な当て字。

 

人生で初めて「神」の存在を確信した瞬間だった。

しかし神の存在を確信したとしても、確信しているのは結局人間である。

 

そこに邪念が入るのに時間はかからなかった。

 

「左右左」ときたら、もうひとつ「右」を入れた方が美しいのではないか?

 

そんな気がしてきた。

 

だがそれではサウザーじゃなくて、サウザウ(左右左右)になってしまう。

ならば思い切って「左右左右衛門(サウザエモン)」とかにしたらどうだろうか?

……いや、さすがに江戸時代すぎる。

もっと現代的な漢字にしてあげないと、子どもがかわいそうだ。

というか、そもそも「左右左」だと、「サウザー」ではなく「サウザ」と読んでしまう怖れがある。

そう考えると、最後に「亜」を付けて「左右左亜」にしてあげるのがいいのではないか。

なんだか取って付けたような感じになってしまうが、いやいや、ここは美学よりも実を取るべきだろう。

そうすると、やっぱり「左右左亜」かなあ。……うん、それがベストだ!

「よし、〝左右左亜〟にしよう!」

そう伝えようとしたら、名前の話題はとっくに終わっていたらしく、彼らは全く別の話題で盛り上がっていた。

 

「こ… こんなに… こんなに悲しいのなら 苦しいのなら………… 愛などいらぬ!!」

 

僕はその日から、聖帝十字陵を築くことに人生の全てを捧げることになった。

 

 

 

 

ずいぶん日が経ってしまいましたが、10月24日の千歳市での講演を、千歳民報さんが記事にしてくださいました。

 

あんな無節操な話をここまで見事にまとめられるとは、相当腕の立つ記者さんに違いありません。

 

記念に何部か購入させてくださいとお願いしたのですが、「いい話を聞かせてもらったので」と、無料で数冊プレゼントしてくださいました。北海道は寒いけどあったかい!!(笑)

 

そして主催の千歳市健康づくり課さんが、当日来場者のアンケート結果も送ってくださいました。

 

講演内容の理解について、「よく理解できた」が58.3%、「まあ理解できた」が33.3%だったとのこと。けっこう複雑なことも話したつもりだったのに、91.6%もの人が「理解できた」と感じてくださったことには本当に驚きました。

 

コメントも「人のつながりの大切さに改めて気づいた」というものが多く、お話させてもらえて本当によかったなあと思いました。

 

特に、平野啓一郎さんが提唱している「分人主義」が印象に残った人が多かったよう。確かに自殺予防においてとっても有効な考え方だなあと思います。

 

千歳市のみなさん、貴重な機会をいただき、あらためてありがとうございました!

 

と、ひとまずご報告でした!!

 

「千歳民報」2019年10月26日

その日、外は真冬の寒さだったが、電車の中は混み合っていて、とても暑かった。

 

僕は一刻も早くダウンジャケットを脱ごうと思い、首元まで閉まったジッパーに手をかけ、一気に下ろそうとした。

 

だがその瞬間、あることに気づいた。

 

僕のすぐ目の前に、若い女性が背を向けて立っているのだ。

 

ここで一気にジッパーを下ろしたら、その音に気づいた女性が変な誤解をして、「変態がいます!」と叫ぶかもしれない。

 

それだけは絶対に避けなければならない。

 

僕はジッパーを持った手を一度止め、そこから音を立てないように、じわじわ、じわじわ、ゆっくりと下に下ろしていった。

 

…………。

 

…………。

 

これはこれで変態っぽいではないか!

 

しかも一気にジッパーを下ろす変態より、もうワンランク上の変態だ。

 

確かに目の前に立つ女性には気づかれないかもしれないが、周りの人たちに発見されて、「普通の変態よりさらにワンランク上の変態がいます!!」と叫ばれるかもしれない。

 

僕の脳裏に「袋小路」という言葉が浮かんだ。

 

ジッパーを一気に下ろしてもアウト。じわじわ下ろしてもアウト。じゃあ普通に下ろしたらどうか?「普通の変態」になるだけだ。

 

暖房がよく効いた混雑する車内で、汗がじわりとにじみ出る。そこに、暑さとは違う原因による汗も加わる。

 

僕は結局、ジッパーに手をかけたまま、次の駅まで暑さに耐えて固まり続けるしかなかった。

 

このように、人生には「最善の選択」が一つも見当たらない「袋小路」が突如現れることがある。

 

「絶望」を体感する瞬間である。

 

そういう時は、じたばたしても仕方ない。最善の選択が見当たらないなら、せめて最悪の選択を避けるしかない。そしてひたすら、時の流れに身をまかせるのだ。

 

その時のBGMはもちろん、テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」である。

 

♪時の流れに身をまかせ〜 あなたの色に染められ〜

 

いい歌だ。でも、次の歌詞の部分は気をつけねばならない。

 

♪一度の人生それさえ〜 捨てることもかまわない〜

 

ここで思わず「そうそう、人生捨ててもかまわない♪」と共感してしまい、ジッパーを一気に下ろしてしまったらアウトだ。

 

脳内BGMの選択ひとつで、その後の人生を「変態」として生きていかねばならないこともある。

 

だが、それが人生というものなのだ。

 

そう思う。

以前、『かがり火』で対談させていただいた岩崎有二さんが、奥さんのイワサキエミさんと一緒にネットショップを立ち上げた。

 

その名も「イワサキ アシカ堂」

 

サイト自体がとっても美しいので、ぜひ一度覗いてみてほしい。

 

僕はTwitterでたまたま知って、さっそくお店に訪問してみた。

 

そして思わず「秒で」購入してしまったのが、岩崎有ニさんの作品がプリントされた、この缶バッジのセット。

 

 

見てるだけでハッピーになるこの色合いが、僕は大好きなのです。

 

そしてきのう届いたのがこちら!

 

 

なんかもうこのまま飾っておきたい気もするけれど、思い切って1個開封。さっそく使ってみた。

 

 

……ええやん(笑)。

 

もともと付けていたヤギサワバルのバッジと、友人のアーティストMAYUKOさんのバッジとの共演。

 

リュックはご存知、無印のもの。持ってる人がめちゃくちゃ多くて、街でもしょっちゅう見かける。でもだからこそ、こうやってアレンジしがいがある。それだけではなく、他の人が間違えて持っていかないように、という実用的な意味もあるのだ。

 

もし街でこのバッジを付けている人を見つけたら、僕は確実に話しかけるだろう(笑)。

 

缶バッジに同封されていたお二人の名刺もすごくいい。

 

 

そして今回は特別に、『かがり火』での対談の、冒頭部分を大公開!

いずれかがり火WEBでも公開する予定ですー。

 

 

ものすごく気軽に、本物のアートにふれられるネットショップ「イワサキ アシカ堂」

 

ぜひ一度訪れてみてはいかがだろうか。

映画「馬ありて」の初上映を観てきた。

 

感想を言語化することを拒むような、まるで意識の深層に染み入るような映画だった。

 

古来から続いてきた馬と人間との営みには、現代人である僕たちの倫理観が及ばない深みがある。

 

それを象徴するのが、映画の中で語られる「オシラサマ」の言い伝えだろう。そこには、人間の馬に対する感謝や、畏怖や、贖罪などの、矛盾したあらゆる想いが込められているような気がする。そしてこの言い伝えの中に、僕は言いようのない救いのようなものを感じた。

 

上映後には、笹谷遼平監督と、写真家の石川直樹さんとのトークショーがあった。

 

石川さん自身も、世界中を旅する中で、失われゆく文明を目の当たりにしてきた人である。それだけに、この貴重な記録を収めた映画を高く評価しているようだった。

 

「時間とともに消費されるのではなく、その価値を高めていく映画」との評に、僕も共感するものがあった。

 

パンフレットを買って読んでいると、そこにグッとくる言葉を見つけた。映画に登場する馬飼いの戸田富治さんが、監督の笹谷さんに言った言葉である。

 

「笹谷くん、僕は君をなんだか旧知の友人のように思っている。だから、表面的な映画は作らないで欲しい」(監督 笹谷遼平「「馬ありて」の旅」より)

 

温かくて、そして厳しい言葉だと僕は思った。

 

と同時に、なぜか僕自身も、戸田さんに「表面的な人生は送らないで欲しい」と言われたような気がして、はっとさせられた。

 

都会の表層を生きていると、人は自分のいのちを生きることを忘れがちになる。自分のいのちが、自然とのつながりと共にあることを忘れがちになる。

 

それは人間の倫理観だけで捉えれば矛盾に満ちたもののはずなのに、その矛盾を感じずに生きられているとき、僕たちの人生は「表面的なもの」にすぎないのかもしれない。

 

もしもこの街に突然一頭の馬が現れて、思うがままに駆け回ったとして、僕たちはそこにいのちの躍動を見ることができるだろうか。何かにはっと気づくことがあるだろうか。

 

映画「馬ありて」は、東京渋谷のシアター・イメージフォーラムにて上映中。

 

かがり火WEBに寄稿していただいた監督からのメッセージもぜひご覧ください。

【寄稿】馬の瞳の奥に無限の自然を見た。―映画「馬ありて」について―(映画監督・笹谷遼平さん)

 

笹谷遼平さん監督の映画「馬ありて」。

ついに明日11月30日公開となりました。

 

ある会で笹谷さんに偶然出会い、

制作中の「馬ありて」の話を聞いていましたので、

なかなか感慨深いものがあります。

 

この映画についての文章を、

かがり火WEBに寄稿していただきましたので、

よかったら読んでみてください。

 

そして気が向いたら映画館に足を運んでいただけると幸いです。

 

明日は僕も観に行こうと思っております。

 

【寄稿】馬の瞳の奥に無限の自然を見た。―映画「馬ありて」について―(映画監督・笹谷遼平さん)

最高のみそ料理を出してくれる「みそカフェ」さんで、

山本菜々子さんと対談させていただきますー!

 

山本さんは小学校2年生から不登校になり、

さまざまな葛藤を乗り越えながら、

今では仲間と一緒に立ち上げた会社でデザインの仕事をしたり、

演劇をしたり、とても魅力的な生き方をしている方です。

 

対談といっても、僕は聞き役みたいな感じで、

山本さんのお話をたくさん聞けたらいいなーと思ってます。

そして参加者みんなでお話するような感じになると思います!

 

ちなみに以前、地域づくり情報誌『かがり火』で

対談した際の記事はコチラから読めます。

 

参加申し込みは下記よりできますので、

よかったら遊びに来てくださいませ〜。

 

【詳細】

【みそカフェ トークイベント第1回】「いろんな生き方あるよねー。(仮)」

味噌も人生も味わい深くなるには熟成期間が必要です。その熟成のチカラで、ステキな生き方をしているおふたりをお招きして話を伺います。自分らしく生きることについて、味噌汁を食べながら一緒に考えてみませんか?

ゲスト:

山本菜々子さん(シューレ大学、創造集団440Hz)、
杉原学さん(高等遊民会議世話人)

○日時:2019年12月1日(日)15:00~17:00
○場所:コミュニティレストラン木々
○参加費:1500円(味噌汁付き)
○定員:15名(先着順)

○申込方法 メール(みそカフェmorinotakara2017@gmail.com)にてお申し込みください。

<ゲストプロフィール>
山本菜々子さん;小2から不登校。13歳まで家で育つ。シューレ大学で表現活動を中心に生き方を創ることを試行錯誤する。在学中にシューレ大学の仲間と㈱創造集団440Hzを設立し、デザインを担当している。また2016年にはシューレ大学OGと「劇団ふきだし」を立ち上げ、公演活動も行う。

杉原学さん;コピーライターを経て立教大学大学院修士課程修了、哲学専攻。現在は執筆活動をしながら「人間と時間との関係」について研究中。単著に杉原白秋著『考えない論』共著に内山節編著『半市場経済』など。高等遊民会議世話人。日本時間学会会員。

 

僕の友人に、不思議な営業マンがいる。

 

会社に勤めるサラリーマンだが、そこで出世しようという気など全くなく、「いかにサボるか」をモットーに働いているような人である。昭和の無責任男・植木等の、平成・令和版といったところだろうか。

 

ある集まりでその友人と久々に会ったので、「相変わらずぼちぼちやってますか?」と聞いてみた。

 

「いやー、もともと適当にやってたのが、最近さらにサボりがひどくなってますね(笑)」とのこと。しかも、「サボればサボるほど、なぜか売上が上がっちゃうんです」とおっしゃる。

 

聞いてみたら彼の売上は、同じ会社の平均的な社員の、およそ10倍だという。

 

「でも僕、特別なことは何もやってないんですよ?むしろサボりまくってるのに。朝は10時くらいに会社を出て、まずジムに行くんです(笑)。そこでひと汗流して、お昼を食べたら、喫茶店で珈琲を飲んでのんびりしてます。お客さんからの電話も、会社に戻ってから対応するので。理由は本当にわからないんです」

 

それなのに、お客さんから注文がどんどん入ってくるそうだ。そういう話を聞くと、僕も愉快な気持ちになって、その売上の理由をいろいろ想像してみた。

 

「そのガツガツしてない感じがいいんですかね?あとは、お客さんからすると、なかなか捕まらないもんだから、いつの間にかレアキャラ化して、希少性が高まってるのかもしれませんよ。『おお、つながった!せっかくだからこのタイミングで注文しとかないと……』みたいな(笑)」

 

「どうなんですかね?本当にわからないんですよ(笑)」

 

もちろん人柄の良さはバツグンなので、同じ注文するなら「彼に」となるのかもしれない。それにしても、彼のような「仕事」が成立するのは、いろんな意味で面白い。

 

最後に彼が言っていたのは次のようなことだった。

 

「手放すと、そこに何か入ってくるんですよ。そして嫌なことからはできるだけ逃げる(笑)」

 

彼の「仕事術」は、まさに彼の生き方そのものであった。とすると、実は仕事術に正解などなくて、「その人の生き方」が仕事に反映された時、それがその人にとっての「仕事術」になっているのかもしれない。

ちょっと話題に乗り遅れた感は否めないが、『探偵!ナイトスクープ』の司会が西田敏行から松本人志にバトンタッチされた。

 

この人事(?)には賛否両論あって、長年のナイトスクープファンは、おそらく不安と期待の両方が入り交じっている状態なのではないだろうか。

 

しかし、お笑いの世界で頂点を極めたように見える松本人志(以下「松っちゃん」)が司会なんて、願ってもないことではないか。しかも彼は長年のナイトスクープファンを公言している。にもかかわらず、僕たちを不安にさせているものは一体何なのか。そこには、お笑い番組の歴史を語る上で欠かせない「対立構図」が影響を与えているような気がする。

 

まず、僕らの世代(ロスジェネど真ん中です)が最初に見たお笑い番組と言えば、ドリフターズの『8時だョ!全員集合』だろう。そしてそれと双璧を成していた人気番組が『オレたちひょうきん族』である。ここからビートたけし、明石家さんま、島田紳介らのスターが羽ばたいていったのはご存知の通り。これらは互いに裏番組だったので、熾烈な視聴率合戦を繰り広げることになった。

 

当時僕は小学生だったけれど、友達の間でも「ドリフ派」と「ひょうきん族派」に分かれていた。確かにこの2つの番組のテイストは違っていて、どちらかというと「ドリフ」は家族みんなで楽しめる笑い(それにしても当時としては過激で「子どもに見せたくない番組NO.1」と評されていた気がする)で、「ひょうきん族」はエッジの利いた笑い、どこか暴力性(今で言うといじめ的な要素か)を孕んだ笑い、という印象があった(ちなみに僕はドリフ派でした)。

 

そしてこれと似た構図を再現していたのが、『探偵!ナイトスクープ』と『クイズ!紳助くん』である。これらは互いに裏番組ではなかったと思うけれど、明らかなライバル関係にあって、年末にはそれぞれの番組の傑作VTRで対決する合体特番が放送されていた。さきほどの構図と重ね合わせると、「ドリフ=ナイトスクープ」VS「ひょうきん族=紳介くん」である(ちなみにここでも僕はナイトスクープ派)。

 

「ナイトスクープ」は、素人の面白さを最大限に引き出す構成が大阪人に愛された。素人を生かすことが大事なので、番組の雰囲気全体がなんとなく「やさしい」のである。一方で「紳介くん」は、司会の島田紳介の芸風もあって、必然的に「イジリ」的な要素が前面に出て、僕はあまり好きではなかった。しかしそれがうまくハマると、抜群に面白いネタに昇華される爆発力があった。だから年末の傑作VTR対決では、たいてい「紳介くん」の圧勝となったわけである。

 

さて、話を元に戻そう。

 

なぜ「ナイトスクープ」の司会が松っちゃんになったことに不安を感じるのか。もうお分かりの通り、松っちゃんは「ひょうきん族」系のお笑いであり、「紳介くん」系の芸風だからである。それはある意味で「ドリフ」系や「ナイトスクープ」系のお笑いと対立する。そこにみんな不安を感じているのではないだろうか。

 

だが、松っちゃんは前述した通り「ナイトスクープ」を大リスペクトしているそうなので、おそらくその良さは消さないように務めるのだろう。それができなければ、既存のファンは離れるだろうし、松っちゃん的にも残念なことになるに違いない。しかし松っちゃんがただ淡々と司会をこなす姿など想像できるわけがない。

 

番組が変わるのか、松っちゃんが新境地を見出すのか。僕はぜひ後者を見てみたいものである。それが結果的に、番組を絶妙なマイナーチェンジに導くはずである。