杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -13ページ目

動物ものまね芸でおなじみ、そして僕の大学院の同級生でもある江戸家小猫さんが、LINEスタンプをリリースしました!

 

 

 

 

「ネコぴよアザラシ」というそうです。

 

さすがコミュニケーションの天才、使い勝手バツグンなものがそろっています!

 

思わず気持ちが明るくなる小猫さんのスタンプ、オススメです!僕もさっそくゲットしました〜!

 

てか絵うまっ(笑)。

 

購入はコチラから。
https://store.line.me/stickershop/product/11478340

 

ちなみに小猫さんには『かがり火』の対談でもお世話になりました!

こちらもよろしければご覧くださいませ〜♪

 

【第9回】そんな生き方あったんや!「自分と向き合う時間を持つ」演芸家(動物ものまね芸)・江戸家小猫さん

https://kagaribiweb.com/sonnaikikata/206/

 

 

 

明日4月18日(土)、杉原がラジオ出演します!

 

15秒だけ!!(笑)

 

放送局はエフエム西東京。11時〜12時45分放送のウィークエンドボイス内、「1コマラジオ」のコーナーです。

 

エフエム西東京は地域のコミュニティFMですが、こちらの公式アプリより聴くこともできます!

 

ダウンロード後、「エフエム西東京」を選んでください。

 

番組自体については「お楽しみに!」と言えますが、僕の15秒についてはくれぐれも何も期待せず、「ノークレーム・ノーリターン」でお願いします(笑)。

 

それでは明日、4月18日(土)11時〜12時45分放送のエフエム西東京ウィークエンドボイス」でお会いしましょう!!

 

「退かぬ!媚びぬ!省みぬ!」

十条銀座商店街にある喫茶店「梅の木 十条店」。

 

僕がいつもお世話になっている老舗喫茶店ですが、新型コロナウイルス対策もあって、テイクアウトが充実中です!

 

 

【梅の木ブレンド 豆or挽き 100グラム】450円

【梅の木ブレンドドリップバッグ 5個入り】480円

【梅の木ブレンドペットボトル 500ml】500円

【5月から使えるコーヒーチケット 通常11枚→13枚】4,000円

 

※お電話でご注文頂ければお待たせしません。

 TEL:03-3905-6078

 

今はどこのお店も大変な時期。ちょっとでも応援になればと思い、先日僕も購入してきました!あらかじめ電話で注文しておいて、サクッとテイクアウト。

 

 

「梅の木ブレンド豆」&「ドリップバッグ」&「コーヒーチケット」。

 

家で梅の木のコーヒーを飲めるのはまさに至福。しかも手土産やプレゼントにも最適。コーヒーチケットに至っては、普段11枚のところが、なんと13枚!!

 

「応援……」などと言いながら、まぎれもない私利私欲!圧倒的私利私欲!!(カイジ風に)

 

お店の前には看板も出ています。「梅の木に先行投資を是非ともお願い申し上げます」とのこと。すみません、僕は私利私欲のために買ってしまいました……(笑)。

 

 

梅の木のホームページはこちら。みんなで共に生きていきましょう!(←私利私欲を反省)

 

あと関係ないですが、公園で野草を摘んできて部屋に飾ってみました。家に篭りがちな日々が続きますが、部屋の中にちょっと自然を取り込むだけで、ずいぶん気持ちが晴れやかになります。しかも無料!圧倒的無料!!(←マイブーム)。オススメです(笑)。

 

 

新型コロナウイルスの感染が広がり、医療の現場でもマスクが不足する非常事態に陥っています。

 

そんな中、僕の友人が持ち前のクリエイティビティを発揮して、新商品を開発しました!

 

その名も、「カミノマスク手づくりキット」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キッチンペーパーなどがあれば、それを簡単にマスクに変えられるスグレモノ。

 

思わず「天才か!!」と叫んでしまいました(笑)。

 

もちろん性能的には気休め程度にしかならないかもしれませんが、あるのとないのとでは大違い。

 

しかもオシャレだし、使っているうちにいい味が出てきそうなのも革製品のいいところ。いつかジーパンのように「ヴィンテージ」として価値が高まるものも出てくるかもしれません(ほんまかいな)。

 

これからマスクは、ファッションアイテムとしても捉えられるようになってきそうな予感です。

 

この「カミノマスク手作りキット」はこちらから購入できます。

 

<送料無料>カミノマスク手づくりキット(minne)

 

医療現場にマスクなどの防護用品がしっかり届くようになることを願いつつ、今こそクリエイティブなアイデアで、楽しみながら問題を解決する人々がたくさん出てくるといいなーと思います。

 

 

三層構造マスク

 

志村けんが亡くなった。

 

そのことを朝、ふと思い出した。

 

脳内にあのメロディーが流れた。

 

♪か〜ら〜す〜 なぜ鳴くの〜 カラスの勝手でしょ〜(カ〜カ〜)

 

子どもの頃によくマネしたこの歌。もちろん替え歌である。

 

もとの歌の歌詞はこちら。

 

■七つの子

作詞:野口雨情

作曲:本居長世

 

からす なぜなくの からすは やまに

かわいい ななつの こがあるからよ

 

かわい かわいと からすは なくの

かわい かわいと なくんだよ

 

やまの ふるすへ いってみてごらん

まるい めをした いいこだよ

 

替え歌は志村けん自身の作ではないらしいけれど(近所の子どもが歌っていたらしい)、でもそこにちゃんと面白さを発見するのが、彼のコメディアンとしてのセンスなのだろう。

 

しかもこの替え歌、改めて聴いてみるとなかなか味わい深い。

 

もとの歌である「七つの子」では、カラスが鳴くのは「子どもがかわいいから」だという。

 

それに対して「志村バージョン」では、カラスが鳴くのは「カラスの勝手」だという。

 

「カラスの勝手」とはずいぶん突き放したような言い方だけれども、それは要するに「わからない」ということだろう。「カラスが鳴くのはカラスの自由であって、その理由は人間にはわからない」と言っているのである。

 

どちらの方がカラスを尊重しているかと言えば、僕は「志村バージョン」の方だと思う。

 

人間同士でさえ、お互いの本当の気持ちなんてわからない。自分自身の気持ちでさえわからないことがたくさんあるのだ。だが、にもかかわらず「わかろうとする」ところに思いやりがあるのであって、「わかった」と思うのはただのエゴイズムである。

 

こう書くと元歌の「七つの子」が悪いように思われるかもしれないので念のために書いておくと、こちらはあくまでカラスを比喩にして「わたしの気持ち」を歌ったもので、本当にカラスの気持ちを歌おうとしたものではないと思う。そう言えばウチのオカンもよく歌っていた気がする(笑)。

 

ところである時、この「相手の気持ちなんてわからない」ということを臨床心理士の友人に話したら、ずいぶん怒られたことがある。なぜ相手のことを考えないのか、と。

 

そうじゃないのである。わからないと思うからこそ、わかろうとするのだ。けれども、やっぱり本当のことはわからない。たとえ相手が、僕の言葉に対して「その通りだ」と言ったとしても、である。そういう謙虚さを持たなければ、それはただの自己満足にすぎない。僕たちにできるのは、「かもしれない」を積み重ねることだけである。

 

にもかかわらず、お互いに「わかり合えた」と思える瞬間があるのもまた確かなことである。でもそれは頭で理解することではない。

 

現代を生きる僕たちは、この「わからない」という謙虚さを失いつつある気がする。それは今回の新型コロナウイルスへの対応を見ていても感じることである。

 

「わからないもの」には、「わからないもの」として対処しなければならない。感染病への対応の手法は時代によって変わるけれども、その基本原則である「持ち込まない、持ち出さない、拡げない」は100年以上前からずっと変わらない。これがなぜ変わらないのかと言えば、それが「わからないもの」への対処法として考えられているからである。

 

しかし現在の日本政府は、この原則を守らなかった。当時の日本統治下全体で74万人(全体の0.96%)が死亡したと言われるスペイン風邪の経験をふまえ、ウイルスの性質が未知のものであることを前提とすれば、とにかく最初の水際で食い止めることに全力を挙げる必要があったことは明らかだろう。

 

国内での流行が確認されてからも、いわゆる「専門家」たちによる「科学的な」見解が流布された。多様な見解が出てくることはよいことだけれど、本当のところが「わからない」のであれば、それを「わからない」ものとして対処しなければならない。そので重要なのは、まず「最悪の事態を想定する」ことであり、その上で少しでもリスクを減らすための行動を取ることだろう。それは危機管理の基本でもある。それをせずにウイルスを甘く見た結果が今であり、今後東京でも起こることが予想される感染爆発である。

 

近代以前の人々が信じた「神話」や「迷信」。近代化とはこれらを否定することだったが、実はそこに書かれているのは、「わからないものにどう対処するか」という、経験に基づいた深い知恵である。近代はそうした「わからないもの」への対処法を捨てて、それらを「わかる」ことによって克服しようとした。それを可能にするのが「科学」であった。

 

ところが言うまでもなく、「科学」によって全てを明らかにすることはできない。科学が明らかにできるのは、世界の断片だけである。しかし断片をいくらつなぎ合わせても、それは世界の全体を再現しない。フランケンシュタインが人間にはなれないのと同じように、である。だがそのことを傲慢にも忘れ、謙虚さを失ったとき、僕たちは「わからないもの」への対処をことごとく間違ってしまうのだろう。

 

♪か〜ら〜す〜 なぜ鳴くの〜 カラスの勝手でしょ〜

 

この歌が多くの人にウケたのは、一見ふざけているように見えて、そこに「ああ、確かにそうだ」と感じさせるものがあったからだろう。「そうだ、そりゃあ人間にはわからない。カラスの勝手だ(笑)」と。それが本当の「ユーモア」というものだと僕は思う。

 

志村けんは「天才!志村どうぶつ園」という番組を晩年まで続け、その動物好きは周知の通りである。そして周りが不思議に思うほど、動物に好かれたようである。でも多分、志村けん自身は、自分が「動物の気持ちがわかる」とは思っていなかったのではないだろうか。むしろ、「いやあ、お前ら本当に何考えてんのかわかんねぇんだよな」と思っていたような気がする。そしてそのことを面白がっていたのではないだろうか。

 

わからなくても、お互いを思いやることはできるし、共に生きることはできる。そこに人間と動物の素晴らしさがある。

 

ふと頭に浮かんだ志村けんの替え歌は、僕にそんなことを考えさせた。

 

いやー、それにしても志村けんには、子どもの頃からめっちゃ笑わせてもらいました。

最高でした。本当にありがとうございました。

 

心よりご冥福をお祈りいたします。

今日はホワイトデー。

 

いま仕事でご一緒させていただいている女性のみなさんには、きのうのうちにチョコをお渡しした。

 

今回選んだのは、リンツのリンドール。

 

 

お店に行くと、鮮やかな黄緑色のパッケージが目に飛び込んできた。

 

「お、マスカット味あるやん!珍しいな!」

 

すぐにそれに決めて、ついでに自分のぶんも購入(笑)。

 

そして当日。

 

「これ、ホワイトデーのチョコです。マスカット味って珍しいなーと思って、これにしました♪」

 

「ありがとうございます!……でもこれ、抹茶って書いてますよ?」

 

「え?抹茶?そんなバカ…………ホンマや」

 

「いや、抹茶も美味しいから好きですけど(笑)」

 

「マジで?僕きのう、普通にマスカットと思って、家で食べたんですけど……」

 

思い込みというのは本当に恐ろしい。

 

「マスカット味だ」と思って食べると、抹茶味でさえマスカット味に感じてしまうのだ!

 

……いや、今思うと、確かにちょっとだけ「謎の苦み」があった気がするけれども。

 

しかしあの鮮やかな黄緑色は、どう見ても抹茶というよりマスカットだろう。

 

そう言えば、夜店のかき氷のシロップは、いちご味も、メロン味も、どれも実は同じ味だという話を聞いたことがある。香りと色の違いで、僕たちは「違う味だ」と感違いしてしまうというのだ。

 

もしかして、このチョコも同じ技を使っているのか?

 

チョコを渡した女性にその話をしたら、

 

「そんなわけないじゃないですか」

 

と一蹴された。

 

「じゃあ、これ一個食べてみたらどうですか?」

 

と、チョコをひとつくれた。

 

さっそく口に入れてみた。

 

抹茶の風味が、やさしく口の中に広がった。

 

「……ホンマや」

 

僕はもう二度と、自分の味覚を信じない。

世間は新型コロナウイルス一色で、時間ができたらアップしようと思っていた「心の底からどうでもいいネタ」をアップできずにいる(笑)。いや、別にアップしてもいいのだが、一度機を逃すと億劫になるのが人間というものらしく、せっかくなのでホットな話題の方に乗っかってみたい。

 

とにかく今回の新型コロナウイルス(以下コロナ)の影響の大きさは計り知れない。なにしろ未知のウイルスなので、人体にどのような影響を及ぼすのかもまだよくわかっていない。ただ「感染力が尋常じゃない」ということだけは間違いないようである。

 

さらに厄介なのが、「感染していても症状が出ないケースが多い」ということだろう。これが感染の拡大に拍車をかけている。つまり、もし自分が感染していたとしても、それが「わからない」わけである。そしてそのまま多くの人と接触して感染を拡大させてしまう、という事例がすでに多くの場所で発生しているようだ。

 

ちなみに「マスクは意味がある/ない」という議論が起こっているが、上記のことをふまえれば、「できるだけした方がいい」ということになるだろう。マスクは自分が感染しないための予防以上に、「感染者が他者に感染させないため」という意味合いが大きいと言われている。マスクにはそのリスクを軽減する役割がある。

 

そうである以上、「自分は症状が出ていないからマスクをしない」という意識ではダメで、基本的には「自分は感染している(かもしれない)」という前提で対応するほかない。特に通勤などで外出を余儀なくされている会社員などは、常に感染のリスクにさらされているわけだから、できるだけマスクはした方がいいだろう。

 

だからといって、マスクをしていない人を攻撃するなんていうはもってのほかである。今やマスクはどこも品切れで、マスクをしたくてもできない人はたくさんいるはずだ。もしそれが気になって、マスクのストックに余裕があるのなら、「よかったらこれをお使いください」と提供してあげるのもよいだろう。手作りマスクの作り方の動画などもアップされているので、そういうものを活用する方法もある。咳やくしゃみをする方も、腕で口を押さえるとかのエチケットを心掛けるべきなのは言うまでもない。

 

よく、「ウイルスはマスクを通り抜けるから意味がない」という声を聞くが、意味がないわけはない。空気中にはたくさんのホコリや花粉などが舞っていて、当然ながらウイルスはそれらに付着する。そうして言わばクラスター化(集合体化)するわけだが、マスクはその固まりを防いでくれる。これは咳やくしゃみのときに出る飛沫についても同じことが言える。飛沫を防げれば、飛沫に含まれるウイルスは防げる。もちろん全てを防げるわけではないが、しないよりはずっといいだろう。

 

そして経済的な影響も甚大だ。これは非常に難しい問題で、政府がしかるべき対策を講じることはもちろん、それぞれの個人や会社の状況に応じて、やれることをやるしかない。僕の専門は時間論なので、そっちの方から言えることを言うとすれば、「時間幅を長くとる」ということが、考え方として大事になってくると思う。

 

政府が「ここ1〜2週間が正念場」という発表をしてからそろそろ1〜2週間が経とうとしているが(笑)、こういうのを間にうけて、「じゃあそのへんから収束に向かうのかな」などと思ってしまうと、ちょっとあぶない気がする。フランクルが強制収容所での体験を書いた『夜と霧』の中には、次のようなエピソードが出てくる。

 

「先が見えない中、収容所ではクリスマスに解放されるとのうわさが広まった。しかしそれが裏切られると、急に力つきてしまう人が多かった」(NHK「100分で名著」ホームページより)

 

また、会社の経営判断においても、収束までの時間幅をどれぐらいの長さで想定するかによって、その対応は大きく変わってくるだろう。たとえば、すでにかなりの影響が出ている旅行業界だと、2、3ヵ月で収束すると想定するならば、「その間はなんとか堪えて、需要が回復するリバウンドの時期に備えよう」という判断もあり得るだろう。

 

しかし、この事態が1年以上続くと想定した場合はどうだろう。これはあくまで仮の話だけれども、多くの会社は体力が持たないのではないだろうか。そうなってくると、旅行業での売上が見込めない以上、コロナの影響を受けない市場への参入といった、経営の多角化も視野に入ってくるかもしれない。

 

いずれにせよ、危機管理の基本は「最悪の事態を想定する」ということなので、たとえ楽観的な予測があったとしても、頭の片隅では「とはいえ最悪の場合には……」ということを考えておかなければならない。いや、もちろん言うは易しで、実際の判断はそんなカンタンなことじゃないのだけれど。

 

個人的な心構えとしても、「早く収束してくれ……」と焦るよりも、「まあ、あと1年は厳しいやろな」とどっしり構えていたほうが、精神衛生上もよい気がする。そういう前提でやれることをやっていけば、それは今の生活のあり方を見直すきっかけにもなっていくだろう。

 

自分のあり方、地域のあり方、会社のあり方、国家のあり方。こういう危機の時にしか見えないものがあるなら、それをしっかり見ておくことも大切なことなのだろう。そこでもやはり、多様なコミュニティをいかにつくっていくかが、重要な課題のひとつになってくるはずである。

 

 

 

 
 

 

55年以上続いた十条の名喫茶「スヰング」が、十条駅西口再開発にともない、2月24日に閉店する。

 

僕はたった5、6年の付き合いだったけれど、ひとりで店を切り盛りするママは、僕にとって「十条のお母さん」だった。

 

誰にも相談できないような悩みも、スヰングのママには不思議にさらっと話すことができた。それは、お互いに顔は知っているけれど、あえて名前を聞き合うことのない、絶妙な距離感のおかげだったと思う。

 

久しぶりに顔を出すと、「あらー、元気?」「ちょっと痩せたんじゃない?」と気にかけてくれたママ。

 

ある悩みを相談した時に言われた、「ハッピーじゃなきゃダメよ」という言葉が、今も鮮明に思い出される。ママはそんなつもりじゃなかったかもしれないけれど、その言葉は僕に、「自分を犠牲にしてはいけない」ということを教えてくれた。

 

……と、こんな風に書いていると、まるでママがいなくなってしまうみたいだが、もちろんそうではなく、お店がなくなるだけである。念のため(笑)。

 

それにしても、こんな素敵な喫茶店を閉店させる再開発とは、一体何なのだろう。

 

そんなことを考えているうちに、再開発のキャッチフレーズが頭に浮かんだ。

 

「ディープな街を、チープな街に。」

 

うん、我ながらよくできた(笑)。

 

ディープな街とは、その街の歴史と、その街の人々の営みと共にある、固有性のある街だ。チープな街とは、その街の歴史を漂白し、外部によって作られた、交換可能な街だ。

 

どこも同じような開発が進められて、電車の窓から外の景色を見た時に「ここが一体なに駅なのか分からない」あの虚しさ。どちらが面白くて魅力的な街かは、言うまでもないだろう。

 

十条の再開発は、なんとなく既定路線みたいになっているけれど、今すぐにでも中止していただきたいと僕は思っている。金儲けのために、一度壊したら二度と取り戻せないものを壊すのは、本当にやめて欲しい。

 

もちろん、そこに暮らす人々の総意として「チープな街を目指す」というのなら、それで全くかまわないけれど、少なくとも十条に関しては、ほとんどの人が「ディープな街を残したい」と思っているのだから。

 

それはさておき、今朝、友人と共にスヰングでモーニングを食べ、ママに感謝の花束をお渡しした。邪魔になったら申し訳ないなあと、渡すのを少しためらったけれど、幸い喜んでもらえてひと安心。

 

これまで素敵な時間と空間を提供してくれたスヰングとママ、本当にありがとうございました!

 

そして、おつかれさまでした!!

 

自分の仕事をしている人に勇気と励ましを与えてくれる本。

 

各所に名言が散りばめられて、思わず付箋を貼った。たとえばこれとか。

 

 「自分ができそうなことをやる。続けられそうなことをやる。……自分が全力を注ぐことができる仕事を自分で設計し、それに専念する」(58-59頁)

 

 僕もまさにこれを目指しているけれど、なかなか辿り着けない(笑)。

 

 島田さんはいい意味でロマンチストなのだと思う。

 

「嘘をつかない。裏切らない」なんて、僕はとうてい言えないし、書けもしないけれど、それを自分の心に嘘をつかずに言える人は確かにいる。

 

 ロマンチストという意味では、僕の友人でヤギサワバルを経営している大谷剛志くんもそう。

 

ピュアな何かを信じている、そういう生き方が僕はけっこう好きなのだ。

 

 

 

島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』新潮社、2019年。

正月は大阪の実家に帰省した。

 

例によって、親父とオカンの動向をレポートさせていただきたい。

 

その日の夜、親父とオカンはコタツに入りながら、テレビで「相棒」を観ていた。

 

僕は同じコタツで、昨年末に取材した音源をイヤホンで聞きながら、書き起こし作業にいそしんでいた。

 

すると親父が、何やら僕に話しかけてくる。作業の手を止めたくないので、イヤホンを片耳だけ外して聞く。どうやら、親父なりの推理を聞かせたいらしい。

 

もちろん僕にとってはどうでもいい話なので、適当に相づちを打ちながら作業をすすめる。

 

しかし人間というものは、2つの作業を同時に進めることができないようになっているらしい。

 

気がつくと、パソコンのテキストファイルに、

 

「右京さんがな、あそこでおかしいなっていう顔しとったやろ。あれはな……」

 

という文字が入力されている。

 

いつの間にか、親父のどうでもいい推理を書き起こしてしまっていたのだ。

 

「あかん、俺は何をやってるんや……!!」

 

すぐにその文章を消して作業に戻ったが、次第にテレビの方が気になり始め、ついには事件解決まで見届けてしまった。

 

翌日は、親父の運転する車に乗って、オカンと3人で出かけることになった。

 

その道中、信号のない横断歩道で、お年寄りが車の流れが途切れるのを待っていた。

 

すると親父は一時停止し、そのお年寄りを先に渡らせてあげようとした。

 

「おお、さすがに70歳にもなると、ちょっとは丸くなるもんやなあ……」

 

僕は助手席で目を細めていたが、次の瞬間、そんな自分の甘さを思い知らされることになった。

 

「はよ渡れぇ〜〜〜!!!!!」

 

親父の怒鳴り声が車中に響き渡った。

 

おかげで僕も「現実」に帰ってくることができた。危うく「ありえない妄想の世界」に引き込まれてしまうところだった。

 

その後、ある家電量販店に到着し、エスカレーターに乗った。

 

ご存知のとおり、大阪のエスカレーターではみんな右側に並び、急ぐ人のために左側を空けるのが慣習になっている。

 

しかしそこで、親父はわざわざ左側に立つのである。

 

「親父、右側に立っとかんと、急いでる人が通られへんやん!」

 

そう指摘すると、親父は当然のように反論してきた。

 

「何言ってんねん。いま放送で、エスカレーターは2列で並んでくださいって言ってたやないか」

 

「いや、真面目な人が言うんならわかるけど、ふだん社会のルールを守らへん親父が、なんでそこだけ守ろうとするねん!

 

親父も「確かに」と思ったのかどうか知らないが、次のエスカレーターからは右側に並ぶようになった。

 

用事を終えた帰り道、僕は実家の最寄り駅のあたりで、ちょっとパソコン作業をしてから帰ることにした。しかしここは田舎。駅周辺とはいえ、ゆっくりできる喫茶店がほとんどないのだ。

 

「どっかお茶しながら作業できる店ないかなぁ」

 

僕がつぶやくと、オカンが「そうやなぁ……」と考えながら言った。

 

「この駅の近くやと、マクドかマックか……

 

「どっちも一緒やん!!」

 

しかもここでオカンが言おうとしていたのは、ロッテリアのことである。

 

「めちゃくちゃやな!」

 

オカンにかかれば全てのテレビゲームは「ファミコン」に一元化されてしまうが、それと同じ原理なのだろう。

 

僕はあきれながらもロッテリアに入ってコーヒーを注文し、ノートパソコンを広げた。親父とオカンは、先に車で帰っていった。

 

さて、気を取り直して作業を始めるか……と思ったところに、親父から電話がかかってきた。

 

「どうしたん?」

 

「いや、お母さんがな、『ロッテリアは今日休みや』って言ってるで」

 

「そのロッテリアでいまコーヒー飲んでるよ!」

 

一体どこから仕入れた情報なのか。僕には知るよしもないし、知りたくもなかった。

 

結局そこでの作業は断念し、疲弊した精神と肉体の回復に専念することにした。

 

……以上、ご報告でした。

 

ちなみに親父とオカンの過去の横暴ぶりは、下記の電子書籍にまとめています。人生が深刻なものに思えてきたら、ぜひこれを読んでみてください。「ああ、本当はどうでもよかったんだ!」ということを、きっと思い出せると思います。

 

本年もよろしくお願いいたします。

 

 

『読むだけで神経が図太くなる!「伝説の親父」の奇行録〜時々オカン〜』