学びをつくる会世話人リレーブログ -9ページ目

老化とつきあうパソコン

 目がかすんで仕方がない。パソコンどころか本でも、おぼろで、痛いし、あけていられない感じにさえなってきた。眼科に行ったら、眼底血圧までとった上で、老化での疲れ目ですねと、あっさり言われてしまった。かわいい女医さんが、静かに軽く言うのだ。10分でもなのだと、縋りついても、そうですと言う。目薬さして休み休みにしろと駄目を押された。
 文庫本は見にくいので、単行本にしてから何年か経つが、それもつらいとなるとこの先どうなるのか。パソコンでなくペンと紙で書くことはもう考えられない。メモから下書きぐらいはできるかもしれないが、下書きを見ながらそれなりの細かさの文字で清書するということは到底できない。
 目がもっとも疲れるのはパソコンだが、疲れることはやめるという選択と、使わなければもっと弱くなるだろうからやった方がいいという選択と、答えのあるはずはたぶんないだろうと勝手に判断して、使う方にした。見易い大きさと濃さの字でやることは、パソコンを始めたときから気をつけてはいたのだった。こんどは画面の枠や背景の色、選択したときの色、文字の色、といったものの組み合わせを、徹底してやり直してみた。特に文字は、ポイントを30ぐらいまで上げるか、300%ぐらいに拡大するか、思い切ってでかくした。
 縦書きのA4ページ全面を1画面で見て見易い、つまり編集し易い、というのが夢だ。これができると、2段組にした1段分で書き綴ればストレスは生じない。
 どうやら、1m以内に近づかなければ楽なのだということが決め手になりそうで、そこを基準に組み合わせを仮に決めてみた。当然のことだが、15インチのノートはもちろん、19インチのディスプレイでも、見える範囲が狭くなり過ぎた。これを根本的に解決するには、大画面にするしかない。幸いにも、今液晶ディスプレイは安くなっている。ネットで見たり、近くの店に見に行ったりして、何なら中古でもいいかと、秋葉原に行っても見た。迷っているうちに値段の方が急激に下がっていく。中古よりずっと安い新品も出てくる。ますます迷う。
 さらに迷わせられることも入ってきた。今売られている大きいディスプレイはワイドばかりで、縦幅はほとんど変わらない。縦書きを使いたいぼくとしては、30インチといったよほどの大画面でないと、うまくいかない。だがそれは買う気も起きない値段だ。画面全体を枠ごと縦長にできるのがあるということを知った。早速探したら、実際うまくやれるのが、あることはある。割高だ。おまけに画面の中身が横向きでは、何の意味もない。Vistaなら画面を縦に回転できると息子に教えられた。早速店頭で試してみても、できない。やっとビデオカードだとかグラフィックボードだとかいうもので操作できるらしいことがわかった。それを組み込んであるパソコンならできるということなのだ。ところが、そのものがかなり高い。ディスプレイ自体の半分ぐらいもする。もちろんノートに組み込むことはできない。あれこれ探していたら、縦長に置き換えられるソフトがあるということを知った。ソフトの特許を持ってがんばっているというところの試用版を入れて使ってみたら、いい調子に縦画面ができた。
 さらに探し回っているうちに、回転させられる脚なら、パソコン自体はどれでもいいのだということがわかってきて、安い脚も見つけた。おまけのようにパソコンには、たいてい背中に取り付け用の統一的な規格のねじ穴があけてあることも知った。脚を買ってきて、まるで違う位置で取り付けられているぼくのディスプレイの脚を外してみたら、ちゃんと別のねじ穴が現れて、ちゃんと取り付けられて、すんなり回転してくれた。試用ソフトで中身も回転して、じつに、いい。
 だが、19インチのワイドではない画面では、縦にしても、それほど、感激するほど、縦に長くはいるわけでもないのだった。22か24インチのが欲しい。だが、それは19インチに比べると、ずっと高い。さらにソフトの方がもっと問題だった。試用期間が終わると、次に繰り返しての試用はできないようなのだ。何度やり直しても、動かなくなってしまった。
 とりあえず広い画面だけを手に入れよう、中身の縦はそのうちと考えて、また秋葉原に見に行った。すると新品で価格コムの半額に近い22インチの緊急値下げを見つけてしまった。10%のポイントがつく。その横にビデオカードが安売りされていて、ポイント分に少し足すだけで買えてしまう。画面回転可能を確かめたときには、もう、二つそろえて手に入れるしかなかった。これで、ノートのほうはあきらめるとしても、デスクのほうはなんとかなるはずだ。
 配送料をケチりたいのと、早くセットしてみたいのとで、意気揚々というにはくたびれながら持って帰った。映り具合を確かめ、脚を取り替えて回転させ、パソコン本体に組み込まれていたカードを抜いて新カードを入れ換えるという初めての作業をこわごわやって、さあどうだ。すべて英語の表示に悩みながら、画面は見事に回転した。36ポイントで1行20字の10行がはいる。これなら2m離れていても大丈夫だ。机の向こう端ぎりぎりにディスプレイを置いて、机の前に楽に座って、測ってみると、ちょうど1m。実に見易い。さて今度は画面の調整などが必要なとき、身を乗り出さなくて済むようにするにはリモートコントロールが必要になるのだろうか。
 1つしかしかない座卓の90cm平方にディスプレイ2台とノートパソコンを載せるのが大変だ。この机は親父が結婚する前から持っていたという、戦災を免れた唯2つの家具の1つなのだ。はみ出させたり、三面鏡のように斜めにしたりと工夫したが、作業スペースが足りなくなる。デスク用のキーボードが大きなやつでテンキーというぼくには要らない部分までついている。これを小型に換えれば何とかなりそうだ。翌日2つの用事の間の時間を使って、また秋葉に行って、ノート用のキーボードと同じような幅で薄い新品を探して1000円で買った。ついでに、コードが邪魔なので無線に換えたマウスの調子が悪いから、古いタイプのを中古50円で買った。無線マウスは、我が家の周囲だけなのか、わけのわからない電波が飛び回っているようで、変な動きをして気になる。帰って面積の譲り合いをしてみると、相変わらずはみ出したり一部重なったりはしているが、何とか納まった。作業するにもかなり余裕が出て楽になった。これで環境整備は、(今のところ)万全だ。このところ半月ばかり飲むことを忘れていたが、夜は祝杯を挙げるぞ。

 

スキーは新調したが

 何年かぶりに、新しいスキーを買った。今使っているものが壊れたわけでもなく、大きな不満があるわけでもないから、無駄遣いになる。多少、いや大いに気が咎めるのだが、この先どれだけ滑るかも気になって、買い込んだ。カービングスキーというタイプ、鱗ソールというものに、どうしても乗ってみたくなったのだ。もちろん、靴を変えられない以上、そんなに変わるという期待は持てないのだが、雪のない天気を眺めてぼんやりしているうちに、今のうちにという気になった。
 締具がまた問題で、ぼくの靴に合うものが今も出てこない。何年も使っていない別のやつから外して付け替え
るしかない。そんな腐ったような締具を付け替えるなどということを、店でやってくれるだろうか。仕方がなければ久しぶりに自分で苦労することになるかもしれないが、ずいぶん面倒なことだ。
 馴染みの店員がいるいくつかの店ももう今はないから、いっそ別の店でと思って、松本で目を付けていた店に
行った。案の定、望み通りのスキーも締具もなく、条件順位を順次に下げて、いっそやめるかという思いと戦って、次次善のものを買った。持っていった締具と靴を見てもらって、付け替えることも納得してもらった。
 さて、雪が降らないのだ。積もっていれば、家の前からでも試しにはけるのに、うらめしい。早速行ってみた
ゲレンデのこちこち斜面は、思った通りで、抑えが効かず苦しいばかり。天よ、頼むから、30cmでいいから、積もらせてくれ。3・4日の暇ができたら、どこか雪のあるところに行けるだろうか。

野火止用水

 雪がなくてスキーにも行けずという暇になると始まるいつもの乱読の途中で、驚き慌てた。玉川上水について設計図の段階で「取水口を羽村とし」「武蔵野台地の尾根筋を、ほぼ最短距離で東へ進んで」と述べられているのだ。すぐに発行年と初出年とを見た。02.9と、02.2で、ほっとした。ぼくの秘かな発見よりかなり後なのだ。いや、考えていたのは同じ頃か。特にどうこう驚くほどのことでもないのはもちろんだが、やはり気になるものだ。どこにどんな文献があろうが、あることを知っていようが、どうせ読みはしなかっただろうから、何を気にすることがあるのかと思うが、気になってしまうのだから仕方ない。自分なりの新発見と思っていても、当たり前のことなのだったら、単なるもの知らずという惨めなことになってしまう。尾根筋という語が決定的な発想なのだ。
 新人物往来社02.9刊の松浦節著「伊奈半十郎上水記」という本だ。同題の編を書き下ろしの2編で囲んだ
3編仕立てで、この編は「歴史読本」に発表され、歴史文学賞を受けているという。奥付を見たついでに参考文献を見ると、かなりの資料に当たっている。
 さらに先を読むと、拝島の段丘に水路が乗った後真っ直ぐ東の田無に向かわず北東の砂川に向かうのは野火止
用水のためだということが、あの智恵伊豆といわれた松平信綱との伊奈半十郎の攻防の中で、証拠立てられて述べている。この水路のゆがみは、地図を見れば一目瞭然というようなことで、ぼくもずいぶん迷ったことだった。拝島から野火止への方が直線的で、本流と見えるのだ。思い出してみると、このことの検証だけのために走り回りはしなかったのは確かだ。だが、ぼくが武蔵野台地の尾根ということに思い至ったのは、両側の水流を谷頭まで詰めて、一番高いところが東西に並んでいるということからだった。そしてそこには玉川上水があったのだった。残堀川以外にこのラインを横切る窪みはない。ぼくは自分の脚で、目で、考えてきたのだ。そこから思うと、著者は地図上での考えを進めたのではなかろうか。南側の野川水系がどこまで浸食しているかを実地に見ていないのかと思った。あとがきを読むと、国分寺あたりに住んでいるようなことがわかった。すると、地理勘はあるはずと思えるのだが・・・・。
 この作では、優れた測量技師を手に入れ、開発もできない原野を売名含みで拝領し、自領への上水の設計がで
きるとそれを延ばした形の江戸への上水を公費で作らせる、と描く。となると、さすがは智恵伊豆、一挙両得か一石二鳥かすごいものだと言いたくもなる。特に誰にも害は与えず、江戸にとっては喫緊の水不足も解決し、しかも自分は大儲け。すべて内密に、裏取引もして、といったところで、それはどこにもあることともいえる。息子の代に伊奈郡代家が潰されたことが、次の作には書かれているが、それはまた別だ。
 玉川上水を描いた小説は「玉川兄弟」といったか、取水口を府中・福生と失敗して羽村まで上がっていく筋が
あったが、あれはどういう資料によったものだろうか。今も、このことはかなり信じられているようだが。当時の測量術というものがどれだけのものだったかわからないのがはがゆいが、府中からの取水で上げられると考えて失敗し次に福生と試行錯誤を繰り返すという経過には、かなりのリアリティーを感じる。信綱が確保した測量技術者が、時間をかけたにしろ、どうして設計できたのだろう。1kmで1mといったわずかな勾配を、どうやって測量したかの実際を知りたい。江戸と多摩川水流の高低差を、気圧計・高度計もなくて、何十キロもを三角測量的に測れるのだろうか。どこに立ってどこまで見通せたのか、平らとしか思えない森林に覆われていたであろうこの台地でどんな作業をしたのだろう。よく見た航空三角測量の標識を思い浮かべながら、不思議でたまらない。著者松浦氏によると、信綱は一切の書類などを隠滅したということだが、それはなぜだろう。隠滅ということ自体の信憑性はどうなのだろう。玉川上水の設計施工にはまだまだ謎がありそうだ。どんな人がこれを解く

のだろうか。解かれた真相はどんな様子なのだろうか。

韓国で教師弾圧

 韓国からの情報です。韓国でも昨年10月に、全国一斉学力テストをおこないました。小学校3年・6年と中学3年です。日本より小3の分だけ多いです。しかも国語(韓国語)数学・理科・社会・英語の5教科です。韓国でも競争教育が激しく、地域ごと、学校ごとの競争も厳しくなっています。全国一斉学力テスト(韓国の教師たちは一斉考査と呼んでいました)はこれを助長するものでしかないということで、反対運動もおこっていました。そして、これに反対した教師が、このテストのねらいを指摘し、テスト当日は校外学習を組むので、それに参加してもよい、というプリントを配り、実際テスト当日、校外学習を実施し、親と子どもがこれに参加したそうです。これに対して、12月になって、ソウル市教育庁は7人の教師の処分を強行しました。「解職」です。処分の文書をもった教頭が夜遅く自宅までやってきて「明日から来ないでいい」と言ったそうです。日本では考えられないほどの厳しい処分です。

 私は日韓教育実践研究会という小さなサークルで勉強しています。この研究会は韓国ソウルの「歴史を愛する初等学校教師の会」(韓国では小学校のことを初等学校といいます)と交流をもっています。まだ若いこの会の中心メーバーであるソル・ウンジュさんも「解職」処分を受けてしまいました。子どものことを思い、熱心な実践家のソルさんが教壇に立つことを拒否されています。

 この学力テストに対して、韓国の全教組はきちんとした方針が持てず、個々の教師の対応にまかせたそうです。ソウル市の支部でも支部ごとに対応がわかれ、闘う方針を確立した支部からこの処分者がでてしまいました。ソウルの教師たちは処分撤回のため、教育庁前に座り込みを続けて闘っています。氷点下10度以下のソウルで路上で座り込みを続けています。全国学力テストの問題は日本から「波及」したと言ってもよいと思います。韓国の教師たちが闘うことが基本ですが、日本でもできる支援をしたいと思います。

「平和」を考える月

12月は「平和」を考える月でした。「真珠湾」攻撃の月で、「平和」を考えるイベントもたくさんありました。若者がとりくんだ平和を考えるイベント、タイでの日本軍の戦争の生き証人の証言、台湾の元「慰安婦」のおばあちゃんの証言、南京虐殺のシンポジウム、海南島の「慰安婦」裁判で原告の尋問、ずいぶんいろいろなイベントに参加しました。この中のいくつかは企画や運営の一翼を担いました。その中で感じたことです。どのとりくみにも若い参加者が自覚的に意欲的に参加してきています。戦争のとらえ方、戦争体験の受け止め方は、私たちの世代とはかなり違います。でも、新しい世代が自分たちの感覚で「戦争責任」とか「平和」を考えています。宣伝するビラひとつ取っても「おじさんたち」がつくるものとはセンスが違っています。これまでとは違う感じで運動もすすめられています。
 台湾のおばあちゃんも「日本の若い人」が二度と過去の日本のようなことをしないで、と若い人たちにむかって話しています。若い人といっしょに食事をしたり、共にいる、という体験がまた大事だと思います。そうしたら、昨日の新聞で、このおばあちゃんたちが台湾に帰って、台湾の総統と会い、総統(馬英九)もおばあちゃんたちを支援する約束をした、という記事がありました。日本政府はいつまで戦後処理をあいまいにするのでしょうか。今年ももうおわりです。来年は、きっと政府も変わって、私たちの要求が実現に近づいていく年になるように・・・。

作業と量

 安曇野暮らし 作業と量――思考としての表現

 紫蘇と格闘した挙句、時間切れで敗退した。
 赤紫蘇が育ってくれなくて、やっと去年少し増えたら、今年は一気に繁茂した。それが、葉っぱの時期には来るチャンスを作れなくて何もできなくて、穂になってしまった。これが種になったら大事(おおごと)だ、海になってしまう。それで、去年もやった紫蘇の実のふりかけを、大量になることを予想はしたが、作ることにした。一昨年青紫蘇で大成功して、去年赤紫蘇もうまくいった。塩漬けにして冬の初めの乾いた晴れの天日干しで1年保つほどのができる。先週来たときに、頑張って、一抱え分やった。2Lの漬物瓶に7分目ぐらいできた。去年は、穂を摘んできてしごいたが、今年は量が多いから、根元から切って、葉も付いている枝のまま穂をしごいた。この方がよほど能率的だ。切り取った穂だけでしごくのと、指の使い方が自然に変わっていた。親指と人差し指中指を使うのだが、穂だけのときは、やや指先を立てているのが、枝ごとになると指を寝かし気味に平らにした方がいいのだ。もっとも、これは熟し具合つまり硬さにもよることだ。外の仕事を切り上げてから、濡れ縁で暗くなるまでの1時間、頑張って一抱え分やった。蚊がうるさくて、縁側の下に蚊取り線香を立ててやった。バケツに7分目ほどだ。2L瓶にいっぱい入れて塩を入れて大きく振って混ぜると落ち着いて嵩がへるから、また残りを混ぜていくと、前回と同じになった。これが昨日のことだ。
 今日は覚悟を決めて取り掛かった。栗拾いを済ませた後、すぐ紫蘇を全部刈り取って縁側に積んだ。なんと3抱えもある。しかも昨日より大きく抱えてきたのだ。この広めに作った縁の半分ほどに山積みになった。始めてしばらくは、朝のうちでもあり、頑張れる。単純作業をしている時は、いつもしきりにものを考える。今日は、いきなり、この量で作業はどう変わったかと考え始めた。昨日の指使いの続きだ。
 量で作業が変わるということを意識した初めは、韮の収穫からだった。10年も前のある年、畑を綺麗に整地してほぼ真ん中に歩道をつけた。その片側の縁取りに韮を植え込んだ。ストーブの前のぼくの座から、ちょうど見通せるように、ぴったり長い列を作った。それが見事に伸びたとき、それまでのように摘まみ取りでなく、当然鎌で端から刈り取るように変わった。左手で掴んで右手の鎌で切った後、その半ばより上で持ち替えて振る。すると、短い葉がみな落ちて、長さが揃う。つまり、3割方も捨てるのだ。捨てることで、収穫した農産物として落ち着く。ぼくの農の作業や意味が変わったことを自覚した初めだった。
 素人農作業では、いやぼくだけかも知れないが、捨てるということで困ってしまう。要するに捨てられないのだ。家の中の物でも、捨てられなくて困るのだが、畑でも豆粒ほどのジャガ、鼠の尻尾のようなサツマ、みんな穫り入れてしまうので、使うに使えず、始末に困る。菜っ葉の間引きは、摘まみ菜として使うからいい。だが、それでも、間引き方が狭くて、育つと混み過ぎになったりする。そういうことは、年数が経つと慣れてきて徐々に何とかなっては来たが、今でも困るのは栗だ。大きな立派な栗に、僅かな虫の侵入口を見つけたとき、悩んでしまう。前には、虫食いだけを茹でてみるということもしてみたが、そういうので食べられるのは1割ぐらいしかないものだと知った。栗については最近は、拾うより捨てるほうがはるかに多いほど捨てて何とかなっているが、それでも迷う。うちの栗は、1本だけ見事なのが生る。でかいのはぼくの手で3つは握れない。ほかの2本は、何年経っても大きな実にならないので諦めて去年倒した。
 紫蘇のことだ。縁側の上にバケツを置いて始めたのだが、バケツの上でしごくのに、高い位置では流れが悪いと気づいた。階段にバケツをおろして高さを変えた。だが、そうか、しごく途中で実をこぼさないように用心しているのだ。それで動きがぎごちないのだ。指を平らにし始めてから、指3本使わずに、親指の腹と人差し指の一番先の関節の曲がり目を使っていた。しごかれて落ちる様子を見てみると、そんなに実はこぼれないのだ。指全体をゆるく開き加減にすると、しごきも落ち方もいい。落とす位置の加減を調節すればいいのだ。左の紫蘇の山の手近な方から左手で根元をとって、逆向きにバケツの上に載せ、左手が穂をつまんで右手でしごいて、全部の穂がすんだ枝を左手で前に放り捨てながら、さらに左へ延びて次の枝を掴む。バケツを少し右にずらして、実は右側に落として、正面を空けたラインにすると、実に流れがいい。膝をどこに入れるかで姿勢が変わって楽になる。また元気が出た。指使いと、ラインのとり方とが、組み合わなければならないのだ。バケツを足の間に挟んだり、右に出したりして姿勢を変えて疲れをずらす。
 ここまで考えて、(実は、綴ってきて、)自分が何に拘って、こんなことを考えているのか見えてきた。これはこれだと思いながら、文にまとめてみるうちに、何か違うという思いも育ってきていた。それでずいぶん書き変えた。書き変えて徐々にはっきりしてきたようだ。やはり文章化というのは、すごい思考過程だ。パソコン騒動記と並行して断続的にこれを書き留めていたので、両方がはっきりしたようだ。
 生徒が育ったとき、これからどうしようかと、思い悩むというと大げさだが、考えることが何度もあった。ここまで育った今、今までと同じ俺ではこいつらは今まで通りでしかない。どう自分を変えればさらに伸ばせるのか。こうなろう、そうなれるか。興奮して眠れなかったり、安心してころりと眠ったりした。ここで、作業と量とを考えていたのは、そこがまだ引っかかっていたのだ。単純作業が量で追われると指使いや流れのとり方を変えさせられる。人間関係の中で、たとえ教師と生徒であろうと、何かが変わるということは、全体の関係の構築法が変わるのだ。(この後を続けると別次元の話だ。別項を立てなければならない。)
 それにしても、膨大な量に対して、一人の手作業は、なんとももどかしい。時間ばかり経過するし、姿勢を変えたり、時に腕を振り回したりしたところで、飽きてくるのはどうしようもない。腹が減って、時計を見ると11時。朝飯なしでやってきて、やはり限界だ。昼飯を作らないと、午後になってしまう。一抱え分の山が終わるところで、たぶん2時間半以上やった。やめるにはいい理由が2つもあると、減罪して終わった。午後は別のことをしなければ、明日帰れない。この残りは、堆肥づくりの山に積み重ねるしかないようだ。

 ギガを超えて

 ここ半年の間、「パソコンに遊んでもらう」状態にいた。その間、10年前の最初からの、たった20ギガバイト(Gb)のノートパソコンで済ましていた。運も良かった。春から夏にかけてノートパソコンを、ハードディスク外付け・メモリ増設・ディスプレイ増設・リカヴァリしてCとDの区別を消してとやって、調子よく動いていた。どこにしまうかと残容量に気を使うこともなくなり、動作の余裕の容量も十分に確保された。もっとも大事なのはパソコンをいじることに怖さが少なくなってきていたことだろう。
 ことの起こりは、数年新しいデスクトップの方がつぶれたことだった。ウィンドウズが始めの一歩で立ち上がらなくなった。その一歩の何とかがないからだめだという宣言が表れる。いろいろ、あれこれ試したが、どうにもならない。パソコンの専門店に聞いてみたら、直すのには幾ら、データを取り出すのは出来ても出来なくてもを覚悟で幾らと、合計数万円かかる。パソコンそのものが物凄くと言っていいほど安くなっているのに、修理にそんなにかかるということに不満が湧き、データが取り出せない危険も気にかかって、しばらく考えてと、考慮沈静化期間を取った。悩んでいるうち、本体からハードディスク(HDD)を外してウィンドウズが生きてるパソコンにつなげばデータは取り出せるはずだと、息子に教えられた。本体からHDDを取り外すだと? そんな恐ろしいことできるのかね。それからは、あれこれ、いろいろ、考えたり、店で見たり、ネットで探したり、パソコンに強そうな人を見つけては訊ねたりとやった。こわごわと、本体を開けて中を見たのが、いい刺激になった。開け方からしてまごついた。このパソコンは、ちょっと変わったやり方だった。
 デジタル社会はドッグイヤー(犬なみ成長)というけど、そんなものではないと思うほど変わる。考え迷っている間にも、いや、何かなければ値段など気にしていないから遅まきながら気づいたというべきなのだろうが、HDDの値段がぐんぐん安くなっていて、ぼくのパソコンの段階を飛び越していた。性能を選択できる社を選んでかなり性能としてはいいやつを選んだのだが、今一般的に売られている低いレベルのとどっこいになってしまった。もっともこれらはデジタル社会がというのは大げさで、市場への企業の対応がめまぐるしいというだけなのだが、とても振り回されるのは事実だ。HDDを入れ替えるとして何Gbを選ぶのが使いよくて安いか。ずいぶん迷ったけれど、迷っていても仕方がない、どこかで踏み切らなければと、われとわが身を励ましてえいやっと踏み切った。ずいぶん安いというかちっぽけな決意だが、パソコンに強そうな人に聞いてもみんなプロに任せろというのだから、決心と名づけていいのだ。
 作業内容と作業日とに間に合うように材料を買い込み、決行!は慎重に計画した。慌てたくないからまる一日用事のない日を選び、朝から作業に入った。安上がりにバルク品で済ませようとするのだから、だめならすぐ返品・交換しなければならない。バルクでもブランドでも当たるか外れるかだ。保証やアフターサービスにいくらか差があるかもしれないが、データがなくならない用心だけしておけば恐れることはない、と決めた。デスクトップのウィンドウズがつぶれて慌てたのは、バックアップをサボっていたからなのだ。今は、新規のパソコンの設定で遊んでいるのだと思えばいいのだ。だめなら全部新しくやり直す手があるはずだ。
 まあそれでやったわけで、やった前半は驚くほど結構だった。こわごわ抜き出したハードディスク(HDD)をこわごわケースに入れてノートパソコンにつないだら、なんということなく生き返って、これは立派な外付けHDDに変貌した。デスクトップ型パソコンというものが、隙間だらけに作ってあるのだということには、大いに驚いた。あとで、放熱のためだということも知ることになるのだが。それにしても、精密機械とはあまりいえないような造りに見える。
 ここで止めて、HDDを戻して、ただ回復したという状態にしておいたら、今考えると簡単だったのだ。が、第一には、立てた再出発計画は、HDDが回復しない場合も含めて、今よりは良くなるようにとしか考えなかったのだった。第二には、その先の作業がうまくいくという自信を持てなかった。外した100Gb近い内容を取っておくものがほかにないから、なくしたくない恐怖が強かった。それで、外した250Gbと160GbのHDDはそのまま手を加えずに記録用として取っておいて、新しい500GbHDD2台を入れてリカヴァリした。これもすんなりと動き始めた。
 500Gbと考えたのは、しみったれでもの悲しい計算だった。HDDは500Gbが今実に割安なのだ。しかもまとめて2台でさらに安くなる。今まで10年パソコンを使ってきて、集録を10冊を超えてつくり、スライド画像とテープ音の作品を3本も動画風に置き換え、デジカメでずいぶん写真を溜め込み、百数十時間分の音楽も取り込んで、結局のところ200Gb足らずだ。これからどうあがいても、500あれば、お終いまで足りるだろう。パソコンが壊れても、ハードディスクを取り出せばいいのだ。だが、欲をかいたせいでというべきか、ついに最後になって躓いた。1Tbにせずに、500Gbを2台としたのは、ミラーリングにしてバックアップの面倒を避けようと計画したのだった。全く同じに記録されたもの2本が同時に壊れることはないだろうと。その設定に立ち往生してしまった。パソコンと格闘?してその一日は暮れた。
 ミラーリングがどうなったかはわからなかったが、使うには不自由しないことを見つけて、できる改善を始めた。新しくなったデスクトップと、外して外付けに改造したHDD2台とを使って、今までできなかった大量データ移動を数回やって、データの整理をした。そして、2台の内容を同じにそろえた。名前や大小や並び順などホルダーを一つずつ直すのは大変だが、一つにそろえて、それで上書きコピーすれば同じものが出来上がってくれる。数十Gbを一気に移動させるには、かなりの時間がかかったが、どれを使っても同じ状態で仕事ができ、記録がなくなる心配もせずに済むというのは、気分のいいものだ。暇を見つけてはこれらの作業をしているうちに、ひょっとするとという疑問が湧いた。改めて新しいHDD2台の接続を切り離して、1台づつ試してみたら、何のことはないミラーリングはちゃんと出来ていた。出来ているのかどうかの確認には、何を見ればいいのかさえ知らなかったのだ。結果論から言えば、あれこれが無駄骨で、金額的にも損になって、おまけに予定しなかったことに同じ記録が3通り出来てしまった。まあ勉強には無駄がつき物なのだ。
 デスクトップ騒動が一落着きしたので、時間も気持ちも隙間ができて、知人が、以前からスキャナーの扱いを知りたいと言っていたのを思い出した。ワープロを長く使ってパソコンも早く始め、もう何代目かを使っている人だ。ぼくがスキャナーで編集した資料を見て、同じようにスキャンできないというのだが、話がどうも通じ合わないと思っていたのだった。スキャナーを持って訪ねて行った。スキャナーが付いていると言っていたプリンターは、文字を読み取るのではない一般的な写真プリントの複合機だった。文字もうつせるといわれて買ったそうだが、移すと写すの思い違いだったようだ。
 だが、それは見ただけで、パソコンそのものの使い方で、終始してしまった。スキャナーを使ってみるのに、ソフトを入れていいものか、出来上がる文章記録を入れるホルダーをどこに作るかと、ディスクの空き具合を見たら、Cディスクが一杯で、仕事のできる容量さえ残っていない。そしてDディスクを見ると、全くの空。さらに驚いたことに、どれだけ原稿を書いたか何百ページの編集をやったかわからないほど使っているこの人が、画面の何分の一かというほどの狭いスペースで原稿を書いていたのだった。タスクバーを整理してルーラーや使わないバーを仕舞って、仕事の画面が広がると大喜び。とんだ先輩孝行をしに来たことになってしまった。もう一つはファイルの整理。どの原稿ファイルがどこにあるか、どんな名か、定かでないので、探すには全部の中からこれだろうと開けて見ていくしかない。幸い長い付き合いだから、仕事別のホルダをつくってファイルを放り込み、一面で全部の仕事のホルダが見えるようになるまでに大変な時間がかかった。後輩がお節介にもやっていくのを見てもらって、わかってもらう。自分でやるとそれらの一つずつを、楽な操作なしで、本当に一つ一つと言いたいやり方で時間を掛ける。そこでまた楽をする法を説明することになってしまう。できたホルダーを、Dディスクに移す、というところで時間切れになってしまった。これは、つい最近第2幕があった。サークル例会の合間に、そのホルダ作りと移動がうまくいかないがと訊かれて、別の方もぜひ訊きたいという。つまりは、整理・分類ということ自体の問題、上位下位概念のレヴェル作りの問題なのだった。
 つくづく考えさせられた。人が何かするというときの、手順や方法とは、道具の改良とは、いったいなんだろう。ぼくの身の回りのパソコンに慣れて長けた人は、パソコンを自作するという一人を除いて、どうも本体の蓋も開けて見たことがなさそうだ。ある使い方ソフトで規定された中のさらに狭いある使い方に達者なのだ、と思えてしまう。車だと、部品交換をして、性能UPや格好良くとやることが、若者に限らず多い。パソコンも、店で見ていると、自作用のパーツ棚の前にも結構人はいる。ぼくの周囲のパソコン歴の長い人たちは、みな授業法や教材分析や教具の工夫などに精を出している人たちだ。住む家だとか、手に持つ鞄だとか、なじんだものについては、それぞれいろんな創意工夫を凝らしているに違いないと思う。それがどうしてパソコンだけと思わざるを得ない。HDDだとかメモリーだとか、単なる部品だがどうも恐ろしげに見えてしまう。
 胡散臭いと思えば手を触れないだろう。それを越えて手を触れたところが、全く異質な道具という違和感と、細かく既定された使い方に辟易して、ある使い方を少しできればもういいや、となるのだろうか。ぼく自身がパソコンを嫌って、やっと必要に迫られて始めたときの逡巡に思い当たる。
 考えられる解は、パソコンの特殊性、つまり、パソコンという発達途上の未熟な道具の持つなんとはなしの不可解さと、文化としてのなじみ・習熟の度合いとではなかろうか。ぼくの敬愛する仲間(本当に残念だがすでに故人)の2人の弟さんの話を思い出す。かなり昔に前後してひょいとパソコンを買ってきて(と見えたそうだ)、ごそごそやっていたと思ったら、数日後にはずっと使っていたような顔でパソコンで仕事していたという。上の方(かた)は化学物理の研究所的な会社を創ってその方面の世界のトップ、下の方は植物生態関係で試験管も振るような方面の教授、会ってしゃべると2人とも気さくな人だ。その仲間によると、あんなふうに(弟たちが)すぐ使えるのだから、パソコンてそういう程度の道具だ、となるのだった。
 近代科学からぼくが学んだもっとも大きなことは、分析と統合だと思っている。現職時代、ノートの取り方とか、メモの取り方ということを、各学年で必ずやった。文章の内容そのものや自分の読みと深く関わるから、ぼくの授業では、どうしても欠かせないことだった。そのことで学習全体が目覚しく伸びた生徒が多かった。(不思議なことに男性に多かった。)今後の子どもたちのことを考えると、パソコンでノートを取るということ、それをどう取るか、どう整理するか、といったことが大事になるだろうし、今現場にいたらぜひ手をつけたいところだ。
 その整理するといったことと道具を使いよくするということとは、ぼくにとっては同じ線上のことに思えるのだが、この辺は人によって随分違うようでもある。それがなぜか、どこから違うのかということにも興味を持つ。
 今回の騒動?を通して、随分いろんなことを考えた。パソコンの中身や動かし方についてはもちろんだが、パソコンと人とのことも多かった。HDDというレコードプレイヤーみたいなものに振り回されていたわけだが、今は、SDDと略称されるものを使う新しいタイプに期待している。要するにSDカードみたいなチップだから、つまり円盤が回転してしたがって発熱するということがなく扇風機が要らないわけだから、絶対的に小さく故障も少ないはずだ。デジタルのハード部分がやっと本来的な姿に近づいてきたのではなかろうかなどと考えている。それまで、便利そうな新しいパソコンを横目で眺めながら、この古いやつをこき使うとしようか。

2倍と×2

 何かを2倍にするというとき、記号でやれば「a×2」とするが、結果を表記したり、更にそれを3倍するといったときには「2a」「2a×3」となる。何の不思議もないのだが、本当に不思議ではないのだろうか。子どもたちの算数・数学でのつまづきを考えると、案外大きな問題を含んでいるようにも思える。
 もう少し言うと、a×bも、b×aも、ともにabとなる。a×(b+c)は「ab+ac」で「ba+ca」にせず、a×(b+2)も(b+2)×aも「ab+2a」とすることの説明を教師はどうしているのだろう。ぼくは経験的にそうするものだと慣れてきて、「数字は前」「アルファベット順」という指示以外の説明をされたようには覚えていないのだが。
 (a+b)×(c+d)のとき、前から「ac+ad+・・・」と始めるのか、後ろから「ca+cb+・・・」と始めるのか。2倍は×2だから、(c+d)倍と考えて後ろから始めることもありうるのではないだろうか。後ろから始めたい子が、前からやられてまごまごしているうちに遅れてしまうといったことも起こり得るだろう。
 また、aのb倍とbのa倍は、結果としての数量は同じでも、abとbaの書き分けをするほうが、初歩段階ではわかりやすいのではなかろうか。結果的に同じだということに慣れて来ると自然に決まって来そうに思うのだが。
 例えば、(-3)×2はやさしいが、2×(-3)は難しい。角張って言えば、掛けるとはどういうことか、負数とはなにか、その上でマイナスを掛けるあるいはマイナス倍するということになるはずだ。マイナスを掛ける、マイナスで割るとはどういうことなのかを易しいことだと思う子どもが普通とは思えない。2×(-3)を、a×b=b×aだから、(-3)×2とする。答えはいずれ-6で同じなのだ、というのは、計算処理であって、意味とは違う。だから、これで育つと、計算して答えは出せるが、説明できないとか、応用できないとかと、よく指摘される状態になるのではないか。われわれは、数直線でやったように思うが、それも理解の補助だったようで、正負とは方向性のことだという徹底はなかったように思う。この負数概念の出発点だったという税の既納・未納とか、借金とかの話があったようにも思うが、例え話としてしか理解しなかったのは、ぼくの問題なのか、教え手の問題なのか、なんて責任回避したい気になってしまう。
 正と負では、もっと違う考えをする子もいる。いたずらっ子の間に合わせ勉強によく付き合ってきたが、その中で知った、なるほどの問題だ。(+2)×3は、数直線的に考えた+2到達点を基準として、負方向へ、1・2・3倍といくと考えるのだ。そうすると、到達点は-4となる。これが答だというのだ。(+2)×3は、0基準で、もともとの+2を1倍として含んでいる。3倍するのは、あと2回分足していっている。+2の-3倍は、最初の-1倍部分は+2だから、相殺して消えて、残るのは4になると考える。○○に□をかける、○○を□倍するというのは、正の場合は簡単だが、負では、負の方向性だけが大切なのでもないのだ。元の数というものをどう考えるか、つまり(+2)に-をかけるというときの2は、いわば絶対値なのだ。正数と絶対値とを、概念として教えるのは発達段階としてあとになるだろうが、負数計算の持っている便宜的な面は認識しておくべきだろう。そういうことで躓く子もいるのだから。数直線で+2を示して、その+2を無視して、-3倍をいきなり0点から負方向へと説明するなどは、乱暴なのだ。もっともこれは正数でも実は同じで、+2地点でなくなぜ0から始めるのか、悩む子もいる。借金で考えるともっと厄介で、例えば2万円の金を見せてこの3倍貸せと言ったとすると、借りたときには見せ金を含めて8万所持することになる。
 「家が2軒」と「2軒の家」は、前者はa2、後者は2aと感じる。応用問題が解けない、国語力がなくて算数に影響するといったことを言おうとする人は、ぜひこのあたりまで突っ込んで子どもの考え方を探って欲しいものだ。ことば感覚と、数的感覚をどう一致させていくか、数学に長けた人の説明でなく、悩んだ人の話が大切になる。
 例えば、6a+3を「3( )」で括るとき、「6は2×3だから、3(2a+1)となる。」ですますか、「6は2×3、3×2だから、6a+3は(3×2)a+3、その共通する3で括って3(2a+1)となる。」までやるか、その実験をしてみて欲しいと思う。やることが多く授業時間が足りないという中身の問題を、伸びることこそ大事の視点で見つめる必要があろう。
 文学的には、「人家が数百軒もあった」と「数百軒もの人家があった」とでは、見えた事実は同じでも、見る心情は異なり、だから描写された情景としては異なる。国語の読み深めでは、こういったことが当然の問題となる。それをやっている子どもが同じことばを算数数学的にどうとらえるか。
 今回の指導要領改訂では、言葉が全教科での重要課題とされた。予想される内容はお粗末だが、大いに乗るべきだと思う。それは、今まで問題視されて来なかった子どもの感じ方、考え方に迫るチャンスになりうるからだ。子どもが伸びるという実績を作ってしまうことだ。結果ではなく考える過程を大切に、という言葉は良く聞かれるが、考えるのは言葉で考えるのだということをそこにしっかり据えておきたい。それにはまず、国語畑のものが算数・数学や理科などについて、算数・理科畑の人が国語について、というように教科をこえて討論しなければならない。教科を越えて発言する人はほとんどいない現状だ。多教科の指導をしている小学校教師こそ、鍵を握っていると思っている。
 大きな饅頭2個と小さな饅頭3個のどちらが得か、「2x=3y」の条件「x=3/2y」つまり「xがyの1倍半」という計算に至る素地を蓄えて子どもは育って来た。現在の一人っ子条件や肥満警戒条件では、別の対策を考えなければならない事情はあるが、子どもの感じ方、考え方に、どこまで迫れるかは、いつも基本の課題なのだろう。
 薪作りに数日間安曇野に行って、いつものような乱読用の本がなかったので、いつか読もうと置いてあった数学の勉強の本を読んだ。それでいつかまとめようと思っていたメモを、文にする気になった、というわけです。まじめな本も、しっかり読まなければという自戒も一応あるのです。が、つまり、この名著?といわれた中身に、納得できなかったわけです。abとba、家2軒と2軒の家、前から掛けるか後ろから掛けるかなどなどは、子どもの頃から気になっていた長い負い目の歴史がぼくにはあります。
 ちょうど、宝くじの売り出しに列ができたといったニュースが流れている。去年当たりが出たところと、出なかったところとでは、確率はどうなのか。何年生の勉強なのだろう。売り出し本数・金額と、当選賞金総額と、その比較を知っていても、当たる人が何人かいるという事実への期待・願望・祈りが強いのだろう。それに払う金の高さは、ぼくにはもったいなくて、清水に行かなくてももちろん出さない。それより3回断連続にする予定の金の話を、サブプライムで締めくくったのに、事情の変わるたびに書き換えるめまぐるしさに飽きて、ほってあるほうが大変だ。

韓国の学校で授業をしてきました!

韓国の学校で授業をしてきました。10月12日、歴教協の日韓交流委員会のとりくみで韓国江華島の高校で歴史の授業をしてきました。私が「日本の開国」について授業をやり、韓国の先生が、そのあと「朝鮮の開国」についてとりあげる、という企画でした。

 江華島の高校はサンマウル高校という「代案学校」です。韓国の教育課程にあきたらない親と教師が自主的につくりあげているオルタナティブスクールです。韓国の「普通」の学校は、一斉授業で先生の板書をノートに写し、教科書をなぞるだけ、というものですが、この学校は「そうでない」教育をしているといわれていました。この学校で、私は「ペリー来航の図」をみせて、当時の船の技術を討論させたり、アメリカ大統領の手紙をうけとった日本人はどう対応したと思うか。君らだったらどうするか、という質問に対して、話し合わせたりしました。日本の子どもと同じような意見がでます。「はたらきかけ」と「教材の観点」さえ間違っていなければ子どもは素直に反応します。

 授業のあと、高校生が「授業の感想」を述べました。「こんな授業ははじめて」「受験体制の中で、韓国ではこういう授業はできない」などという声がよせられていました。日本に帰ってから、高校生から「感想文」が送られてきました。いくつか紹介します。

「少し風変りな方式の授業という感じに新鮮さを感じました。大谷先生の授業方式は全体的に見れば資料を提示して、その資料を学生たちが三三五五集まって特徴や、話すに値するものなどを討論(と似ている) 形式だと思います。そして、話が終わったら大谷先生が何を感じたのか、何を見つけたのか、どんな点が面白いのかを問いました。この時、私は横に座った知らない女学生と話して、考えた関心あることを話しました。先生は詳しく説明してくださいました。たぶんこのことで興味を感じることができたようです。」

「こんなにお互いに話を取り交わす形式で授業が進行されたら、まるで私が学者になって昔のものなどを調査して研究するような感じにもなりました。そして先生が提示してくださった多くの資料を総合して、また終わりに、授業中に交わした話を先生が整理してくださって、合わせて頭の中に並べたら、本当に授業の内容を理解しているという感じを受けました。」

「韓国の授業はほとんど千編一律的です。私たちはとても狭い意味の学びのみを受けて来ました。狭い意味の学びと言うのは‘知識を習得する’以上のものではありません。小学校に入学してかばんを持って学校に通って以来、知識を習得、それも一方的方式で習得すること以外に、私が自ら何やら創造して掲げたり、何かを研究するとか、あるいはそれに対する方法を勉強する授業はほとんど受けることがありませんでした。これは私だけではなく、今までのほとんどすべての学生たちが経験したことだと思います。

しかし日本の大谷歴史先生の授業は何か少し違いました。大谷先生は、授業の目的を単純な知識の習得には置きませんでした。先生は私たちに、その知識を尋ねる過程を教えてくれました。私たちはたとえ初めて接する方式だからぎこちなくはあっても、その授業にとてもフレッシュに臨むことができました。後で勉強する時に、先生がいなくても自ら尋ねることができるように大谷先生は方向提示をしてくださったようです。短い一時間の授業だったがたくさん感じて学ぶことができました。こんな時間をもう一度持って見たいです。」

韓国の学校だけでなく、日本の学校でも「教え込み」の授業が増えているのではないでしょうか。そうでないことを願いますが・・・。

東京を歩く

 山の手線一周という歩き方が噂されているらしいが、どうもピンとこない。ぼくは2周したが、所々でそれらしい人に遭っていた。みな似た年頃なのがつまらない。2周というのは、外時計逆回りと内時計回りだ。水流をたどった時と同じに、レールを見続けるという条件で歩いた。
 歩くのは体力維持のためが第一の理由だ。同じところを歩くというやり方を好きになれない。久しぶりにまたあそこをというのはいいが、毎日のように同じところというと飽きてしまうのだ。体力づくりの初めは、水系を探るという目的を立てて、武蔵野を自転車で走り回っていた。だが、それも一まとまりしてしまった。それに、自転車のスピードでは見落としてしまうということが気にかかって仕方がなくなったのに、体力づくりでは速く走らなければならないという矛盾をなんとかしなければならなかった。それで歩くことに変えた。さしあたり、知っている懐かしいところと、余り知らないところを交互に混ぜて、さらに街道を探ることも併せて歩くことに決めたのだった。まだここの雰囲気は残っているというのと、こんなものができてこんなに変わったのかというのとが、知っているところだ。子どもの頃の知っているということは、とてもいい加減なもので、真っ直ぐ行くと思っていた道が、大きく折れ曲がっていたりする。それが、通い慣れていた筈の所だったりして、呆気に取られることもある。東京は、といってもぼくの感覚ではどうしても山の手線の内側となってしまうのだが、余り広くはない。わき目をふって、入り込んでカメラを向けてとやっても、一日かからずに突っ切れる。つまり、東京中を歩くというのには、ざっとならそんなに回数はいらないわけで、あっさりと終わってしまうのだ。これはなかなか困ったことで、やることが溜まり過ぎるのも困るが、無いというのはもっと困る。始めたら5年や10年はかかるというような規模の目当てを立てられるといい。
 山の手線周りを考えたのは、かつての懐かしい踏切が最近閉められてなくなったことを偶然、これも歩いていて、知ってしまったことからだった。あといくつ踏み切りは残っているのだろう。記憶を辿っているうちに、かつての乗って一周でなく歩いてと考えたのだった。
 今やっている東京歩きは、第3幕ということになる。子どもの頃、よくお使いに行かされた。小3で疎開までの小石川居住時だが、野方の伯母の家へとか、銀座の端の母の好きな佃煮屋へとか、歩きで本郷西片町の伯父の家へとか、今の親ならまずさせない距離を一人で電車に乗ったり歩いたりして行った。さすがに道草を食うほどの余裕がなかったのか、子ども心にたいした興味をもてなかったのだろう、途中のことはいくつかの点としてしか覚えていない。銀座尾張町の交差点とか、都電を乗り換えた角の白木屋正面とかは、今はもうないが、都電で行って高田の馬場で西武線に乗って(いつも一番前に乗ったのだが)その電車が山手線を越えていくカーブは今もほぼ同じで存在する。中3で東京に戻って早稲田近辺に住んだ頃、暇だったのか、よく歩き回った。その頃赤坂離宮が国会図書館になったいて、その頃にしては極めて珍しい冷房が入っていた。それもあって、特に夏にはよく通ったのだが、歩いて行ったのだった。同じ道ではないように僅かずつずらして、裏道などもすり抜けて歩いた。知った道から少しだけはずすしかなかった。露地を抜けたりしていると、迷う危険はどこにもあった。地図というものがなかった。所番地は家の表札でしか知れなかった。歩く気の起きないときには、当時一周で10円だった山の手線の先頭で一巡りした。池袋で乗って目白から帰るとか、その逆とか。2周したときもあったのではなかろうか。それで踏切りがいくつあるかなどよく覚えた。
 だから、東京育ちが東京を知らないことには呆れてしまう。車での道順を教えて何も道を知らないと内心怒りさえ覚える。だが、最近の道を車で走って覚えたのなら、仕方がないのだ。どこへ行く道という形の道路標識などで覚えた知識は、いわば道順を知っているので、道そのものを知ることとは別なのだ。逆に、歩いて知っていることで困ることも時にはある。車の場合は多い。規制で大回りするなどということは、歩いていては気にもしない。いきなり歩道がなくなって、信号まで戻って逆サイドの歩道へ渡らせられることもある。
 それからずっと後、生徒の校外活動の計画をするようになって、修学旅行に乗鞍岳と高山の街とか、吾妻高原と中尊寺とか考えたり、遠足に全校縦割り小集団で引率なしの奥高尾縦走登山とか、秩父のオリエンテーリングとか、都内の江戸を探す佃島から清澄庭園とか考えた。次々新しいことを発案したが、全てを賛成してもらえた。40~50年前には、自由な職場があったのだ。江戸めぐりは親たちに大好評で、PTAの文化部というのが休日を使って何回か催した。実踏以外にも候補コースを貯えたくて一人でも歩いた。休日はもっぱら山に行っていたから、都内に行く用事の前後を使って遠回りしては歩いていた。
 適当に歩く、つまり足の向くままというのは難しいもので、何か目当てをつくらないと一日歩くということは大変だ。足の向くままを本当にできる人はどういう人だろう、と思ってしまう。戸口を出て右か左か、どっちへ行ってもそのすぐ先の四つ角はどうする。いちいちこんなことでは、ぼくは歩けない。何か目当てがほしくなる。がむしゃらにただ距離を歩くというのもつまらない。発見がなければならない。小さな発見をして、それでじっくり考える。それを楽しみにしている。ずいぶん歩いて、もう歩くところもなくなったかと時に考えるが、東京は広い。まだまだ、ずいぶん知らないところがあったのだと、歩くと知らされる。それが有難い。なくなったらどうしようと思ってしまう。だが、何か見つけられそうなコースを考え出すのが難しくなってきているのも確かだ。