ギガを超えて | 学びをつくる会世話人リレーブログ

 ギガを超えて

 ここ半年の間、「パソコンに遊んでもらう」状態にいた。その間、10年前の最初からの、たった20ギガバイト(Gb)のノートパソコンで済ましていた。運も良かった。春から夏にかけてノートパソコンを、ハードディスク外付け・メモリ増設・ディスプレイ増設・リカヴァリしてCとDの区別を消してとやって、調子よく動いていた。どこにしまうかと残容量に気を使うこともなくなり、動作の余裕の容量も十分に確保された。もっとも大事なのはパソコンをいじることに怖さが少なくなってきていたことだろう。
 ことの起こりは、数年新しいデスクトップの方がつぶれたことだった。ウィンドウズが始めの一歩で立ち上がらなくなった。その一歩の何とかがないからだめだという宣言が表れる。いろいろ、あれこれ試したが、どうにもならない。パソコンの専門店に聞いてみたら、直すのには幾ら、データを取り出すのは出来ても出来なくてもを覚悟で幾らと、合計数万円かかる。パソコンそのものが物凄くと言っていいほど安くなっているのに、修理にそんなにかかるということに不満が湧き、データが取り出せない危険も気にかかって、しばらく考えてと、考慮沈静化期間を取った。悩んでいるうち、本体からハードディスク(HDD)を外してウィンドウズが生きてるパソコンにつなげばデータは取り出せるはずだと、息子に教えられた。本体からHDDを取り外すだと? そんな恐ろしいことできるのかね。それからは、あれこれ、いろいろ、考えたり、店で見たり、ネットで探したり、パソコンに強そうな人を見つけては訊ねたりとやった。こわごわと、本体を開けて中を見たのが、いい刺激になった。開け方からしてまごついた。このパソコンは、ちょっと変わったやり方だった。
 デジタル社会はドッグイヤー(犬なみ成長)というけど、そんなものではないと思うほど変わる。考え迷っている間にも、いや、何かなければ値段など気にしていないから遅まきながら気づいたというべきなのだろうが、HDDの値段がぐんぐん安くなっていて、ぼくのパソコンの段階を飛び越していた。性能を選択できる社を選んでかなり性能としてはいいやつを選んだのだが、今一般的に売られている低いレベルのとどっこいになってしまった。もっともこれらはデジタル社会がというのは大げさで、市場への企業の対応がめまぐるしいというだけなのだが、とても振り回されるのは事実だ。HDDを入れ替えるとして何Gbを選ぶのが使いよくて安いか。ずいぶん迷ったけれど、迷っていても仕方がない、どこかで踏み切らなければと、われとわが身を励ましてえいやっと踏み切った。ずいぶん安いというかちっぽけな決意だが、パソコンに強そうな人に聞いてもみんなプロに任せろというのだから、決心と名づけていいのだ。
 作業内容と作業日とに間に合うように材料を買い込み、決行!は慎重に計画した。慌てたくないからまる一日用事のない日を選び、朝から作業に入った。安上がりにバルク品で済ませようとするのだから、だめならすぐ返品・交換しなければならない。バルクでもブランドでも当たるか外れるかだ。保証やアフターサービスにいくらか差があるかもしれないが、データがなくならない用心だけしておけば恐れることはない、と決めた。デスクトップのウィンドウズがつぶれて慌てたのは、バックアップをサボっていたからなのだ。今は、新規のパソコンの設定で遊んでいるのだと思えばいいのだ。だめなら全部新しくやり直す手があるはずだ。
 まあそれでやったわけで、やった前半は驚くほど結構だった。こわごわ抜き出したハードディスク(HDD)をこわごわケースに入れてノートパソコンにつないだら、なんということなく生き返って、これは立派な外付けHDDに変貌した。デスクトップ型パソコンというものが、隙間だらけに作ってあるのだということには、大いに驚いた。あとで、放熱のためだということも知ることになるのだが。それにしても、精密機械とはあまりいえないような造りに見える。
 ここで止めて、HDDを戻して、ただ回復したという状態にしておいたら、今考えると簡単だったのだ。が、第一には、立てた再出発計画は、HDDが回復しない場合も含めて、今よりは良くなるようにとしか考えなかったのだった。第二には、その先の作業がうまくいくという自信を持てなかった。外した100Gb近い内容を取っておくものがほかにないから、なくしたくない恐怖が強かった。それで、外した250Gbと160GbのHDDはそのまま手を加えずに記録用として取っておいて、新しい500GbHDD2台を入れてリカヴァリした。これもすんなりと動き始めた。
 500Gbと考えたのは、しみったれでもの悲しい計算だった。HDDは500Gbが今実に割安なのだ。しかもまとめて2台でさらに安くなる。今まで10年パソコンを使ってきて、集録を10冊を超えてつくり、スライド画像とテープ音の作品を3本も動画風に置き換え、デジカメでずいぶん写真を溜め込み、百数十時間分の音楽も取り込んで、結局のところ200Gb足らずだ。これからどうあがいても、500あれば、お終いまで足りるだろう。パソコンが壊れても、ハードディスクを取り出せばいいのだ。だが、欲をかいたせいでというべきか、ついに最後になって躓いた。1Tbにせずに、500Gbを2台としたのは、ミラーリングにしてバックアップの面倒を避けようと計画したのだった。全く同じに記録されたもの2本が同時に壊れることはないだろうと。その設定に立ち往生してしまった。パソコンと格闘?してその一日は暮れた。
 ミラーリングがどうなったかはわからなかったが、使うには不自由しないことを見つけて、できる改善を始めた。新しくなったデスクトップと、外して外付けに改造したHDD2台とを使って、今までできなかった大量データ移動を数回やって、データの整理をした。そして、2台の内容を同じにそろえた。名前や大小や並び順などホルダーを一つずつ直すのは大変だが、一つにそろえて、それで上書きコピーすれば同じものが出来上がってくれる。数十Gbを一気に移動させるには、かなりの時間がかかったが、どれを使っても同じ状態で仕事ができ、記録がなくなる心配もせずに済むというのは、気分のいいものだ。暇を見つけてはこれらの作業をしているうちに、ひょっとするとという疑問が湧いた。改めて新しいHDD2台の接続を切り離して、1台づつ試してみたら、何のことはないミラーリングはちゃんと出来ていた。出来ているのかどうかの確認には、何を見ればいいのかさえ知らなかったのだ。結果論から言えば、あれこれが無駄骨で、金額的にも損になって、おまけに予定しなかったことに同じ記録が3通り出来てしまった。まあ勉強には無駄がつき物なのだ。
 デスクトップ騒動が一落着きしたので、時間も気持ちも隙間ができて、知人が、以前からスキャナーの扱いを知りたいと言っていたのを思い出した。ワープロを長く使ってパソコンも早く始め、もう何代目かを使っている人だ。ぼくがスキャナーで編集した資料を見て、同じようにスキャンできないというのだが、話がどうも通じ合わないと思っていたのだった。スキャナーを持って訪ねて行った。スキャナーが付いていると言っていたプリンターは、文字を読み取るのではない一般的な写真プリントの複合機だった。文字もうつせるといわれて買ったそうだが、移すと写すの思い違いだったようだ。
 だが、それは見ただけで、パソコンそのものの使い方で、終始してしまった。スキャナーを使ってみるのに、ソフトを入れていいものか、出来上がる文章記録を入れるホルダーをどこに作るかと、ディスクの空き具合を見たら、Cディスクが一杯で、仕事のできる容量さえ残っていない。そしてDディスクを見ると、全くの空。さらに驚いたことに、どれだけ原稿を書いたか何百ページの編集をやったかわからないほど使っているこの人が、画面の何分の一かというほどの狭いスペースで原稿を書いていたのだった。タスクバーを整理してルーラーや使わないバーを仕舞って、仕事の画面が広がると大喜び。とんだ先輩孝行をしに来たことになってしまった。もう一つはファイルの整理。どの原稿ファイルがどこにあるか、どんな名か、定かでないので、探すには全部の中からこれだろうと開けて見ていくしかない。幸い長い付き合いだから、仕事別のホルダをつくってファイルを放り込み、一面で全部の仕事のホルダが見えるようになるまでに大変な時間がかかった。後輩がお節介にもやっていくのを見てもらって、わかってもらう。自分でやるとそれらの一つずつを、楽な操作なしで、本当に一つ一つと言いたいやり方で時間を掛ける。そこでまた楽をする法を説明することになってしまう。できたホルダーを、Dディスクに移す、というところで時間切れになってしまった。これは、つい最近第2幕があった。サークル例会の合間に、そのホルダ作りと移動がうまくいかないがと訊かれて、別の方もぜひ訊きたいという。つまりは、整理・分類ということ自体の問題、上位下位概念のレヴェル作りの問題なのだった。
 つくづく考えさせられた。人が何かするというときの、手順や方法とは、道具の改良とは、いったいなんだろう。ぼくの身の回りのパソコンに慣れて長けた人は、パソコンを自作するという一人を除いて、どうも本体の蓋も開けて見たことがなさそうだ。ある使い方ソフトで規定された中のさらに狭いある使い方に達者なのだ、と思えてしまう。車だと、部品交換をして、性能UPや格好良くとやることが、若者に限らず多い。パソコンも、店で見ていると、自作用のパーツ棚の前にも結構人はいる。ぼくの周囲のパソコン歴の長い人たちは、みな授業法や教材分析や教具の工夫などに精を出している人たちだ。住む家だとか、手に持つ鞄だとか、なじんだものについては、それぞれいろんな創意工夫を凝らしているに違いないと思う。それがどうしてパソコンだけと思わざるを得ない。HDDだとかメモリーだとか、単なる部品だがどうも恐ろしげに見えてしまう。
 胡散臭いと思えば手を触れないだろう。それを越えて手を触れたところが、全く異質な道具という違和感と、細かく既定された使い方に辟易して、ある使い方を少しできればもういいや、となるのだろうか。ぼく自身がパソコンを嫌って、やっと必要に迫られて始めたときの逡巡に思い当たる。
 考えられる解は、パソコンの特殊性、つまり、パソコンという発達途上の未熟な道具の持つなんとはなしの不可解さと、文化としてのなじみ・習熟の度合いとではなかろうか。ぼくの敬愛する仲間(本当に残念だがすでに故人)の2人の弟さんの話を思い出す。かなり昔に前後してひょいとパソコンを買ってきて(と見えたそうだ)、ごそごそやっていたと思ったら、数日後にはずっと使っていたような顔でパソコンで仕事していたという。上の方(かた)は化学物理の研究所的な会社を創ってその方面の世界のトップ、下の方は植物生態関係で試験管も振るような方面の教授、会ってしゃべると2人とも気さくな人だ。その仲間によると、あんなふうに(弟たちが)すぐ使えるのだから、パソコンてそういう程度の道具だ、となるのだった。
 近代科学からぼくが学んだもっとも大きなことは、分析と統合だと思っている。現職時代、ノートの取り方とか、メモの取り方ということを、各学年で必ずやった。文章の内容そのものや自分の読みと深く関わるから、ぼくの授業では、どうしても欠かせないことだった。そのことで学習全体が目覚しく伸びた生徒が多かった。(不思議なことに男性に多かった。)今後の子どもたちのことを考えると、パソコンでノートを取るということ、それをどう取るか、どう整理するか、といったことが大事になるだろうし、今現場にいたらぜひ手をつけたいところだ。
 その整理するといったことと道具を使いよくするということとは、ぼくにとっては同じ線上のことに思えるのだが、この辺は人によって随分違うようでもある。それがなぜか、どこから違うのかということにも興味を持つ。
 今回の騒動?を通して、随分いろんなことを考えた。パソコンの中身や動かし方についてはもちろんだが、パソコンと人とのことも多かった。HDDというレコードプレイヤーみたいなものに振り回されていたわけだが、今は、SDDと略称されるものを使う新しいタイプに期待している。要するにSDカードみたいなチップだから、つまり円盤が回転してしたがって発熱するということがなく扇風機が要らないわけだから、絶対的に小さく故障も少ないはずだ。デジタルのハード部分がやっと本来的な姿に近づいてきたのではなかろうかなどと考えている。それまで、便利そうな新しいパソコンを横目で眺めながら、この古いやつをこき使うとしようか。