学びをつくる会世話人リレーブログ -7ページ目

木村裁判傍聴記

 新採教師、木村百合子さんが自死した事件での公務災害認定をめぐる裁判が静岡地裁で続けられていましたが、9月8日、結審しました。この日の傍聴記です。
 結審弁論を原告の木村さんのお父さんから最終陳述がありました。その要旨です。「次女・百合子は教師になることを夢見ていました。子どもたちの成長を願っていましたが、半年で焼身自殺してしまいました。クリスチャンである百合子がなぜ自殺したのでしょうか。遺族としても『なぜ』という思いがあります。平成20年度新規採用教員の依願退職が304人、そのうち、病気が93人、精神疾患が88人となっていて、10年前の5~8倍になっています。新採教師の自殺も各地から聞かれます。教師のメンタルヘルスをやこなっている医師は「教師がつらいのは、生徒と気持ちが通じないことですが、それも同僚の支えがあれば、のりこえられる、と言われています。ところが、まわりから厳しい目でみられ、全国では百合子と同じ悩みを持ち教師が数知れずいると思います。子どもが育まれていくために、教師が安心して笑顔で教壇にたつことができる教育現場であってほしいと思います」
 これに続いて、原告代理人の小笠原里夏弁護士も熱のこもった弁論を展開しました。「学習障害・ADHDなどの指導のガイドラインを文部科学省がしめしています。それによると、一人ひとりの状況を把握して、協力体制を築くことを述べています。学級担任・保護者の気づきをもとに校長は全体的支援の体制をとるように、となっています。担任任せでなく、校長が率先して支援体制をとることとされています。当時の高地用はADHDという言葉すら知りませんでした。『いたずら小僧に手を焼いている』などと言っていたのです」平成16年度の東部使小学校の体制に問題があった、ということです」
 原告側は結審弁論を堂々と陳述しましたが、被告の基金側は、無言でした。

さて、次は「判決」です。12月15日(木)午後1時半、静岡地裁でおこなわれます。多くの方に、この判決を傍聴していただきたいと思います。静岡地裁は、JR静岡駅から駿府城方面に歩いて20分のところです。

 塩の味に今感激している。
 生来の味鈍感と決めていた。どこどこ産のなになに米がうまいなんてことは、無視していた。炊き方や水加減、決定的なのは腹加減と気分、としていた。もっと言えば、そんなことを言った本人がぼくの小屋で炊いた北海道の安い米を、うまいといって感心するのにあきれていた。塩については、合成の塩はNaClという化学薬品に過ぎないのだから、化学肥料しか吸収していない野菜と同列のものと思っていた。
 何年か前に南九州の旅で、浜辺の林の陰にあった製塩所を見つけて、話し込んで、「にがり」を買ってきた。時に思い出して、舐めたり、煮物に入れてみたりしていた。舐めた苦味はすぐ消えるが、煮物に混ざった苦味はどうもよくない。つまり、程度の問題なのだが、それがどれ程かがつかめない。
 何度目かに行った今年正月の能登でも、何度も見た揚げ浜製塩の実地を今度は資料も見て、話も聞いたが、それだけだった。今回の東北西海岸の旅で、笹川流れの県境をぎりぎり越後に入ったところにも、九州と同じ煮つめ型の製塩所があって、疲れやすめに寄ってみた。40代か50代か分からない男が一所懸命語ってくれた。ひきこもりなどでの流れ着いた今の仕事に、だからではない熱を込めているのがよくわかった。もうひとつ、成分分析に熱心なのもよかった。質問にも、ごまかしでない答えがすぐ返ってきて、すっかり時間を忘れてしまった。それで、3種類に作り分けている「本物の塩」の、濃いというか「不純物」の多いというか、の2種を買ってきた。話し込んで手ぶらで帰れなくなったという面もあったのだが。このすぐ南に、塩作りでは先輩の、有名人らしい年配者の同じ作り方のところがあって、そこでも話を聞いたのだが、浅い話で感心しなかった。どだい成分分析など問題外らしかった。
 長く疑問にしていた、にがりというものをなぜ搾り出すのか、ということがわかった。海水そのものでは、栄養の必要からも、味からも、塩化ナトリゥム以外のいわゆるミネラルの比率が多すぎるのだ。多いかどうかの基準が、自然に垂れ切ったところということもおもしろいことだ。結晶した塩を藁苞(わらづと)に入れて垂らし切る、藁苞が最適なのだというのも、変におもしろい。ついでに、にがりは便秘にいいのだと言われ、マグネシュームが多いからで、軟便剤はみんなマグネシュームだとまで言われて、やっと病院で処方されたマグネシューム剤を思い出して、認識をつなげられた。
 塩分とり過ぎ問題というのが、実際はナトリゥームの偏った摂り過ぎのことで、主としてカリゥームとのバランス失調、大雑把に言えばカリゥーム不足であり、病段階では治療にカリゥーム剤を使うといったことを、最近塩分摂り過ぎ問題を考えていて分かって来ていた。だがそれ以上に進めなかった。動物には塩分が必須だということと、塩分摂り過ぎということがどうもかみ合わなかったのだ。が、こんなところで別の展開をするとは思っても見ないことだった。やっと筋がつながって見えてきたように思えた。権力が塩で儲けてきた歴史の生んだ結果なのだと。専売制度の中で伸びた大資本のつくるナトリゥームばかりの合成塩を使わされ、その結果について塩分摂り過ぎという本質とは違う名でキャンペーンを張られ、従わされている。端的に言えば、ナトリゥーム過剰摂取公害なのだ。かつて曝かれたいくつもの公害と、図式はほとんど重なる。これは、広く全国もれなくで、変化が微妙で、進行が遅く時間が長い。だが、公害の進行という視点から見ると、とてもよくわかるように思う。
 買って帰ったからには、早速使ってみる。この塩だけかけて食べてみると、なんと、うまいのだ。塩味のうまさと違う。いや、これが塩味なのだろう。今、おもしろくていろいろやってみている。だが、なんせ塩だから、やたら使うわけにいかない、のだ。

玉川上水 新発見

 病院の帰り、道草を食いに水道博物館に寄った。ライブラリで、驚くべき本を見つけた。恩田政行『光と影の錯節 玉川上水』。
 玉川上水でぼくが感じていた疑問とかなり重なるばかりか、玉川上水には他にももっともっと疑問点が多いのだと知らされた。
 退職後数年、体力づくりに、武蔵野のほとんどの水流をさかのぼって、武蔵野の台地の掌状の地形を探っていた。荒川水系と多摩水系のちょうど中間つまり武蔵野台地の頂稜に行き着くと、そこには必ず玉川上水があった。この上水の成り立ちに興味を持って、しばらくこの上水系に集中したのだった。興味は主として上水の地理的な設計をどんな風に思いつけたのだろうということだった。測量といった技術的な面での発達段階を想像し、当時の田畑の開発や林の広がりと茂り具合を想像し、長い距離のわずかな傾斜に水を流したそのものすごさに感嘆していたのだった。
 玉川上水には、いろんな疑問を持った。そもそも、玉川上水の目的・目的地はどこか。拡張し増大する江戸市街・人口への給水と一口に言われているが、そのころの江戸とはどの辺りなのか。住民向けではなく江戸城のためではなかったのか。志木へ一直線に向いて途中から四谷に向きを変えるこの設計は地理からの必然か、つまり野火止用水が本流ではないのか。水喰土という底なし穴のような場所で苦労した伝説があるが、どうやってそれを克服したかがまったくわからないのはなぜか。上水そのものが伝説の地のすぐそばなのだ。方向を変えて掘り直したとしては水流は真っ直ぐだ。砂川近辺は、あの忌まわしい経済膨張期の建築ラッシュの中で、砂利層のとんでもない堀上穴があちこちに開けられたことを思い出したりした。
 辿るうちにそんな疑問を持ったことから、図書も調べたが、わからないことは増えるばかりだった。多摩川兄弟とは何者で、どうして氏素性に諸説があるのか。設計の図や詳細も、工事の経過や費用も、曖昧なのはなぜか。なぜかという疑問を追求したものに出会えず、本を調べるには体を動かさないので、早速止めてしまったのだった。
 武蔵野の水流や玉川上水については、たどったことをまとめて文章化した。退職してからやっとはじめられた、本格的な書くことの修行だった。何通りも書き散らして、どれも捨てられず、結局一つにはならず仕舞いでまだ宿題になっている。
 恩田氏のこの私家本は、4年間に他に数冊を続けて、併せて一まとまりになるものだが、送呈されてこの館に置かれていたので、読めたのは偶然の幸運だった。発行は、1994年、ぼくが辿っていたのと同じ頃だ。ひょっとするとどこかですれ違っていたかもしれないなどと考えるのも楽しい。文献を主として調べながら、歩いて水流を調べ、そのいたるところで不可解な点を見つけ調べ、推理していっている。自分でもそれまでの自分の薬学の研究調査の手法とそっくりになったと述べているが、事実確認と推理と検証とが見事で、状況証拠から犯罪を摘発する敏腕検事といった感じがする。読んでのお楽しみのために詳しくは紹介しないが、玉川上水に興味がある人はもちろん、江戸幕府や知恵伊豆守の裏側などに興味がある人に、一読を薦める。
 それにしても、退職後全く別分野の事柄に遊びながらいい仕事をする、すばらしいことだ。(仕事という言い方しかできないのが情けないのだが)そして何よりぼくなんぞよりはるかに年上の人なのだから、たまげる。

傍聴記

木村百合子さんの自死について公務災害の認定をかちとる裁判を傍聴しました。

 4月14日、静岡地裁で、新採教師で自死した木村百合子さんの公務災害認定訴訟の証人尋問がおこなわれました。木村さんの勤務していた学校で2004年度にいた教頭と同僚教師の尋問です。木村さんのとりくみに対して、職場の上司である教頭がどう対応したか、同僚がどう対応したか、がよくわかるやりとりになりました。
 Si教頭の対応はまさに官僚的、杓子定規の言葉しかでてきませんでした。しかも木村さんを頭から「教師の資質がない」と決めつけて対処していることもはっきりわかりました。「4月のおわりから5月の前半にかけて、木村さんが3回授業ができず、職員室にもどってきてしまった。かわりの先生に教室に行ってもらい、木村さんと話をしようと別室に連れて行った。『どうしたの?』と聞いても反応がない。30分間待った。木村さんは『もういいです』と言うので『もういいの?』と言うと『早く帰りたいだけです』と言った」「校長には『彼女には先生をやめてもらったら』と進言した」などと証言しました。一ヶ月たつかたたない時期に3回も授業に出られない状況があったにもかかわらず、その理由を考えたり、対応をすすめようとせず、木村さんの資質に問題があると簡単に決めつけて学校体制の責任を個人に帰しています。
 そして、木村さんにたいへん負担をかけていたNくんという子について、養護教諭が「観察記録をつけたら・・」とすすめ、克明な記録を残していますが、Si教頭はおどろくことに「その記録は見ていない」と証言するのです。また、木村さんと子どもたちのやりとりもこまかくはきいていない、とも証言しました。
 9月22日にはNくんが問題をおこしたので木村さんを叱責した(木村さんのメモにはある)ことを追求され、叱責の言葉は否定しましたが、「親への対応に頭がいっていた」と証言で言い、木村さんへの対応については言葉を濁しました。そして、9月28日にNくんの親から手紙がきました。木村さんを否定している内容でしたが、この時も教頭は「今はそっとしておこう。ころあいをみて・・・」というばかりで、管理職として積極的に動こうという態度は全くみせなかったことが証言であきらかになりました。
 そして、次の日に木村さんは自殺したのです。
 証言をきいていて、こんな教頭なら誰も相談、報告はしたくないだろうなぁ、と思いました。「先生をやめてもらいたい」のはこういう教頭の方です。「早く帰りたい」というのは、定時には帰るという当たり前のことができない学校があり、いつも遅くなっていたことの証しです。原告側代理人が尋問前に郵送で送った資料は「封を切っていない」という不誠実な態度を示しました。

 この教頭の前に、同僚であり、先輩でもあるSuさんが尋問に答えました。SuさんはNくんを前年に担任した教師で、この年は研修主任ということで、担任は持っていません。他の教師より空き時間が少し多く、週5時間のあきがある、ということでした。
 Suさんは、被告側代理人の主尋問に対して、Nくんは、前年はよい子であって、問題はなかった、証言しました。国側代理人は、木村さんの自殺は本人の問題だ、ということを印象づけようとしていましたが、その尋問のなかでも、学校側の問題や指導体制の問題がうかびあがってきていました。
 2004年の4月からすでに授業がなかなか思うようにいかなくなっていましたが、だれにも相談できずにいたことも明らかになりました。5月のゴールデンウィーク明けの日に「学年主任は5時に帰ってもいい」と言ったのに、そんな状況ではなかったこともSuさんは証言しました。この学校は文部省の研究指定校になっていて、この年発表の年にあたり、かなりの忙しさがあったのです。
 しかも、初任者研修ということで、拠点校研修の指導教員が一週間に一度(水曜日)に一日中4年2組の木村さんにはりついていました。木村先生が授業をして、指導教員とともに「ふりかえり」をする、というものでした。また校内の指導教員である教務主任のH先生の師範授業を見て、また「ふりかえり」をする、というような状況でした。
 また、Suさんは、誰にでも相談できた、といいますが、5月のある日のことです。昼休みに4年2組の子が木村さんに「なぜ昼休みにベランダに出てはいけないのか」と聞いて来たときに、適切に指導ができず、職員室にまで、子どもたちとやってきたことがあります。その時に「校則に書いてある」と木村さんは言っていましたが、子どもたちは納得できずにいました。これに対し「ダメなことはダメという教師に」とアドバイスした、というのです。これでは相談しようがありません。受け入れられるようなアドバイスではないからです。
 6月25日のことです。朝の8時35分の少し前、朝の会が終わり、一時間目のはじまる前、Suさんが4年2組の前を通ると教室の中には、後ろの方で机の上にのぼって遊んでいる男子がいたり、前では健康チェックをしている子がいたり、木村さんが教室にいないと思い、注意をしようとしたら、オルガンの向こうに木村さんがいました。すぐに教室から木村さんを呼び出し、廊下の隅で話をしました。この時「何をしていた?」と聞いたら「休んでいました」と言うので「アルバイトじゃないんだ。しっかり働け。学級担任は一日中ずっと付き添っているもの、朝の会が早く終わったら何かする、一日中マネージメントするものだ」と叱責した、と証言しました。
 朝の会がおわっても、子どもたちは自由にできないのでしょうか。授業が始まる前のホッと出来る時間だったと思います。こんなに管理しているのが、この学校の実情だったのです。
 木村さんは克明に記録をつけていました。研修報告もしています。この報告にも「4月14日『授業がうまくいかない』4月26日『心が混乱しそうだ』4月30日『Nくんの対応に困る』5月19日『子どもたちは自分のやりたくないことはやらないと言う。子どもたちにタメされているのか』」などと書いていましたがこれは指導担当の教務主任しか見ず、Suさんは「見る立場にない」と言うのです。週案も毎週提出していて、その端々に困難な実情を記載しています。これは教頭、校長に提出しますが、その内容もSuさんは「見る立場にない」と言うのです。「立場」になければしない、というのでは「誰にでも相談できる」状況ではなかったのです。
 しかし、原告側代理人がさまざまな資料を事前に送ったのはSuさんはきちんと読んでいて、その中の退職教員の意見書「この状況では学校の責任がある」というものについて「まったくその通りと思う」と答えています。「あのとき管理職がこうすれば・・、というのはある」とも答えています。教頭よりは「少しまし」ですが、学校体制の問題点が浮き彫りになった尋問となりました。
 4時間にも及ぶ長時間の尋問で、この学校の体制がはっきりしました。

映画「アメイジング・グレイス」を観て

賛美歌の「アメイジング・グレイス」は、世界中、特にアメリカでよく歌われている。この歌については、イギリスのジョン・ニュートンが、若かりし頃奴隷船の船長として2万人もの奴隷を死に追いやってきたその悔恨の思いからつくったということをご存知の方も多いと思う。でもそのジョン・ニュートンを師と仰ぎ、奴隷貿易廃止法を成立させたウィルバーフォースという政治家を知っている方は多くないと思う。この映画はそのウィルバーフォースという政治家の姿を史実を元に描いた秀作だ。1780年、21歳の若さで国会議員となったウィルバーフォースは、奴隷貿易の実態を知り廃止運動に加わる。1791年奴隷貿易廃止のための最初の法案を出すが、88対163の票決によりあっさり否決される。それから彼は少数派の仲間と共に長い闘いを始める。さまざまな妨害や彼自身の病気などもあり、廃止法案は何度も提出されるが否決が続く。だが彼は自分の信念を貫き闘い続ける。そして、1807年、イギリス議会で283対16の圧倒的賛成で奴隷貿易を廃止する法案が成立する。彼がこの運動を始めてから何と20年の時が経っていた。

日本では政党が党議拘束をかけ、国会議員は賛成、反対の数合わせだけの存在になっている面もある。また、国会議員個人がある事柄にどれだけこだわっているか疑わしいし、国会議員による法案提出はほとんどない。ウィルバーフォースの姿を見ていると、初めは少数であっても個人が弱者の人権を守るために粘り強く闘い続けることで政治は変わるのだということ、それはその国のみならず世界を変えることになるのだということ、またそういう政治家個人の力は偉大なのだということを強く感じる。多くの方、特に日本の国会議員にはぜひ観てほしい映画だ。

その後3 一幕了

 9月22日水曜、この夏ラストの暑さであるらしい皮肉を嘆きつつ、汗をかきかき入院した。前回は他の人より副作用もずっと軽く済んだが、2度目が軽くなるかひどく重くなるかは判らない、と担当医に駄目を押されて病院生活が始まった。初日は24時間の尿計量を始めたほかには何もなく、明日から点滴、明々後日に主薬第一回という予定。
 今回のこれ(文章)は、前回のようなその時書きをやめた。言葉を磨く方に向いていないのでは残り少ない時間を使って書く意味がない。ただ入院中にやり終えることは何とか目標としたい。出ればほかのことをしたい。それに即時にまとめるということで感じること考えることを強めようと意識するだろう、だらける病院生活も少しは締まるだろうと考えた。
 というわけだったのだが、10/16土曜に退院して、読み返す度に直して捨ててどうもうまくないが、もう1週を過ぎて諦めることにした。


点滴針
 23木、点滴が始まる前に、シャワーをたっぷり浴びた。午後早く、今回初めて会った若い担当医が点滴針をさした。針を刺し直して、苦労したあげくやっとという感じで入れたが、やゝ違和感が残った。針は、血管にきちんと入っていれば痛みなどを感じないのだが、微妙な差で外れていると痛みや違和感が残る。このときは、はじめ22か24かという太さの選択を看護師との間でやっていたが、今後の点適量からいって太い方を選んだのだった。針の太さも刺しにくさに関わったのだろう。ぼくの血管は細くて、いつもやる人に苦労をかける。この数字は、大きい方が細いのだそうだ。単位は聞かなかった。
 25土、朝のいつもの検温で、点滴針のあたりがむくんで腫れているようだといわれた。そう言われてみるとそのような気もするし、押せばほかのところより痛いようにも思う。2・3度そんなやりとりをしてから相談に行ってすぐ戻った彼女は、さっさと針を抜いて、すぐ宿直の医師に連絡して針の打ち直しに来てもらいますといった。抜いた跡は確かに腫れているし、押せば痛いのだった。さすがは専門家、目の確かさと注意力には感心した。やってきた若い医師はあちこち叩いて慎重に構えていたが、すんなりと針を入れた。痛みもなかった。
 この叩くということは、ほかの人つまり血管の太い人は知らないことだろうが、圧迫帯で絞めて血管を浮き上がらせてもうまく出てきてくれないとき、こすったり軽く叩くと、そのあたりの血管が浮き上がってくるのだ。叩くのは、血管脈に響いてちょっと痛い刺激だからか、余りやらないようにしている人もいるようだ。だが、すぐ叩く人がかなり多いことも確かだ。
 かつてリンゲルといっていたころの生食注や輸血では、ぶっとい注射針だったから、細い血管に刺すのは術者も大変で、患者も苦しんだ。やられる方としては、先ず始まる前から、その針の太さに恐怖を感じさせられたのだった。これを10歳で経験したから、ぼくはその後予防注射などの細い針は、まさに蚊が刺すほどにしか感じなくなった。
 この刺し直しは、第1主薬ジェムザールを入れる前だから、特に慎重であったらしい。痛いなどの変化が何かあれば、ちょっとのことでも言ってくださいと何度も念を押された。それだけ劇薬なのだなと幾度目かの覚悟をさせられた感じだった。扱うのに保護鏡をかけるほどのこの劇薬が、体内で血管外にもれると、かなり厄介なことになるらしく、針が外れていないかを慎重に確かめるのだ。
 血管の細さはかなり変化するものなのだろうかという疑問がいま強くなっている。前回は確か刺し直しは1度だったと思うが、今回はやたら多い。看護師も医師も、それにCTの造影剤注入担当のいわば針刺しの最多経験群の人まで腕を替え針の太さを変えてやっとだった、続けて2人も。一番失敗を気にしたのは病棟の古参の看護師さんで、次の時に余り緊張しているので、実は他の人もこんなふうでと気にしないでくれるように言ったら、えらく嬉しがって、それからすっと入るようになった。刺し直されるのはこっちも痛いのだから決して人の為ではないのだが。


尿・体重
 26日曜、朝の体重測定で、59.65kgになった。今回入院時の56.9は、ぼくとしては最適範囲内だった。前回退院時に54台にまで下がってしまって、その後回復に頑張って、やっと辿り着いていたのだった。体を動かしてはいないが、普段より少ない病院食なのに、3日で3kg増えるということは、完全な水ぶくれだろう。生食点滴でむくんでいるのだ。早速利尿剤ラシックスの点滴となった。
 準備を眺めながら前回を思い出し、今回はしっかり数字を書き留めてみる気になった。9.00、ずっと続く3時間500mlの生食点滴に加え、側管から30分にセットされた利尿剤の点滴が始まると、9.15にはもう我慢できなくなり250ml。以後、35-230、50-240。という具合で、11.15まで2時間ほどで、7回計1770ml。この後、間隔があくようになったので、食前に体重を量って置いた、58.45。1.2kg減で、間にかなりのお茶も飲んでいるのにけっこう釣り合う。食後、尿意が起きないうちに急いで体重計に乗った、350g増、そんなものだろう。
 体重が減らないということで指示が出て、午後6.00再度の利尿剤の点滴になった。点滴開始前より2kg体重が多ければ、利尿剤で排尿を促して薬液を排出させるらしい。尿量が減って体重が増えるということを、実感したのは始めてのように思った。実感というものは何についてでも何度目でも始めて実感し直すものだとも思った。恋は何度目でも初恋なのだという言い方がひょいと思い出された。この回は、8時まで2時間で4回1500ml。看護師さんにも確かめてみたら、この薬はやはり3時間ほどの間が激しいのだそうだ。
 水は注ぎ込まれて、どこにいったい蓄えられているのだろうか、何とも不思議だ。どこを見ても触っても、ふくらんだ感じはしない。結局体中がむくんでいるのだろうと思うしかない。むくむということはほかの理由でも起きるのだろうが、ぼくのこの場合は、腎臓の動きが悪いということなのだろう、片方だけではやっぱり弱いのかと思う恐怖が起こる。
 前回と違って嬉しいことに、一回の量が100mlなどということがなくなった。膀胱の容量が回復してきたのか、尿道の受けたダメージが回復してきたのか。かつて、足先を切って歩けなかったベッドで、溲瓶があふれそうになって困ったこともあったのだが、60代半ばあたりから急速に一回量が減ってきていた。前回は100とか120とかが続いて、それで回数だけやたら増えて寝不足まで起こしたのだった。ほんとに情けなかった。それが少しでも上向いたかと思うと嬉しくなるのだ。今回は回数はずっと減って、落ち着いていられた。回数X量の方程式通りだが、15分おきと30分おきとでは、人間の方は大違いだ。
 10/3日曜昼、点滴終わりで針が抜かれ、2週間ぶりに自由の身になった。点滴の架台を曳きずって歩かないで済む、手枷のような針固定バンドから延びるチューブで引っ張られずに手を動かせる。寝返りを打つにも自由だ。そして、シャワーを浴びられる。増えっぱなしで60kg台にのってしまった体重が、夕方にはもう59台前半に減った。食事や尿や変動はあっても、4月にはさらに58台、5火は57台と下がった。だが、ここからは上がったり下がったりと56~58をふらついて、退院時も57台のままだった。退院すると1日で56台に下がり、ずっとそのままでいる。
 この体重減少で、むくみの場所が少しわかった。手の甲の感じが変わったのだ。昨日まではこうじゃなかった、これがほんとの俺の手だ、といった感じだ。どう測ったら数字で現れるかわからないが、恐らく厄介な計測だろう。見た感じというのは、かなり微妙な差を見分けるものだ。余分な水がこの手の中に何gあるかと考えると、やはり全身に行き渡ってふくれているのだろうと思うしかない。だが、その手なら手の中のどこにあるのか、皮膚組織の細胞内か、まさか筋肉内ではなかろう。血液内だったら血圧が上がり続けるはずだがそんなこともないから、どこか血管以外のところにたまっているのだろう。不思議だったというより気になったので、これは帰って早速調べた。組織間液というような曖昧な形で臨時的に溜まっているようだ。だが、浸透圧が何によってどうなったあげく、血管内でもなく細胞内でもないそんなところに水分が存在するのか、といったことはわからなかった。


血液の流れ
 退院に近くなって、今後の治療の検討資料に、CTをとった。骨盤・下腹部・腹部・胸部を3回に分けて撮った。2回は造影剤を使った。造影剤は使用承諾書の提出を求められる。それだけ危険性があるようだ。その影響を避けるためか、放射線の影響を避けるためか、CT撮影は何回にも分けてする。結果は全て異常なしだった。
 造影剤は静脈注射で、3分もすると体中暖かくなる。そこで撮る。撮られながら、血液は3分で体内に行き渡るのだと思った。内蔵などを回ってから手足などの末端へとなるはずなのに、この早さだ。利尿剤の点滴では、15分もするとトイレに行きたくなる。薬が行き渡り、廃液が全身から腎臓に集中し、尿が膀胱に200mlほど溜まるのに15分らしい。薬などで強制されない普通の状態なら、尿が200溜まるには1時間以上数時間だ。利尿剤は、いったい何を刺激しているのだろう。これも帰って調べたら、腎臓がいったん排出した原尿を再び吸収する働きを抑えるようだ。いくつかのタイプがあるようだが、ラシックスは糸状体で働く種類だった。この調べのついでに、普通成人男性の腎臓は1日170Lもの原尿を出していることを知った。ものすごい速さだ。それでも普通は腎臓は3割ぐらいしか動いていないらしいから、片方しかないぼくでも、そのぐらいは何とかやっているのだろう。


病院の変化
 前回の3週間余の入院で、音に飢えた経験から、今回はラジオと100時間分以上入っているIpodを持ち込んだ。普段はラジオをつけ放していることが多く、音楽を聴くことも多い。それで、静かな病院で音に飢えたのだ。
 病院生活がかつてとは大いに変わっていて、話し声もたまにしか聞こえてこないし、隣の人さえ顔を合わせて会釈するぐらいのものだ。かつての大部屋のわいわいがやがやのうるさいおもしろさはもう現れないのだろうか。飲み屋でのやたらな大声の表面的賑やかさと表裏一体のように思えてくる。カーテンで仕切る病室の構造は変わっていないが、それをどうするかは大変わりで、声・おしゃべりと同じようだ。ぼくは今も開け放しているのだが、締め切りの人がほとんどで、半開けほどがたまにいるぐらいだ。ぼく自身引っ込み型というよりは人嫌い傾向だから、そうそう言えないことではあるのだが。選んで話しかけてみても乗っては来ない。今の若い人はということではない。ずっと年上の人も同年代も60・50台も、同じようだ。これでは何か工夫しなければたまらない。


イヤホン・ヘッドホン
 音は、スピーカーで聞くことはできないから、イヤホーンになるのだが、今までこれを使ったことがなかった。空いているヘッドホンと片耳イヤホンを周りで借りた。片耳イヤホンは、耳との合い方なのか、もう片方の耳から周囲の音が入るからか、なんとか音が聞こえるということでしかない。ヘッドホンはさすが専門用具ということなのか、いい音を楽しめる。
 楽しむには、音量を少し大きめにした方がいいということを知った。安曇野で鳴らすときは、最大近いボリュームで小屋も割れんばかりにしてみたり、雪の夜などの静かな時は絞りに絞ってどこまで聞こえるか楽しんだりしているのだが、こういう中では大きい方がいいようだ。ただ、周りの音が一切入らないということにもなって、点滴の警報音を無視していたりというようないくつかの失敗もしてしまった。
 以前何年か、音を楽しむ会を安曇野でやっていた時期がある。ある冬などは、仲間が第九の冒頭だけを10曲以上も集めてきて、これは誰の指揮という当てっこをしたり、なぜ、どういうところが好きかと言い合ったりした。飲みながら、雑多な話を交えながらの、出入り自由の一つの職場内グループ作りだった。そんな中で盛り上がる話の一つに、ホールの音と録音の音、どのホールのどこあたりとか、席・値段と音の差とかいうのがあった。
 それを今回は音を聞きながら思い出した。一時期、ホールでの生の音にのめり込んでいたのだったが、それはたぶん突き詰めていうと音の距離の感覚だったと思う。どんなに広い家で録音を再生しても、ホールほどの広さはない。凝縮された小さな音源から出る音の広がりと、広いステージから響いていって遠い壁に当たって反響する複雑さと。こんなことに関心を持ったのは、サントリーホールができた時の残響と反響騒ぎだった。すぐ音響メーカーが、残響何秒とかの再生機を出したり、どこどこホールという切り替えボタンの並んだものまで出てきたりした。さすがにすぐその騒ぎは終わったと覚えている。この騒ぎの中で、生の音の問題に興味をひらかれたぼくのような人は多いようだ。今、更にこの元を探ると、学生時代の名曲喫茶に行き着くようだ。あの時も、音源の大きさ強さだとか、反響吸音する壁の材質だとか、部屋の広さ高さなどを競っていたと思う。
 今回は、ヘッドホンは耳のすぐ横でそれらしく出て、部屋のスピーカーならやや離れた壁で反響するという当たり前のことを、当たり前に感じ直したということになるようだ。そんなことを思い出しているうちに、ホール熱がなんで冷めたのかも思い出した。どこのホールでも再生器械を使わないことは今では稀なのだ、ということを読んでしまったのだった。知らなければよかったとも思ったし、また、事実がどうなのか確かめようもなく、そんなことから白けを呼んだように思う。


『ルアン先生にはさからうな』ハヤカワ文庫NF
 前回病棟の本棚で一冊面白いことがあったが、それは内容のことではないので、別の稿とした。今回も面白いものにぶつかった。これは内容として学びの問題だから、ここに入れる。
 300P超とまず厚さを見て、目次を広げて短編集ではないことを確かめた。著者はルアン・ジョンソン。海兵隊のあとカリフォルニアの高校、現在(95.5出版)ニューメキシコの高校。「全ての学校嫌いの子供たちに」という献辞があり、実在人物の実際の出来事だが、プライヴァシーを守るために人物は合成したりしているという断りがしてある。NF文庫に入っているように、ノンフィクションなのだ。
 解説を探したら、おやおや俵万智だ。何か事件があるたびに教師は何をしているのだとなる風潮に、「すでにそうなっている現場」で「すでにそうなっている生徒」を教える大変さを先ず指摘している。次に4年間の高校勤めの頃この本に出会っていたらどんなに助けられたろうと褒め始める。まず、この本には生徒とぶつかる基本の2つがあるという。1は、愛。2は、授業。2は「多くの学園モノに欠けているのが、まさにこの点だ」。以下、いろいろ褒めているが、授業については、落ちこぼれの高校生にシェークスピアを読ませる、その一人一人への対応、のせる技術が素晴らしい、という。これではどんな実際か中身を読まざるを得ない。
 アメリカの学校の制度的な様子がわからない、ということは学校環境などを想像できないわけで、隔靴掻痒の感はやむを得ないだろうか。多くの部分で、再録された会話のような形で、褒めたり脅したりの生徒とのやりとりが描かれ、具体的で臨場感もあり引き込まれる。だが、なぜその教材をとか、どんな目標でどう教材を組み立ててなのか、といった点には一切触れていない。指導要領に当たるらしい規準のことはちょっと出てくるが、教材は自分で自由に設定しているし、教え方も主任や同僚と喧嘩しながらも自由にやっている。それだけにカリキュラム・編成のことを抜かれてはよくわからない。俵万智のいう具体はこれか、こんな曖昧さで実践をとらえている人なのか、という評者への感想も残った。
 ルアンの実践については、(愛という情的な規定より信念という規定の方がいいと思う)、知的発達が人格形成に大きく役立つという信念を基本にしているととらえた。さらに、知的ということについて、知識より考えることを中心にしていると思う。「生徒たちを、自分に自信ある批評眼を持った考える人」にするということばがでてくる。また、全ての教科は同じで、情報を分析し関係づけ整理統合して自分に戻すということを教科の材料を使ってやっているのだ、と先輩教師のことばの形で出している。
 アメリカの学校の難しさは、かなり伝えられてはいるのだが、こういった実践記録に近い形で触れたのは始めてで、特に平教師の生の姿の一つを知れたのはよかった。自ら落ちこぼれることを選択する子どもたち、そう育てられてしまう環境。その仕組みに抵抗しながら、半ば空しくもだが誠実に頑張り続ける教師。そのことによって人数的には少なくても伸びていく子供たち。日本とまったく変わらない面を読めた。
 アメリカの学校教育のいくらかの側面を知れて面白かった。対教師暴力への法的な歯止めの厳しさ、それが建前でなく事実として周知され徹底されている。だから例えば、教師が暴力生徒の肌すれすれまで迫る指導ができる。時にはことばの暴力でさえ、即座に教室から管理者へ引き渡すといった対処も行われ、反抗生徒もそれにさらに抵抗することまではできないようだ。また、学校警備員や生徒指導室専属のカウンセラーの存在、学校嘱託の心理学者への特別指導要請という援助的指導、あるいは職員室に送るとか校長室に送るといった指導などが出て来て、内容はいまいちつかめないのだが、かなり強圧的側面を持ちながらも、学校の環境作りはずいぶん手厚いようだ。さらに、学校制度のサブシステムとして、進学や補充の並列的コースやサマースクール型の特別な臨時的学習組織もあり、希望と承諾の運用もあって、それらがかなり有効に機能しているようだ。といっても、この本が生まれること自体が示すように、それらはアメリカの病理のほんの一側面に過ぎないのも確かなようだ。


病院食対策
 病院の食事は、1週間ぐらいなら出たものでまあよしとできる。3週を越えるようだとどうも我慢しきれなくなる。ぼくは人より文句の少ない人間だと自分でも思う、食に関しては。好き嫌いもなく、うまいとは思えない食材・味付けでも何とか食べて、どうということはまずない。前回は熱で食欲がなかった時に3食だけいくらか残したほかは、出るもの全てを平らげた。だが、うまさについてはいい機嫌ではいられなかった。
 ぼくの欲求からいうと、肉と油が少ない。また、よく話題になる減塩は、大筋賛成ではあるのだが、この病院では1日5gのようで、さすがにものによっては味気ない。そして、汁物が何としても少ない。これらの結果、肉が食いたい油っこいものが食いたい、飯がまだあるのにおかずがなくなった、ということになる。もう一つ、塩気がらみで酢の物や酢での味付けが多いのだが、この酢がきつ過ぎる。酢を煮て和らげてないから酢酸の刺激が強過ぎるのだ。
 というわけで、予定されている次の長い入院に向けて、もっとうまく食える方策を考えていた。病室のベッド脇の小さな物入れと日持ちという条件下で考えれば、山用の食糧計画と似たようなものだ。だが、頭で考えても、そういうものを手に入れられるか、娑婆に出てから探してみるしかない。最近長い縦走などの山歩きをしていないので、食料についてもいい加減にしてきた。車での旅は全てといっていいほど適当で済んでしまうのだ。それをこの際、どのぐらい世の中が進歩したものか勉強しようという気になった。
 一時退院期間に、自転車で回れる十いくつのスーパーなどを探し回った。肉が難しかった。あふれるほど豊富になっているように見えていても、種類からいえば変わらないものだ。コンビーフや大和煮缶詰では味がきついから一回量に多すぎる。ドライソーセージも100g以上はあっても、数十gというのはない。つまみ用の一口サラミというわけにもいかない。唯一つ50g100円という真空包装のを探し当てたが、食ってみるとサラミ同様えらいしょっぱい代物だった。結局、いつもの魚肉ソーセージやチーかまということにならざるを得ない。
 砂糖やジャム代わりにもなるし、お湯に溶いて飲んでもよかろうと、蜂蜜をプラスチック瓶入りで探したが、これもいろいろありそうでなかなかない。少し大きいのだが250gで間に合わせることにした。昔よく使ったチューブ入りは今はなくなったようだ。佃煮は減塩のがないし、10gや20gの真空パックもない。味噌汁は減塩のを見つけ、スープはコンソメより塩分の少ないポタージュにし、ふりかけは3g袋で何種類も見つかった。マヨネーズもいつもの芥子マヨ200gに落ち着いた。0.5~1g詰め程度の塩や3~5g程の醤油は特殊過ぎるのかやはり見つからない。胡椒や唐辛子や辣油を何とかしたかったが、少量の密閉できる振出し容器がみつからなかった。
 今回用意して持ち込んだ物はそれぞれかなり有効だった。サラダや酢の物や菜っぱの和え物が、マヨネーズでからめると、濃い味に変わり、酢刺激は和らぎ、こくは増し、満足のいく一品に化けた。量不足に魚肉ソーセージを加えるのもまたいい。ふりかけも種類を変えれば、飽きることもない。ポタージュ・味噌汁もそれが加わっただけで食事が豊になった感じにさせてくれる。あまり好みではないプレーンヨーグルトは、蜂蜜ですっかりご機嫌のデザートになった。何より、与えられただけでなく、いくらかでも創造部分が生まれるのが嬉しい。それにしてもやはり、肉そのものと辛味を欲しかった。
 
ひとまず終わり
 いったい今回のこれ(入院治療)はなんだったのだろう。請求書や領収書に時間や費用は記載されて残っているが、記憶に残るかどうかは怪しいなと、今すでに思うほどバーチャルだ。実感から一言にすれば、生食点滴を受けてトイレ通いをした4週間ということになる。副作用も、全くというほどなかった。白血球減少の回復がやゝぐずついたが、退院が長引くほどでもなかった。
 10/16土退院。今後については、わからないとしか、言いようがない。医師も、したがってぼく自身も。とりあえず、11月上旬に退院後の様子の受診。その後は2カ月おきぐらいの病院通いで、最も順調に行けばその期間がいくらか延ばせるかといったところらしい。さらにそれでどうなるかは、人知の及ぶところではない。

表紙カヴァーの怪

 病棟には、入院で大勢が読み捨てた本を貯めた本棚があって、ずいぶん助かったことだった。今回見つけて読んだのは、文春文庫『炎の門』。読んだ感想もあるのだが、ここで書き留めておきたいのは、なんで読もうとしたかにまつわる、不思議のことだ。
 読もうとしたには、いくつものわけがある。一つに、中身というかジャンルというか、この文がギリシャ戦記といったような文だということがある。ギリシャ文学に、戦記があるのかどうかさえ知らないから、どんなものか興味が湧いた。
 また一つに、現代のアメリカ人作家のもので、いわばアメリカ人作家の書く時代小説・歴史小説だということがある。アメリカに時代小説などというものがありそうだとは思ってもいなかったが、西部劇が力を持っているということからすると、十分にあり得ることだと思い、読んでみようと期待した。
 別の一つに、厚いという単純なこともある。600Pばかりあって十分楽しめるだろう。今2週目を越えて、600超を選んで持ってきた6冊を既に読んでしまったのだ。旧世界文学全集といった大判の4段ぐらいにびっしりと組まれた活字の千何百ページをおもしろくて息もつかずに読み切った爽快さ。あれをいまだに求めている。 
 もう一つ、これが最も大きくなっていき最後にも残って「怪」になることなのだが、表紙カヴァーが気になったということがある。暗褐色のモノトーン調で、死屍累々たる戦場に盾を持ち抜き身の幅広の剣を持ちただ一人すっくと立つ戦士、神殿か何かの門がバックに立ち、上部に大きく表題文字「炎の門」。血が流れてはいないようで、CGグラフィックスの合成写真のように見えるが、それらしい写真ではある。こんな描き方で想像してもらえるかどうか心許ないが、特に取り立ててどうということのない、それなりの出来の表紙だと思った。前記のような、読もうかという心積もりをしながら、だんだんこの表紙が気になって来た。盾を持ち剣を持っているのだが、盾が右手剣が左なのだ。有名なギリシャなどヨーロッパの重武装密集陣では、こんな持ち方をすることがあったのだろうか。それともこの本は左利きの戦士の英雄伝なのか。ぱらぱらと中身を探り読みしてみると、どうもそんな風ではない。何かこの表紙カヴァーについて説明でもないかと探しても何もない。読むのが先かと、読み始めた。
 中身の感想はここでは置くが、ギリシャの古典の読みやすい訳があったら是非とも読みたいと思うようになった。というように、中身はよかったのだが、このカヴァーは結局「怪」でしかなかった。
 この図柄が間違っているという判断から「怪」が始まるのだが、それも、真実であるかどうかよりこの方が画としていいのだということなら、意味のないことでもある。間違いだとすると、誰がということになる。また、気付いていてそのままなのか、気付いていないのか、ということもある。
 このカヴァーは、よくよく見るとなかなかに厄介だ。カヴァーの折り返しに、カバーとして日本人名が記され、その下にジャケット・デジタル・イラストレーションの英単語があって、バイ誰々と英語名が記されている。画の方は、戦士の足元、画の最下部に、原題がやや大きく著者名が小さくその下に副題というように2行の英文字が並べられている。どうやら、原著の表紙画をそっくり使ってそこに訳題と訳者などを日本文字で被せて載せてある、というように見える。
 そうすると、元々原著が出版される時に、写真版を裏焼きしてしまったことに気付かず、あるいはこれが形としていいと気安く考えたかして、ここに名の記された人がカヴァーを作ってしまったということになるのだろうか。だが、そうすると、原著の出版社は何をしているのだろう、少なくはなさそうな読者はどうなのか。少なくなさそうというのは、著者紹介によると、この著者はゴルフ小説のベストセラー作家であるということで、本国ではそのネームバリューだけでも読者が付きそうに思えるのだ。
 もう一つ、原著がどうであれということがある。翻訳本の出版はどうなっているのだろう。カヴァーまで指定されることはなさそうに思う。そうすると、この先は文春に質問してみるしかないかとなりそうだ。だが、そこで予想される答は見えてしまいそうでもある。いくつもの答を作ってみて、どれが当たってどれが外れたら、それは何を意味するのかと、それも数え上げだしたら、えらくばかばかしくなってきた。
 入院生活の徒然なるままに、終日(ひねもす)頭に浮かび来る由無し事をひねくり回したということであった、ということで終る。

その後の経過のその後

 6/21抜糸、子どもの車で安曇野へ行ったりして、28に入院予定確認の受診。7/2術後化学療法という名で入院した。1ヶ月の予定。
 詳細説明では、入院2日目から体調調整の点滴を始め、3日目抗癌剤ジェムサール剤点滴、翌日抗癌剤シスプ-チン点滴、これが最も厄介で、その一週後再度ジェムサール点滴をする。この間、副作用防止剤と、残余抗癌剤排出の薬剤、それらを洗い流すための大量の食塩水の点滴がずっと続く。副作用が収まり安定したら、1クール終了でいったん退院、一週ほど後に2クール開始の入院。
 初日から24時間尿量測定が始まり(この日2400cc)、2日目から食塩水中心の点滴が時間流量規制付きで始まった。3日目からは4時間おきの蓄量計量という。それによって薬の種類・量も変わるらしい。それらほとんど点滴になるという。薬・水・栄養剤など含めて、数日この針に行動を制限されることになる。針を打たれる前にたっぷりシャワーを浴びて置いた。(8/3)

 ジェムザール剤は何も起きなかった。ずっと続く生食の点滴で、尿が俄然増えて、3400ccになった。生食は正式?には生食注という略記で生理食塩水の注射液をいうと知った。点滴は注射と違うイメージだったが、道具でなく薬を体内に入れる点では注射と同じだなと考えて納得した。ついでに、経口服用薬や座薬などということばを思い出してみたら、薬を体内に入れるということはそう種類が多くないのは当然のことなんだと、遅まきながら気付いた。
 ジェムザール点滴で、看護師は二人チームで作業し、メインの一人は保護帽と特別な手袋をする。それぞれ規定があるのだそうだが、要するに、危険な劇薬なのだ。それを体内に入れての治療だから、そう考えると恐ろしい気もする。
 点滴の針は担当医が打った。これは病院によって違うらしい。点滴薬を交換など新しくする時は看護師だが全て単独ではしない、確認者の立ち会いが必要で、書類に双方のサインか捺印をする。前回同じだったか気付かなかったのか、同じ階でも今回は西病棟に変わったからだろうか。棟によって入る診療科が違うからか、患者の心得も扱いも、いくらか違う点がある。(8/4)

 8/6朝しっかりTVを見た。広島の実況だ。NHKは、雑な扱いとしか言えないようだったが、いつもとか他局とかちっとも見ていないので、比較の上などのことでは何とも言えない。
 今回の最も強いプリブラチン(種類名とか製品名とかいろいろ換わって出てくる)も、保護帽を付ける扱いだった。何か少しでも変わったことがあったらすぐ言ってくれと強く何回も指示された。だが、何も起こらず、寝てからもどうということはなかった。しゃっくりが強くはないが続いて、1度は止められたが、その後は水を飲んだり息を止めたりとさんざんやって見ても駄目で、ほって置いたら寝ているうちに収まっていたようだ。ところが、尿意に起こされてトイレに行ってとやっているとまた始まる。翌朝になって看護師に聞いたら、たまに副作用として起きるようで、民間薬や、漢方薬やが使われたりしているようだということだった。しゃっくりは今も時に続くが、気にしないでおくといつかなくなっている。医師にも確かめたら、よくありますが、そのうち止まりますと簡単だった。
 尿量が、規定より少ないということで、催尿剤の点滴があり、30分の点滴の途中からたちまちトイレ通いが始まった。15分とか20分おきといった頻繁さで、モーターのコードを外し、トイレに行って計量採尿カップに尿を取り、それを貯める袋に移して、カップを洗っておく。戻ってコードを付けるまで、5分やそこらかかる。3時間ほど経つと、やや収まって少し間遠になる。(8/6)

 尿問題は、初期体重からの変化で調整されるのだそうだ。それでこちらもメモして見ることにした。2日入院時56kg台が、3日57台、4日59.4ぼくの過去最高体重に近づいた。出る方は尿が日に7Lも出ているのにだ。生食500mlを3時間で24時間通してずっと、つまり8本4L入れているのと、後は食べる飲むだ。初日以来便通が絶えてしまったのだ。軟化剤と催便剤の量を医師や看護師と相談しながら調節しているのに出ない。5日になって焦って座って見たら、赤ん坊のウンチほど出て終わってしまった。それでもと言えるのかわからないが、57台に下がった。それなのに、7日そっと計ったら、59.5kgになってしまっていた。折良く兆したような感じもあったので、覚悟して座りに入った。先ず、尿を採って計って、カップを持って汎用の広い便所に入る。座っても何も起きないから、前回教えてもらった智恵で、お尻洗浄をして刺激してみる。これが効いたか、少し動いた感じがする。早速腹部のあちこちを軽く押す。2回も開いていじっているので内臓の位置がまだ不安定だろうから、あまり強くは押せないと用心する。これでなんとか少し出た。だが続かない。尿の方が出そうで、慌てて尻を浮かせてコップを当てたら、この便器は自動で便を流してしまった。ラストに確認できないのだ。汚れ落としの問題でなくなってしまったが、後に便がたまる古いタイプが便を見たりするにはよかった。結局このことで雲行が変わったか、それっきりになってしまった。体重は58.2までしか下がらなかった。でも、この差1300から、このときの尿3回計700を引いた600だが、そんなに出たとは到底思えない。こういう簡易測定はわかりにくい。昔の科学者が、食べたり出したりのつど計ったといういくつかの話を思い出した。
 今日も、しゃっくりは出たり止まったり。気にしないというより気にならなくなっていて、気付かない内に始終している。だから正確には、ある時はしゃっくりをしていることに気付き、ある時はしていないことに気付くということだ。
 影響がこれだけで済むのか、どうなのだろう。ぼくの反応が遅いのか、刺激への対抗力が強いのか、それだけ後で強く来るのか。
 下らないような細かなことを意味もなく書き付けているようにも思えてくる。なぜこうなのか。今回の入院に備えて抗癌剤関係の資料を入れて来た。医師から薬名を聞き説明を受けると、その資料と合わせてなんとか理解していく。それは最優先だが、それを含めてこの経過も今回はなるべく同時進行をやれたらと思っている。
 後になって(まとめて)書くのと、同時的にすぐ書くのとは、どう違うものかということが気になっているのだ。これはツウィッターとかいうことから刺激されて、140字という字数問題が気になって、2回文章化してみたがまだまとまらない、つまり見極められないことと関わっている。初めは長さだけで簡単に見切れて、ここに載せられると思ったが、そうはいかない。複雑を切り開かないと見えてこないようだ。今は少し離れて眺めている。情報という問題は、ずいぶん難しい。
 ほかに、学テ分析用の資料を取り込んできた。それを使って少しずつ分析を始めている。今年の分は、4月からずっと手を付けられなかった。何しろ5月から入院騒ぎだし、それが癌ともなると、落ち着いて学テ分析とはいかなかったのだ。退院までに出来たらいいのだが。もう一つは山の記憶を書き貯めているのがちっとも進んでいない、それを少しずつ書き足している。それぞれの気分転換にもなる。1年3年生存率などというものを自分の問題とすると、だいぶ焦る気分になる。(8/7)

 つぶやきと140字が心に懸かっているので、そこに伴う同時性のこともあって、思い出したとか、気付き直したとかも含めて記していっている。今まではしっかりまとめきるまで繰り返し直すことをやってきたので、抵抗があるのだが、やってみようと思う。
 点滴の時間流量規制装置付きポンプのデジタル表示を眺めていて、尿量と入量を考えてみようと思い出した。この表示では設定予定量と積算量の標示を切り替えられる。設定量を見て、積算量との差から次の生食にもうすぐ取り替えだとわかる。そこで、直前に尿を採っておいて、積算0からに揃えて、次の採尿で積算を見ようというわけだ。
 この最初に採った尿量は300余、その時の積算は200ほど、この100余が自前だということになる。つまりこれが経口分だから、今度は飲んだ量を計るかと思ってやり始めた。もちろん、時間差があるのだが、それは計っているうちに判るだろうと期待した。ところが、飲むというのは気分的な面が多くて、お茶の出る時間出ない時間もあり、おまけにコップは一つ、カウントをいちいちメモしなければならないというぼくの一番苦手なことにもなって、早速やめた。この予定量表示は切り替えだから、本来は看護師に聞くしかないのだが、直接医療的ではないからと勝手に減罪して、そっと違反して切り替えて見ている。いまのところ、点滴と自前の差を見ているだけだ。
 これほど尿に興味を持ったりする裏には、哀しい我が衰えの苦しさがある。括約筋の衰弱だ。つまり我慢できないということ。人間の、ではなく、ぼくの興味関心とか意欲意志とかは、こんなふうにせっぱ詰まらなければ喚起されないものなのか。
 もう何年にもなる。初めはたまに現れた現象で、話には知っていたから、体調に関係するのだろうと、その時は用心することにしていた。屋内なら早めに行く。屋外ならトイレを見つけしだい入っておく。ところが今回の15分トイレ通いは、別に15分ぴったりでもなく、やたらしょっちゅうだから面倒で慣れっこで、つい慌てることになる。コードを外すのも、2本の時は手間もかかる。点滴瓶の吊り台を引っ張って廊下を突っ走るわけには行かない。トイレに先客でもいれば泣きそうになる。兆してから押さえられずに出るまでが、このところやたら短くなってしまったのだ。気付くのに遅れるという鈍さも増したのか、3分保たないといった感じだ。
 このことは、現在の医療技術のまずさも関わっているらしい。尿管を入れるということを、5月と7月の手術の両方でやった。この管が尿道やその周囲の括約筋などに悪影響を与えるのだ。尿道を広げてしまうこと、括約筋を働かないままにしておくので筋が動くことを忘れてしまうこと。管そのものというより、先につけられている小さな袋が引き出す時に尿道に傷を付けるといったこともあるようだ。回復するにはかなりの時間がかかるらしい。
 それに付け加えて書くと、最近の尿漏れパンツ・吸収パンツの広告の多さは、いったいどういうことだろう。このことから何を引き出すべきかと考えている。生理帯から始まったと思っている。アンネナプキンがあり、子どもの紙オムツがあり、大人のオムツと来て今になったと見ている。
 点滴の注射針は、昔と違って今は刺っ放しだ。射す痛みの回数を減らす、雑菌が入るなどの処置に伴う危険を減らす、血管へのダメージを減らす、針交換で捨てる量を減らす。いいことずくめだが、針は針だけでなく、管が着いている。液の袋をつるす背より高い台が付いてくる。紐付きお供付きで、不自由なことだ。自然注入型では、途中に手動の歯車でパイプを押さえて制限しているが、今度初めて経験した時間流量規制の強制ポンプ機では、流れが悪くなると赤の点滅と警告音が出る。腕のやや内側というのが点滴の注射の普通の場所だが、腕を深く曲げると針先に肉が寄って流れを邪魔する。それが、今ぼくの場合、茶碗を持って口まで近づけてはピーピー、腕を組んではピーピー、肘掛けに肘を置いて椅子に座ってはピーピー。寝る時腕を曲げないということはほとんどないので、これに最も困った。何せ眠れば無意識だから、意識的にセーブきるわけがない。それにどこをどうすれば鳴り止むかはわかっているのに、何せこれは医療器具だから、いちいちナースコールして看護師にやってもらわなければならない。鳴り出したら、姿勢を変えても鳴り止まないのが未改良点だ。自分でやっていいか聞いてはみたが、規則ですから絶対手を触れてはいけません、まあ当たり前だ。
 何年か前から気付いたことだが、恐らくそんなに昔からでなく新しくそうなってきているのだと思うのだが、つくづく感心するのは、看護師さんの口数の多さだ。何につけても必ずことばを掛ける。ありがとうが多いのはちょっと気になるが、明るく元気づけてということなのだろう。話題になる店員のマニュアルことばとは違って、いい面で進んできていると思うが、看護師さんたちの心理負担にはなっていないのだろうか。あるい

は、機械的反応に落ち込むことはないのだろうか。介護の方ではどうなっているのだろう。(8/8)

 きょうは8/21。ずいぶん長くPCを開けなかった。その間何をしていたかといえば、ほとんど眠っていた。昨日ちょっとそんな気になったが何もせず、今日やっとPCに向かう気になった。
 忙しいトイレ通いに疲れて、寝不足にもなっていることを感じて、9日昼に横になった。それから眠り始めて起きてもすぐまた眠るという状態になった。もちろん数時間目を開けている時はあり、本を読んだりもした

が、文を綴るというような気にはなれなかった。
 8/9第2回目のジェムザール。尿量測定は1日量に戻った。点滴量も、500mlを3時間から4時間へ、つまり24時間4Lから3Lになった。そこから副作用待ちになった。点滴は、8/2から12まで11日間も同じ針で続いてきた。普通は1週間ぐらいで替えるようだが、よく保ったものだ。
 副作用は、前に触れたが、はじめはしゃっくりだった。こんなのは説明にもなかったが、こうだというと、確かに副作用として現れることがあるということだった。次が熱で、これが長かった。ほとんどの日は7度前後で、一番上がったのが8度1日、7度後半が2回。多くの日は微熱にも入るかどうかぐらいなのだが、ぼくが熱に弱いせいもあるのか、やたら気分が悪い。この気分の悪さが3つ目の副作用ということだろう。似たことだが4つ目に数えてよさそうなのは、食欲がいくらか落ちて、食事を食べきれないことが数回あった。眠いというのはこれは疲れなのか、安眠できていない寝不足なのか、何らかの薬の影響なのか、わからないがやたら眠い。
 血小板減少などでの用心ということで、8/17点滴が再開された。3日間続いた。(8/21)

 全部終わったわけでもなく、先のことはまったくわからないが、今までのところ、楽しい日々でなかったのは確かであるものの、つらいというには当たりそうもない。一所懸命耐えたとも言えない。これは現代の医療、特に薬の進歩なのだろうか。同じ薬でも、次々新薬に切り替わっているらしい。抗癌剤に対する悪評とはなんなのか。かつてそういう時期があったことは確からしいから、その時の影が残っているということだろうか。(8/23)

 つくづくバーチャルだなと思う。発熱・悪心など感じ取れるいくつかの副作用もそのものが副作用としての害ではなく、単に影・影響にしか過ぎない。本物の副作用は、白血球が減るとか、血小板が減るとか、ということで血液検査の数字でしか現れない。見る・感知するすべは本人や本人の身体とは離れている。癌の存在そのものの認知から始まって、ほぼ全てがバーチャルなままに進行し、患者本人は、その数字などに動かされていく。内臓の一つを失ったことでさえ、感覚的に認知はできず、腹の傷としてしか残っていない。足先を失った時、例えばつま先立つということができなくなって、つま先がなければつま先立つこともないのだと、妙に情けない納得をしたのを思い出す。全くの実感的リアルな世界だった。今、この差に、戸惑っている。
 
 今回受けた化学療法で使われた薬は、かつて使われ始めたが副作用がひどすぎて使われなくなっていたもの

を、副作用の克服法を考案して、最近多く使われるようになっているものだそうだ。副作用がひどいのは、それだけ激しい作用の薬物だということで、それほどの劇薬を注ぎ込むことでやっと癌をつぶせるということであるようだ。副作用の抑制予防薬を先に入れて、すぐ主薬を入れ、すぐまた副作用の抑制抵抗薬を入れる。30分ほどの短い点滴でそれが次々に続けられる。それらの積極的な薬の点滴の前から後まで、後の方はずっと

何日も、生理食塩水が大量に流し込まれる。つまり、ずっと水で流し続ける中で劇薬を中心にした作用と副作

用とが行われていく。この副作用の抑制薬とその作用の時間的な制限、そして即座に洗い流すというこのやり方が、この薬を復活させた新療法ということであるようだ。今回はさらにその薬を2種類、強い片方を挟んでもう一方を重ねるという方法も新しいらしい。
 薬と副作用ということを、今の医療ではどうしているか、ずいぶん考えを改めさせられた。薬というものが健康正常へ向けて体の何かを動かす。そこに逆のとか別の方向への、つまり余分な動きが起きてしまう。それが副作用で、その余分な動きを止める、あるいはなるべく少なくするようにするものだと思っていた。ところが、例えば白血球の減少が始まっても、何もしない。どこまでは落ちてもどういう薬を使えば回復させられるとわかっているから、そこまではほっておく。たいていぎりぎりで持ちこたえて回復に向かうのだそうだ。つまり副作用の副作用といった薬害を起こさないということだろう。だが、逆に見ると、かなり際どいとも言えそうだ。その際どいところを見切って処理していくのが、現在の医療技術の進展具合ということになるのだろうか。
 採血での検査が毎日のように続く。次とその次の2回の採血で回復が確認されれば退院、という見込みが8

/20示された。8/22、24採血、25に退院OKとなり、8/28の退院確定。

その後の経過

 5/28の退院の後、湯治のつもりで3日目には安曇野に行った。2百数十キロを続けざまに運転するのはしんどそうで、途中、青木峠の登り口になる田沢温泉に泊まることにした。安く済ませたいし、前から気になっていた宿にこの際と思って、ユースホステルにした。向かい合う古い和風旅館の片方にYHの標示が出ていた覚えがある。テラス付き12畳のごく普通の和室に一人きりで、湯は好し、普通の旅館風だが山菜主体のかなりいい夕食が出て、5千円ちょいは万々歳だった。若い女将さんに、これでやっていけるのか聞いてみたら、手も少ないからどうにかといっていた。前に使っていた大きな旧館のホステル部分を放置して、やや新しい旅館部分だけに狭めて、家族でやっているのだった。最近ユースをまた使うようにしていて、いい印象の宿が多い内でも、これは極上だった。
 のんびり楽しんで着いたのはよかったが、安曇野では何もやる気が起きずに、温泉に浸かったぐらいで畑の草を横
目に1週間ずっとぼんやりしていた。そのほか帰ってからでは、区教委や児童文教委員会の傍聴、国語平和サークルといったところだが、ほかのいくつもは出る気になれなかった。これまで気分が落ち込んでという言葉を余り使わずに来たが、今はそのままの状態だった。本だけはやたら読んでいた。


 6/17に退院後初めて泌尿器科外来診療に行って驚いた。診察的なことは一切なかった。初めにどうですかと言われたのが問診ならそれが唯一の「診」だが、それは挨拶ぐらいのものだろうと感じた。特に何ということはないというぼくの答の終わりにかぶせて、すぐに今後の治療の話しに入った。話の中身に驚いて、どういう話の進みだったか細かく思い出せないが、途中しきりに感じたのは、手術前から既定の進み方なのだなということだった。
 内容をまとめてみると次のようになる。癌の転移の予防的処置として抗癌剤での治療をする。副作用などいろいろ
あるがそれは対処できる。入院での治療になる。2クール(回)行うので2ヶ月かかる。
 聞き返して以上のことはやっと掴んだのだが、それでも肝心なことがわからない。何故必要なのかややしつこく聞
いて、なんとかわかったのは2点あった。ひとつは、癌が大きくなり浸潤も進んでレベル3(3/3)という危険度であったというぼくの状況の問題。もう一つは、癌の転移は大きくならなければ(数細胞レベルぐらいでは)CTなどの検査でも血液検査でも見つけられないという現在の医学・医術の到達段階の問題。
 つまり、見つかるほど転移癌が大きくなってしまうとその後の治療はひどく困難になるから、転移していてもいな
くても、あるという最悪の仮定で潰しておく、そういう予防措置の形が勧められている、ということなのだった。仮想敵に対する積極防衛つまり先制攻撃という図式だ。転移していてもいなくてもというような意味合いのことばを使った裏には、発見はできなくてもこの状態では転移しているはずだという感じがあった。発見の限界は医の世界では常識・前提だろうし、ぼくの病状は手術前に当然わかっていたのだから、抗癌剤治療への道筋も手術前に予定されたことなのだなと理解した。それを事前に何故はっきりさせなかったのか。開けてみなければわからないとか、事故が起きるかも知れないとかの、手術というものへの配慮か。ずっと先までの心配を早くからさせることはないという患者への配慮か。それとも・・・。
 理解したことが何かすとんと落ちないということもあって、帰ってからネットであれこれ調べてみた。抗癌剤とい
うものについて、種類について、副作用について、副作用への対処法について。教科書教材では、説明的文章にいいのがないといつも批判してきたのだが、こういう具体的な説明の文章では、なかなかわかりやすいものが多いようだ。最近のこういうHPなどで文章を書き慣れてきたいい効果なのだろう。といっても、わけのわからないものや、ただ並べているだけのものなどを次々捨てて、役に立ちそうなものを選んでいくのは時間とエネルギーを消耗する。


 癌問題の間に、鼡頚ヘルニヤの再発ということが起きていた。起きたというより露見したあるいは確認させられた。10年ほど前に手術したところが数年前からややふくれていたのが、今回の手術前の肺機能活性化対策の深呼吸練習で大きくふくれてしまった。肺の空気を全部吐き出しきるというには、大変な力が必要なのだった。「いきむ 息む」と「りきむ 力む」とは同じなのか違うのか、腹圧からは似たようなもののようだ。何十回と繰り返すその稽古で、ひどくふくれてしまった。泌尿器科の担当医でさえ手術直前になってなんですかこれはといい出すようだった。同じ左なら、同時に始末せざるを得ないというか同時にできてよかったのだが、逆側では同時にもできず、この方は外科の領域でもあり、泌尿器科の治療の間に挟む形で手術することになって、日程のやりくりなどが複雑化したようだ。7/12入院、13手術となった。後であれこれからわかってきたのは、手術場の混み合いをどう都合付けるかということだった。
 鼡頚ヘルニヤというのはいわゆる脱腸で、ぼくは初めの時動脈瘤ではないかと思って受診したのだったが、一見し
ただけでヘルニヤと診断された。動脈瘤を親父がやったのでというと、ちょうど親父を診た医師もい合わせたりしたのだった。老化現象の一つなのだった。老化で筋肉が痩せた隙間に腸がはみ出してくるのだ。今回聞いたところではヘルニヤの再発は0.1~1%だということなのに、籤にもじゃんけんにも弱いぼくがこんなことだけは引っかかるのだ。ヘルニヤ率そのものが多くないのにそのまた再発など、ついていないというしかない。だが、これもいってみれば年寄りの冷や水の一種で、昔取った杵柄の勢いで力を入れたとたんに老いて痩せ衰えた筋肉の隙間に腸が腹膜を押し出してしまうのだ。ぼくは日常的なトレーニングは嫌いで、時によりきつい山登りや力仕事をする。それでいいのだとやってきた。その付けがまわってきたようだ。それも2度も。


 次の7/8泌尿器科外来受診で、抗癌剤治療の必要性というのは確率ということなのか、初めに端的に質問してみた。全くその通りということだった。そして、その確率つまり生存率がおよそ1/3であるのを2/3にするといった所のようだ。そこで、選択を迫られることになった。副作用などのいやなことは避けていつでも来いと死と向き合うか、来るのは避けようがないにしてもその率の半減を期待して副作用を我慢するか。現医学界の大勢では抗癌剤治療だというその判断に任せることにした。岩を登って、次の手掛かりに体を任せて落ちるかどうかという時、危険性が半分になるなら当然そっちを選択してきたなと、ふと思った。それにしても、ここでいう確率は統計的裏付けのないものだが、こういう現場での判断の基準になる経験値というものなのだなと変に感心した。また、生存率1/3といって死亡率2/3といういいかたを避けるようだなとも感じた。確証のない数値に賭けるというふうに考えると、科学より鰯の頭並みの信心になりそうだが、どういう立証もできないのだから、せっぱ詰まった選択にならざるを得ない。人の命は個々の現実ではたいていそんなものだろうとも感じた。いずれにしても、苦しい病人生活をこの一夏続けなければならないことになった。
 確率とその統計的根拠は少し調べてみたぐらいでは、どうもよくわからなかった。1年後の生存率、3年後の率と
いう項目や文脈のあちこちに似た数値が使われていたりする。それぞれそこに出典を添えたりしていない。暗黙の了解、医者の常識、ということなのだろうか。似ていて内容の多少違うらしい語を使って説明しながら、用語既定をしないという説明文に多い厄介さもある。専門の学術論文ではこうではないはずだ。こういうのがネットの困ったところだ。専門家用の探し方はあるだろうが、それではこちらが読み解けない。
 こういうことをしている間に、また、自分の置かれた状態と周りの状態のこともあれこれ考えた。薬剤での治療へ
の説明がはっきりわかるまでに時間がかかったのは、こちらのわからなさもあるが、それは患者皆似たようなものだと思えば、やはり説明のもたつきを感じる。また、当然予想していたはずのことを予告しないことについてももあれこれ考えられる。こうしかできないという限界に対する施術側としての自責・引け目といったこと、苦しませることが見えていて予告するには暗すぎる治療であること、その先が必ずしも明るいと言えないこと、だからなのだろうと考えてこれはずいぶん似たことを経験してきていると思った。いわゆる非行群、引きこもり・不登校、子ども自身や親や周囲の大人に、こうしたらと知恵を出す時に感じたのではないか。ただ、主客が逆になっているわけだ。すっきり断定的に説明して自信たっぷりの医師もいるようだ。その方が患者に心配させないから信頼も得られる。教師の態度にも似たことはよくある。


 ヘルニヤの手術は腰椎麻酔でやった。前にはめたバルブを取り外してより広くカヴァーするシートを挿入するのを最善として、外せるか、癒着を剥がせるか、これらが開けてみなければわからない。CTである程度は予想しているが確実ではないという。2時間を超すと麻酔が切れてしまい、全身麻酔に切り替えなければならなくなり、残る影響がダブる。それを見越して用心に初めから全身麻酔で行くか。ここでも選択に迷ったが、影響の少ない方に賭けて腰椎でやることにした。全身麻酔での問題点は、精神神経的な影響なのだ。この前の幻覚などがそれなのだ。2回間近で続けるのはどう考えてもよさそうではない、多少痛いことになってもやむを得ない。
 第3オペ室3番目の手術で14時からというのが、1時間ほど遅れて始まり、麻酔効力予定ちょうどぴったりの1
時間半で終わった。今回は意識がはっきりしていたから、切り取った腹膜をしっかり見せてもらった。かつてさんざん見た兎の膜とちっとも変わらない。終わりが看護師の交代時にぶつかって、病棟からの引き取りを待たされた。その間付いてくれた手術場看護師としゃべった。この病院には手術室が5室あるのだと今回まで思っていたが、第4手術室というのがなくて第3の次は第5になるねというと、4階というのばかりは抜けないですがねという答で笑わされた。この部屋では、今日これからまだもう一人の手術をするのだという。もう5時になるのにだ。後になって聞こえてきた話では、この日の医師の引き上げは午前2時になったという。誰とかから早く帰さなければいかんと叱られたという話しも聞こえた。ただ、誰が、誰を、といったところがわからなかった。そこにあれこれはめて想像をめぐらすのも暇つぶしにはよい材料になったのだった。
 腰椎麻酔が効き始めてすぐ、下半身の姿勢が気になった。真っ直ぐ脚を伸ばしていると感じられないのだ。腰掛け
ているというか、尻が下に落ち込んでいるような不安定さを感じた。どう直そうとしても、もちろん動かなくていらいらした。そして、これは前と同じだと思い出した。10年ほど前の初めのヘルニヤの手術の時にも同じ感覚を持っていらいらしたのだった。前回に腰椎麻酔でやったのか全身麻酔でやったのか、担当医に聞かれても、どうもはっきり思い出せないままであやふやだったのが、この際になってやっとはっきりした。それと同時に前回はのどが渇いて仕方がなかったなと思い出した。今回は渇きは覚えないが、手先が冷たくて仕方がなくなった。初めから肩のあたりが寒かったのだが、それより指先が凍り付く感覚になった。冬山で凍傷にやられる時とほとんど同じような冷たさだ。我慢しきれなくて看護師さんにいうと、手にはホッカイロ、肩には湯たんぽを当ててくれて、手はしばらく自分の手で暖めてくれた。器具を使ってということはまあ当然と思うけど、手でというその温かさは嬉しかった。暖かーいというとずいぶん冷たい手ねといったところからすると、末端体温のよほどの低下が起きていてそれを心配したのだろう。


 きょう7/16、便も通じて、退院OKとなった。抜糸は通院でやればいいという。あさって7/18、ちょうど一週間で退院になる。前回は便に苦しんだのだった。同じ病院の同じ科で同じ症状で、10年の間にこう違うかと思った。ぼくの判断では、水と運動と薬だ。腎臓とでは症状は違うのに、ここでも水を多く飲むことを言われた。これは便通のためだけではもちろんないのだが。運動も勧められた。腎臓の時もしきりに言われたが、病院の廊下数十メートルを数回歩くだけでも、腹の中で動きが起きることが実感できる。薬は軟らかくするのと促すのと2種類あるようだが、軟化の方が弱いが優しいらしく、これが優先されているようだ。ぼくは薬を普段使ってきていないせいか、何でもよく効くということもあるらしい。


 最後に、たばこについて書く。ずっと前に書いたように、1日2~2本の状態が数年続いていたが、癌騒動以来もちろん吸っていない。酒はもっとずっと前、去年秋頃から飲みたくなくなっていた。ところが、たばこは、時に、ひと月も忘れていたのに、ひょっと吸いたくなるり、そんなときもしばらく吸わないでほって置くと忘れるのだった。暇な時、いらいらしている時、もやっとして気分転換したい時、たばこを思い出すようだ。6月末頃、そんなに吸いたいものか試しに吸ってみた。パイプにしないで残っていた紙巻きにした。うまくなかった。煙いとかいがらっぽいとか苦いとか、いやな感覚はないが、ちっとも旨いと感じなかった。これでさよならなんだなと思った。それで灰皿を洗い棚に仕舞った。一本残った箱を、親父の吸い残したハイライトの袋に並べておくことにした。パイプとパイプ用の刻みのたばこがかなり残ってしまった。これをどうするか、悩んでいる。今度、うんと吸ってみたい時があったら、パイプで吸ってみることになるだろうか。ところで、今回このヘルニヤ手術での入院の期間、そのかなり前から、たばこのたの字も頭に浮かばなかった。縁が切れたという証拠だろう。今この文をここまでの完成としようとして、何かもう一つ忘れている気がして探したのだった。これも、経過なのかも知れない。


 対処法が用意されているとはいえ、副作用という薬害に苦しむ陰鬱な状態に2週間後には入る。遅れた墓参りにいったり、図書館に行ったり、短い解放休暇期間を今気楽に暮らしているのに、わざわざ2ヶ月も難行苦行に入り込まなければならないということに、どうも気が重くなる。手術のように一週間頑張れば元に戻れるといった気分の明るさがない。秋になってどんな経過報告の続きを載せられるだろうか。

遭遇

まえがき
 遭遇とは、たまたま出くわすことだ。会いたくないものとも出会ってしまうものだ。癌なんぞに出会
いたい人はいないだろうが、多くの人が出会わざるを得ないのが今日の状況だ。
 話に聞いていたところでは、痩せ細って何かあると思っていたら癌だったとか、腫瘍が見つかって良
性か悪性か組織検査したとか、はっきり言われなかったのを問い詰めて知ったとか、癌というものは徐々にやってくるように思っていた。ところが事実は小説より奇なりというように、まるで違う遭遇もあるのだった。こんな元気な癌患者始めて見たと、知人に言われたような元気な状態で、山歩きの数日後に出会ってしまった。
 その顛末を記していく。学びの会のみんなも、半分以上がやがて癌と出会うことは統計上明らかだか
ら、なんかの参考になるかもしれない。ごく一般的な統計で、死因として癌が第一位、心臓血管系と併せると死因の大半となっている。つまり多くの%の人が癌で死んでいるという事実が、すでに、ある。それなのに、初めに書いたような知識しか持たないものもまだいるわけで、そういう呑気な人を怖がらせようなどというつもりはない。
 今ここまで記しているのは、オペの5日前で、これをブログに載せるのは数日か数週間先の退院後だ
から、それまでにどう心境が変化していくものやらわからない。オペの後どのぐらいでPCに向かえるかも分からない。進行経過については簡単にする。その間あいだに気持ち・考えを入れられるように自分を見ていきたい。最初の受診の夜から、経過は記し始めている。それで、今のところのことを先に書いておく。
 ぼくは、健康診断とか人間ドックとか、まるで受けていない。一度もということはなく、職場の保健
担当がきついと逃げ切れなかったことはあった。健康であったし、何事も運だという気持ちもあったし、健康診断というものを信用していなかった。健康診断で病気が発見された数や%は統計が出ている。だが、健診を受けて診療されて死んでいく余命と、健診を受けずに突然発病診療で死んでいく余命と、統計はないのだそうだ(医者の公的発言)。つまり健診が有効であるというのは神話・願望ないしは想像なのだ。
 運というのは虚無的な言い方だが、ぼくが今生きているのは実は不思議なぐらいのものなのだ。10
歳時の骨髄炎以後、山登りで3回、死ななかったのは不思議の目に会っている。仲間の死にも多く会って来た。先年の脳出血も、死か後遺症か数時間の瀬戸際まで行っていたようだ。


記録
 4.25日曜の夜24時数分前、寝る前の小用に立った。尿の色が疲労時より濃いかなと思ったら、
ややどろりとした赤黒いものが混じった。出始めると尿全体がずっと色濃く赤になっていった。初めてだったが、血尿だと思った。明日、病院に行くしかないと思案した。明日からずっと安曇野と考えていたのがつぶれそう。

 26月 寝起きの小用、チョコレートそっくりの濃い色。ひょっとすると偶然の1度でという期待は消えた。有無を言わさずというほどの凄まじさだ。確か尿の道は腎臓からしかないはず。腎臓が破裂的なダメージを受けたような記憶はない。が、これは腎臓破裂といったことしか考えられない。
 三楽受診。内科へ行ったが泌尿器科へ回された。あとでわかったが、血尿なら泌尿器科は常識なのだ
った。問診票記入、採尿(濃い赤)、腹部超音波検査。左腎臓に何かありそうとの診断。明27のCTを予約。詳細判明は連休明け、血尿は続かないとのこと。明日からどうなるか心配で尋ねたら、生活は平常で旅行も可。畑仕事は軽くなら可。
 夜、血尿は消えて普通の尿に戻った。20時間だった。

 27火、昼前に腹部CTをとり、その後泌尿器科で診断。左腎臓の上部に3分の1大の潰瘍がある。それが崩れて出血した。転移の有無を調べた上で決まるが、この大きさでは全摘出という話し。転移の語を聞き返して、けっきょく癌であり、全摘出が必要とはっきりすらすらと話された。それほどの驚きもなく聞いていることがおかしかった。
 肺・尿道他への転移の有無の検査がまず必要で、それも早いほうがいいという。心電図をとり、胸部
レントゲン撮影、採血と、午後まで忙しく動いた。
 入院が5・14、オペが18の予定が組まれ、予約となる。ほかに膀胱鏡検査28、CT検査5.7
を15時で予約して再度詳細診断17時となる。これら全てパソコンを通して数分間で組み込まれていく。入院中のPCについて質問すると可とのことで一安心。生活も再度確認すると平常で可ということだった。
 帰ってから、ネットでにわか勉強。かなり正確な情報を手に入れられる。だが、詳しくは不明という
のが最も正しいようだ。特に、個別の状況と一般的な対応策との関係など、当人としては最も知りたい点がだめだ。

 28水 午前中は勉強の続き。午後受診。膀胱鏡検査、異常なし。
 診断は腎臓癌のうち、腎盂の癌である。全摘の確認、腎盂・本体・尿管の全て。腫瘍の大きさ確認、
縦5cm余、横2cmほど。 (腎臓は握りこぶしより一回り大きい。全摘か部分摘出かはふつう4cmが境。資料)
 心電図でやや問題あるとのことで、内科での心臓関係精密検査30AM9:30予約。
          
 29木 1日何かするということもなく、あれこれに時間が過ぎた。入院用の買い物、安曇野行きの
用意、図書館へ本の借り替え。


 30金 朝、内科診断。心電図異常はかなり問題らしい。血圧計測170弱ー90弱。この状態では麻酔不可で手術不能という。
 血圧の高さと心電図の問題との関係が不明なため、血圧を下げてから心臓再検査になる。内科7日1
1:00予約。
 血圧を毎日測定し記録すること、血圧降下剤を飲むこと。疲れ・静的瞬発力は不可。鍬を打つことは
駄目ということだ。歩くなど動作大で力小は可。発汗、炎天、塩分、それぞれ注意。
**秋葉原へ歩き、血圧計を見る前に、ディスプレイを見つけて衝動買い。20㌅で縦横ノーマル比、
おまけにピボット360度自由自在の三菱製を見つけて、16800を12800にまけさせて、配送料1500合算の端数切り捨てで結局14000。着予定を5.9日曜に遅らせてもらう。
  血圧計はPCにUSB経由で内蔵記録が取り込めるタイプのをソフマップで買った。SDカードで
記録するのを探したが、なかった。夜から早速測り始める。

**5.1~6安曇野
 地道で花園まで行って、野菜をいっぱい買ってから高速を使った。豊科で買い物。
 晴れ不思議に連続、メイストームどころではない、暑い。義妹夫婦、来1~4。義父の葬儀で会った
ばかりだが、話は多い。事情を伏せてあるので、やや苦労した会話。
 コゴミ・蕨・三つ葉・蕗・薊・浅葱、花菜。カタクリの花は終わって杏子系が満開。市民公園の桜満
開。唐花見湿原の水芭蕉咲き始めでみずみずしい白。座禅草は芽を出したところ。3月末の九州行からずっと桜を見ている。
 小林義昭氏宅へ行ってみた。かなり元気。古藤洋太郎氏リハビリ中とのこと。安曇野の3人男はよい
よいふらふら3人組になるのか。
 帰路は、今年初めての古福寺峠。いつもの直販店で野菜を買い込んだ上でラストだけ花園から高速。

 5.7金 内科受診AM11:00
  血圧経過がまあよかったのか、12:00心臓検査。異常なし。血圧再計測、まあまあ。血圧降下
剤の継続指示。
  PM3:00胸部CT、その後やっと食事。さらに待って、5:00泌尿器科受診。心臓・肺臓、
転移なし。血圧も何とか可。入院・オペ、予定通り。術前の様子(血圧など)で延期の可能性は残る。
  血圧降下剤・術前用の薬、渡される。血圧剤は当然だが、使う段階では看護師管理の術前後の薬を
本人に持たせるのは不可解。院内で遣り取りすれば間違いもないと思うが、手間を省いているようにしか思えない。
**帰ったのは8時近かった。それだけ医師・技術陣も時間オーバーで働いてくれたということだ。あ
りがたい。

**5.8土曜 町田芹が谷会館P1~5国語平和サークル8人。かなりおもしろい議論になった。けっきょく、後の飲み会につきあってしまったが、飲まないだけにかなりハード。 
**5.9日曜 液晶モニタ着。ノートの方に繋ぐ。26㌅をデスクのメインにしたが、ポインタが2
4㌅との間で逆向きにしか移動しない。並べ方のほうを逆にした。慣れるまで違和感がありそう。机からはみ出す3台のモニタの折り合いをつけるのに苦労。あれこれ半日かかった。2台で4枚の大中画面を揃えてファイルの整理をやってみた。フォルダ名をすっきり揃えたりフォルダの系統を揃えたり、実に楽だ。本体2台を繋いでしまえばもっと楽だが、まだ迷っている。
 入院前ぎりぎりに、学びをつくる会の世話人ブログに載せようとしている文がどうしてもすっきりせ
ず、古いのから新しいのまでを並べて、呻吟した。画面で直に4枚も見比べられるのは、実にいい。

5.10月~13木 買い物、図書館、PC整理、ノートに詰め込んで病院に持っていけるようにした

。5.14の区教委傍聴、16の教科書分析打ち合わせ予定、依頼連絡。
 13朝 ブログに1つ入れて、夕方続きのもう1つを入れた。気に入らない文で終わってしまったが
、この際しょうがない。
 退院したら即座にこの癌の件の文を入れるように記録の形なども考えてみた。題をどうするか迷う。

 

5.14金 9:20入院
 12時過ぎ、運動(1分半の階段昇降)前後の心電図をとる。なんとかOK。だが、心臓肥大気味、
高血圧の影響とのこと。
 1時頃昼飯、すっかり冷や飯。病室で術前術後の注意などいろいろ。プリントもあって詳細。以下、
予定:
 15・16 何もなし。
 17(術前日)毛剃り。眠剤。下剤。
 19(翌日)までは酸素マスク、腹腔ドレン管、点滴管、採尿管、緊迫ストッキング、足バイブレー
ター、継続血圧計、あれこれくっついているらしい。
 19から様子を見ながら段階的に外していくとのこと。
 20(2日後)から歩く。トイレOK。
 21重湯、徐々に、23夕で常食
 26(抜糸翌日)尿管抜く
 本日P4風呂予約 術前日まで入れる
 夕方、初見の医師来室。大音量で強迫的。カリスマなんとか師風なのか。手術の説明に家族の立会い
を要請。(娘に連絡、5.17月曜来院)

15土曜 暇な1日。深呼吸練習始める。外出・外泊もいいとの話があったが、帰るとタバコに手が出そうだから、やめる。階段を使ったりして運動した。

16日曜 階段使用をとがめられた。使用禁止でもなさそうなので使ったのだが、暗黙のタブーがあるようだ。前回入院では寝巻きでいやな思いをしたが、どうも三楽には不文律が多いようだ。
**今回変化に気付いたのは、呼吸・肺塞栓対策の強化。全身麻酔中は人工呼吸器を使うので、肺の活
動が低下する怖れがあるという。それにエコノミー症候群で問題になった血栓死がこんな形で影響しているとは知らなかった。今回のオペの時間が長いからなのかもしれない。

17月 午前、麻酔医と手術室看護師より詳しい説明。麻酔医との話の中で、開腹時の写真を撮れるかも知れないこと、摘出臓器は見ることができそう。
 毛剃り。シャワー入浴。深呼吸練習促される。毛剃りは、前回のヘルニヤの時と違って、バリカンと
ひげ剃りの中間のようなものでスムーズに終わった。際剃り用のシェーバーそのものか。

  17:00家族と手術について医師より説明受ける。同意書署名。癌の拡大映像をしげしげ見た。腎盂発生、上部3分1に拡大。泌尿器系では尿路上皮(腎臓・尿路、膀胱の総体)として一括して考えている。癌再発の確率高い。尿路上皮全部分、右腎も、転移の可能性かなり大。特に、膀胱に腫瘍ができてもう一方の腎臓系へ連鎖することを警戒。%や時期については各施設での数字あるが、全国的といった集計はない。再発の時期は全く不明で、翌週から十数年後などばらついている。定期検査を一生受けることになる。
 手術中など、質問・要求など自由ということで、格段の変化を感じ、気も楽になった。
 この医師の印象、今日はとてもよかった。
**腎臓というものが、腹膜の外にあることを初めて知った。手術しても、腹膜を傷つけないわけで、
かなり気が楽になった。

18火 朝一で浣腸。大容量注入型でなく無花果型と聞いていたが、かなり巨大だった。即座に効く。小量しか出ない。術衣に着替え、4Fでエレベーターの反対側扉の線から遮断された手術室。ベッドにのって、説明を受け、点滴注射を受け、数瞬のちまで覚えている。

 気付いたのは、部屋のベッド上。身動きならないという感じ。物理的にもだが、体全体が固まっている。のどが渇いて、何度か嗽させてもらう。
 移されたベッドが動き出す時か医師の4時間かかったという声を記憶している。

19水 朝、付き添われて歩く。異常なし。昼、水飲む。
**19は、PCに向かう気力がなかった。18の術後からのことをここに入れる。どれが前やら後や
ら、順序関係もわからない。
**幻想を見た。初めは部屋、作りの違う部屋に移されたのだが、その部屋をしっかり認識できない。
朝になるとみんなすっきりした。
  富士の測候所の地下の部屋にいると思った。壁一面に霜の結晶の長い針が突き立っている。誰か、
何者か、が通るたびに雪の幕の濃淡がカーテンのように揺れる。
**切れ切れの眠りだった。眠ってて本を読んでいた。眠っていると知っているのに本を読んでいる。
内容がよくわかっておもしろかった。目が覚めれば枕の上にいる。もちろん目の覚めた?後までわかっていたわけではない。

**ここから19 PCを出しはしたが、何回もやらないと接続できない。画面を見て、見出しも文章もその意味はわかるが、それをどうこうする気がない。傍観するだけ。
 21に気付いたが、この記録を生のままとブログ用との2通りに作ってSDカードに入れてきたはず
なのに、見つからなくなった。ひょっとすると、この半無意識中に消してしまったのかもしれない。
 術後声がかすれるのは、酸素吸入時の挿入器具による声帯等の圧迫のためだということを知った。も
っと改良すればいいのに。
  見舞いの人はこの現象で、ずいぶん弱っているという印象を受けることが多いのに。
  摘出臓器を術後蘇生後に見せたが記憶しているか尋ねられた。ちゃんと応答したというが、まるで
記憶にない。
**空き部屋、空きベッドが多い。医療費補助の問題がこんなに影響しているのか。
  退院する者新たに入院の者交代激しい。
**大事にする=手をかける でなく、自力でやらせる方向へはっきり変わっている。いいことでもあ
り、問題も別に出ることだろう。

20木 部屋移動。採尿管洗浄を始める。 頭を洗ってもらう。水を多く飲むよう促される。腹が張る

のでトイレにはいるが出ない。

21金 水を飲む。歩く。 

22土 水、歩く、腹が張る。姉夫婦、来。

23日曜 朝、便通。楽になった。気分が一気に爽快に。

24月 栄養指導の日時打ち合わせ。眠れなくて眠剤出してもらう。

25火 採尿管外される。最も有り難いこと。尿の時刻・量 記録開始。 多く飲み、多く出す。これがかなり大変なことだ。尿漏れがなければ腹腔ドレンが外されて、すべて終わりとなる。
 金・土・日曜のいずれかで退院とのこと。

**25 兄夫婦 姪2人を連れて来院

26水 ドレン外される。絆創膏かぶれ、痛む。シャワーで毎日洗い流すよう指示あり。残りは、抜糸のみ(明日か)。T字帯・浴衣、やめる。すっかり身軽になった。
 金土日から選んで退院。

27木 抜糸、クリップというかホチキスというか引っこ抜いていくだけ、消毒して終わり。シャワーで洗えとなる。30分かけて、ゆっくり洗い、いい気分。
 相談したりあれこれ考えて、土曜朝の退院を決める。実は、この日ちょうど池袋で教科書シンポの第
21回集会、それをのぞいてみたいのだ。今年この時期に教科書問題にどれだけ人が集まるのか。帰ってしまえば、出直す元気は出そうもないから。

28金 シャワー浴びたり、いくつかの日程の進行を確認したり、のんびりする。


あとがき
 今のぼくの状態は腎臓とそれに続く膀胱手前までの尿路の一対の片方の一式を失ってはいるが、言っ
てみれば健康体でもある。高い頻度で起きると言われる再発に備えて用心して暮らしていればいいということだ。この先新たな暮らし方を手に入れていくについての苦労話は、またここに載せることもあるだろう。
 血尿というショックはあったが、痛みとか痩せ衰えるとか、前回のように動けなくなるとかいう、い
わば実害?的自覚症状がない中で、映像や数字的データによってつまりバーチャルに判断され納得させられてきた。臓器を失ったことも目に見えず喪失も実感できない。左脇腹に斜め24cm、下腹に縦14cm新たについた傷と、その周辺でのひきつれる痛み・違和感だけが、唯一実感できるものだ。ぼくは癌と遭遇してしまったわけだが、これはかなり現代的な厄介なリアリティ欠如の遭遇であるようだ。