学びをつくる会世話人リレーブログ -5ページ目

三たび三陸 その八

  宮城県立気仙沼向洋高校
 本吉の北はずれの東に岩井岬の小さな半島がある。この付け根部分も両方から浸水しているようで、行ってみた。大きな工場が幾つか稼働している間に、遠くから白い立派な建物が見えて、学校らしい。人っ子一人いない道を入っていくと、土台周囲が深くえぐられて水溜りになっている。3階建ての2階まであちこち壊れているが、壁面は白く輝いてきれいだ。漁業関係の実習棟と教室棟の間にはありとあらゆる残骸が、窓枠やら車やらボートやら箪笥やら絨毯やら、積み重なって詰め込まれたように残っている。えぐられた水溜りに突き出た危なっかしい板を渡って誰もいない校内に入ってみると、「進路指導の理論」とか「学校五日制読本」とかの本が積み重なってほかの残骸の中で固まっていた。色新しい表紙が陽に光っている。部分的にきれいでも、おそらくもう使えないで取り壊すことになるだろう校舎は、白さを誇るように輝いている。2年の時間がいれ混じって留まっているような感じになる。
 表側に回り込んでみると、「仙台藩直営御塩場」の石碑が倒れていた。この門前の道一つはさんで、巨大なタンクを二つもった工場が白煙を上げて盛大に操業しているのが、やりきれない対比と映った。近くの浜辺の痛まずに残った低い防波堤には、拾い集められたらしい墓石がずらっと並べてきれいに置かれていた。


  岩井崎海岸
 さぞかしいい眺めだったろうと思わせる松林と岩礁の海岸が僅かを残してほとんど抉り取られ波が寄せている。そこに写真入りの大きな説明板が立っていた。しかつめらしく、もっともらしい説明は、要するに、防潮堤と海岸林を作るということだった。
 その中で目に付いた3つのことがある。一つは防潮堤で「頻度の高い津波および高潮への対策」といっている。頻度の高い津波とは「最大クラスの津波に比べて発生頻度の高い(数十年~百数十年に1度)」の注がある。確かにこういう方向が論議されているとは新聞などで知っていたが、すでに林野庁直轄ではじまっているのだった。
 もう一つは、堤体の高さと傾斜の設計だった。過去の津波の痕跡高さと可能性の高い津波のシミュレーションから、予想をTP+8.8として余裕1mを加え、本体高さTP+9.8としている。これは、つい最近の最大想定にあっているのだろうか。また、図によると、海側が60度陸側が45度の傾斜にするようだが、これが工学の最高結論なのだろうか。別の地域(七ヶ浜など)の設計では角度が違っていたが、これらの決定はどうなっているのだろう。(TPも別の欄に注があって、東京湾平均海面となっている。つまり、TP+はいわゆる海抜のことだ。)
 3つめは、岩井海岸の西の端から東の端近くまでほとんどすべてを延々とこれで覆うことが図示されていた。どこでも防潮堤について尋ねると、答えは決まっていた。海が見えないのは浜の生活ではないと、また海が見えないと津波に気づかなくなってかえって危険だと。説明には、ここで目にする見たままの写真に堤防高さを点線で入れた写真が添えられていた。残っている松林の幹の半分ほどまでが隠れることになる。

三たび三陸 その七

  気仙沼市本吉海岸
 本吉は、前回も前々回も、小泉小から眺めたほかは通り過ぎていた。国道45号が流されて迂回路が津谷川を仮橋で渡るカーブの頭上は、断ち落された鉄道高架の断面だ。それを高台の小泉小の正門前から真正面に見下ろせる。今回もそこで見渡してから、外周の山縁を回ってみることにした。ところが、学校下の道から川沿いに上がった末は小さな峠を越えたりして大回りに本吉の駅に出てしまった。浜など見えない奥まったところだ。バス路線化のため線路敷が舗装され、真新しいバス停が出来上がるところで、それはそれで発見だった。出てみた仮国道の海側は一面を平らに整地しているようで、工事柵で仕切られて近づけない。北側の小さな岬風の乗っ越から水たまりの畑のようなところへ踏み込んで、やっと浜を間近に見下ろせた。
 海の中、波打ちから20mはある水の中に、3階建てのコンクリートの建物が見える。もちろん打ち捨てられたいかにもの廃墟だ。水面から出た基礎柱の列の間を波が通り抜けているのが光の加減でわかる。すぐ近くに桟橋のようなものが、やはり基礎柱の列を波に洗わせている。いったいあれは何だ。いくら眺めても、わからない。聞くしかない。
 ちょうどこの乗っ越の所の家にトラックが来て一人何やらし始めた。早速尋ねてみて驚いた。あれはホテルだった。ホテルの前に見事な松林が並んでいて、さらにその先に広い砂浜の海水浴場があったという。ホテルから水までは100m以上はあったとも。この乗っ越も両側から波が来て、ここでぶつかりあって、屋根の上の高さまで被った。全て流されて何もかも海に行った。ちょうど帰って来ていて、この上の高みで震えて見ていたという。家族が皆他所に出ていて無事だったのがせめてもだという。
 浜全体が2m以上沈下しているらしい。この畑の水も周囲より高いのに引いてくれず、畑にもならないとも話した。後で離れてこの乗っ越を見ると、10m余りの高さと見えた。
 ほかのところでも、聞けば必ずというほゞ同じ補償の話を聞いた。家の現在評価の何割かをもらえるというのだ。決して、再建する補償ではない。親譲りの古家など、いくらにもならない。その安い金額で、補償は十分やったと政治家も行政も言う。売値を安く買いたたかれて新屋を高く買わされるようなからくりになっている。


  地盤沈下・塩害
 地盤沈下は、宅地も田畑も港の埠頭も、浜も磯も、至る所で見た。宮城から岩手南部でひどいようだ。港の岸壁に車で入るその道にも波の末が寄せているところもあり、地元らしい車が当然のようにしぶきをあげて通っていくのを見た。
 海に近いほど水漬の田畑、宅地が目につく。ところによっては池か沼のように深く広い。だが、そう見えないところでも、実は水が引かないのだということがわかった。
 あちこち多くの田畑で、モグラの盛り土というイメージでは規模が違うが、一見そう感じてしまう掘り返しがあった。場所によっては大きな盛り土の断続だが、多くはほんの小さい下手な畝といった土の断続だ。ちいさい方は初めよくわからず見過ごしていた。大きいのは、その大きさと間隔から重機で掘ったなと推測したが、何の作業かは気づかなかった。それが、あるところで一面といえるほどの広さが見渡せた中で、あちこち取り混ぜて見えた。中心部は大きく、周囲の不定形の区画は小さく列になっている。それでやっと遅まきながら気づいた。水抜きの溝なのだ。水抜きもあるだろうし、塩害の塩抜きもあるのだろう。何年で抜けるかわからないといわれている。今年作付けを始めたところも見た。去年は作付けしたまま立ち枯れていたのを見た。
 あの小さい掘り上げは、手仕事だ。おそらくスコップで。何とか深くと。どれだけの労力だろう。どれだけの希望を持ってだろう。その作業は、収入になるのだろうか。聞くには人影がなかった。

三たび三陸 その六


  大川小
 今回は裏山に学校から直接登ってみようと思っていた。前回前々回は近くからであっても、見ただけだった。今回も結果的には登らなかった。立ち入り禁止になっていたからだが、登らなくてもよかった。学校から走れば2分とかかりそうにない間近な山裾部分の200mばかりを見て回ると、ゆるい誰でも楽に歩いて登れる谷間状の杉林があるのだった。小さい墓地になっていて、だからかすかだが道もついているのだ。登ってみてはいないから、奥がどうであるかはわからないが、藪でもないし山全体の様子から、ぼくのような藪山大好き人間でなくても、どうってことはないはずだ。
 前回来た時までなぜ山へ逃げなかったかということを考えていた。若い女性教師ということでもあった。前回書いた文では、地域の人も、この先生も、山菜取りなどで山に入ることはないのだろうか、といったことを書いたりした。だが、それは結果論にすぎないと、ようやく、情けないことにやっと、わかってきた。今回いろいろな人の話を聞いたり新しく見たりしているうちに、考えが変わってきて、この現場ではっきりわかった。今は、都会でなくても、山だの原野だのというところは、見て過ぎるだけのものになってしまっているのだ。すぐ横に登れる山があるからといって、なぜそこに登らなかったかという考え方は、その考え手のずれた現実認識の浅さを示しているのだ。だから、大川小の問題は、主として、避難法やその指揮系統・指揮権(つまり判断の主体)の問題なのだ。もちろん、基礎は津波認識に始まるわけで、それは全員等しく足らなかったのだが、だからと言って問題のありかを不問にしていいわけはない。「近辺の高台に適宜逃げる」といった対策の文言があるだけで、周知も何も、学習も訓練も何もなかったらしい。その時に偶々その場に居合わせた大人・教師の、すべを持たないという状態の悲運としか言いようのないことだ。だが、ここは名だたる津波の三陸なのだ。
 学校の周りは開けっ広げであったと思えない。よく見られるような、グリーンの金網のやや低い塀か生け垣ででもあったろうか。正門は川の堤防向きだったようだ。大きな道がそちらから玄関に通じている。通用門は横側のやや山向きにあったろうが、いずれにしても、山は学校にとって、子どもにとって教師にとって親にとって、裏にしか過ぎなかったろう。津波はどこからどの高さ大きさで来ると思っただろうか。現北上川の大きな堤防は、このあたりでは一番高いところで、上から学校を見下ろせる。だからいろいろな新旧の慰霊碑なども、その橋の横脇に建てられている。まずそこを目指すのは当然なのだ。そういう現地の事実に立った論議があったという報道は見聞きしていない。だが、そこに立った時、そこからさらにどこかに行けるのか。全て、同じ高さか低い。すでに後ろにしてきた学校の裏山は、ずっと下って、また学校のところを通って、さらに先に行って登ることになる。あんなところ登ったこともない、私も子どもも、とならないと、誰だったら言えるか。周囲より唯一高いその土手の上で、低学年生の手を引いて走ることもならず小走りに急ぐ姿。迫りくる濁流に、その場の1人だけの大人である教師しか持たなかっただろうその絶望。通勤で毎日車を走らせていたかもしれない土手の広い道は上流の次の橋へ十数キロただゝゞ続く。
 なんで東北でこんな、と思ったのは、蕗の薹に始まる。あちこちで賑やかに出揃って、もう薹が立ってしまっているのも多いが、今朝出たばかりというのもあって見過ごさなければならないのは情けなかった。どこでもそうで、不思議なのは、採った形跡がいくら探しても見つからないのだ。災害を受けなかった地域でも、全く同じだ。舗装された野道のちょっと横に入ったところに素晴らしい行者にんにくの幾つもの群れを見つけたときは、こんな見事な群落に出会ったのが初めてだったこともあって、立ち去るには大げさに言えば涙が出そうだった。半月の間に、野草を摘んでいるらしい姿を一回だけ見かけた。

三たび三陸 その五

  最終の始末
 一応はトラクターで耕したと見える畑に、目立つ揃いの上衣を着けた数人のちらばった姿を見た。あれはボランティアの格好だ。数か所で見た中で、袋に何か入れて畔に運んでいくらしい姿があって、とたんにわかった。
 ぼくの安曇野の畑は狭いから、邪魔な大きさの石ころがあれば、場所を決めてあってそこに抛り投げている。20年の間に小山になったそれがあちこちにあって、その始末に困っているが、今もまだ石ころは出てくる。近所の畑でも、耕運機のブレードを痛めるらしく、時に石退治をやっている。数百年以上も耕されてきた耕地でも、洪積地を耕すとは、そういうことなのだ。畑の隅に一抱えもある丸石が積まれていることも見るのだ。
 今準洪積地の広がりに戻ったともいえる田畑で、新たな苦労が始まっている。タイルや煉瓦・木片の小山が隅に作られている。窓枠のかけららしいアルミ材片もあったりする。泥まみれだから、慣れないボランティアだからか、大きめのものばかりだ。小さいが邪魔になるものは、今後何十年も、苦労になることだろう。田畑を覆ってしまったこれら瓦礫の最終的始末は、人の手によるしかないのだ。
 都市部近くの瓦礫の山で、再度の作業が行われている。重機で挟み取られて集められた残骸が、金属類とコンクリート片や石、木材とに分けられている。土の山と見える残土の山が大きい。一方で、山から運んだらしい土での嵩上げ工事も盛んだ。あの残土を嵩上げに使えないのか尋ねると、ガラスが混じっていてという答えになる。何度かそうだった。結局どうするのかというと、何県とやらに船で運ぶそうだ。そこでどうするのかはわからなかった。


  女川の倒れたビル
 南から女川中心部に入るや否や倒れたビルに出会う。3階建てが横倒しになっている。前回は近づけなくて、基礎柱を打ち込まなかったからだろうと勝手に思っていた。今回は間近にしげしげと見た。基礎柱はあったのだった。それが、柱とコンクリートの基礎床との継ぎ目で全てが千切れている。基礎杭と基盤の繋ぎがもっと強ければどうなっていたのだろう。女川には、ほかに2階建て2棟が倒れたままになっている。1棟は、千切れて短いのや少し長い基礎柱が何本もついたまま横に突き出ている。どれも地盤をえぐられたのではなく、建っていた面積がそのままの形で切り取られた窪みになっている。地震で倒れないということと、水で浮かされて動かされることとでは違うのだ。津波避難ビルという計画を聞いたことを思い出し、浮力を考慮に入れた計算をしっかりしているだろうかと思った。
 この倒れた3階建てビルの道の向かい側の整地された砂利の原に、花が置かれ、七十七銀行女川支店12人に捧げることばの看板が立っている。「~ なぜ、屋上への避難指示が出されたのでしょうか。走れば1分で行ける町の指定避難場所高台があります。~」という「私たち家族の思い」がいたましい。支店は2階建てだった。


  女川原発 PRセンター
 原発とはずっと離れたところに、立派なPRセンターがある。入ってみると、すごくよくできた模型、映像、きれいな説明板、金に任せてという感じだ。内容は安全性、低公害、高効率、礼賛ばかりで、311以後に何らかの反省が加えられた形跡は皆無だった。女川原発そのものは、案内もなく、道路案内板にも入口など近づくルートは示されていない。ずっと離れているがたぶんここから入るのだろうと思う道は頑丈な柵で閉められて立ち入り禁止の掲示があるだけだった。施設の位置配置など全く分からない。かつての要塞地帯の軍事機密のように地図上空白地なのだ。何年か前に行った東海村では、入口は大きくはっきりしていたが、厳重な警備だった。ここのような僻地ではこうなるのかと思った。

三たび三陸 その四

  牡鹿半島鮎川港 わかめ
 三陸は、養殖わかめ収穫の季節真っ最中だった。最初は、牡鹿の鮎川漁港だった。雨の中、壊れた建物が幾つかあり、えぐられて土台のむき出しになった周りが大きく窪んで水たまりになっている。その残りのあちこちで、合羽を着て男やら女やらも分からない人影が立ったり腰を屈めたりして、何やらの作業をしている。水を盛大にこぼしながら小型のトラックが走り回る。どろどろの道とも言えないところを近付くと、わかめの選別、切り取りだった。
 あるグループは、籠に山と盛られた長いのを板の上に引き出して、切り分けて別々の籠に抛り込んでいる。あるグループは籠の上で芽株のついた茎に金具を当てて芽をこそぎ落とし、茎を別の籠に投げている。黙々とあるいはしゃべりながら、手は動きを止めない。それらの籠を別の人が入れ替え運び去り、また新しく満載の籠を持ち込む。
 それぞれの組の通路側に屋号が貼り出されている。その横に、何か目立つマークが付けられているところもある。そういう組は人数が多く、若い顔ぶれに見える。ボランティアなのだろうと見当がつく。思いなしか、手つきがすっきりしないように見える。だが、誰も、黙々と休みなく手を動かしている。
 離れた別の一角に行くと、エンジン音の中で湯気のもうもうと立つ大きな水槽の横のやや高い台の上で一人が棒で湯気の立つ槽の中をかき回し、二人がその横の一段低い槽の中から長いわかめを棒でひっかけて持ち上げてはさらに横の籠に移している。みるみるいっぱいになるその籠を合間を見て引き上げると、籠には布袋が仕掛けてあって、その袋の口を縛り上げるのだった。その袋は横の平台の上にきちんと並べられ、近くにそれが何段にも重ねられて上に重しが載せてある。それら重いものはフォークリフトが動かしている。そういう釜と水槽の組み合わせが何組も雑然と並んでいる。邪魔にならないように近づいて覗くと、湯気の立つ水槽には、エンジンで熱湯が噴き込まれて、上から黒い若芽が落とし込まれる。それが、ひとかき湯の中で泳がされて次の槽へ送られるときには目の覚めるという言葉がぴったりの緑色になっている。
 湯を一瞬くぐらせた芽株の一切れをもらってかじりながら長い時間うろついていた。およそ20基を数えた。ちょうど休みに入って煙草に火をつけた一人に相手をしてもらった。わかめの長さ、芽株のつく位置、葉の切り分けの具合、生での出荷と塩わかめでの出荷の具合、そして災害の影響、あれこれ尋ね切れないが邪魔にならないうちに退散した。
 『故郷』の中にルントウの話を聞いた主人公が、「あゝ西瓜にはかくも危険な経歴があるものなのか」といった思いをするところがある。言葉がこうだったか定かではないが、久しぶりに思い出した。わかめにはかくも複雑な経緯があるものなのか。

三たび三陸 その三

  七ヶ浜町立向洋中の下
 仙台と北隣の多賀城市の東に張り出している半島の七ヶ浜町は、震災図によると町境になる付け根部分がほとんどすべて南北から津波に襲われていると見える。その中の一部だけ免れたぎりぎりの境になるらしい所に記されている向洋中を探してみた。低い方は田んぼで、浅い広い谷の谷頭にかかるところの10mほど高台にある学校は、平常通りで被害は見られない。畦道をやってきた散歩ウォーキングの女性に様子を教えてもらった。学校のもう少し上に住んでいるそうで、この田と斜面とのちょうど境のところまで水は来たという。ひたひたとだが速く、静かだが恐ろしく、風呂の水が増えていくように水位が上がって、どうなるかと見ていたがここで止まって、いろいろな残骸を残して、静かに引いていったということだった。
 ここ以外でも、何人もの人に水の来方と引き方を尋ねたが、浸水の境になるあたりのところではよく似た答えだった。静かに来て静かに引いたのだ、勢いとしては。だが、速さとその異様さに立ちすくむしかなかったようだ。海直近とは全く違う。
 こういう話を聞いた後、浜で波を見ると、遡上ということの不思議を考えてしまった。波頭が砕けて、そのあと水は厚みを減らしながらも、透明な薄い膜のようになってさらに砂の上を駆け上がり、やがて引き下がっていく。その最終点の高さが、波頭の高さより高いのではないかと見える。波動エネルギーで寄せる水がだんだん浅くなる海底の抵抗で上に押し上げられ、波頭が高くなり、やがて前方に砕けて下の水に戻る、そこまでは簡単にわかる。だが、水はそれからさらに陸側へ延びる。その横方向エネルギーは寄せて来た惰性・慣性なのだろうか。陸側が高いのだから、エネルギーはすぐに無くなりそうなのに、むしろ速くなったかのように延び続ける。よく見ていると、その薄い膜のような水の厚みの下の方は、早く海に帰りたい?分子もあるようで、逆らっている部分もあるようだ。いったい波という水はどの部分がどういうエネルギーでどう動くのだろう。水の分子それぞれに違う色を付けて観察できたら面白いだろうな。浜に出られるとこんなことを考えて、数十分もぼんやり眺めていることになる。三陸には楽に降りられるゆるい浜は少ないのだ。
 帰って早速調べてみた。名工大の研究の中に、PIVアルゴリズムという方法を使った波各部の動きを視覚化した図があった。微小粒子を混ぜて特殊な投影で位置を見る方法だ。1枚のその図では、疑問は解決しないが、同じことを考える専門家がいることに安心した。それに、別のHPで波の遡上と傾斜の関係を調べたものも見つけた。タンジェントシータなんて、こんなの見たのは60年ぶりか、それでも読めるんだ、でも意味は何だっけ? というようなので埋まっているページを流し見して、単純化した実験では、45度の半分ばかりの角度の斜面で最も遡上距離・量が大きいということらしいと分かった。こういう検索は、読むのは大変だが、探すだけなら実に簡単で速い。今学生やってたらいいのにな。ところで、これで、心配になった。今回まわってみて、2年経った三陸では、堤防嵩上げや新設の説明用骨組みがあちこちにある。その骨組みの角度を見たり説明を読むと、これまでのより海側傾斜もゆるくして、基部もずっと広げてあるようで、壊れたものよりはさすがに良くなるらしいと見ていたのだが、越堤を誘うとか、打撃が大きいとかの角度になってはいないのだろうか。工学者に頑張ってもらわなければならない。砕波・遡上・前浜といった用語をいちいち確認しながら、海洋学だか海岸工学だかの論文などという縁遠いものに苦労はしたが、それなりにおもしろい経験になった。

三たび三陸 その二

  亘理町立荒浜小
 平らな広い阿武隈川の河口南岸周辺は、海岸砂丘の松林と思うあたりに瓦礫の山と重機の動く姿があるほかには人影もない。敷石だけになった家の跡が疎らにあり、その間にさらに疎らに新しく見える家があるばかりだ。鳥の海という広い汽水湖も視野に入る。その中で遠くから小学校の建物は望める。近づけば、柵や校庭、建物の外装まで、全て真新しく被害の跡はない。門は閉ざされているが、中には車が数台ある。校地の角には、真新しい「津波襲来の碑」がたっている。あちこちから写真を撮っているうちに遠くからゆっくり近づいてきた人影があった。犬の散歩の女性だった。尋ねてみると、新学期から再開すると言った。卒業した孫がいるのかなと思いながら、声の響きが明るかったなとも思った。周囲の家数を改めて見渡して、いくらかの違和感で通う数を心配するうちに思い当たった。ここでは、学校を新しくきっちり再開することで住民の復帰のきっかけにするのだろう。学校が地域の要(かなめ)なのだ。あつく、ほのぼのと、うれしくなった。ここは合併せず独立している町だ。

  仙台市立荒浜小
 昨日と同じ荒浜の名が仙台の海岸線にもある。荒れたままの荒浜小もある。浜に出ると新しい大きな観音石像が立っていた。横に荒浜有志の会の「暮らし・文化を守り育む再建のあり方を『荒浜の住民の手に』」という大きな黄色の立て看板があった。文面によると、災害危険区域に指定され暮らしを失う新たな危機にあるために「希望の黄色いハンカチ大作戦」を展開し、全国のふるさと再生と結ぼうとしているという。「復興」は、新たな喪失を強いる面を持っている。こちらの荒浜小が荒れたままであるわけだ。仙台市の判断や決定の経緯と妥当性を思った。


  名取市立閖上中
 海に沿って続く日本最長の運河である貞山堀の内陸側を走る県道10号線は、去年は至る所が止められていて国道6号へ追い込まれたりしたが、今回は一般車も通れた。南へ名取川を渡ると、河口に最も近い学校の閖上中がある。ここも飛び飛びにしか建っているものはないから、遠くから見当がつく。校門正面の100mほどの道の両側のガードパイプ柵が、両横の1mほど低い畑の方に、なぜか両外側へ折れ倒れている。正面ロータリーの生き生きした4本の松の植え込みの校歌碑に並んで、花に埋まって新しい低い慰霊碑が置かれている。玄関や昇降口には生徒机が置かれて立ち入り禁止になっているが、その外からも、水がずいぶんの勢いで襲ったであろう様子が、廊下の掲示板や戸の倒れて内側の見える室内などの、汚れの高さや剥がされた物の傷跡から見て取れる。
 正面の道の横に小さなプレハブがあった。入ってみると、近隣地区からのボランティアによる震災案内所で、写真などもかなりあり、来る人ごとにDVDで映像を見せている。訪れる人たちからの要望が多くて設置し詰めているとのことだったが、ここの地元の人の生の話が聞けたらと思った。
 閖上中学から出ると、否応なく目につくのが見上げる高い盛り土の台形の山だ。頂平面に柵が付けられているが、そこへの手すり付き階段も設けられている。説明板があって、宅地の盛り土モデルとして高さを示すためのものであった。いわく、「閖上地区宅地嵩上げ等現地確認場」。現在地盤から3.9m、堤防は6.1m上げる。311の浸水高さは3.2mと記されていた。

みたび三陸

 6月に瀬戸内に行った後、学テの分析に精を出し、8月の全国教研に資料提供の形で出しました。その直前に10日ほどの入院騒ぎに見舞われて綱渡りで気分的に参ったこともありました。だけど、その入院で、東北のまとめを何とか仕上げる暇ができたのは幸いでもありました。仕上がったわけでもなく、見るたびに手を加えるのに切りを付けたというところです。
 入院も全国教研も、書きたいことはあるのですが、今になっては、もう証文の出し遅れですね。だけど、東北だけは、3度目で一応の切りの感じなので、ここに載せます。またまた長いので、何回かに分けることにします。


  三たび三陸 その一

 今回は、学校を多く見ようと思った。前回前々回に見たことを思い返すと、公的機関の建物、特に各地に必ずある学校が、被災のありさまの、象徴的でありながら具体的でもある語り手そのものなのだ。まず、震災対応版と銘打った県別道路地図、全域3万図を2冊買った。去年は震災対応版があまり役立ちそうもなかったので、むしろ古い版に頼る方がいいと判断した。だが、持っていた東北版は10万図で、細かいところがわからなくて苦労したのだった。その震災対応版の被災地にある学校と被災地の境目にあると見える学校をマークした。ずいぶんの数だが、なるべく全てを尋ねようと思った。半月余りあるから何とかなると、いつもの甘い予測だった。
 人から聞く話は、あえて冷酷を承知で言うと、生き残った人の話で、波にのまれた人に会うことはまず望めない。つまり、安全地から、遠くから、見た話なのだ。もちろんその話でわかることは多い。だが、波にもまれた物体の語る真実もある。いずれも、遭遇したその個別の現実で、総体的・巨視的であることはむずかしい。それらを心構えとして、さらに現地を歩いてみたいのだ。現地では、最新版の地図に記された学校が、津波以前にすでに廃校になっていたらしく、公民館になっていたり、撤去された跡地であったりして、過疎化や学校統廃合の波の激しさを否応なしに思わせられもした。
 今回は全体を通して、物よりも人関係の思いが強かった。地形との関係をみたいと津波被災地を巡り始めたのだが、3回40日をこえて、津波のあとに残る人の営み、生き続ける人の生活の方に強くなってきている。それをまとめた。

瀬戸内の西の端 13.6

 冬の瀬戸内の島旅は2週間で大三島から呉まで、西のはずれにはとうてい行けなかった。今度も2週間だが、逆に下関から東へどこまでたどれるか、と考えた。結果は、山口の西海岸から始めたために、瀬戸内の島が上関(かみのせき)と周防(すおう)大島だけになってしまった。広島や岡山の島の昔ながらの落ち着きというような感じは、山口では受けなかった。より開けているというか変化を厭わない感じを受けた。安宿も、いくらか高めだ。
 屋島(周防大島)は平家との関わりなどは何も見えなかった。今までなぜ屋島は平家と結びつけて考えていたのかを不思議に思った。上関は下関と並ぶ名を持つ関なのだから、幾つもの何かを期待していたがほんの少々で、歴史も観光宣伝で作られるものかと考えてしまった。下関も、本州西端で九州と向かい合う大きな彦島では全くと言っていいほど何もなかった。塩飽水軍の跡を尋ねる前に、この上下の関を見ておきたいと思っていたのだが、海の関とは何かという具体への疑問はちっとも解けない。対馬・壱岐・九州北面・西面・南面と、これまで見てきたことともどうもつながらない。


 八島(やしま)
 山口県柳井市の南に張り出した室津半島の南端部と橋でつながる長島にかけてが上関町だ。その町に含まれる八島は、瀬戸内に飛び出した長島のさらに先の瀬戸内海の半ばまで飛び離れている島で、それだからこそ行ってみたかった。観光情報では夏にキャンプする人が渡るぐらいしかないらしい。大きな島なのに泊まる宿はないようなので日帰りの往復になる。上関港から35分で580円の連絡船。前の晩、上関の宿で、八島に行くと話すと、何を物好きなという顔で、以前は大勢住んでいたが、今は30何人しかいないのではないか、65歳以下は数人だろう、といわれた。
 船着きには、階段が水中まで刻まれている。引潮の時に船の屋根が船着きの面より下になっているのを見た。雨の中、相当なスピードで走る町営連絡船で島に近づくと、数十か百かかなりの家数が見えた。どこにでもある島の港だ。日曜だったが相客は黒服の人とその妻と娘の3人だけ。2人は普通の格好だ。小さな船着きにある待合室から迎えもなくその人たちが出ていくと、後には何もない。周りには店らしい家も見えず、人気もない。閉ざされた家が並んでいる。漁船も数隻が見えるだけ、工事用らしい車が2台防波堤のたもとに止めてある。右手に行くとすぐ100mも行かずに小学校跡で、小さな校庭も周囲も草茫々。校舎は跡もない。その先の道も背丈ほどの草に覆われているので、家のある方へ歩くと、家は崩れかけていたり、入り口が草の茂るままになっていたりする。ここは住んでいるらしいと見える家は飛び飛びにしかない。
 1時間ほどで、集落すべての中を歩いてみたが、人の姿は1人も見かけられなかった。動いている車も止めてある車も1台も見当たらない。耕しているらしい小さな家庭菜園を6箇所だけ見た。寺も神社も見つからない。集落から外へ出る道もわからない。山中の数軒の廃村にはずいぶん出会ってきたが、これだけの家数のゴーストタウンは、ゴーストでないだけに、こわかった。唯一やや新しい建物は集落のほぼ中央にある憩いの家兼保健所兼診療所で、その前が役場支所出張所で警察官立ち寄り所。することは何もなくなって、というより哀しく淋しくなって、雨宿りできる船着きの待合室で握り飯を食った。来た船の2人の船員も休んでいて、近くの出身だという若い船長兼機関士にいくらか話を聞いた。今28人で27人が年寄りだという。
 法事を終えたという往路の3人と買い物らしい同年輩の女性4人と一緒に、3時間後の帰り船で帰った。


 祝島(いわいしま、嘗てほうりのしまとも)
 上関の祝島は、上関本島のはずれの四代(しだい)から15分580円の船路だ。ここから先の岬に行ってみたかったが、道はない。波打ちは岩でおおわれて砂浜がないから、道がなければどうしようもない。集落のどこに車を止めても、1日500円を漁協に払う。釣り人以外に来る人はないようだ。船着きに出ていないと船は停まらないといわれて慌てて出て待つ。柳井市を出た船が寄っていくだけだ。祝島に行く人は、柳井か上関からばかりのようだ。船はしっかり舫うのではなく、船員が降りて綱を引いて寄せたところで乗り込む。新しい双胴船で、かなりのスピードだ。八島は町の連絡船なのに、こっちは民営だ。もっとも、民営といっても社長は町長らしい。20人ほどの乗客の半ばは若い男女で、活気がある。
 船着きには迎えやら郵便・新聞・荷物の受け取りやらでかなりの人が集まる。周囲には店らしい家もあり小さな港のふつうの景色だ。漁船も30ほどはあるようだ。
 まず目に付くのは、あちこち至る所にある塗ごめの塀だ。軒の高さの石垣を漆喰で止めてある。瓦を塗り込めた瀟洒な塗込め塀と違って見るからに頑丈そうだ。石積み練塀と呼ぶようだ。城の石垣風にも牢獄風にも思える。屋根も、すべての瓦を漆喰で固めてあったり、さらにかなりの大きさの石を幾つも載せてあったりする。石塀と屋根の端とが密着している。完全に繋いで塗固めているのもある。台風への備えで、八丈島や八重山でも似た建て方があった。初めて出会ったのは、富士の山小屋で、石室と呼ばれていた。ここは漆喰で固めてあるのが特有だ。狭い横町の入口に当たるところが門構えになっているところもあって、閉められるようだ。これも風を遮るのだろう。
 午後、強い陽射しになってしまったが、すごい石積みの棚田があるというのを見に行った。4kmのうち初めの1㎞が結構な上り坂で、大汗をかかされる。セメントなどで舗装された細い道で、ビワ畑とミカン畑が続く。枇杷の収穫期で、袋をかけたのもかけないのも、鈴なりで、無袋のは日に輝いている。バイクで追い越して行ったおばさんが、追い越しながら枇杷を食べろという。しばらく行くとその人の畑で、幾つももいでくれた。無袋の方が、なりはやや小さいが甘い。
 棚田は、この島の幾つしかない観光スポットの大事なひとつで、見事な規模のものだった。巨岩から小振りな石までを野積みした城壁が高くは10mほども積まれている。高いということは傾斜が急だということで、人力で独力で作ったという想像できないすごさを持っている。3段の最上段だけが耕作されているのだが、幅100mほどのその3段は、ビワとミカンと森に囲まれて静まりかえっていた。2・3段目の雑草に荒れて数年は経ているかと見えるその平面がさびしい。親子2代で築いたというそれを、当主は自然に帰るのも良しと言っているのだという。平(たいら)さんの棚田と、島人はその「平さんの」を決して省かない。元棚田をビワ畑にしたらしいところも確かにあちこちで見たのだが、この呼び方には、やはり石積み練塀の中で何代も暮らしているこの島の感慨が響いていると感じた。横に作られている灌漑用の溜池で牛蛙が一匹のどかに鳴いていた。
 帰りにもおばさんはビワを収穫していて、素人の作ったものではいくらにもならないから腹いっぱい食えという。4年前知人が放棄するというのを継いで始めたそうだ。言われても、それほど食べられるわけもない。
 台風の予報と降り出した雨で、島の裏側に行くのは諦めて、朝の船に乗った。ビワが数十箱積まれた。島の中学生もこれで登校する。1人の男の子はラウンジ風の長椅子の隅にカバンを置いて叩いて平らにしている。どうするのかと見ていると、靴を脱いで横になってすぐ眠り始めた。女の子は一生懸命勉強を始めた。もう一人の男の子も居眠りに入るのは早かった。


 原発
 祝島には、原発建設反対の事務所の大看板を2階の壁に張った家があった。石積み練塀の家の門扉に原発反対の札が貼ってあるのも見かけた。昼飯を食い3時のお茶にも寄った店は、島唯一の常時開いている現代風の食堂喫茶店だが、反原発の中心になっているらしい。反対署名用紙が置いてあったので、そっと署名した。上関の室津の中心の曲がり角には、原発建設反対のよそ者は出て行けという過激な大立て看板があった。
 祝島の宿で、神社が荒れていたがと話すと、神主はちゃんといて、実はうちの縁者なのだが、島全体が反原発でまとまったら逃げ出してしまって戻ってこないのだという。神社本庁内にいたことがあるのだそうだ。311以後棚上げ状態で賛否双方が様子見で静かだが、町そのものが宙に浮いているような面もあるらしい。合併は避けたか避けられたか、原発がどうからんでいるか、話は聞けなかった。ここは北隣の平生、そのまた北の田布施、と町が並んでいる。柳井市や光市と小さな合併をしてもメリットはなく、郡全部とか2つの郡をまとめてとかしないと、現下関市のような巨大市と太刀打ちできないという計算もあるのだそうだ。
 祝島は反対運動の人で満室になることが多く、それを旅館があおっているというような言い方を上関では聞いた。祝島では、運動で来る人は朝来て終便で帰ってしまい、昼飯も島は不便だからと持参するのだと嘆いていた。同じ町内の、町中心から船で30分余りの距離が、越えられない隔たりになっている。
 朝鮮通信使などの上関の歴史をまとめた冊子が宿や店や船着きの待合室にあって、観光用か小学校の副読本かと思ったが、奥付を仔細に見ると、原発開発準備支援金で作られていた。俺の税金がこんなところに使われている。いくつか見た中電の支店には、開設準備室支所の看板が必ず掲げられている。初めなんで中電がと思ったが、中部電力ではないのだと思い当って気が抜けた。


 四階楼
 上関で最もおもしろかったのが、明治初め12年に建てられたというこの建物だった。純国産材、純国内技術での洋風建築。というだけならあちこちにかなりあるだろうが、奇兵隊で活躍してのちに海運会社を作ったという人がどうやってこの洋風を構想したのか考えて、長い時間うろついて楽しんだ。洋風4階建てビルの外観に、和風畳敷きの室内。その木材軸組に漆喰の白壁は、城などでは多いからそれほど不思議ではないが、最上階のガラス障子のフランス製というスデンドグラスの色の配置など、ヨーロッパを強く意識していると思われる。そして、その真っ白な内外壁に、いたるところ盛大な鏝絵(こてえ)がある。これはなんだろう。鏝絵は琵琶湖東岸の八幡などですごいのをかなり見てきて違和感はないが、外壁のものなどはノートルダムなどの外壁を意識していたのだろうか。この幕末明治という時期に、渡欧経験のないらしいこの人が、いったいどんな学習からこんなイメージを持てたのだろうか。書物、伝聞、あるいは絵。ヨーロッパにはこんなすごい建物があるそうだ、そんなのはこっちでも造れるさ、どうだちゃんとできるだろ。といったことなのだろうか。和魂洋才は諭吉が言い出したのかどうか。洋風自然主義に対抗して擬古美文の樗牛や菊池寛が売れる、というのはずっと後のことだ。当時の日本あるいは長州の空気・熱がどんなものだったか、興味は尽きない。

パソコン騒動――Windowsからの半脱出

 しばらく、いや長いことご無沙汰してしまった。ここ何ヶ月もパソコン騒動を繰り返して、てんやわんやだった。今、12年前の20GbしかないCeleron(Sotec)を復活させて、快調?に使い出している。そして、Winから半ば脱出した。使っているのは、UbuntuLinuxだ。完全脱出と言えないのは口惜しいが、このWin支配の世界という現状の中では致し方ない妥協だろう。
 ずっと前から、文書や表計算ソフトにはOpenOfficeを使っていた。みんなで作ってみんなで使う、全て自由(無料)というのが気に入ったのだ。もちろん作る方には参加できもしないが、自由に無料で使えるのは素晴らしい。Win専属?のWordとも共通しながら独自である点も大いに気に入った。同じ方向を進むWikipediaは今は広く使われる辞書になっているが、OpenOfficeの方はそれほど広がっていないのは不思議なことだ。同じ趣旨で(無料も含めて)基本統合ソフトOSを作って使っている人たちがいることは知っていた。だが、一度のぞいてみたらやたら難しいので、敬遠していた。ところが、突然Winがつぶれる事態になってしまった。デスクトップがつぶれてノート1台に減ってしまっていたが快調なので油断していたところだった。パソコンなしの状態では、お手上げだ。ネットで探さなければデータ救出さえできない世の中になってしまっていることをいくら嘆いてもどうしようもない。
 結局はデータを業者に取り出してもらって、新しいパソコンを買って、何とか今に至っている。えらい突発臨時出費だった。であるから、予備はどうしても必要だとわかっていても、更なる出費には耐えられない。窮余の策をLinuxに求めてみた。調べるうちに、WinやMac以外の第3世界にいる人たちの数の多さに驚く。だが、細かい検索でなんとか見つけた参考になりそうな項が、英語やパソコン用語ばかりでさっぱりわからないのには往生した。この、プロやオタク的マニアの世界らしい中で散々苦労した挙句、UbuntuLinuxかPuppyLinuxかとなった。両方をこれまた何日も散々苦労して取り入れて、立ち上げて、何とか使ってみた。だが、生憎どちらも思ったほどではなかった。Puppyはいかにも軽快でいいのだが、操作の厄介さにいずれ慣れるだろうとも思えず、お手上げだった。Ubuntuは日本語版でこなれているので使いやすいが20Gbにとってはやっぱり重いので敬遠した。HDDを入れ替えようとしたら、もうこれは一般的には手に入らない過去の型式のものになってしまっていた。それでどうするかとなった時、Ubuntuには古いけど軽いのもあるということを知った。それがUbuntu10・4だった。Puppyなら百Mbほど、Ubuntu10・4なら数百Mbで、古いくたびれた捨てるパソコンが、生き生きと軽々と動くのは実にいい。必要なものだけにすれば、パソコンは軽いのだ。スマフォで済む人が多いのも納得できる。
 幾台ものパソコンのHDDを抜いて入れ替えたり、外付けに作り替えて他のパソコンにつないだり、といった厄介な作業をめげずにやれたのは、先秋にやったパソコン解体遊びの経験のお陰だった。捨てる古いノートパソコンをもらってきて、画面までも外せるところは全て外して、組み立て直してみた。通電して動き出したときは嬉しかった。5時間の熱中作業だった。おかげで、パソコンが組み立てキットだということがよくわかったのだった。
 今回、故障が2回も続いて、OSをいくつも入れ替えて、いろいろやって、そのほとんどが無駄骨だったのだが、満艦装飾、ゴテゴテと飾り立てたものを無駄に買わされているパソコンというものの現状がよくわかった。バブル崩壊後、さらに311後、質素・質素な暮らしということが人々の問題意識に入って来ているが、パソコンではそうなっていない。かつてカメラで車で、今はスマフォで、使うかどうかわからない、どうやって操作するのかわからない、ひょっとすると装備されていることさえわからないものを買わされている。便利でいいという人もいるからではあろうが、なんともはやというところだ。
 それにしても、Linux系を使っている人は多いようなのに、Windowsの独占支配に抵抗しようという動きや論議が盛んにならないのはなぜだろう。