30度、27.5度
今回の奄美の旅を計画したとき、占領米軍施政や日本復帰運動のことが出てくるだろうかという思いがあった。2年前の吐噶喇列島(とかられっとう=十島村)の旅では聞かれなかったのだった。また、薩摩支配や琉球支配とそれ以前の独自の暮らしとの間の問題が何か見つからないだろうかとも思っていた。まだ行ったことのない島が、群島という大きさのレベルでは奄美だけになっていて、いわばラストの群島の旅という選びようのない行き先ではあったのだが、沖縄がこれだけ問題になっている今、中身への期待はずいぶん大きかった。
奄美では、琉球服属以前はアマンユ(奄美世)、琉球時代はナハンユ(那覇世)、薩摩藩支配以降はヤマトユ(大和世)、米占領軍政時代はアメリカ世と呼ぶという。
いつもの通り調べずにぶっつけで行ってみて感じ取れるものを探したのだが、戦後の出発段階のことを、あまりにも知らないまま今まで過ごして来ていたことに激しいショックを受けた。途中で考え、わからないことを帰って調べ、新たに考えさせられることが次々に出てきた。沖縄の基地問題の、引きずってきた事柄も、少しわかってきた。それで、奄美の旅の記録とは別に、今の途中整理として、まとめてみることにした。まず時間順に並べてみることから始める。時間的字句的にこれはどうなっているのかと思うことが、文書によって多く出てきて困ったが、何とかそろえてみた。
1、米軍の占領宣言は非常に早い段階だった。
1945年3月26日、慶良間諸島に米軍上陸。
同日、米海軍元帥チェスター・ニミッツが米国海軍軍政府布告第一号(ニミッツ布告)を公布。
「日本政府の全ての行使権を停止し、南西諸島及び近海並びにその居住民に関するすべての政治及び管轄権並びに最高行政責任が、占領軍司令官兼軍政府総長、米国海軍元帥であるニミッツの権能に帰属する」宣言。
連合国軍中での一番乗り宣言といったいわば権利主張だったのではないだろうか。
ニミッツ布告発布を法的根拠として沖縄統治の軍政府を即座に設立した。
この宣言や軍政開始は、連合国間の承認も経ていない。
ハーグ陸戦条約等の国際法にも違反しているといわれる。
1945年4月1日、米軍沖縄本島に上陸。宣言布告。
上陸後の4月5日にも、同名の布告を公布という記録がある。
宣言の日付は3.26、4.1、4.5と3通り出てくる。
布告が公布された地や政庁を置いた日などが異なるためらしい。
つまり、砲弾の響きの聞こえる混乱の中で、占領地ごとに通告していったのが、受ける身からすれば初耳で初めての布告となったのではないだろうか。
45年8月20日、『沖縄諮詢会』設置。解体状態の沖縄県庁に代わる沖縄本島の統治機関。
後に沖縄諸島全体まで米軍により権限が拡大された。
宮古諸島は12月8日、八重山諸島は12月28日、軍政下に入った。
宮古支庁、八重山支庁は戦火を受けず存続していた。
1950年12月15日、琉球列島米国民政府に改組。
布令という超法規での独裁的権力という性格は、後までずっと影響大。
1953(昭和28)年、琉球立法院による労働三法制定に対し、米民生府は三法の公布直前に布令116号を発布。基地関連事務所に雇用の労働者は、立法院制定の労働法の適用除外とした。
55年3月、労働組合の結成も米民生府の許可制にし、労働運動を大きく制限した。
基地問題は、これらとほぼ同質のまま、現在に来ているのだ。
2、軍事占領は、30度以南などだけではなかった。
千葉木更津で4日間(45.9)、軍事占領があった。(千葉歴教協の本による)
「米軍司令部は、大本営に対して「九月一日、占領軍本隊である米第八軍の一部が館山海軍航空隊に進駐する」と打電した。三〇日朝に第六海兵師団は富津岬に上陸し、東京湾要塞の要である海堡を爆破し、午前八時頃にはマッカーサーが厚木に到着した。
この日館山では、占領軍を迎えるために館山終戦連絡委員会を設置し、まず米軍駐屯地になる基地周辺の民家に強制立ち退きを命じた。三一日には「館空」基地東岸壁に、米第八軍のクロフォード少佐が指揮する先遣海兵隊二三五名が上陸したのであった。」(NPO) 安房文化遺産フォーラム・戦跡からみる安房の20世紀による
3、1945年(昭和20年)小笠原・鳥島(小笠原諸島の南鳥島)は、日本を占領下に置いた連合国軍のうちアメリカ軍占領の取り決めになる。
4、1946(昭和21).1.29、日本本土と北緯30度線で分けて、南の諸島部(琉球列島・小笠原諸島・奄美群島・吐噶喇列島)を直接軍政下に置く決定。
1946年2月2日、奄美群島・トカラ列島は軍政下に入った。
1946年2月28日、連合軍覚書により,北緯30度線を暫定国境と定めた。
旧十島村が分断され、旧十島村の上3島(竹島・硫黄島・黒島=現在の三島村)は鹿児島県管轄に編入。
奄美群島と旧十島村の下7島(現在の十島村)は米軍政下。
口之永良部島はこの時に国境の島になった。52年の講和条約まで6年間。
5、1951(昭和26)年12月5日、北緯29度線以北の下7島本土復帰決定。
北緯29度線以南の南西諸島(琉球王国全盛時代の範囲と同じ)が米軍政下。
1952(昭和27)年、対日平和条約(サンフランシスコ条約)第3条による。
52(昭和27)年2月10日 吐噶喇列島 返還。
大島郡十島村(下7島)、同三島村(上3島)発足。
6、占領地返還要求運動盛んになる(一括全面返還 沖縄・小笠原・奄美)
7、1953年(昭和28年)12月25日、奄美全島返還。
クリスマスプレゼントと称したという。皮肉と捉えられた。
奄美諸島の日本復帰で、与論島と沖縄島間の北緯27度線が新国境線になった。
沖縄の範囲は、北緯27度14秒以南の南西諸島(大東諸島を含む)と硫黄鳥島(無人)と伊平屋島。
「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」の中で定められた。
伊平屋島と伊是名島は琉球王統発祥の地として琉球王国時代に王府直轄領だった。
行政区としても王府の聖域が多く存在する本島南部の島尻郡に属した。
これが現在も続いている。
伊平屋島は、南西諸島の北緯27度以北の有人島では唯一、奄美群島の本土復帰時に返還されなかった。
8、1968年4月5日、南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定 締結
1968(昭和43)年6月26日、小笠原返還。(協定発効)
小笠原諸島に対しても日米安保条約は適用。
硫黄島や南鳥島にあった通信施設など一部のアメリカ軍基地は引き続き使用。
9、1972年(昭和47年)5月15日、沖縄返還復帰。
アメリカ軍基地を縮小せず維持したままの「核抜き・本土並み」(密約付)の復帰。
27.5度 2島分離返還
奄美の復帰運動では、日本への復帰で鹿児島への復帰ではないと叫んだ多くの人がいたそうだ。大阪を望んだ人が多かったという。奄美県独立論も沖縄県への復帰もかなり言われたらしい。薩摩藩時代の搾取だけでなく、鹿児島県になってからの不当な差別的仕打ちへの恨みが血の中に流れているという。沖縄とのつながりでは、琉球支配時代からのつながりや血縁を持つ人も多い。年代や生活基盤によって、思いは様々らしい。
与論と沖之島だけを分離して沖縄と一緒に占領を続け、他の奄美諸島を先に返還する、北緯27.5度線以北のみを返還=2島分離返還、というニュースが毎日新聞に出て、日本復帰運動は一気にそれこそ爆発的に燃え上がりを呼んだそうだ(奄美群島祖国復帰運動署名は14歳以上の住民の99.8%!!)。それが奄美全島の一体化、つまり鹿児島県大島郡への復帰という流れにまとめられていった。沖縄・小笠原・奄美の返還要求運動が奄美でも全国でも盛んになっていた。特に革新勢力がそれをリードする状況の中で、その燃え上がりをそらし、基地沖縄への影響をかわすためのリーク・謀略だったと言われている。軍事的にも産業的にもさして価値のない一小部分として、情勢を動かす単なる捨て駒として利用されたのだった。
密輸 与論と口之永良部
与論で密輸の話が出た。復帰運動の話の中で、お互いが船を出して、中間点27.5度線の「国境線」上で船を寄せ合い手を振り呼び交わすとき、贈り物の交換も当然あった。それを密輸だと官憲が難癖つけたという話の中で、密輸などとは勝手な言いがかりで、知り合い同士親類同士で物を送りあうのは当然のことだという。そうとう大がかりな贈り物もあったさ、ともいう。
とたんに思い出した。懐かしい根岸泉さんのこと、口之永良部のこと。去年の口之永良部島の噴火のニュースでも思ったのだが、今度は、自然のことでなく人間の話として。日本の中に引かれた国境線のこととして。
そうだった。口之永良部は密輸の島といわれたのだった。北緯30度線の島として。
帰ってさっそくネットで調べると、噴火のことが多い中に、島の人のブログに根岸さんのこと、『南の島に行かないか』の記述が出てきた。『南の・・』にある根岸さんの調べは、数少ない島の歴史の文書の中で大事なものになっているらしい。さすがに歴教協の副委員長だけに、それより故郷と言い切る島への熱だけのことがある。15年かもっとか毎年通っていた。彼が口之永良部に行くようになった初めのきっかけに、ぼくは関わったのだった。
探すと直ぐに『南の・・』は見つかった。読み直すと、まるで読んだ記憶が無い。相川充弘が、加藤文三がと、呼び捨てで語っている。こんなに軽妙な文だったのかなどと驚きながら、30度線の国境で人々がどうだったかを読みふけった。ところどころだけ、ああそうだった、このことあの頃にも聞いたなと、記憶がよみがえった。といっても、読んだ記憶か、聞いた話かの区別はまるでつかない。語るときの彼の表情のほうが鮮やかに蘇ってくる。
密輸と言われることへの感覚は与論も口之永良部もまったく同じといっていい。同じ地域のなじみの人々を分断する非情の線だ。そしてそれに対抗する意識も手立ても良く似ている。地理に疎い官憲を倭寇かパルチザンのように翻弄して、聞く方には遊びのようだが、日常の買い物が貿易とされて生計を断たれた必死の思いがあった。
根岸さんの残した中身は、ぼくが与論で聞けたレベルとは違う。細かい具体は、差し障りがあるから、行きずりのものに話さない。彼は行きずりの人ではなかった。何といっても、15年を越えて毎年通ってくる本土の文化人だ。しかも、何日もいて、さらに飲兵衛だ。そして、あの愉快で率直な人柄だ。
帰ってすぐ館山
館空(かんくう=館山航空隊)に関わる地下壕跡を公開していると知ったので、帰ってすぐ3日の暇があって、館山に行ってみた。赤山地下壕跡、元館空現海上自衛隊館山航空基地を見下ろす山のふもとにあって、市営の施設として200円で、ヘルメットをかぶって誰でも入れる。日吉の海軍参謀本部地下壕跡ほどではないようだが、ずいぶん大きな規模だ。砂岩と泥岩の互層の縞模様がデザインしたようにきれいだ。大きな倉庫と思う部屋がいくつも並び、各部屋の奥は止めてあって入れないが、見たところ通路か運搬路といったものが、こちらと奥とに並行して各倉庫をつないでいるようだ。通れる通路の倉庫と反対側にも、止めてあって入れないが細長い洞窟がいくつも掘ってある。
今入口としているところから行ききって、ちょうど反対側に当たるところにも大きな入口がある。これは止めてあるので、あとで外を回り込んでみたら、その閉めた入り口のほかにも、小さい入口らしいものがいくつもあって、みな止めてあった。こちらの方が基地に向いているから、正面なのだろう。今の入口の少し離れたところにも、穴があるらしい窪みがあるが、柵をしてあって確かめられない。その閉まっている入口の大分下側に、掩体壕が残っている。戦闘機用らしい大きさで、頑丈な造りだ。飛行場までずいぶん離れていて、運ぶのはさぞ大変だったろう。
この地には、ずっと南に回り込んだところに、鉈切(なたぎり)神社と海南刀切(なたぎり)神社というのが2つ向かい合いにあって、山側の社殿の奥は、大きな洞窟遺跡で、縄文辺りの遺物や、墓地にしていたころの人骨が出たりしている。元もとは一つだったと由緒にあるが、なぜ分かれたかは書いてない。安房一之宮の奥にも、埋め戻されているが大きな洞窟跡があり、そばにも半ば埋まっているが、覗くと奥が広そうに見える穴も見つかる。
これらは自然の洞窟だろうが、軍用のものは素掘りであっても丈夫で、3・11にもびくともしなかったそうだ。この辺り一帯の岩は、ほとんどこの砂岩と泥岩の項互層で、掘りやすいのだが、崩れないのだそうだ。
東京湾口に2つだけある島と聞いていた島の1つが、基地の外側にある。かつて要塞地帯で、いつか行ってみたいと思っていたのがいいチャンスだ。行ってみると、思った通りにいい島だった。陸繋の砂州を渡って、1巡り1km弱。あちこち水辺に出られる。ここはもう外海だから、水がきれいだ。岩を伝って水際を歩ける。砂岩を掘ってある洞窟が、入ってみると横にも抜けられる。背を屈める狭さだが、やや複雑な造り。何らかの陣地と思うが、事情を知っている人もない。
あるいはと思っていったのだが、これら幾つかの洞窟陣地跡以外には、行って見られそうなところも見つけられず、占領の話を聞けそうな人にも出会えなかった。安房も、あれこれ見るところは多い。幾つもまたの機会に残した。行きたいところがまだあったほうがいいさ。
総番号について考え始めたら <2>
道草を食っているうちに、昔散々馴染んだ無為や知足の老子は別にして、墨子の兼愛と孔子の仁がどうやら要カナメなのではないかと考えるに至った。その経過は本人としてはとても面白いのだがこの際省いて、兼愛と仁は、どちらも博愛と言い換えられるように、ことばとしては一致するのだと分かった。そして、その同じような言葉の中身が、両者で180度違うということも今になってやっとはっきりした。上からと下からの視座の違いだ。最近良く使われる言い方をすれば、上から目線が孔子だ。孔子の教えの対象は民ではなく士大夫だといわれるのはそのことだった。トップが自らを鍛えて徳を施せば、その下回りの大家族部下はちゃんと整う、そうすると国はうまくいき、天下は太平となる(修身整家治国平天下)。王皇やその周辺の上層の者の踏むべき道なのだ。それを後の世になって自己中の為政者が逆転して下々こそ踏むべしと、支配の具にしたのだ。今、国家・官僚が守るべき憲法を民の義務にすり替えようとするのも同じ発想だ。公がすべき困窮保障を、努力不足の自己責任にすり替えるのも同じだ。だから今、道徳の教科化が強行されるのだ。上から目線であれ正しいものならば、その道徳は下に強制されることはなく、上の者が黙って身を修め自省していくはずである。下に押し付けること自体が、すり替えの偽物であることを証している。われわれは、下から目線の道徳を、喫緊の課題として追究しなければならない。フランス革命の下からよりもっと下から、2千年前の墨子は、それを突破しようとした、だから少数意見に押し込められた。
この道草にはさらに脇道草があって、孔子の仁を考えているうちに、仁の人と二、偏(へん)と旁(つくり)の問題、つまり、形声文字ひいては文字そのものの勉強のし直しに入り込んだ。分かった気になっていたが、上っ面半分しかわかっていなかったのだった。文=象形文字・指事文字、字=会意文字・形声文字、であることを再認識した。かつての生齧りを思い知らされた。
このことから、(とつないだが、この後へ行くまでには、かなり長い経過があった。人と二の合成が何を意味したのか調べたり、兼・謙・嫌・傔・廉・蒹・膁やもっとほかの兼を当たったり、あれこれとあって)福祉の中心に扶養・扶助、つなげて考えて協があると気付くことになった。協は、連帯といってもいいが、平等な個が力を合わせるわけで、上下・高低の格差はない。個の独立・尊厳は、平等・自由とともにある。どれが抜けても成り立たない。フランス大革命で、自由・平等・博愛(友愛)が叫ばれたのをなるほどと思い出した。(そういえば、つい先日のパリのテロは、パリコンミューンの中心地だったところらしい。) 博愛・兼愛は無差別・平等の愛であり、その背中に自由と独立とを持っている。儒では、上下・尊卑を峻別するから、愛の対象にも格差をつけていた。最上位が父(祖先)で、だから父祖の葬礼などをケチってはならないとする。父祖への礼を欠き不孝だとする。これを演繹していくと、目上(上位者)に対しての礼(供え物・贈り物を含む)ということになっていく。だから儒は墨家を激しく攻撃し、世の体制派は当然儒を正当とした。今、礼儀やマナーなどの言い方をバックに道徳が主張される根っこはここにある。
そしてまた道草だか本道だか区別しがたく広がって、福祉・介護の具体的な中身は、家事が大きな部分を占めることが気になりだした。掃除ロボットだの家事ロボットだので新しい市場=金儲けが始まっている。円盤型の掃除ロボットが話題になり、知人宅でそれが動くのを見た時、星新一や小松左京のSF世界を思い出した。介護者用の筋力倍増服などは明るい方向だが、ロボットメイドが、はいアーンしてと口に食べ物を押し込む図を想像すると、寝たきり老人の我が姿か、とおびえる。家事とは何か、家事がなくなった個人生活は、どんなことになるのだろうか。家事とは、排除すべき無駄ごとなのか。逆に家事が生き甲斐という場合は、それは趣味に位置付けた方がすっきりする。生計のための仕事と遊び・趣味、(それらへの関わり方・熱の入れ方もそれぞれだが)その2種のみの生活というのも、考えると何かおかしい。最近、食べる気が起きないときがあって、食べないと衰えると仕方なしに何か作ったりするとき、これは病人食かと思ったり、この作業は仕事かと考えたりする。
白象はオッベルに甘いことを言われて鎖を付けられ働かされた。番号付き総労働の先はどうなるだろうか。
総番号について考え始めたら 〈1〉
総番号は、徴税のためだ。戸籍はそもそも徴税・徴兵のためであった。国家の大型化(=法治化)、国家税収の大規模化のための必要で始まった。つまり、中央集権とともに始まった。それがデジタル発展で膨大な作業が楽になって、今や1億総番号で働かせて絞り上げる仕組みをスムーズに整えられる段階に来たということだ。健康保険も年金も、いってみれば税(免税・保障)のうちだ。どうしてもこれは探ってみなければ。
まず戸籍・戸籍法・税(義務)・福祉減税の歴史を調べ始めた。卑弥呼の時代から税はあったのだから、何らかの人口調査はあったのだろうが、ちょっと具体はわからない。ややはっきりわかるのは、律令制から始まって、実質は孝謙757養老律令かららしい。(668近江令、天智670庚午年籍、689飛鳥浄御原令、持統690庚寅年籍、701大宝令) 江戸期は、宗門改め帳になる。この人別帳は、キリシタン類族帳と対の形で、危険分子のキリシタン取り締まりを理由・口実に、実質戸籍簿でもあり、納税義務者名簿でもあった。この間つまり中世期がどうなのかは無戸籍の時代などといわれてなかなかわからない。領主・武士の勢力争いの中で、それぞれが勝手なことをやって、統一的ではなかったということだったのだろう。はっきりまとまるのは、明治後の富国強兵の中だ。
この調べの中で、兵役も役の名の通り労役の一つ、つまり税だったことをはっきり知った。アメリカの徴兵制の中で、金を出して兵役を免れたと大統領の経歴が問題になったのも、なるほどなと感じた。今後日本で、徴兵制と志願兵制が問題となった時、こういう面もあり得るという視点も得た。
日本律令制が手本にした中国律令化では、秦のBC375が戸籍という語の初出とされていて、家族と資産を把握したらしい。BC116には土地の登録も始まったようだ。臥薪嘗胆で知られる越王勾践(~BC465)の政策に、扶養力のない家の子は政府が面倒を見ることなどとあるようで、25世紀も前のことだから驚く。非攻で知られる墨子たち(墨家)はもっと厚いという。史上初の人口把握は秦の商鞅オウ(=宰相商君)が始めたらしいが、歴史を踏んで保障にも強かったようだ。
福祉は初めは災害での救済から始まったようだ。初めの記録は、礼の名のつく中にあるようだ。礼経・礼記・周礼など名も内容も作者も時代も諸説あってよくわからないから、何か述べると誤りを叱られるかもしれないのだが、なにせBC10世紀3千年前のことだ、大まかにとらえることにする。原典に当たろうと探してみたが、あほなことに金石文か篆文であるはずだということを考えもしなかった。気付いて、注解や義疏(解釈)段階のPDF写本などを見ると、読めない漢字がずらっと並んでいる。これらでさえ千から2千年前だ、手に負えないのが分かって、さっさと諦めた。
周時代辺りから官制が整えられ、その中で理想像なのか実地なのかも不安定だが、福祉の面も含まれていたようだ。それは、幼・老・貧・病を救済するという点でそろっている。いずれも富国のためという必要があってのことだろうが、学ぶべき良い面を持っている。それらを学んで作られた養老令でも、かなり親切な福祉・社会保障面がある。そして、中国から日本へのいずれも、弱者からの請求ではなく、官側の責任という点でもそろっている。相似するのは、当然、中国律令を写しているからだ。養老令で言えば、地方官にこれら福祉の責任を負わせ、官の怠・滞には笞刑(ムチ打ちの刑)とか、国主には所管地の実地巡察(「毎年一巡行属郡」)、国司・群司には巡視で百姓の送迎を受けてはならぬ(「凡国郡司須向所部検校者不得受百姓迎送」)など、厳しい規定があった。(原文は養老令)
養老令で目に留まったいくつかを挙げる。男61歳以上女50歳以上の老、両眼盲などの特疾、1肢廃などの廃疾は非課税(ということは口分田は与えられている上でのこと)。80歳以上は1人、90歳以上は2人、100歳以上は5人の侍人(付き添い)を付ける。その侍人は非課税。自分の口分田がある上に、要介護者の田もあるから、収入増になり、しかも無税。担当する侍人にはなるべく近親者から当てる。61以上の無妻男・無子男、51以上の無夫女、無父児、孤児、貧者、傷病者(鰥寡孤独貧窮老疾)や旅で病む者(在路病患)は近親者が面倒を見るが、いないときは村里で安養する。鰥寡条とか給侍条などの条項が明記されていた。そして、それらの扱い全て、前述の通り、公の責任なのだ。まったく現代日本からタイムスリップできたらいいね。
近代への人権意識の確立から福祉が伸びていくという歴史(欧米モデル?)と、やや違う見直しが必要になるな、と思った。それでまた勉強のし直しが展開した。それは長すぎるから、次に・・・。
島・岬・最涯
離島への憧れ
かつて離島に憧れた時があって、全国の離島総覧といったものを探していたら、ちょうどうまい具合に、こういうことに強い雑誌で特集をやった。さっそく買い込んだ。意気込んだのに、300Pほどのその雑誌のたかだか30Pでしかないちゃちな特集だった。今思えば、離島ブームが始まっていて、それに乗っていたということのようだ。鼻っ柱だけ強いぼくは、周囲のことと俺は関係がないと無関心だったが、気付かぬまゝに踊らされていたというのが客観的事実なのだろう。自分についてこういう分析をすることも、今やっとできる齢になったらしい。
島を意識し始めたのは、8.6ヒロシマ原水禁大会に参加した帰り、日本海に行きたくなり、仲間と強引に離れて、隠岐に行った時からだ。日本海岸が何で隠岐となったのか、まったく今もって不思議だ。行き当たりばったりの宿に2泊か3泊金のあるだけ泊って、なにもせず、ただぶらぶらしていた。釣りをした。何とかいう絶壁を見に行った。宿の人が、何もしない都会人に親切に勧めてくれたからだったと思う。無目的の目的という次郎物語の影響らしい行きかたの旅をし始めるきっかけとなった旅だった。
今どうやらまた、行き尽くした感じの季節に入っている。何度もあったから季節なので、またかと思っている。だが、その度に歩き方が変わってきた、とも思っている。それで日本全図を引っ張り出した。それをしまう時に、忘れていた離島総覧が目に入った。島という分類項を焦点にするか、と気が動いた。4000とか言われるすべての島に行けるわけはぼくにはないから、話に聞く離島マニアのように全て行くとか、そんなことは考えたこともない。この古雑誌では、近海の401の島を挙げてあり、そのいくつかには属島も記している。今は橋で繋がった島もあり、短い説明だが、行ったときにそんな案内説明なかったぞと思う歴史が書いてあったりして、ずっとほっておいたのを悔いた。読みにくいほどの低質の赤茶けたザラ紙で、S50版定価350円、地元の書店のカバー紙をかけてある。読んだ記憶など全く消えてしまっている。冷たい秋雨沈殿の1日にもってこいだ。
さっそく、日本全図も並べて、行きたい島リストを作ることにした。離島総覧で、行きたいところを探すついでに、行った島を拾い上げてみた。強く記憶している島は、絞りに絞ると4島になる。後は一気にほぼ全てとなってしまう。
茸をやたらに見つけた礼文、ウミネコの天売テウリ・焼尻ヤギシリ、飛島、佐渡、帆立や牡蠣の畑を押し分けていく松島湾の寒風沢サブザワ島、伊豆大島、玉石垣か谷間に民家が隠れている八丈島、漁村に入り込んでみた江ノ島、東側の磯を回った初島、瀬戸内の島々(淡路、小豆島、男木島、塩飽シワク本島、向島、因島、生口島、大三島、大崎上・下島、豊島テシマ、上・下蒲刈島、倉橋島、東・西能見島、厳島、忽那クツナ中島、屋代島、長島、祝島)、豊後水道の沖ノ島、中ノ海の大根島、隠岐、対馬、壱岐、的山アヅチ大島、平戸島、生月島、五島(宇久島、小値賀オジカ島、中通島、若松島、福江島)、天草上島・下島、上・下甑コシキ島、屋久島、沖縄、石垣、西表、波照間。一跨ぎの海で島と感じないが、島意識で探った屋島、彦島。源意識としての、豊洲、月島、佃島、第三お台場、夢の島。中学から高校のころ、自転車で行ったこれらも忘れられない。
記憶に強く残る島
伊予灘の周防灘寄り、陸から最も遠く、廃村・無住化寸前の、八島。かなり大きな島にひとつだけの港の周囲の百を越すだろう屋根の、あの人影も全くなく、工事用の車が2台港に置いてあるほかは、車というものが道にも家にも1台もなく、もちろん店という姿もなく、26人のうち70歳以上が25人という人口の、外へ延びる道が全て草にふさがっている、雨の中。
東京から鹿児島への倍の遠くにあり、那覇からの4分の1で台湾に行ける、黒潮を越えるとはこういうことかと知らされた、与那国。
船中2泊の間海だけ見て行き着き、痩せて小さい山羊と巨大カタツムリにあちこちで出会った、小笠原。風呂とはシャワーだと知り、強制移住から復帰した元から島民とその後ばらばらに住み着いたダイバーを主とする住民の微妙な関係がのぞいて。
初めての北海道、海沿いにテントを移しながら一周して、1週間かかって4ルートから頂上を攻めた利尻。帰りに回った礼文は台風接近、1時間いただけで行った船で折り返し、30度をこす揺れを初体験した。余った日数でサロベツ原野を歩いて、電柱が地平に消えるのは6kmだと知った。透明な夜気の中では、10km余り先の電灯がすぐ隣に見えると知った。
岬・最涯
島を思うと、岬も思い浮かぶ。すると最涯ということばが出てくる。島・岬、あるいは人気のない海辺が、最涯ということでぼくの中に住み着いているようだ。ハテは果でなく涯の文字面が合いそうで、こっちが好きだ。
最初に意識して岬に行ったのは、たぶん襟裳だ。バスだったか鉄道だったか、終着点からずいぶん歩いた。前日、浦河だったか幌別だったかの高校を見に行った。最初の教師生活を送るはずだったのを、お袋に止められて東京に留まったことなどをまたまた思い出しながら、拾った昆布を齧り齧り歩いていった。ガスっていて、何も見えなかった。この地の名だたる海霧だった。海霧の見えなさを始めて体感した。粘り付くようで、山の霧とは感じが違う。灯台の壁に寄りかかって霧を透かして何か見えないか見ていると、霧笛が鳴って、振動が体に響いた。磯にへばりついた漁村を通り抜けて岬の先の岩を一つ二つ辿ってみた。日高山脈は、岩の形で海の中に続いていた。
室戸・足摺とか佐多とかの南国の名だたる岬も、大間・竜飛とか宗谷とかの名だたる北の岬も、涯という感じを持てなかった。人気(ひとけ)がないことはもちろん必須だが、歩いて行くところでなければならない。それも長ければ長いほどいい。そのどちらかが欠けると、物足りない。瀬戸内の島の岬に立ってわかったもう一つの要素がある。目の前に海しかないという景色だ。島影や半島などが視界に入ると、どうも涯にはなりにくい。本州最東端の?椴(トド)ケ崎は、姉吉の津波到達点の下の浜にかかるところから山道を延々と歩く。前には太平洋しかない。人など年に何人しか来そうもない。いいところだが、もっと細く突き出ていたらなと不埒にも思う。両側に三陸海岸を従えて、磯の出っ張りのようでもあるのだ。海の中へわけ入っていくような感覚もどうやら条件らしい。こうするとたぶん、知床岬が唯一の憧れの岬なのだろうが、ぼくの足がもう行ってくれそうにはない。
人気のない海辺では、突き出ていないのに最涯の感じを強く持ったことが何回もある。そのうちの2つ。一つは、サロベツ原野の海沿いを一日歩き続けた時、飽きて浜茄子を踏み分けて浜に出ると、足跡一つない砂浜が、広がっていた。寄せる波の線が消える地平まで、見返る地平まで。砂に埋まった巨大な流木の端などが幾つか見えるだけだった。もう一つは、津軽半島の竜飛崎から南に続く西海岸線。今は国道があるが、かつて道のない海岸線だった。半島などを除いた平らな海岸線として、日本最長の無人地帯だろうと、地図を見ていた。そこを歩きに行った。竜飛の階段国道の下の浜から、途中1晩の野宿で小泊まりまで。もちろん人影を見ることはない。砂浜、石浜、磯、崖、無住の番屋、そして海、これは最涯だった。
うろうろと考えていると、調べることやらまとめることやらあれこれが入って来て、忙しさの中で不思議に行く先が見えてきた。流刑を調べているうちに辿り残した中で最大の奄美群島が浮き上がって来た。年末年始もやっている民宿もなんとか探り当て、11月も半ばにかかって、やっと具体化のめどがついた。3週間を心行くまで、と思っている。(15.9.7 起)
地震・噴火
311から、地震・津波を追い、原発を追ってきた。4年かかっても、わからなさは増える一方という感じだ。その中で、噴火にも注意が向いてきた。ますます広がって大変だなと思う一方、一緒のほうがむしろわかりそうだとも感じる。地層・地質・岩石、それらの物理的・化学的な変不変と、地殻構造とマグマとの関わりと、災害面からは気候・気象も関わりそうで、そこへの豪雨で洪水や山崩れなどもある。それに人間の賢さとあほらしさの歴史と現実が相乗している。という全体の中に一つ一つを置いて考える必要があると思うようになった。
311のM9が東海・東南海・南海・関東の地盤・断層に影響するのではないかという漠然とした不安が、ここ数年の社会の防災意識を持ち上げているようだ。たぶん正しい直感なのだと思う。北の地方はすぐには連続しないだろうと楽観・期待して置くと、関心が向くのがいわゆる南海トラフの問題になるのも当然だ。そこへ去年の暮れから吾妻・西之島が飛び込んだ。そのあと口永良部の全島避難があり、浅間・御岳・雌阿寒と来て、飛んで桜島と続いたと思ったら翌日に白山までレベル1ではあるけど留意となって、すぐまた箱根・阿蘇と続いている。10か月で10件、注意を引き付けられるのは当然だ。ネットでもちょっと探ってみるかとなれば、すぐ出てくる。元禄関東地震の4年後、東海・東南海地震の49日後に宝永噴火があったということや、100余年間隔ぐらいで噴火を繰り返してきた富士がこの300年間噴火なしということは、知るとずいぶん怖いことだ。
夏の富士に入っていた57・8年には、富士山頂の火口の縁に暖かくて手を当てると蒸気を感じられるところがあった。富士はまさに休火山、休んでいる感じだった。そのころまだ休火山という用語があったが、80年頃だったか死火山とされていた御岳の2万年来とかいわれた突然の噴火が起きて、火山用語規定が変わったのだという記憶だった。御岳はその後、長野の地震で山腹崩壊が起き、登山口の王滝村に大被害があった。
火山用語は、記憶とはかなり違う変遷をしていると、火山について考え始めてから知った。ぼくの知識は、気象庁52年規定で止まっていた。68年に大きく変わり御岳も火山に数えられていたのだった。富士も今は活火山にちゃんと?はいっている。68年のとき活動記録1千年以内で、91年に2千年、03年に1万年以内と範囲も広がっていた。それが常識にならなかったのだ。今は、火山は、活火山とそれ以外となっているらしい。やたらな物忘れが日常化しているのに、思い出せる記憶そのものが間違っているとなってしまって、現代についていくのは大変だ。
今年の防災の日の政府テーマは、首都直下地震で首都機能をどう守るからしい。政治体制・治める機能をどう守るかということだ。一方で、地震・津波からどう身を守るか・逃げるかという個の立場の避難訓練も多い。それぞれ必要だと思うのだが、それぞれからそれぞれへのつながりが触れられないのが不思議だ。俺はこう逃げたいが、それには行政がこうしていなければならないという期待・要求をまとめたと聞かない。行政側の計画は人々がこういう馬鹿な逃げ方をするだろうから、と言っているような感じを受ける。その間をどう埋めるか、という意見は見かけないが出ているのだろうか。雨の中でとか、夜中に地震とかの工夫で訓練をしたところもあるようだが、対複合災害・対超巨大災害という形まではまだらしい。
政府や自治体の動きなどに小松左京・石黒耀の描いた様相が影響しているのかと想像すると、ちょっと面白い。小説がそんなに引っ張れるかなとも思う。官僚や政治家がああいう本を読むのかとも思う。読んだとすると、行政組織や産官学提携や官僚腐敗へのかなりはっきりした批判も読んだということになる。読めばすぐ効き目が現れるというほど甘くはないのはもちろんだが、人々の側はぜひ読むべきだと思う。「震災列島」は04年だが、原発が地震でどうなるか、よくわかる。読み返してつくづくそう感じ直した。福島第1の地震後津波前を突き止めたくなるぼくの視点は、ここから来ていたのかもしれない。認識のつながり方は面白い。
槍も穂高も火山だと論証した本が出て、早速読んだ。そういう十万年百万年のスパンを考慮外とすれば、噴火は地震ほどあちこちでは起きない。まずは今火山とされるところだけだ。山体崩壊や大火砕流も、千年数千年に1度の大噴火でなければ、数km止まりらしい。磐梯山から帰って勉強し直したところでは、そうなる。そうすると、磐梯の山体崩壊は、最も新しい大噴火災害で、もっともっと注目されてしかるべきだ。だが、火山の裾野はたいがい住宅地ではない。そして、噴火する火山の数も、かなり絞られる。となると、当該地以外ではひとごとになってしまう。広範囲心配なのは、火山灰だといわれる。10cm積もるような大降灰でなくても、数cm降れば、エンジンも電気系統もお手上げらしい。
車で初めて阿蘇に行ったときを思い出す。初めて行った時はバスで、煙は上がっていて硫黄臭もあったが、山頂火口を覗けた。2度目のこの時はもっと大きな噴火中で、薄黒く太く高い大噴煙を仰いだ。草千里近くで始めて火山灰の堆積を見た。その道路を後ろに煙幕を盛大に引きながら走った。今思えば冷や汗が出る。2cmほど積もっていたのだが、無風晴天で、エンジンは前からの吸気なのが幸いしたのだろう。すぐ止めたのも良かった。走り出してすぐ、乾燥粉雪のように滑ることに気づいてエンジンを切って空走で自然停止させたのだった。山頂行きのケーブルは止まっていたが、あのころは、注意も警報もあまりなかった。
完全防塵吸気のエンジンは望めそうもないとすれば、噴火の降灰の中では全ての燃焼系は頼れない。あとのエネルギーは電気しかない。防水防塵型のカメラやスマフォがあって、端末は屋外でも何とかなるのかもしれないが、降灰中でのそれらへの充電やその接点はどうなのだろう。変電所はまず屋外施設だが、電柱に載っているトランスなどを含めて、送電はどうだろう。碍子が火山灰でショートするということがほんとなら、空間利用の送電網は全くだめだ。送電系が大丈夫なら、降灰が全国ということはないだろうから、行政の手際によっては、生き延びられそうなのだが。
灰に覆われる太陽光は論外だから、頼れる電源は水力・風力・潮力か。原発はもちろん動かせないはずだが、そんな事態はお定まりの想定外だろうから止められないうちに灰が降ってきたら、いったいどうなるだろう。噴火・降灰の何百キロという広範囲しかも長時間の影響という概念が、原発問題の中にあるのだろうか。
1855安政江戸地震から13年で戊辰戦争、1923関東大震災から14年で日中戦争という数字上の連鎖がある。1995阪神淡路大震災がバブル崩壊にかぶさったのも、70年間隔という数字が3回目の重なりだ。今回は311が追い打ちとなった。社会が疲弊した時、政府は戦争を起こして人心を結束させようとし、人々はそれに乗ることで憂さを晴らしたり何らかの希望を見つけようとしたりする、という歴史がある。今も歴史は繰り返しつつあるのだろうか。
8月に仙台の東海岸で、所々完成した防潮堤を見た。10mぐらいの高さの両面が緩い傾斜のコンクリート面で覆ってある。きついけど、立って上り下りできる。前に見た建設予告の堤防の傾斜より角度が緩くなっているようだ。さらわれた堤防の多くは、岩盤に直接基礎がはいっていない、砂浜に自重で据えてある型だった。引き波で運ばれて、水中に転がっていたり、ずっと遠くまで運ばれたか探しても見えなかったりした。さらわれないために緩くしたのだろうか。1000年でなく数十年に1度という頻度の津波に備えるのだと、予告には記してあったが、この防潮堤が中程度の津波を何回も防ぐというのだろうか。(15/09/01 起)
安積疎水
仙台での全国教研の前に、安積疎水探りの続きをやることにした。前回春に、磐梯熱海の取水堰(頭首工)は見たし、この地域の様子は安積歴史資料館で見ていた。それでまず、疏水専門の民俗資料開成館で下調べを重ねてから、熱海の堰の再確認をして遡ることにした。猪苗代に出れば、さらに先に行って裏磐梯の宿へ近づく。福島の宿が取れず、裏磐梯の宿が空いていたことから、急展開したコースづくりだった。
熱海の堰は五百川からの取水で間違いないことを確かめて、谷間を登る国道を行く。狭い谷間に川は一筋だから、見間違う恐れはない。山が迫ると発電所があって、そこで水流と水量を確かめた。確かこの発電所は、日本初の長距離送電に成功した記念碑的なものだと読んだ覚えがある。ただ、この発電の取水がどこからなのか、今もまだわからない。横の山肌を発電の余水吐(ばき、はき)とするには多すぎる水流が滝のように流れ落ちている。発電所から排出している水に比べて倍もありそうな水量だ。その横の2筋に分かれる川筋上流にはか細い流れしかないから、これが疎水の水であることは間違いない。谷筋とは思えない山肌のところを流れていることもある。あれを登って、木に隠された上の方にあるに違いない水道トンネルの出口を見たいと思うが、藪の中だし、滑りそうだ。道らしきものは見えない。まさか滝登りもできない。
諦めて国道を行って峠のトンネルを出ると直ぐに左に深い切れ込みがある。湖へゆるい傾斜で開けるなだらかな地形が見える中で、自然の形にしてはおかしな感じだ。木に覆われた急傾斜をあちこちから透かして見ると、ずいぶん下にトンネルの穴がかすかに見える。下る道は見つからない。ここからやっと車が通るかと思える道が湖方向へ延びている。それをたどって行くと、下の水路に見える谷筋に電柱の列が見え、わきの林には鉄道防雪林という標識があった。なんだ、線路だったか。それにしては、使っていないようなトンネルに見えたが。地図上では、現鉄道は、ずっと離れた右にあることになっている。すると廃線跡か。道は藪に覆われ始め、時々腹をついてエンストしたり、軽でも車体で押し分けながら行かねばならないほどの灌木が被さっていたりする。
強引に乗り切って畑道に出ると、横にあるのははっきり水路だと分かるようになった。水はない。並行するようになった国道に出て少し行くと湖にぶつかり道は右に折れる。その曲がり角に記念碑があった。石碑の文字は読み取れないが、湖水東注という新しい説明板もある。M13年から3年間で600m余のトンネルを掘り水路を造ったと記されているが、トンネルだけでの年月など開成館でもわからなかったことはここでもわからない。やや遠い先の岸に明らかに頭首工と見えるものがあるのが、S37年の新頭首工だとあった。湖水が減って、汲み上げて送水したという汲み上げポンプも置かれていた。湖畔に出ると、取水用の擁壁に見える古ぼけた護岸堤防があったが、単なる船着きにも見えた。説明は一切ない。(帰ってからいろいろ調べるうちに、埋められた初期取水口として、この擁壁の入った写真を見つけた。)新しい疎水の堰に行くと、ここには説明もあった。水は地下に流れている。どっちに流れて行くか、あちこち歩いて、少し離れた水量調節の水門を見つけた。だが、それだけで、その先はわからない、すべて地下だ。
時間切れで裏磐梯に向かい、翌日は磐梯山の噴火をめぐって日が暮れた。(別にまとめる)
仙台に向かう道からそれて、ぜひ第Ⅰ分水・第2分水ぐらいは見たいと思った。なぜ安積疎水にこだわるのか。我ながら不思議だが、日本三大疎水というと、安積・那須疎水と豊川用水と出てきたり、近代の豊川を別にして、琵琶湖疏水を入れる数え方をしたりするようだ。その中でまだ見てないのが、安積なのだ。見たって別に何ということはないのだが、見たいという気がしてしまう。疏水、用水、上水、区別も紛らわしいが、どうでもいい、人工水流には不思議な魅力がある。仙台の貞山堀も、熊本の石の水道橋も、利根大堰も、信濃川の大分水も、見たいから見に行った。取水、堰、分水、流路、トンネル、水道橋(上掛樋)、サイフォン(下掛樋)、どうも見たくなる。玉川上水が残堀川を越す立体交差、あれはとても面白かった、今は下をサイフォンで潜るが昔は上を通していたという。まださいわいに、見ていないのが、愛知用水、四国三郎の第十堰と、残っている。安積はほかに、いや疎水・用水は、開拓との関係でも考えさせられる種を持っていて、もっと見て回りたいところが多い。
第Ⅰ分水までは、熱海の頭首工から近いし、ほぼ水流沿いに道があるので、簡単に辿れた。分水の関もすぐわかるし、説明板まで立ててあった。この先で、道が離れて見通しがきかず、戸惑う。たぶん水平に近く流してあるはずだと見当をつけて、山裾を回り周り平らに流れる見沼代用水西縁の景色を思い出し、山肌に沿うように適当に道を選んで行くと、思いがけない所で出くわした。小さな水門がやや離れて見えるところで、並行して低く小さな川がある。道は交差しているが、流れは交差していない。見沼用水のような水流の立体交差が見られるかと思っていたのだが、当てが外れた感じだ。(これは、あとでじっくり地図を見たら、すぐ近くで水路橋を見つけられたはずのところだった。)写真を撮ったりしながらしばらくあちこちから眺めていると、疏水と川の高低差だけでなく、何か違和感があった。何が気になるのか、あちこち回って悩んだ末に、小川の水を眺めていて、なんてことだ、こんな見えてることなのに、やっと気付いた。流れが逆なのだ。自然の川の流れる方向と全く正反対に疎水は流れているのだ。(まぎゃく という最近多くなった言い方をしたくない。真逆は、まさか だ。)付近一帯の地形からすれば、斜面を登る水なのだ。水は下に流れるものだが、水路をつくれば逆に流せる。江戸初期の玉川上水の、わずかな傾斜で流す、あのすごさと似て、いや違ってか、明治初期のこの設計に脱帽する。和歌山流土木技法という見沼代用水は江戸中期だったか。
ここは郡山、仙台へは下道ではかなりある。ひたすら走るしかない。
百年・千年・万年
安積疎水を探ることと兼ねて、磐梯の噴火を探りに行った。まず、五色沼近くの博物館(磐梯山噴火記念館)に行って、1888年の磐梯山の爆裂のすさまじい記録を丹念に見た。一地方といった広い地域の地形変化を起こすほどの大噴火の中で、日本でたぶん一番新しい(たった百数十年前)と思って、新しい期待で来たのだった。裏磐梯は何度目かになるのだが、以前は気にもしていなかった。
猪苗代湖のできた800何年かの磐梯山大噴火の後、1000年の時を置いて、山体の半ばに近い部分を吹き飛ばす水蒸気噴火が起きた。現在の磐梯山頂から櫛が峰にかけての大きくたわんだ稜線の北側部分に見える絶壁が南側の火口壁で、そこから現五色沼にかけての空間に存在した小磐梯山という山――高さは磐梯より少々低かったようだが、ほぼ同じ大きさの体を持って、磐梯と小磐梯とで富士山型のひとつの火山であったようだ――の高差600m余りの山体を吹き飛ばしたと展示は語っている。富士の宝永火口が大噴火して富士の南半分を吹き飛ばして駿河湾に押し出すといったような感じと受け止めた。多くの村々を埋め現在の裏磐梯高原と多くの湖沼を作った。桧原湖などの大きな湖水になった水は、かなり徐々に湛水していったようで、噴火時点での被害者のほかは、村を挙げてやや離れたところに集団移住して、現在に続く旧同名の村を作ったようだ。(800何年かに猪苗代湖のできた磐梯山大噴火と説明されていたように記憶しているのだが、帰って調べたら、ずいぶんと違う。地形変化と湛水とはまた違うということからか幾つもの説になるらしいが、有史以前数万年前であるようだ。猪苗代の湖底には縄文遺跡が残るとも知った。)
ここ最近火山噴火に関心が寄せられるようになっているが、日本での大噴火はどこでどれだけの規模で何回あったのだろう。地震も地下岩層の動きで起き、噴火も地下岩層の隙間や割れ目からのマグマ噴出だが、どう関係するのだろう。M9級地震の後数年の間に大噴火という統計もあるようだ。887年に仁和地震というM8~9のがあったようだ。南海地震とされているが、東南海も東海も同時期に連続したともいうらしい。860年代半ばに富士の貞観大噴火があって、富士五湖の西湖と精進湖が分けられた。869年が東北の貞観大地震・大津波だ。数人しかいない館員の年かさの人に、噴火への関心で来館者が最近増えたでしょうと尋ねたら、それどころか、311以後、福島というだけで4割減ったまま回復しないと言った。学校関係が0に近いとも。
富士五湖も、浅間の200年前の鬼押し出しや北軽一帯も、もう一度しっかり見直しに行かなくては。箱根や富士周辺の、神奈川・山梨の火山系博物館巡りもするといいか。石黒耀の2冊(死都日本、震災列島)も、4度目の読み返しをするか。
桧原湖の水の下に参道の並木の根の列が残っていると聞いた大山祗(おおやまづみ)神社を探していってみた。小さな社の前の水際の鳥居の前に2列に並んだ朽ちた木株は、上高地の大正池の枯れ木の根と同じように、小さな波に洗われていた。大正池のできたのは20年とは違わないはずだ。
そのあと、爆裂火口壁を見に裏磐梯スキー場のリフト乗り場まで行った。山古志に行って、崩壊壁をいくつも見た時に、ここを必ず見直そうと思ったのだった。壁までこんなに遠かったかなと思うほどの距離があって、これほどの面積の上に高くそびえていたはずの山体がすべて噴き飛ぶという想像をしてみたが、もちろんリアルに思い浮かべられるものではない。何度かにわたってなくなって行ったのか、一度に飛び散ったか。雲仙の噴火の様々は当時映像でかなり見たが、あれを何十倍か何百倍かにした爆発だったのだろうと思うしかない。あの時の火砕流で多くの消防隊や報道陣とともに死んだ火山学者で噴火報道者のクラフト夫妻(カティア、モーリス)の記録DVDが噴火記念館で見られて、繰り返し見てきたのだった。あの二人は磐梯にも来たというが、ここで何を考えただろう。
ずいぶん昔、このスキー場の中をリフト終点まで何代めかの新車で強引に登ったことがあった。スバルの車は強い。岩を乗り越えて登るには上ったが、下りはショックがきつくて、ブレーキ操作に失敗して前輪をパンクさせてしまった。きつい傾斜面でさらに傾いた車体をジャッキで上げてスペアと交換するのに往生した。それでも、まっすぐ走らなくなった車をゴールドラインに回して、八方台から弘法清水まで荷を揚げてトン汁をつくった。それがその山行のぼくの分担だった。ディーラーに調子が悪いと持って行ったら、これは乗用車で戦車ではないと言われた。床に穴があいているということだったが、その車はそれから10万km超を調子よく走ったのだった。
明日は仙台、全国教研だ。分科会は勿論国語だが、フォーラムは「フクシマから考える」に出る。
欅(ケヤキ)の枝下ろし―――安曇野のある日
小屋の南西端の角先に欅を植えてある。この小屋を建てた時に真っ先に植えたから、30齢にはなる。冬は葉を落として日当たりよく、夏には葉が茂って三角屋根の南斜面を陰にしてくれるように。計画通りに葉が茂って、目通り一抱え、両手の中指の先がちょうどぎりぎりで触れる太さになった幹から、こんもりときれいに樹冠が広がって、半径10mほどで屋根をすっぽり包み込んでくれている。南面に並べて植えた山採りの朴(ほお)の木と連携して、夏土曜の強烈な陽射しでも、西に向いた日が葉先をはずれる2時ごろまで、のんびりと天国を味あわせてくれる。
小屋の棟の10m近い高さを葉先が超え始めた一昨年頃から、風具合によって枝先が屋根を擦るのが気になりだした。枝先は雪で垂れることはないから冬はいいのだが、夏の茂った重い枝先はぐっと垂れ下がって、今年は触れるどころか、葉の重さが屋根で受けられている。風によっては、ずいぶん擦られそうだ。
合計4本の太枝を伐ればよさそうで、どれも径10cmばかりだから切ることはできそうだ。切ったとして、太いほうを屋根に当てたら大変だ。それを落とさず、屋根に当てないように処理できるか。もっと高い枝からロープで空中に支えるには、葉を含めて重さは1本100kgを予定しなければならない。落とした分の長さが5mにはなるから、切り口側を吊れば、枝先の柔らかさがクッションになってくれそうだ。切り離したときに重さを受けて仮固定する1本、下に降りて重さを肩代わりして下ろしていく1本、下ろす場所へ誘導する1本、3本セットでロープを操作することになる。一人でやるには手間ひまかかる。
梯子をかけて幹の分岐まで上がって、計算する。力をかけるロープを上の枝に張れるか。切り離したときに真下に落ちるか、どちらかに振れるか。乗れる太枝のどこに乗れば鋸が切る枝まで届くか。自己確保ロープはどこを支点に張れるか。4本の枝ひとつずつ、じっくりと。1本か2本は1日がかりでなら切れるだろうが、続けて2日3日と作業できるか。自らの体力と気力を測って、溜息をついていた。
下の息子が1日休暇で降りてきた。考えていた作業の可能性などを話してみると、早速登ってみて、やってみようと言う。すぐ自分のハーネスやら出してくるので、こちらもカラビナや捨て縄やメインのロープなどの用意を始めることになった。
こいつとは、前にも何本か径30cm超1t超重といった大枝や直幹を伐る作業をしたことがあるので、あれこれ話さないでも済む。今回は、細くて軽い。何と言っても、2人でやれば、ロープ1本の操作で済みそうだ。100kg程度なら、まあ、岩登りでトップの墜落をザイル確保するよりずっと楽なことになるだろう。ただ位置が悪いのが難点だ。屋根に張り出した空中地上高7mで切り落とした枝の高い位置を確保して、枝先の葉っぱの柔らかさを使って屋根の斜面を滑らせて落としてくるのが何といっても眼目だ。
高枝を複数切り落とすには、手近な下枝からではなく、上の枝から落とすのがいい。見通しが悪く作業はしにくいが、落としたときショックを下枝が軽くしてくれる。これまでの作業で学んだ知恵だ。作業点を決め、鋸を補助ロープで上に送り、切る姿勢を確認して、ロープを切り口の少し上に結んで、切り離した時どう力がかかるかどう流れるか、ラインの流れを上下で引いて滑らせてみる。準備に手落ちのないことを確認して、切り始める。
最初の枝は、下枝とのダブルクッションで、空中をふんわりと踊って屋根の斜面を滑り、枝先が目の前に落ちてきた。根元側の重さを背中に回したロープで受けながら、片手を伸ばして枝先をあちこちゆすって誘導して方向を修正し、同時にブレーキをかけながらロープを滑らせて地上まで下ろしていく。ザイルワークは、体が覚えていた。
ロープを解いて上に送り返し、次の足場を固めて次の枝を切りかかる間に、落とした枝の切り分け整理をする。これがしんどい手間のかかる仕事だ。枝先の葉は畑に置いて肥料に、中枝太枝を大まかに燃料用に切り分けて積む。1本整理しきれないうちに次の枝を吊るロープを体にかけることになる。
そろそろ朝昼兼帯の飯にしようかという10時頃に始めて、1度水飲み小休止を入れただけだったから、もうほんとうにくたくたになって、枝処理や道具の片付けは明日というだらしなさで、鋸だけ油紙に巻いて、揚がったのは2時過ぎだった。30数度の、この安曇野で最高段階の暑さの中で、救われたのは木陰での仕事ということだった。この先、欅のやつがどう枝を伸ばして伐られた分の補強をし始めるか、ちょっと気になるが、まあ3~4年は先のことだろうし、なるようになるさ。この身であの枝の上の作業が、できるだろうとも思えないが。
遅い昼飯のあと、夕方から隣町の夏のイベントで、この地域で名うての太鼓チームが出るというので、聞きにいった。全国大会2位というチームそのものではなく、その子供チームだったが、かなりのものだった。
中越地震11年目の山古志
三陸と福島を3年歩いているうちに、山古志に行こうとしていたのをしきりに思い出すようになった。11年前ニュースを見ていて、堰き止められて湖となった川、沈んでいく家、その元になった山崩れを見に行かねばと思った。だが、全村避難と巨大な復旧工事のニュースも流れ、役立たずが邪魔になるのは憚られた。
45年経って、もう行ってもいいかと時々思ったりしているうちに、311がきた。その後は津波と原発だった。数年東北のあちこちを歩いたりする途中で、栄村の災害があり、先にそっちに行こうかと思っていると、松本の小激震に出会って石垣の崩れるのを目撃した。どこででも遇うのだと強く思った。それらの間に行った九州中南部の旅で高千穂連山の一部に噴火警戒で登れず、火山噴火ももっと考えに入れなければと思ったりした。白馬・小谷の地震があって雪の中を断層の段差を見つけに行ったりもした。三宅にもいきたい、大島も、ということもあった。いろいろ挟まって、山古志は延び延びになっていた。
今年の中学教科書分析が終わり、学テの分析もなんとかなって、1週間のわずかな暇ができて、安曇野で畑をやるかと思いながらも、山古志の様子を見ておくほうが先だという気がしきりに動いた。降れば降ったでいいさ。
最大の関心は堰止湖とその原因の山崩れだった。もう一つ別の関心で、村人による手掘りのトンネルがいくつかあるらしいのを是非とも見てみたいと思っていた。
一番有名な手掘りむき出しの国道トンネルから山古志に入ることにした。
中山新トンネル脇の案内板で、細い道に入り、すぐの文字通りのヘヤピンで軽でも切り替えしさせられて登ると、すぐそこが隧道口で通行禁止だった。工事用鉄パイプで頑丈に組まれた防止柵によじ登って覗くだけ。壁は苔が生えているが、鶴嘴の痕らしい凸凹が残る。新トンネルで通り抜けると、向こう側には、説明板や休憩所があって、隧道も5mほど入れる。こっちでは、鶴嘴の跡がはっきりわかる。日本最長と土木学会の認定する証が掲示されている。
900m近いトンネルを、人の手で掘るということは、発想することもすごいが、15年余をかけて掘りぬく熱とは何だろう。村というより僅かな集落民の結集だったようであり、戦争をはさむ最悪の時期に、反対する住民もいたという話もあり、奇蹟というより不可思議という思いがする。あまりにも桁が違うと感じるばかりだ。青の洞門に行ったときは、
独力というすごさを思いながらも、明り取りや岩屑排出の横穴などもあったと見た。ここは、山を突き抜くのだから、暗い中で掘るのも大変なら掘り出した岩屑は全て運び出さなければならない。雪洞掘るのさえ、掘るより雪捨てに苦労するのに、トロッコ使うにしても大変だ。今でも3mを超すという豪雪の冬の暮らしを守るためという説明では、概括過ぎてもやもやしてしまう。他の小規模なトンネルのいくつかは通学路の確保のためだったということを何かで読んだが、それにしても、そういう地域はほかに多いのにと思ってしまう。情に厚い土地柄だとか、越人は根気がいいとか、そういうことでもないだろう。
支所隣接の復興交流館にある展示でざっと見た後、所長か係長かと見える40がらみの人に、あれこれの質問をぶつけてみた。崩壊・堰き止めの災害状況は、2階の展示が休みで明日に回すことにしたので、村の様子について集中した。かなりの勉強家らしく、あちこち飛び移る問いにも、かなり的確に答えてくれることに感心した。合併をめぐっての、生活にも関わることで議員にも絡む賛否といった、役所で話して大丈夫かなと思うことも、声を潜めるでもなく話す。この人の位置なのか、自由な雰囲気なのか。特産の錦鯉というかなりの財源を持ちながらも、2000人を切るという減少でやっていけなくなる、どこでも聞く山村の悩みだ。合併後だと思っていた災害の時は、合併を決めて切り替わる直前だったと知った。まだ村だったから素早い安否確認や全村避難や復旧計画決定など、災害の大きさの割に苦しまないで済んだという。三陸の例などをこちらからも挙げて質したが、三陸からもここへ視察が来て、ずいぶん参考にされたらしい。強調されたのは、集落ごとのまとまりの強さだった。全村全員の安否確認が数時間で済んだ(数人分が翌朝になっただけ)ことなど、県や国では、はじめは本気にしなかったという。それ程大きくない村の面積やまとまって生活せざるを得ない地理的条件だけではないだろう。避難も集落単位を崩さず、復興住宅も場所の選定から大きさなど住民意思が尊重されているようだ。
学校跡に数軒の復興住宅があって、三陸で見るのとはずいぶん違うゆったりさに、前日感心していた。碑によると、閉校が災害の少し前になる。ちょうど良い場所(位置と面積)があったわけだ。1戸の大きさ、戸別の敷地の広さ、共同部分の広さ。何よりいいなと思うのは、地産材らしい木材を多く使った建物そのものだ。これなら、移住したとはいえ落ち着いた気分で生活を続けられるだろう。それがここで話を聞くと、これはモデル住宅地だった。この規模で保証する、このタイプだと安く建てられる。ところが、このモデル住宅が案外希望されず、今の都会風のモルタル張り新建材建築を望む人がかなりいるということだった。金額も大差はないということで、売り込みの力が影響し、都会への憧れもあるようだ。
翌日、交流館の展示を見に朝から行った。20歳前後の、この土地生まれで高校までここでやって、そのまま就職したという案内係が、30分も早く開けて、付きっ切りで説明してくれた。一生懸命勉強したことが露わなまっとうさで、自分の幼い頃の記憶なども出しながら、聞くことに考え考え答えてくれた。
地震で山肌が崩れて落ちた土砂が道路をふさぐ、集落の多くの家を壊す。よく災害として知られる図だ。栗駒では、温泉旅館ごとという規模の大きさだったと聞いて、あそこがどうなったのかと思いながらまだ行っていない。それが川を堰き止めたのだから、よほど大量の土砂だろう、と思っていた。堰き止められた水が湖になり、集落が埋没する。湖というほどの膨大な水量を支える堰堤というと、いわゆるダムをイメージする。河口湖や大正池などは火山噴火での溶岩流だから量も強さも、分かるように思う。山崩れの土砂というところが疑問だった。
昨日一昨日見た山肌と谷筋を思い浮かべながら、災害の何段階もの、いろんな角度からの写真を見た。一番大きな東竹沢と二番目に大きい寺野の河道閉塞地点が中心だが、他の特徴的な写真もあって、イメージする材料になってくれる。多く示されている航空写真は、視点が高すぎて、今は河底が現れてその近くから見ている現実風景と合わせきれない。説明を何度も聞き返し、何枚もの写真を見比べた。道路が、棚田が、家が、木が、あった形が分かるそのまま分断されて、位置が変わっている、下へ。地層の断面標本をブロックに刻んで、ややでたらめに下へずらした感じだ。とはいっても、比較する元の図はないのだが。上下2段に2本の道路があって、切れ切れに残っている。下の段の道路のここは残っているらしいのにその真上の段の道路がないのはどうしてと見ると、それは上の段の道路が落ちて下の段に見えるので、下の段はさらに下へ落ちて崩れてなくなったのだという。すごい。
3度目か4度目になる現地へまたまた行った。現実の風景が変わって見えてきた。川を隔てて見る向かいの山肌(と見えるもの)は、物質として山には違いないのだが、震災前にそこにはなかった山なのだ。もっと上の高い所の山肌の頂上部分であったものがここへ降りて来て居座っているのだ。木も生えて、ずっとそこにあったような姿をしている。動かざること山の如しだ。下の川も、ずっとそこを流れていたように流れている。下仁田の根なし山(クリッペ)のことを思い出した。あんな大規模ではないが、目の前に見るのは、デカイ。
愚公山を移すという話がある、山が動いたという言い方がある。裏返したそういうことばがあるぐらい、山は不動の象徴だ。それが、ここでは、あちこちで山が動いたのだ。それで、見た写真が分かってきた。上方の赤茶けた山崩れの肌の下に写っている森が、赤茶けた肌のところにあった山体部分なのだ。余り大きいものだから、写っている水流の上下をつないだ川筋を勝手に想像してそこへ山肌が押し寄せたといった風に考えていたが、本来はその山のど真ん中が川筋だったのだ。川の真ん中に山ができたのだ。多摩川の平らな河原にできたらさぞ目立つだろうが、鋭くえぐられて急傾斜な斜面のこういう地形だからこその現象だ。
津波というものを、初めて波ではなく海が押し寄せてくるのだと理解した311の何日後かを思い出した。山崩れという言い方、津波という言い方。山から土がトラック何十台分か落ちてくるとか、普通の波の何十倍もある波が来るとか、日常の言葉からする人間の想像力はそんなものだ。自然の大災害というものは、桁がいくつも違うのだということを改めて感じた。
この後、信濃川に直接落ちた妙見の大崩というのを見に行った。山の尾根を切通して車を通したとしか見えない。その切通しの小さい方が、崩落した山そのものなのだった。
牛の角突きと呼ぶここの闘牛、特産の錦鯉(特に、ある養鯉場の美人のカミさんの生き生きした姿)、ひっそりした観音堂の中にずらりと並ぶ35体もの木喰仏、石川雲蝶というかなり破天荒な絵師彫刻師の作品、それを持つ寺のトンでも坊主らしい存在、見たもの聞いたことは整理しきれずに渦巻いている。腰を据え直して再び歩くことになる。
福島 東北 4~6度め
14年秋4泊で中通りから福島へ入り始めたのだが、強烈な印象にまず出会った。柿の名産地でたわわになった柿の実が採る人なしに日に輝いていて、われわれは食べるけど子どもには食べさせないという言葉が痛かった。それならどうぞといわれた柿は実にうまかった。売り物にはならないからどうせ捨てるのでいくらでもどうぞといわれたが、大きなのを2つも食べると腹がいっぱいになった。スーパーで見ると、柿の名産地でありながら地元産はなくて他産地のものが結構な値段で並んでいた。
これが準備段階のようになって、越年の旅は福島を軸にした東北と決めた。震災後3度回ったのは、主として三陸海岸で津波を追ったのだった。初めての被災後の福島行きで、思った通り津波被災とまるで違うことに、思った以上に考えさせられた。被災地と称されるところだけでは見えないものが多いとも気づかされた。13~4越年は、瀬戸内の残りの総浚えに行って、東北は一年余りの間をおいた。13年の三陸で、少し間をあけた方がいいかなと思ったりしたのと、冬の東北に車が堪えられるかの心配があった。そんな時ひょんなことで車の買い替えになって、雪にも心配がなくなった。
なかなか取れない年末年始の安宿探しと距離の見積もりでコースを立てていく中で、見たいもの見られそうなものが決まって行った。<核被害、その広がり><福島の津波被害者・被害地の現時点><「復興」の有様>を追いながら、その間あいだで、長年の懸案の<支倉常長><田村麻呂や阿倍比羅夫><前九年や後三年を含めての源氏、藤原><阿弖流為などの蝦夷>も探してみようというかなり欲張りなものになってしまう。実際には、降雪にはそれほど会わなかったが、寒風に吹きまくられ、探しても地表部分が雪の下で見えないところもあって、ちょっと季節とは合わない目的が多かった。この次は夏に東北7度目の旅をすると決めた。
地元局で毎日流す線量、あちこちに無造作に置かれている黒い袋の群、所々で見るキャンバス風の囲いの何ともわからない集積の施錠された入り口にある線量表示、公共施設の前や道の横などにぽつんと立っている線量計。注意を払う人もなく、人々は何の関心も示していないように見える。
春、常磐道の通行許可に続いて6号の通り抜けが許可された。高速はどうでもいいが、地道に入れる。早速浜通りの計画を立てた。制限区域外の安い宿は、工事関係者以外を泊めてくれない。再開してまだ知られていないから空きがあるという安い民宿をやっと見つけて、連泊して6号国道を2往復した。すべての横道、すべての門口にバリケードがあって、要所要所には警備員が立っている。写真を撮ろうと止めて外に立つと遠くから人が駆けてくる。軋轢は避けたいからすぐ発進することになる。車内からガラス越しの写真で我慢する。警備しているのは地元の人なのか、尋ねてみたいが、車を止めさせないことが仕事なのだから、たぶん話にはのらないだろうとあきらめる。車は止められないよと、外側の地元の人に言われてはいたのだった。駐停車用の路側帯の広げてあるところなどどこにも見つけられなかった。通り抜ける交通量もかなり多いから、道をふさいでいるわけにいかない。
帰宅許可区域もかなり回った。軽は実にいい。庭先を掠める細道でも、どんどん乗り入れられるし、行き詰まってのバックもUターンも大変ではない。荒れたまま住んでいる気配のない家、庭先などきれいにしてあるがしっかり施錠してある家、軽トラを置いてあるが人気の感じられない家。話を聞けないかと思うが、人にはまったく出会わない。田畑は、耕起してあるだけというところがいくらかあるが、放置されて荒れているのがほとんどだ。数軒、家の周りに花や野菜の顔を見た。どうしても瀬戸内の老人ばかりの限界集落の離島の見るからに荒れた家並みの続くあの哀しい景色がWる。悲しみの色のいろいろを思いながら回った。
除染作業ということも、やっとわかった。作業をしている様子も見、作業後の土地の様子もしっかり見た。集落と道路周辺だけとはいえ、下枝を落とし下草を刈り落ち葉や表土近くまで剥ぎ取ったここの山林は、手入れなど少しもされていない山がほとんどになっている中では、いやにすっきりして見える。
秋、冬、春、1週間、2週間、3週間、見えてくるものは少しずつだ。見て感じるということで旅をしてきた身に、見えないものの影響を見て歩くことのまどろこしさを、いやになるほど味わった。歴史だって見えない。だが、時間を経ていくということには、一定の流れ方がある、と思う。今我われは、何かわけのわからないもの・ことの前に立っているようだ。例えば、半減期という、完全無でなくとも99%無となぜいわないか。物によっては、50%と99%との間の気の遠くなる時間。人類が生きているのかと思ってしまう。だが、ものによるわけで、標的を定められるのだから、それぞれ、何々の除去、何々の警戒と考えられるはずではないのか。福島はフクシマともいわれる、ヒロシマと同じに。だが、そのフクシマという範囲・内容は何か。チェルノブイリなどで、周辺住民という視点の探り方はあったのだろうか。
この旅でびっくりした一つは、檜皮葺き(ひはだぶき)の建物が現在立派に使われているのを見つけたことだった。寺社の立派な檜皮葺きの屋根ではなく、2枚重ねらしい薄い屋根だが、中に置かれている耕運機などから見ても、雨漏りの心配もなさそうで、立派な現役の納屋だった。10間に5間と見た大きな構えで、土壁に替えて明り取りや出入りのためらしいアルミサッシが2・3箇所はめられたようだが、100年どころではない年数を感じた。母屋はしっかり見えるところまで入り込むのを遠慮したのでよくわからないが、納屋の4倍ほどはある瓦葺きのどっしりしたものに見えた。こういうものが現役で残りながら、そこでは車に頼って暮らし、耕運機に頼って田畑を耕している。
かつて、民家に凝って、特に囲炉裏と床の関係、それが竪穴住居とどうつながっているのか探っていたことがあった。その時期に榑板葺き(くれいたぶき)という木幹を縦に剥ぎ割った凸凹の板で葺いた屋根を知った。「板屋根に石をのせた家々」と誰かの詩で読んでいたその石は、その榑板が飛ばされないための石だった。東大寺の瓦などの時期を含めて、かつては官衙でさえ榑板葺きだったのだ。瓦という貴重品をつかえない建物は草葺き・藁葺きか板葺きだった。縦引き鋸という技術・道具の大発展以前は、その板という代物は榑板だったらしいのだ。ここで見た屋根は、榑板などではもちろんない。檜の薄板(四分板ぐらい)の上に檜の皮を重ねて葺いたのではなかろうかなどと見ていたが、触るわけにもいかないし、古く苔むしていてよくは見えなかった。
疎開先で中学生ごろ、杉皮葺きの家に住んだ。金があれば瓦にというのではなく、せめて二重にと母が願ったということは、一重だったのだ。もちろん、隙間はあってもセイタ(背板?)を張った上に杉皮を並べたのであるし、合わせ目は重ねてあったし、節穴には当て皮をしてあった。とにもかくにも人の棲み家は、そういう杉皮一重でもなんとかなるものだ。屋根のどこかの隙間から星が見えていたし、もちろん雨漏りは必ずあった。電気を引けないランプ暮らしだから、漏電の心配はなかった。木肌・樹皮というものが何年もつものか。屋根は濡れっぱなしではないから手入れさえすればかなり保つのだと、あの当時聞いたように思う。
福島の海岸は、片付けられた三陸では今は見られなくなった4年前の津波痕の姿そのものだ。違うのは草の茂っている濃さだけだ。三陸でも感じたことだが、どうしても我が家の焼け跡の風景が重なる。電柱と風呂場のタイルと便器とだけが目につく平たい広がり。東京の焼け跡で目立った蛇口が付いていたり途中で折れ曲がったりした水道管は、少なかった。塩ビ配管が普及していたのか、と三陸でと同じことを考えた。そういう小さな違いはあっても、同じといえるこの様子を見ていて、非常な違和感といったものに襲われた。三陸では、この風景のどこかに重機と作業員の姿があった。その姿は、どこの復興現場でも見かけるもので、風景の示す状況との違和というか落差というか、非常と常の交錯といったものを感じた。プレハブの仮設住宅でも、周りは現代風の普通の家の生活に取り囲まれている。ここでは、それがなかった。廃墟以外の何もないのだ。工作機械も、もちろん作業員も。これは、どう見ても捨てられているということだ、としか思えなかった。話を聞く人影も全く見当たらない。
地震被害はそれほどなかったようなので、津波被害地の近くはふつうの農村がそのままにあって、そこに人影がない、生活の匂いがない。浜通りから中通りの間はほぼ60キロだが、放射能汚染という物理的問題と行政区という人間的区切りを絡ませて仕切るので、帰還や立ち入りの許可か不許可かの区域の間は、川の岸の向かい合い、峠の上り下りといった近さであったりする。普通・平常と、無の、隣り合い。
直後、自分たちの家周りの通学路だけ、学校の校庭だけはせめて、と住民が自分たちで掻き集めて、校庭の隅を深く掘って埋めた仮処分廃棄物が、そのままになっているという。何とかして欲しいのだが、そっぽを向かれて相手にもされない。国の措置ではないことを、除去措置の始まる前に、勝手にやった、というわけらしい。ということをどこへ持っていけば、誰がどうできるのだろうか。余所の人に話せたのはこれが初めてだと、人の住む町の近くで出会ったおじさんはいっていた。
宿の家人かと思っていた女性と僅かに話したところ、彼女は関西から何回か通ってボランティアというほどのことは出来ないが何か出来ることをしているといい、話せる人はまだいい話せない人の存在が見逃されているという。そういう隙間に自分の出来ることを見つけているらしい。30代後半ぐらいに見えたが、阪神大震災で注目された茶髪のボランティアの存在感もたぶん同世代か、「今の若者」の作る世の中を見られるかな、などと思った。宮城唐桑の宿で会う同じ年頃の女性は、会うたびに存在感を変えて避難所だった宿の手伝いから地域の活動家の軸へとなっている。
海岸平地の盛り土に山から林立する巨大コンベヤー支柱は異様な壮観だ。その気仙の防波堤といわれた大島へ行った。ぐるり一周を歩いたが、元から人の少ない島だったからか、外海側に新しく築かれている大防潮堤もひっそりとしていた。東の本土側の人家は基礎を揺すられ、軒まで津波をかぶって手を入れたそうだ。一律1軒何十万円かの補助が出たようだ。そこの堤防を新しく作り、集落の地盤を1m上げるということになっているという。そうすると家は排水も出来ずに水たまりになるのかと宿では心配しているが、どこに何を言えばいいのかわからない。毎日牡蠣の殻剥きに行っていて暇もないしと。戻った町で、いつぞやの酒屋を探してみた。復興商店街にまだそのままやっていた。跡継ぎなどのその後を訪ねると、まだ元気もあるからここ数年は気長にやっていくよと、やや寂しげではあるがまあ元気な答えだった。