学びをつくる会世話人リレーブログ -2ページ目

本が出来た、画期的な本が

  春から夏にかけていろいろ話を詰めて、われわれ国語・平和教育研究会で一冊の形の本『文学で平和を』をほんの星社から出版することになった。これまで、自費出版などあれこれの計画を立てては消えで悩んでいたが、やっと市販ルートに載せられる話がまとまった。10月から12月で原稿の完成に注力し、1月に校正、3月発刊。間もなくやっと実物が目の前に見られる。今は印刷が終わって製本しているところ。ぼくがまとめ役をさせられたので、この間ほかのことは何も落ち着いてできなかった。だからこのブログも途切れていた。
 国語の教科書教材を中心とした9編の、教材分析と授業についてという内容で、類書は多くあり、これは別に目新しいものではない。だが、それらは、何人かの執筆者による共同執筆でも、分析は一人でしたものだ。画期的と言いたいのは、共同討議ということだ。国語関係のいくつものサークルのメンバーが、同じ一つの教材を集団討議で分析し授業案を立てる。そのまとまったところを責任執筆者が書いて、さらにそれを討議して修正するということを15年繰り返してきた。10冊の集録で100近い教材をやった中から絞って1冊の本にまとめた。討議に関わったメンバーは20人もになる。
 サークル、いわゆる民間教育研究団体の中でも、国語関係は一番多い。その各サークルはそれぞれに活動しているが、相互の話し合い場面は、だいたい教研集会の形しかなかった。かつての空中戦と言われた喧嘩腰の激論は遠い昔になって、最近はお互いを攻撃し合うことはないが、高め合っているかというと、すれ違っているといった方がいい、とぼくは見ている。それが、ここでは、お互いの主張の良さを認め、補強し合って、この教材はこうだと納得するまで行けた。これは画期的だと自負していいのではないか。ほかにも、独自な点として、小中高のメンバーが一緒に小中高の個々の教材を分析討議し、それぞれの立場から求める到達点や要求過剰への危惧が交錯する中で、わかり合って一致していくということをできた。これも今までに稀なことだ。また、平和に絞って今出す、ということの意味もあるはずだと思っている。ただ、こういう難しいいきさつなどについては、出版する本では前書きと後書きで少し触れただけで、本文では現場にまだ慣れない若手がごく自然に納得できるように心を配った。誰にもわかることが大事なのだ。
 執筆した9人の中で、ぼくだけが持つ感想がある。これまで書いてきたようなこの本の成果には、前史があるのだ。今の東京民研の前身は都教組教研会議というのだが、その後半は自主編成に取り組んだ時期だった。ぼくの所属していた国語部会では、小中の教材分析と授業実践報告を併せて、11集の集録を出した。またその間に、評価編として小中一貫到達目標試案を2回出した。この13冊に15年かかっている。この時、やはりいくつものサークルから部員が集まっていて、空中戦経験者も多く、激論をのりこえての一致点づくりに苦労した。執筆も文責の形の執筆で、読むと誰の執筆かわからないものがいくつもあるほどだ。これは俺がまとめたと幾人もが思うだろうと想像すると楽しい。20代後半から50年間余のこれらのことを考えると、今度の本はぼくのほぼ全期の到着点かなという思いがする。協同・共同ということは大変なことだ。
 で、今、新しく別の協同の研究の輪を作れないか、相談し始めている。道のりは遠そうだが。

衣被(きぬかつぎ)

 農協の直売店で里芋が大量に並んでいた。季節だなあと、自分がサボって作らなかったことを悔やみながら眺めた。頃良い、実にいい大きさの芋をそろえた30個ほどの袋詰めが150円と信じられない値段で出ている。衣被だ、と途端に感触がよみがえった。
 何年も食べていないと思った。忘れるほど久しぶり。実際はどこかで一つふたつ食べているかもしれないが、そんな記憶でなく、もじゃもじゃの毛皮を半分だけ脱がせて、白い固まりを口に押し込んだときの、あのねっとりとじんわりとした感触と、口の中でつぶれ溶けていくほんのり甘い澱粉質の舌触りと味。無性に食べたくなった。
 大きさにこだわって、いくつもの袋の芋を比べて、気に入ったのを買い込んだ。似た大きさを比べるのは案外難しい。長さ5cmほどで径は4cmかそこらの、まあやや長丸のいい形。
 さて、早速水洗いして鍋に入れたら、多すぎて、中鍋の中では一番大きいのに取り替えた。ここで量ということに全く気が回らなかったのが不思議だ。なぜ芋を減らすことに気付かないのだろう。次に水の量に迷った。が、まあそれはいつもの通り適当に。芋が隠れるぐらいならとにかく煮えるだろう。何分煮ればいい? 茹で卵ぐらいでいいか。
 さてさて、湯気の立つのを手にして、皮をそっとむいて、塩をちょっとつけて、これだこれだ、うまい。2つめ。こんなに指がねとつくんだったっけ? 種類が変わっているのかな? 皮も薄いようだ。4つ食って、満腹してきた。これ以上は胸が焼けそうだ用心しよう。かつての食い放題腹のはち切れる喜びは古い夢としよう。笊の山盛がちょっと減っただけだ。あと6・7回分はあるようだ。
 腹がくちくなると、月見の団子のことが頭に浮かんできた。中秋では芋の季節に早いから芋ではなく団子なのかな。やっぱり芋だったのが形の似た団子に変わったのかな。日本でイモは自然薯=山芋=長芋から始まったのだろう。それに里で栽培するイモ=里芋が加わり、甘藷が加わり、馬鈴薯が加わったのだと、流れを追ってみる。衣被というのは、もっとも簡単なということは原始的な食い方だったろう。焼芋・じゃがバタも、原始的でうまい。焼芋は焼藷であるはずが、なんで芋なのだろう。焼芋ははじめ里芋使っていたのかな。今度、里芋を焼いてみようか。ストーブを焚き始めたらなんでも焼ける。
 ところで、衣被の語だけど、きぬをかづくというのが平安の女性の身嗜みにあったのから転じたんだろうが、担ぎとはあまり嬉しくない。きぬかづきのままで残っていてくれればよかったのに。それにしても、指のにちゃねちゃするのは困ったものだ。子どもの頃の記憶には、そんな感覚は残っていない。食い気が先で気にしなかったのか。指を汚さない方法を考えて、茹でた栗を二つ割にしてスプーンでほじって食べるのを思い出した。試しに、ナイフで二つに切ってやってみた。何とか指をあまり汚さずに食べられる。だが、どうもこれは面倒極まるし、まどろっこしくてかなわない。まるで食った気がしない。原始的なものは原始的に食わねばならないものなのだ、やっぱり。
 ついでに、八つ頭の煮物を思い出した。あれも実にうまい芋だ。あれも最近食っていない。いやどこかの宿でうまいのを食ったな。記憶の曖昧さ、というより変化してしまう?記憶が最近ひどく気になる。あれに今度は挑戦して煮てみよう。食うことにこんなに気が回るのは久しぶりだ。食い気を失ったかと淋しかったのが、回復するならうれしいことだ。

安曇野暮らし 16年春から夏


 異常気象の春の日
 久しぶりに晴れた、という天気になったので1年半ぶりにスキーに行った。たぶん氷の斜面は緩んでいるだろう。出るときから冬としてはかなりの薄着だったが、小1時間経ってスキー場に着いたときはもう暑すぎて、春というより夏の格好に着替えてしまった。ラジオで5月の気温だと言っている。朝昼食兼ねて菓子パン2個食って、2時間滑ってへとへとになって、車に下りて1時間休んで、もう1個のパンを食う気が出ないままもう1時間半滑ったら、雪が固まり始めてエッジを取られても疲れた足が立て直してくれなくなって、つまらないところで転んでしまう。さっさと諦めて車に乗ったらちょうど3時。今夜は何をつくるか考えながらスーパーに寄って安いものを買って帰る。風呂に寄ることを忘れて帰ったので、久しぶりに家の風呂を沸かすことになってしまう。なかなかいい日だったのではないかと、風呂から上がって、1杯飲みながら飯を作って、目刺と肉入り野菜炒めと豆腐になめこの味噌汁とを食って、7時半に寝る。人生に意味づけして生きていたころからすれば、堕落も甚だしいのかな。
 明けるとどんより曇っていつ降ってもおかしくない。山は雪だろうから、滑りには行かない。植え付ける葱とジャガがあって畝も立ててあるのだが、始めたら直ぐ降り出してではいやだね。今日は何もしないと決める。7時の朝のコーヒーから3時間、じっとしていて、諦めた。何もしないでいるのもかなりつらいものさ。こんなときこそ家の中のごたごたを片付ければいいのだ、と思いはしたが脱ぎ捨てて山になっているのを何とかする気にはどうもなれない。
 ひょいと本棚に目が行って、押し込んではみ出しているダンボールが見えた。あれは確か、何かの書類を見直して捨てるように持って来てあるやつだ。引っ張り出してみると、新聞の切抜きだ。種類や年月のでたらめな名の袋に入っている。ほとんどが2000年前後のものだ。我ながらいい加減さにいやになるが、この際無視して、全て捨てる。といっても、やっぱり惜し気があって、手書きのプリントなどが混じっていないかざっと確かめる。
 おとといの順と言われた懐かしい先輩の几帳面なガリ版レポートがあった。教科書裁判杉本判決についての支部教研夏合宿用だ。こういうものをすてられるわけがない。ほかにもいくつか捨てられないものを拾い出して、結局、ばらしただけ嵩の増えたダンボール1箱捨てられることになった。(16.3.18.記)

 大型連休
 渋滞だったら所沢で降りるつもりがやはり正解だった。所沢ですいすい行くのに任せて通り過ぎたのが甘かった。やっぱり連休だ。すぐ詰まってしまって、いらいらしながら川越まで我慢して、下に降りてからやっといつもの調子になった。R254川越街道に入ったり出たりしながら、抜け道と半々で行く。
 板橋の家から安曇野の小屋までに、通る道によって違うが、農産物直売所が大小15余りある。新鮮で安い。長野は野菜類は総じて高いから、うちの畑で取れそうなものを考えながら、買い込んで行くことにしている。何が旬か、繁盛の具合はどうか、休憩を兼ねて、なかなか楽しい。同じ野菜の品種にもかなり流行があることを知ったりする。新種の流行を作っているのは生産者つまり農家だと、改めて感じることが多い。消費地で知るのは売られ出してからだから。
 個人店と農協店といっぱいある中で、めぼしいのは7つだ。埼玉の北で2つ、群馬の南と西、長野に入ってR403の峠の前後で茸目当ての3箇所。他もたまに寄ってみたりするが、見過ごしていくところのほうがずっと多い。今回は、7か所寄って行くことにする。日数に余裕はあるし、どうせ遅くなりついで、急がなくても畑は待っている。28日が区教委の傍聴と東京民研の運営委員会で、最も混む初日の出発になった。前後含めて2週ほど安曇野に逃げ込むことが、この時期の通例になって何年も経つ。
 朝、コーヒー飲んで畑に出ると、びっくり。菜の花が咲いているのは、それはそうだが、全部が花になってしまっている。一茎の頭頂一輪が半分開いたころまでは食べられるが、3つ4つも咲いてしまっては、茎はもちろん葉ももすでに固いのだ。半分ぐらいは花菜で食べられる状態でいてくれるはずだったのに、だから葉っぱ物は買ってこなかったのに、と恨めしい。蕨が何本も葉っぱになっているし、独活まで顔を出している。大量に採れるだろうが処理をどうするかと期待と心配をしていたコゴミ(クサソテツ)は、みんな葉が広がってしまっている。どうやら2週か3週早く季節が進んでしまっているようだ。月初めにいた三陸で、桜が咲いているのにタラの芽が出ていて、こっちはこうなのかと思っていたのだが。悲しかったのは、片栗の花が萎れ、もう葉ばかりが大きく広がっていることだった。どれだけ増えたか毎年楽しみにここに来るのに。ジャガがきれいにそろって葉を広げ、葱がこれもそろって伸びているのはうれしいが、蒔いた菜っ葉類はさっぱり芽を出していない。乾燥が続いたのだろうか。仕方がないと、周りを見回して、青菜は三つ葉を採ることにする。
 現職時代には、こんな大型なんて無かった。332で間の2回1日ずつサボれば10連休。どんな口実をこしらえて、どこへすっ飛んでいったろうなどと、これは老いの繰言と言われる類だろう。
 畑仕事の合間に聞いているラジオで、山の事故を言っている。あの山で落ちるというとどこだろうなどと思い出してみる。雪はあったのかなかったのか、雪の状態はどうだったか、アイゼンを着けていたのか、それによって原因が変わる条件を何一つ伝えない。
 帰る前の日になって、筍が頭を出した。通路にしている隣地との境で、小石を踏んだかなという感触があった。筍の先端の緑のひらひらが枯葉の間にちらっと見える。もっと堅くない、掘りやすいところに出ればいいのに。明日の朝堀ることにする。(16.5.12.記)

 さるはさる
 連休後10日経って筍と独活を目当てに、4日間の暇を見つけて行った。かなり繁ってきたじゃが薯の畝が何か変だ。近寄ると、端から6・7本抜き捨てられている。端からでほかは変わりがない。狸や猪のやるように掘り返したのではなく、ただ抜いた跡だ。猿か? いや、こんなにきれいに抜き上げるのは、人間の仕業に違いない。いったい誰が?
 この時期、この辺りで、じゃが薯が実っていることはありえない。多くは植え付けたばかりだ。ここは3月に植え付けたのだった。いつもよりひと月も早く、初めてやってみた。異常気象に合わせたつもりだった。だが芽が出たのは、かなり遅く4月の半ばになってからだった。それでも、いつもよりはずっと早く、霜も降りず今はもう元気に繁ってきている。窒素分が多すぎるのか、背が高くなり過ぎているようでもある。それで薯が獲れると思ったやつがいたのか?
 1本抜けばわかるはずなのに、こんなに抜くとはずいぶん阿呆なやつ。およそ農事に疎い奴だ。するとこの辺りの人間ではない。この辺の人ならおよそのことは知ってるはずだ。だいたい畑荒らしを近所でやるはずはない。塩の道を歩く人が最近増えたが、そういう人は脇目も降らずに歩いていて、もっと道草食えばいいのにと思って眺めているほどだ。周りにはじゃがの畑はいくらもある。ここは林に囲まれて人目につかないからか。畑があるとは見えないここに入り込む? 旅の途中でじゃが抜いてどうする。すると町に新しく入った人が散歩がてらにか? 山菜採りなら、すぐそばに独活もあれば蕨もあるし三つ葉も一面に繁っている。それらに手を付けた形跡はない。
 さんざん考えて、次の日に改めて犯行跡?をしげしげ観察した。どうも不思議なことに、足跡がない。じゃがに手をかけて力を入れるには、どうしたって畝に近寄るはずなのだが。隣の畝の葱の1本が引き千切られている。さらにその横は隣地の林との境で、昨日見つけた獣道(けものみち)だ。邪魔してやれと木の枝を数本土に刺して立てておいたら、すぐ近くに新しい道ができていたのを今朝見つけた。かすかだがわかる道が1晩でつくには、夜中にいったいどれだけのものが歩いているのだろうと思っていた。これで、答えになったと思った。やはり猿だ。道をふさがれた仕返しか? いや抜いたのはもっと前だ。この時期、山にも餌は豊富にあるはずだから姿を見せないのだと思っていた。答えにはしたものの、さてこれからどうなるのだろう。荒らされた後でしか気づくことはない。猿は去るのだ。(16.5.23記)

 よく働いた。ほめていいことだ。
 榎の枝15cm径6m長を落とした。梯子の最上段4m高でだから、気分は楽だ。ただ、梯子を立てる位置が限られるから、右腕で幹を抱き込んで左手だけで伐ることになった。休み休み半分以上まで切ると裂け目が入って傾いで、枝先が地上についた。榎は柔らかい木だ。枝元の重さが斜めに支えられているうちに、畑に届いてしまった枝先を落とす。分岐した枝を塩梅しながら切り詰めて、うまく落ちて寝てくれるように傾きを修正していく。枝の整理は右手で鋸を使うから、左手は疲れ安めになる。右手も疲れると、細かく切った葉先を畝間に運んで雑草防ぎに敷き込む。最後に枝元を切り離すと、方向はうまくいったが、斜めにたわんでいた分と支えていた枝の跳ね返りで、枝元が藪の中に突っ込んでしまった。計算違いをぼやきながら引き出そうとしても、重すぎてだめだ。力が出ない。仕方なく寝てしまったのをまた2つに切って、やっと引きずり出せた。家の横まで運ぶのは、しばらく水気が抜けるのを待つしかない。4時間の作業だった。
 去年、屋根に葉が当たるのを気にして北側の枝を落とした欅の、今度は南側に張り出した枝が気になりだした。南側の植え込みに陽が当たらなくなっているし、さらに南の隣の植え込みに影響しだすと悪い。3本、枝元の高さは目測で5・7・8m。まず様子を探りに幹の二股まで梯子で行ってみる。二股の下までしか届かない4m弱の梯子でも上半部は枝に顔を抑えられるオーバーハング状態だから、手の支えがほしい。が、一抱えを超す幹以外に何もない。そろりそろり、膝が段につかえる。バランス、柔軟性、去年よりまたまた落ちている。二股に顔が出てやっと抱え込める枝に手を回せて一安心。さて次の二股の段に足が上がるか。真ん中で邪魔している径10㎝超の枝をつかんで足を上げてみても力が入らない。支えの足が前過ぎて体が反っているだけで、もう片方をさらに上にという体勢がとれない。太い幹を抱えて逆回りに上がるもう一つの手があるのだが、たぶん45度以上も体を反らして回ることになる。抱えるだけの幹を頼りに回れるか。行ったとして、下り気味に戻れるか。反らした体で降ろした足が下の段を探り当てられるか。抱え込んだ俺の腕が俺の体を支えていてくれるか。やめたやめた。
 もう一つ、西北の境のサワグルミ、何年か前に息子と2人がかりで大枝を伐った後、ものすごい勢いで伸び出した下枝が8mばかりも畑に張り出して邪魔だ。2本伐れば相当明るくなる。4mばかりに延ばせる高枝切というおもちゃっぽいのを持ち出して、三角に折った梯子の脚立に乗ってみたが届かない。やわらかい地面に立てた脚立の上で長いものを動かすのは不安定極まりない。
 息子に都合を聞いたら、明後日なら暇だという。それなら明日、梯子で手の届く欅の一番下の細いのだけは伐っておこう。
 やはり梯子の最上部で力を入れるのは無理だった。細いといっても径10cmはある。長い重いほうの梯子を運び出してみる。持ち上げるのにも息がきれるが、なんとか立てられた。伸長式で倍に伸ばせるのだが、到底そんなことは望まない。立てられないし、登れない。半分でも、下の枝の段までは届いたから、仕事にはなる。大きい梯子はさすがにしっかりして安定感があるから、ロープも着けずに鋸を使う。上の枝とこすれてよじれている枝だったので、もう少しというところまで切っていくと切断面がわずかにだが嫌な向きにずれて鋸が動かなくなってしまい、切り直す羽目になった。2回目を半ば以上切ったときに、いきなりバンと枝元が跳ね上がって、腕をしたたかに打たれ、鋸を飛ばされた。幸い指も腕も動く、血も出ていない。1回目の切り口で離れていた。欅は堅いからしなることも裂けることもなく、予測がつかなくて怖い。細いからと楽観していたが、落ちないようにきちんと枝にロープをかけておけば、逆に跳ねてももっと違っていただろうと、油断を反省した。あの打撃を顔に受けていたらと思う。
 一休みして気分を入れ直して、枝先を切り詰め、分岐した2本の枝で人の字型に立てかけた格好にしておく。上の枝を落とす時の滑り台になるように。二股の片方から出ているちょっと細い枝も、やや長めに残す。滑りが悪い時にゆする梃に使えるだろう。今回の枝は、屋根に落ちるのではなく植え込みにかぶっているから、下の梅や萩のダメージを少しでも和らげたい。
 明日の足場を整えるためにも、葉先から小枝をしっかり整理する。枝下ろしは枝そのものもだが、葉などの始末が手間がかかって厄介だ。時間も食う。中腰での作業が続くからすぐ腰の痛みが来る。腰伸ばしの体操を兼ねて、こまめに葉先を畑の畝間に運ぶ。この枝伐りも4時間ちょっとの仕事だった。
 翌日、中段の枝から始めた。上のを落として下の枝で受けさせるのがいいのだが、枝の揺れでどう跳ねるか、予想ができない。むしろ見えるている方が何とかできる。体の安全確保のロープと、枝を落とさないためのロープをしっかりかけさせる。枝のロープは下にひいて、下で操作できるように仮止めしておく。態勢にも切る空間にも余裕があるので大きい鋸を使えるし、あっさりと切れた。次の枝を切り始める間に、梅や萩にかかった葉先を整理して切る。太い部分だけの裸にしたところで、上の作業を止めて仮止めをほどいて、滑り台の木を使って、下まで徐々に滑り落とす。計算通りにうまく通路に寝てくれた。もう一本の上の枝は太いし長いし態勢がやや不安定になったが、ほぼ同じ塩梅に切り落とせた。2人でやるとなんと楽なことか。去年と同じ木だし、ほぼ同じ作業でもある。周りがずいぶん明るくなった。梯子やロープなどを次へ運んで用意する間に、こっちのほうを歩ける程度に始末する。ちゃんとやるのは明日以降だ。
 次は難しい。何度も苦労しているクルミの木だ。厄介な点はいくつもある。
 2抱え近い主幹から出て40度ぐらいで斜上する1抱えほどの枝の上に立つことができれば、そして3m進めれば簡単なのだが、支えが全く得られない。このクルミは畑の面から60度ほどの傾斜で落ちる斜面に立っているから、枝から転落すれば谷へ40mばかり落ちることになるのだ。太枝の股の上に出て様子を見させるが、手のつけようはやはりない。また高枝切りを持ち出して来ると、手前の枝には十分届く、角度もまあいいという。横からの自己確保ロープで命の安全はいいが、寝そべって抱き着く姿勢でしか仕事ができない。それでも、垂れてくるだろう場所を整理しているうちに、軟らかいクルミはめきめき音をさせて垂れ始める。葉先を引いて誘導しながら力も入れて引いてみるが、落ちるところまではいかない。次の枝に取り掛からせて、垂れた枝先を伐って始末していると、いきなり枝元から落ちて来て、危うく谷へ引き落とされかけた。太い枝元を燃料に確保したいが、引き上げられる重さではない。諦めて枝先を離すと、枝と下の木とがぶつかり合って跳ね返って一回転しながら40m下にもぐってしまった。上の枝は、半分ほどしか切れないというが、細かい裂け目が入り始めたようだともいう。雪が載れば裂けて落ちるだろうと、放置することで諦める。(この枝はしばらく後に、雨で垂れ落ちたと知らせてきた。)
 4本の枝で、7時間を超えた仕事だった。この日はあれこれ10時間近く働いて、すっかりくたびれた。次の日は落とした枝の整理で6時間ばかりかかって、また10時間労働になった。結局、この9日間は、7日間をフルに働いて、合計60時間ほどになったようだ。日が長いのは助かるが、働き過ぎにもなる。(16.6.7.記)

 さるはくる
 6月末、5日間だけの暇で、雨が何とかなってくれることを願って、草の始末に行った。
 1日、今にも降りそうな中で大忙し。草との戦い、11時間頑張って、暗くなるのと降り始めるのが同時。
 2日、雨で明けて、午前中に止みそうで、教材分析の原稿に手を入れていると、何かの気配を感じた。庭先の畑との境の紫式部の葉先が不自然に揺れていた。何か?と見て、目が合った。この野郎、あっ、あっちにも、ぞろぞろ! 花火をセットして、そっとガラス戸を開けて、少し動きかけた背中めがけて。湿気てるのかしょぼしょぼ導火線が燃えて、ヒューっと、のそのそ逃げていく奴と逃げずにこっちを見てる奴と、ぽん。もう一つ、今度は湿気ていないように。シューっ、パン。一斉に飛んでく。いつもの群れか、15頭は越しているようだ。もう一つ。これもシューっパン。縁まで出て、遠くに向けて、ダメ押しに、シューっ、パーン。
 雨は上がったようだ。どれだけやられたか見に行くか。着替えなきゃ。さて、となった時、向うを素早く駆ける奴がいる。見張りが引き上げるのだ。
 長靴を履いて出て、ジャガの畝へ近づく。ずいぶん引っこ抜きやがった。なんせ多勢だもんな。遠いほうの畝にも行ってみる。チビがいたようだった方だ。似たような被害だ。まだ畝のところへは踏み込めない。止んだばかりだ。だが、やはり、どう見ても掘ってはいない。奴らはどうも掘ることはしないようだ。手を汚したくないのだろうか。ということは、被害はまず無しか。引っこ抜いたとき茎にくっついて行くのは、豆粒ほどの球だけだ。サツマイモと違って、ジャガの繋がりの茎は弱い。だが、目が合った時、口を動かしていたようだったが。
 被害がなさそうなので、すっかり気が明るくなった。そうしてみると、なんか奴らも哀れだな。いやいや、畑に出てはいけないと、しっかり教えておかなければ。
 おかげで、来月に予定していた芋ほりを、やらなければならなくなった。土の水気がいくらか抜けたら。やることが多過ぎる。(16.6.28.記)

勿来から普代 東北8回目 16年4月

 帰還困難区域の部分解除が始まっている現地の様子を見よう。巨大堤防と嵩上げ工事がどうなっているのかを見よう。またまた行った。記録を見ると8回目になる。100泊になる頃は気にしていたが、そのうちに大きく越したろうなあというぐらいにしか感じなくなった。見たところの変化、そこで見落としていたこと、まだ見ていないところ、行かなければという気になるところが増えるばかりだ。

 なんたること 九州中部
 この、地震津波災害と原発災害とを追う旅の最中に、震度6、7が起きた。ラジオで被害の様子を聞きながら、考えさせられた。
 ひとつは、天災(災害)は忘れたころにやってくるということば。災害の度に聞くが、今回は場合が場合だけに、聞き流せなかった。考えた途中経過は省略して、行き着いたところは、この言葉は忘れた頃に天災が起こるという偶然性を言っているのではなかろうということだ。天災は来るが災害(災いで受ける害)は構えていれば大きな被害にならない、という意味で理解されるべきで、その意味で人に伝えられて来たのだということだ。この言葉が発せられる時というのは、あの災害の時にはこう思っていたな、用心しなければならないと考えたな、それをしなかったから今こうなっているのだ、という悔恨が根っこにあって言われるに違いない。天災は避けられなくても、構えていればその害は避けられる。
 もう一つは、なぜ忘れるのかということだ、東北大震災から5年でしかないのに。核災害に人々の関心が集中したことが、地震・津波災害への意識を比較して軽くした、ということが1つありそうだ。そして、M9という規模から海溝型地震、南海・東南海・西南海といった関心へ大きく傾いて、それ以外の地域では我ことと思わなかった傾向もあったのではなかろうか。九州中部はたまたまだっただけだ。東京であっても同じだろうと考えると恐ろしい。阿蘇の噴火危惧がすぐいわれ出したことからは、火山噴火への意識の方が強いのかとも思う。
 この二つのことは、帰ってこれをまとめて書いている数日間に新聞などに出てくるようになった。やはり多くの人がこういう再認識をしたのだろう。いやなこと危ないことを意識から遠ざけて、現在の安心感を確保し、そこへ逃げ込みたい欲求を人は持っていると言えそうに思う。酒・煙草に溺れながら、癌や卒中にならない運に頼る、ということとも近いのだろう。自分を含めているのに人ごと風にして言うようで気になるのだが、解釈ということは本来自分の認識を確認する作業なのだ。
 今回は、本震とはなにかという問題が新しく出てきた。前震ということばが出てきたが、どうしても本震が最大ということにこだわらなければならないのだろうか。本震が数回ある、あるいは幾つかの近い震源の地震が連続して起きる(群発とはまた違うにしても)ということではないのだろうか。津波では第2波第3波のほうが大きいことがあるという警告がされている。原因・仕組みは違うが、対被害という感覚からは似ている。
 なんにしても、本震より大きい余震はないという常識が崩れたことは大きい。我々はこれからは、大きな地震にであったとき、もっと大きいのが今また来るかと、いつ終わるのかと、おびえ続けなければならなくなった。今、九州中部の人たちは、そのことで苦しんでいる。避難し続けなければならなくなっている。

 福島は何も変わっていない
 R6(国道6号線)での規制は去年と何の変りもない。バリケード封鎖の地域が少し減ったように思うが、中心は相変わらず。立ち入り緩和区域に入るのにも相変わらず検問がある。検問をくぐれないものは引き返すだけ。
 なるべく浜沿いにと軽しか通れない小道を辿って、標示もないまま福島第2原発の入口に近づいてしまった。バックしようとするとすっ飛んできて、ここではだめだから検問所の内側まで進めという。内側の広場でUターンしかかると、免許証を改められ記録された。何か口惜しいが、標示をきちんと立てろと文句を言うぐらいしかできない。前回これほどうるさくなかったように思うが。
 前回も見た広大な放射性廃棄物集積所は、相変わらず隙間越しに見るしかないが、中の袋の列などがものすごく増えている感じで、空きがなくなりかけているようだ。入口にある線量計の数字が高めだ。あちこち至る所というようにある小規模集積所は、そのままで何の変化もない。
 立ち入り制限解除区域では、至る所除染作業の旗が立ち、ロープで区切られて、所々の線量計は、高い。0.8余まであった。作業の人以外に住民らしい人の影を見ることはできなかった。
 雨の中で苦労したが、除染作業地での泥水の流れを確認できた。この結末はどう現れるのか。こういう害はどう計算されているのだろうか。

 ここはここじゃない
 嵩上げされた上に立つと、何度も見たここがなくなっていて、違うところがあった。
 残骸が撤去されて土台だけでも、道路で区画はわかり、家のあった「まち」は想像できた。部分的に嵩上げの始まっていた去年でも、多くはこうだった。今、この平らなむき出しの土の広がりの先に堤防が見えるだけのからっぽ。
 数m視点が上がっただけに過ぎないはずだが、地盤そのものが上がるとこうなるのか。周囲の山が包み込むその山の見え方まで含めて、ここなのだが、それはもうない。震災遺跡保存はつらい思いから嫌だと撤去するレベルとつながっているのか、想定を超えてしまったのか。ここに住んだ人にとって、ここに何らかの思いを持つ人にとって、今あるここは何だろうか。ここにあった集落・村・町は、数枚の写真と生きている人の記憶の中に何年か残り、やがて消える。それは立ち物が津波にさらわれてなくなった空虚と同じなのだろうか。

 変化
 新しい駅などがいくつか出来た中で、真っ先にできた女川の駅舎とその前の集中施設広場が目立った。駅から真正面に広場風の通りが海まで延び、50mほどの左右に施設や店のはいる建物が3~4棟ずつある。大きな道の駅といったところだ。空きスペースは、入る作業が遅れているのか、希望者がいないのか。周囲は嵩上げ進行中、今年中には次の段階の姿が見えてきそうだ。あまり遠くからではなさそうな見物の人がずいぶん来ているが、買い物など当地の人らしい姿はない。
 復興商店街はどこも、人影少なく、うらさびれた感じになっていた。聞いてみると、作業員が減ったという。これから人の増える見通しがなかなか立たないという。工事基地にプレハブの宿舎が、かなり大きいのも含めて増えた。今回宿をとるのに苦労しなかったのも、工事の人が減ったという同じ理由だった。オリンピック関連でもう行ってしまったのだろうという人もいた。仮設住宅も、閉じて住んでいないように見えるのが目につく。小都市にはかなり大型の新しいスーパーができたのもいくつか見かけた。だが、現地で、被災しなかった人が減っているとも聞いた。帰っても生活できないというのが、納得できる。
 釜石の石應禅寺境内の復興店舗の酒屋の旦那がどうしたか、またいい洋酒を手に入れられるか行ってみた。閉められた戸のガラスに、青葉通りの前店舗地に新店舗開店という手書きの紙が2枚貼ってあった。和文よりも英文の方が丁寧で詳しい。行くと、きれいな新店舗に元気な顔があった。いい酒も多くていくつも買い込みながら、あれこれ話した。今回はじめて年を聞いたら85歳、後をやっと継いでくれることになったと、嬉しそう。店を再建しても暮らしていけるだけ客が住んでくれるのかと、はじめてあった時心配していたのを尋ねてみると、今はぼちぼちだがどうにかなるだろうとさばさばしていた。取り紛れて半ば忘れていた動脈瘤が気になり出したのを手術することができて経過はいいともいう。新しい輸入でいい洋酒もたくさん入ったと、この英語達者な旦那は、3度目の今回も元気を分けてくれた。

 石・岩
 今回は津波石をいくつも見た。普代の新しいパンフに新しく運ばれてきた津波石とあって、黒崎ネダリ浜の道もないところを辿っていった。小さい岩浜の波打ちに巨岩が積み重なっている。浜の左右の岩の壁が打ち砕かれて運ばれてきたのだ。左右で違う岩質(ということはここが断層の上だということになる)の両方の岩の塊がある。よくよく見ると、これらの岩の上側に埋まっているさらに大きい岩塊も、どうやらかつての津波石のようだ。海から遠くにぽつんとある津波石とはずいぶん違う感じだ。岩の浜によくあるでかい岩の塊はみんな津波石なのかもしれない。
 吉浜の新しいパンフに、行方不明だった昭和津波の石が今回再現出したとある。前日に行った津波碑のすぐ先の浜だった。ここは3回目だ。初めてのときに古い津波碑が壊れた跡に仮置きされていたが、2度目には新しい碑が建てられ横に古いのも据えてあった。今は防波堤づくりの途中で、その工事の延長線上で砂が掘り上げられ中に、巨岩が座っていた。案内も何もなく、鹿の足跡が見回りに来たというようにまわりを1周していた。たぶんかつては立っていた側面に文字を刻んだろうと思うが、今は斜め上の面になっている。このどでかいのをどこにどう置き直すのだろうかと、ちょっと心配してみる。
 リアスが南北でこれほど違うということも、今回初めて見直し、実感した。切り立つ岩の肌や節理・層・断層を、あちこち行った先で改めて見た。唐桑半島先端の御崎の、何時間いても見飽きないあれこれの層理の模様は、自然のいたずらとでもいうしかない。ジオパークとしての発展が現地で探られ始めていて、パンフにもそういう説明が載り始めた。これからもっと面白くなりそうで期待している。

 堤防
 新しい防潮堤があちこちに出来上がっている。工事中のところはもっと多いが、それでも部分的には出来上がりの様子を見られる。
 大別して3種類あるようだ。一つはこれまでにもあった塀のようなタイプ。以前よりずいぶんと巨大だが、厚さは50cmぐらいに見えるのもあって、頼りない。地元の人に聞いてみると、どうだかなあと言いながらも、近い間隔で太い鉄パイプを深くまで打ち込んでいるからいいんじゃないのかなあと、かなり期待もしているようだ。海側に波返しのおおきなオーバーハングをつけるのは少なくなったようだ。あってもわずかな傾斜で小さい。高潮や小規模な津波には波返しは有効だったのだろうが、大津波に対する大規模堤防では、規模に見合う波返しをつけたらトップヘビーになってしまうし、有効性も期待できないということではなかろうかなどと考えてみた。何より工事が大変で高くつくということが問題なのかとも勘ぐる。
 もう一つは、ゆるい傾斜のなだらかな丘といったタイプ。角度はいろいろで、手を着かずに立って登れる30度ぐらいから、自転車で登れそうな15度ないだろうと見えるものまである。高さもいろいろだが、そうじてかなりの高さで大規模だ。上に国道や県道などを通す予定が目で追えるのもある。
 3つ目は、それらの複合型で、部分的に違うタイプを組み合わせているのもある。ゆるい傾斜の幅広い下部と、傾斜の強いあるいは直立した上部構造の2段構えで、中段が車道になっているのを多く見た。
 内外の階段のつけ方が変わったように思う。譜代太田部の広い階段と同じような堤体の一部が全て階段となっている方式や、一人やっとの鉄製手摺付きでなく広めのコンクリート階段が増えた。優れた知恵は受け継がれていくのだ。
 1軒の家も流されなかったと有名になった太田部大堤防を視察した人は多かったらしいが、専門家はこの階段もしっかり見て帰ったのだろう。それに引き換え、田老の壊れなかった大堤防は、壊れた新しい堤防のおかげで、すっかり影が薄いようだ。なぜ壊れ、なぜ壊れないのかの追究こそ大事だろうに。
 震災後初めて見た三陸の多くの海岸の堤防跡は、大きな堤防の堤体の塊が海中近く遠くに転がっていたり、海中にもどこにも残骸すら見つけられずむしりとられた岩場との接点にセメントの跡だけが残っていたりの惨状だった。前者はやや遠浅のところ、後者は傾斜のきつい海底なのだろう。岩場に囲まれた狭い磯なら基岩盤まで基礎を打ち込めて頑丈に作れるが、広い砂浜の堤防は自重で外力に耐える設計にならざるをえない。
 初めて大堤防の残骸を見た時には、この置くだけの堤防というものにずいぶん抵抗があったが、ずっと見て回って、それはそうだと納得はしてきた。今回姿を現した大堤防を見ると、そこに大いに工夫を加えたと見える。津波が抵抗する堤防を越えて陸側へなだれ込むとき、滝となって堤体陸側の基礎周囲の柔らかな地面を滝壷のように掘り込む。その後引き潮で内側からの力がかかると、脆かった。これまでのでは底部は浅く幅狭く陸側からの水圧は考慮の外だから、足元をすくわれたのだ。だから堤防の残骸は、みな外側海中にある。そこで内側に滝を作らなければいいということにしただろう。内側の傾斜をゆるく、基礎を幅広く設計し直したというわけだ。
 だが、と心配になる。直下型の滝なら直下とその周囲の限られた範囲だが、急流は広い範囲に影響する。傾斜角が5度もあれば激流だ。その突破力は数十mも及ぶ。大ダムの余水吐けでも、長い頑丈な造りになっている。堤体上何mの水流の侵食破壊力を想定しているのだろうか。その計算がどうなっているのか気になる。
 また、堤防が持ち堪(こら)えたとき、海水が溜まってしまって、塩が土深く浸み込んでどうなるだろう、と地元の人が言っていた。塩分除去に今も苦しむ現地での心配は汲み上げられているのだろうか。

奄美 6 大島

 日本3位のどでかい島だ。港周辺はかなりの都会だ。乗り換えのためだけに1晩泊った旅の初めの闇の中の記憶を、再び暗い中でつなげることになった。船が夜になってしか着かないのだ。夕飯も、船に持ち込んだ食料で済ませた。この島の旅で日本の25位までの島は全て一度は歩いたということになる。大きい島は、焦点がぼけるから気をつけようなどと思った。


 住まい
 保存された明治中期建築の民家をじっくり見た。3間四方の母屋(オモテ)と9尺2間の台所棟(トーグラ)が渡り廊下で結ばれ、ほかに穀物倉か納屋とか家畜小屋とかなどが別棟であったという。母屋は雨戸1枚で廊下というか板張りの縁側で境なしに6畳間(オモテ 床の間3尺付)、中柱が境になった奥に3畳のオンド、2畳の寝部屋(ネショ)の2つと棚など。畳敷きだし、保存されたということはこれがちょっとした地位の家だとなるのだろうが、与論で見た住まいとほぼ同じで、全体で10畳余りのかなり小さな家だ。大きな屋敷は、ナカへ(ナカヤ たぶん中屋)と呼ぶ棟を持ったそうだ。
 トイマ・カヨイ(たぶん通い)と呼ぶ渡り廊下は、3mほどだが、取り外し式で、その外せる部分の板は簀の子状にきれいに隙間を開けて、ちょっと彫刻作品のような感じだ。トイマというのは、2棟の屋根の間の隙間に幅広い木樋を懸けてあることからだろう。建物全てが釘を全く使わず、柱と桁を貫通させるヒキモンという木組みとクサビ締めで作られている。日本の古い建築法そのもの。
 裏庭に、鉄の五右衛門風呂とセメント塗りの洗い場台があったが、これは後で昭和初期に設置された新しいものだという。その前になかったということは、水浴びで済ませていたのだろうか。暖かい地方なればこそか。
 歴史民俗資料館にあった笠利1中や喜瀬小の古い写真で見ると、学校もこういう建物を並べていたようだ。風と材からの制約だろう。ただ撮影年代は示されていなかった。後で見た海軍の基地などはもうコンクリートで頑丈に立てていた頃だと思うのだが。
 この資料館には、奄美復歸記念の名と昭和28年12月25日の日付とが文字盤に大きく入った掛け時計が、動いてはいなかったが、しっかり展示されていた。この1953年に、ここでは新字体を使っていなかった。


 弾薬庫
 南端の瀬戸内町古仁屋の港近くに、旧陸軍の弾薬庫跡がある。1932年に作られたというが、人々は全くその存在も知らず、敗戦時に弾薬を海峡に廃棄処分したことで知ったという。規模も大きいが、その頑丈な造りのすごさに驚く。立札があるだけで、出入り自由。
 古仁屋を中心として、直ぐ向かいの加計呂麻島にかけての周囲一面に広く、海軍から陸軍、艦船から航空機、高射砲台から沿岸砲台、軍病院から補給基地と、あらゆる基地群が20余り集まっていたという。死者・焼失家屋の戦災被害も多く、周辺で大小の艦船が20余艘沈んでいるという。艦船名を記した沈没位置図が示されていた。陸上戦はなかったものの、激しい攻撃を受けたのだ。記録で見ると、奄美5島で戦災死者・戦災全焼家屋のない島はない。本土防衛は、沖縄とここと2段構えになっていたらしい。陣地の配置からすると、地上戦用のものが多いようだ。数年も前の1942年に東京など数都市がB25の空襲を受けていたのに、空からの攻撃などは想定になかったのだろう。F1(福島第1原発)の想定問題を思った。


 果物・そばなど
 食べることはこま切れになるので、ここでまとめてしまう。
 さすが南国だから、果物が多い。与論でドラゴンフルーツを出してくれたのが最初だった。熟れ具合がちょっとといっていたが、うまかった。実成りで熟すとこうなるのかという味だった。翌朝、畑の隅の数本の樹を見た。1mそこそこの丈で、未熟な実が下草に埋もれていた。こんな見栄えのしないのに、すごい名だ。葉の棘は鋭い。
 徳之島では、グアバをいくらでも出してくれたが、ちっちゃな固い種が邪魔で、ろくろく味わえない。庭先にいっぱい成っているが、誰も見向きもしないのだといった。
 バナナとパパイヤは、あちこちで見かけて、人気のない道端などだと誘惑に駆られるが、さすがに遠慮した。だいたいぼくは、果物にはそれほど熱がない。マンゴーは一度庭先に成っているのを見かけただけだった。
 シークアーサーをどこかで食べたが、場所も味も、覚えがない。タンカンが甘かったことは覚えているが、どこでだったろう。
 正月用に作ったからと、餅を出してくれた。暮れの30日、徳之島だった。うまいが、ちょっと変わった餅だ。蓬餅だといった。名の通りの草餅だが、臭みや癖がない、うまいもので、もう一つといいたかったが、遠慮した。何せ食い過ぎなのだった。何の草なのか、聞いたように思うが思い出せない。
 沖永良部だったか、いっぱいのご馳走の中に、蒲鉾のような練り物を揚げたのが出た。東京で言う薩摩揚げだが、九州ではてんぷらと呼ぶ。ほんのり甘みがあって軟らかく、いくらかの噛み応えがあった。これまで薩摩揚げの類は、そんなに感じたことが無かったが、これはよかった。
 与論でパンフに、もずくそばというのが特産でうまいとあった。モズクで小麦粉をこねるのだそうだ。パンフでは、2軒だけの名があった。町の中の、いかにも町の食堂という店で、こんなところで島の名物かと、恐る恐る食べたら、これが実にうまい。翌日、もう一度食べようと、展望台の土産物屋でもある食堂へ行った。このそばの製造元直営の食堂だ。期待は空しく、2度と注文なんかしないという思いになった。かわいい女性店員をとっ捕まえて聞くと、乾麺だという。きのうの話しをしたら、あっちには生麺を出しているという。なんてこった。


 30度線
 初めの1泊を入れると5泊して、まるまる5日見て歩いたのだが、初めの心配通りに、奄美5島で一番印象がはっきりしない終わり方になった。広すぎることが、一通り見て回るという避けたい歩き方につながってしまった。どこへ行くにも、車でも、かなりの時間がかかる。この島だけで2~3週間は必要なのか。またいつか来られるだろうか。もっと足で歩かなければだめだ。
 北端の笠利崎に、時間切れで行けなかったことが悔やまれる。1946年、北緯30度線以南(屋久島より南)の南西諸島・小笠原諸島が日本の行政権から切り離され、アメリカ軍の統治下に置かれた。トカラの口の島が日本に最も近い国境の島になった。52年2月には十島村(トカラ)が返還になった。ということは、奄美大島が国境の島になったということだ。53年12月の奄美返還までの2年間、トカラを日本として望んだことになる。奄美の復帰後に、沖縄国頭が与論を日本として望んだのと同じようだったのだろうか。国境になってしまったそのことを聞きたかった。この日付もいろいろあるらしくて、どうだったのかを聞きたいところだ。

奄美 5 喜界島

 地下ダムトンネル
 地下のダムのトンネルに入れるという案内があって、こんな島の地下にダムがあるという不思議さに探していった。案内図の地点をいくら探しても見つからず、人に尋ねてみたら、ここが出口ですとそこのプレハブ様の小屋のドアを教えてくれた。少し離れた事務所横から入って、5階分ぐらい階段を下りると、20m径ほどの半円トンネルだった。所々の壁の継ぎ目から水が滴っている。壁に仕組みや構造や意義が掲示されていて、やっとどういうことなのかがわかった。水を通してしまう溶岩台地の水をなんとかつかえるようにと、地下水の通り道に遮水壁を作って仕切ってあるのだった。その壁の一部がトンネル状になっていて公開しているわけだった。フクシマで放射能汚染水が地中を抜けて海に出ないようにと鉄板で仕切るとか、凍らせて氷壁を作るとか報道されていたのを思い当たった。ここの遮水壁が独特なのは、トンネルを作ってからそれを足場に、下へ壁を作っていったということだった。
 砂糖黍の一本道というのが観光パンフにある。島の5分の1ぐらいもの長さがある。辿ると、その道の両側は、砂糖黍畑が広がる。そしてどちらにも給水バルブが立っている。この地下遮水壁でできているはずの地中タンクからつながっているのだろう。つまり道は導水管を通すための直線なのだ。当然、この道が真っ直ぐゆるく登って行った高い所が地下ダムになっている。


 葬る
 ムチャ加那公園という広々とした台地の上の公園がある。下の浜の集落の先に遠く奄美大島を望む。ムチャ加那という美女を薩摩の出先代官が島妻としようとしたのを海に逃れてこの地に漂い着き結婚して娘を産む。その娘も絶世の美女だったという。島の歌に語られる悲話だ。
 その近くの木陰に低い石垣の出入り口が隠れていた。急な藪の中に細いがしっかり踏まれた道が下っている。10mも行くと、2基の墓があった。新しい花が手向けられ、きれいに掃除もされていた。年越しできれいになっているのだろう。その横の崖の窪みといった洞穴に波型ポリ板が立てかけてあった。隙間から覗くと、驚いたことに、甕がいくつか置いてあって、端の甕には丸い頭頂部がはっきりわかる頭蓋骨が入っていた。風葬なのか、土葬なのか、何年かして洗骨して厨子甕に入れて葬り直すというその墓のようだった。とんでもない悪いことをしてしまったが、知らないままにと、頭を下げて引き返した。
 沖永良部に続いてまた風葬らしい墓に出会って、今度はショックも大きく、少し辺りをぶらついてからでないと、車に乗り込めなかった。瀬戸内の島を調べているときに、両墓制という埋め墓と詣り墓の2つを作る習俗が今もあると知ったことを思い出した。近畿に多いとされながら東京近くの集落にもあるらしい。墓石の下のカロート(唐櫃)と呼ぶ部屋に骨壺を置くというのが今は日本中で多いのではないかと思うが、かつて墓石の下は土のままの空洞で、骨はばらに置かれて順次土に還っていったとも聞く。ここで、思いがけない経験をして、沖永良部での風葬と合わせて、墓とは何だろう、葬るとは何だろうと、否応なく考えさせられた。


 奉安殿
 思い出すのもぞっとするものが、この島の2つもの小学校に残っていた。2箇所とも全く同じ説明で、教育勅語が戦争推進にいかなる役を果たしたかその歴史をきちんと伝えるために残すと、はっきりと記している。各地の奉安殿で、残すべきか討論されたとあまり聞かないが。ここでは、しっかりと考えたのだろう。津波痕・残骸を残すかの論議を思った。原発賛美の標語の掲示の撤去問題も思い浮かべた。


 石垣
 手頃な大きさの珊瑚の塊を積んだ、たぶん古い時代のもの、かなりきれいに整形してぴったり積んであるやや新しい時代と思えるもの、多くはすぐ内側に木が茂って、美しい道の景色だ。内側の家は建て直されたものが多いが、コンクリート塀に変えたのは見かけなかった。石垣は風への備えとしてやはり必要ということでもあり、その構えの美しさを捨てられないということでもあろう。珊瑚の目の詰んだっきれいな縞模様が所々の石にあって、探していくと何処までも歩けてしまう。
 集落の外側では砂糖黍の刈り入れをやっているところもあって、巨大なケージのような網の籠に詰まった収穫が運搬車を待って並んでいた。遠くの石垣と籠の並びが、何の脈絡もないようで、なにか似合っているように見えた。


 城久(ぐすく)遺跡
 1466年琉球尚徳王がこの地を征服して置いた行政府跡であるが、この島だけでなく奄美一帯を掌握する規模だったという。発掘調査では、ずっと古く9cからの遺跡が重なっているという。平安期の大和中央との関係も探られているようだ。俊寛が流されたのも、そういうことと関わるのだろうか。
 7・8年前の調査で、南島一帯で最多量の遺物が発掘されているようだ。三宅や八丈に並ぶかなりの広さを持つ島の規模と、最高点が200mちょっとで全体が平坦という地形の楽さから、耕作にもいいだろうし、ずいぶんと住みやすい条件ではあったろう。


 御殿の鼻(うどんがはな)
 湾というそのものの名の湾港のすぐ上の高台が御殿の鼻(うどんがはな)という。金毘羅神社が祭ってある。航海・漁業の神としてこの近辺で崇められているのだそうだ。琉球尚徳王が攻め込んだとき、長嘉を頭として喜界の勢が集結した地という。島軍は負けて、主だったものはかなり凄惨な殺され方をしたようだ。奄美・喜界の被害側の目から見る加害者琉球という見方を知った。薩摩・明治政府からの被害という目で見た琉球とずいぶん違う。
 八重山に行ったとき、石垣以西の島が石垣に対し、石垣は沖縄本島に対し、被害意識を持っていることを知った。それとも重なる関係なのだなとも思う。
 この少し奥のもっと高い所に、高千穂神社がある。例の、薩摩支配の象徴だ。やはり上に作るのだなと、思ってしまう。奄美全島で13社のうち、喜界に2社あるのだそうだ。


 俊寛
 喜界が島といえば俊寛だが、平家物語でイメージする俊寛とはずいぶん違って、島でかなり堅実に暮らし、島人にも慕われたらしい。墓の横に置かれた像もそれらしい落ち着いた様をしている。
 この島には、壇ノ浦で敗れた資盛以下200が辿り着いた平家上陸地という浜があって、平家が防衛陣地としての城を築いたと伝わる平家森という高地もある。俊寛は許されずに残っていたのだから、ぶつかったのではないのだろうか。といった妄想?への答えは何も無かった。


 涙石
 早町(そうまち)の港の船着き広場の真ん中に、涙石と彫られた珊瑚の岩が台座に立てられている。ここの港の奥正面の山にクチャバンタという坂道が峰越えで西海岸に通じていたそうだ。今はコンクリート舗装されている。薩摩が強要して作らせた砂糖の荷はこの港に集められて出荷された。西海岸からは滑る赤土のこの道の下りに最も苦労したという。その苦労の記念に、そこの滑り止めに敷いた岩の一枚に、流した涙の文字を彫って立てたのだ。苦労したということの印を涙としたことを考えさせられた。恨みと言えないが、汗とは言いたくない、汗ではなく涙だったという、このことばの重みを受け止めた。


 震洋
 早町の湾の奥の山際に、○4艇(マルヨン艇 震洋)格納庫跡がある。ベニヤ板の5mボートに250Kg爆弾を付けて敵艦に体当たりする特攻兵器だ。40艇160余名が出撃準備をしていたらしい。50mの洞穴を5個掘って隠してあったうち一つだけが残っている。準備が間に合わず、特攻死は出なかった。それが、せめてもの救いだ。
 この斜め上に観音堂がある。その堂の裏を覗いてみると、小さい崖の裾に何やら草に隠れた洞穴があるらしい。草を分けてさらに寄ってみると、木の根が垂れて簾状に隠されているが、1坪はありそうな下り気味の洞穴だった。厨子甕のあった穴とそっくり。近くの斜面に墓石が横倒しになっていた。長い歴史の中で、もうどういう由来をたどったものか集落の人たちにもわからなくなっているのだろうか。祀ったような様子は何も見つからなかった。


 特攻花
 ○4艇周囲でうろうろしているとき、見慣れない小振りな花が咲いているのを見つけた。やや菊に似ている。これが特攻花(てんにんぎく)なのだろうか。夏咲く花ではないのか。図鑑もなく、これは今も分からない。
 喜界町HPでは、特攻花はテンニンギク(天人菊)で、「第2次世界大戦中、喜界島は陸海軍部隊の基地として、5,000人余りの兵士が常駐し、湾には海軍の飛行場があった。現在ここは、喜界空港として利用されている・・・・このテンニンギクを島の人たちは特攻花と呼んでいる。というのは、対戦中、この基地から死の飛行に飛び立つ若き特攻隊員たちに、島の娘たちが情をこめて贈ったテンニンギクの花束の種子が落ち、そして芽生え、この地に年々繁殖して現在の花園になった・・・」。これには季節も色も書いてないが、調べると春から夏(あるいは秋)で黄色が主。
 ところが、特攻花をめぐっては、あれこれあるようで、特に関わりたくもないので、それには触れないが、特攻花といわれる中に特定外来生物種に指定されている大金鶏菊やその近縁の春車菊(ハルシャギク・ジャノメソウ・クジャクソウ・波斯菊)がごちゃまぜになっているということを知った。これの裏には、あるドラマの中での花・花言葉についての創作された話がからむらしく、一種の都市伝説だと言われていることも知った。ここしばらくは、特攻花は、関心を持って傍観ということにする。


 戦闘指揮所・掩体壕
 戦闘指揮所というのが残っていた。丘というほどではない平地の高い所に、地上2階地下1階の頑丈なコンクリートの小振りな塔。部分的に壁のはがれたところはあるが、まだまだしっかりしている。かなり離れて、掩体壕もあった。掩体壕は50以上もの数多く掘られたが、みんな土壕で今は畑などになり、この唯一コンクリート製のが残っているのだという。戦闘機用の大きさで、40cm以上はありそうな厚さで覆われている。滑走路まではずいぶんと遠い。


 ガジュマル
 南端に近く、ガジュマル巨木とパンフにあって、もうずいぶん見たとは思いながらも行ってみた。1本だけ立っているのだろうと思っていたが、斜面の辺り一面、見える限りがガジュマルの巨木だらけ。1本1本がどれも風格といった感じを与え、気がしんとする。
 じつは、ここへの道の途中で、なだらかな畑の横が掘り返されて、巨大な根株が積み上げられたりあちこちに転がされたりしていた。みんなガジュマルの切り株だ。その掘り返しの中に湧き水の窪みがあって、大事にされてきたらしい水汲み跡も見分けられた。この開発はいったい何のためなのだろう。そんな後だっただけに、しんとする気になっても、落ち着くというのとも違った。

 ウリガー


 ウリハーともいう、地下の井戸(泉)で、直線型と渦巻き型がある。ここの渦巻き型を見ると、直角に折れて急傾斜で深くなっていく。多摩のマイマイズと同じわけだが、なんで掘り方が違うかと考えた。坂の壁に触ってみると、平らに切られた岩の面にかなりの凸凹がある。土と岩の差だと気付いた。岩脈の弱い所を抉っていくしかないのだろう。多摩のように土なら崩れないように広く丸く渦巻きにする。水の乏しい中では、同じ苦労・工夫という中にまた独特の工夫ということなのだろう。底に水はなくて、ちょっと淋しい。


 130度線
 黄色のペンキで、線がはっきりと道路に引かれている。多くは斜めに、時には真横に。何の標識も説明もない。経線だから当然南北だが、島全体の姿からは斜めの感じになる。島の東側4分の1ほどのところの道全部に印されている。北の小野津の浜に東経130度線モニュメントがある。この線から西が東シナ海、東が太平洋になるのだという。

奄美 4 徳之島

 大きい。天草上島や石垣島や利尻島より大きい、日本11位の島だ。北東端金見(かなみ)の岬に蘇鉄のトンネルがある。100m以上も時に頭を下げてくぐっていく。出た先のさらに先に灯台がある。北西端近くにムシロ(筵)瀬という岩の海岸がある。入り組み切り立った白い花崗岩に打ち付ける波が大きなしぶきを上げる。リーフに守られていない東シナ海直接の荒波だ。
 この島では、体調を崩してしまった。元気が出ない。食い過ぎだ。大きな夜光貝を鉢にして5人前というほどの刺身に大きな焼き魚の皿と煮付けが山盛りになった皿があって、さらに小鉢にあれこれ、どれも旨い。はじめ2食ほど、残すと悪いと、ほぼ食べ尽したのがいけなかったか。2食付きの2食とも、口からはみだすほどというのが大げさでなく、食べきれない。昼を抜いたりしても、間に合わなかった。車を勝手に使い放題、広い部屋で、風呂もいい、これで1泊4500円。嘘みたいなほんと。他に客もいなかったからか。


 特攻基地
 空港の外はずれに小広い囲みがあって、慰霊碑が立っている。ここは沖縄に向かう途中の陸軍航空隊の中継基地だった。その碑の横に、島の戦没者名が刻まれた横長の石碑がある。石が横に足して広げられ、多くの名がある。1度建てたか、建てる途中で、さらに多くの戦死者が出たのだ。名は表裏両面いっぱいに刻まれていた。集落ごとに分けられた名は、そんなに大きな集落であるはずはないのに、10人を超えて続いている。
 碑から真正面に2車線ほどの直線道路が延びている。かつての滑走路だという。今の空港はこの道の海側に並んで伸びている。


 ウンブキ
 その滑走路の南端近くに、ウンブキ(たぶん、海吹き)という岩礁の隙間がある。吹き上げるのはよほどの大波のときでないと見られないのは残念だったが、珊瑚礁の重なり合いの隙間の中に大きな縦の穴があって、10mもありそうな下のほうで波が揺れていた。400m先で海とつながっているのだという。少し離れた駐車場に戻って、あの穴から何mも波が噴き上がったらすごい眺めだろうと見ていたら、岩場の外側に砕けて上がった波しぶきが車までかかってきて音を立てた。ここは珊瑚礁なのに、リーフは無く、東シナ海の波がもろに当たっている。


 犬の門蓋
 面白い名で、いんのじょうぶたと読む。岸壁の小広い隙間に丁(てい)字型の岩で分けられた空間が戸口のように磯へ誘う。その外側はでたらめに植えた剣のような岩角が立ち並んでいる。手を触れても傷つきそうな鋭さだ。その鋭さを空中に浮かせて写そうとしてみるが、尻に後ろの刃先が突き刺さる。


 線刻画
 船・矢などの線刻が、横たわる巨岩の、やや傾いた平らな上面に、はっきりと刻まれている。船の形や構造は、かなり大型のものではないかと思える。野ざらしで風雨にさらされた岩面が風化しないでいるということは、かなり新しいのではないかと思ったりするが、船の形や矢の描き方などは古代エジプトのものと言ってもおかしくない。これがいつ何のために刻まれたか、よくわからないのだそうだ。


 ガジュマル
 あちこちにあるが、樹齢300年ということを聞いて、見に行った。あるお宅の道沿いの石垣の上に数十か百かと思う根を垂れて巨大な枝葉を広げている。横の車の通る道の上を太い垂根が何本もまたいでいる。観光パンフには載っているが、道案内の標識が無く、散々探し回ってしまった。そばを通り過ぎては探していたのだが、それほどあちこちに大きいのがあるということだ。


 犬田布(いぬたぶ)
 戦艦大和が沈んだ海を望む岬として慰霊碑などが建つ。その少し南の小高い丘に、犬田布騒動の記念碑がある。1864年薩摩の黒糖支配の苛烈さに抗して立った村の人々の記念だ。この抗争の後、扱いがずっと緩やかになったという。騒動という名はふさわしくない、義戦と呼ぶという新しい説明板が、薩摩侵攻400年(2009)の節目にと、建てられてあった。同種の騒動は何回もあちこちであったということで、薩摩の搾取のすさまじさを思わせる。島の人は、明治維新は島を搾った金で起こされたのだという。歴史上薩摩は密貿易で裕福だったということが多いが、その内実がこれなのだ。


 高千穂神社
 亀津の県道に鳥居があったので入ってみた。初詣の人たちが何人かずつ途切れずに来ていた。由緒書きを見て驚いた。明治維新の廃仏毀釈で、ここの地元の唯一の寺が改宗させられて、明治2年、神社に変わったというのだ。それも地元の神ではなく薩摩の大隅の高千穂神社の末社にさせられたのだ。このことは由緒書きに書いてないが、名を見ればわかる。
 安住寺という寺を見つけて入ると、その由緒にまたまた驚いた。薩摩は支配の初めに安住寺を新につくり禅宗(薩摩に多い)を押し付け過去帳に記載した。だが、不思議なことに、その後転々と移らされるほど粗末に扱われたようで、途中経過の寺跡さえ今は不明だという。それが明治維新の廃仏毀釈でまたまた全島民を変じて神道にさせた。それが高千穂神社なのだった。
 朝鮮で創氏改名を強いたことは、植民地支配という枠内で考えていたが、国内でももっと別のことがあったのだ。アイヌに同じことをやったということを思い浮かべた。こういう知識はぼくの中で生きていなかった。明治維新で、姓を持たない庶民に創氏させたのも同じ感覚だったのだろうか。いずれも収税徴兵のためだったのだ。国家とはなんだろうと思わずにはいられない。国内?での、支配(領土?)拡大あるいは強化と、植民地など外への拡大は一線上にあった。
 日本の氏姓は、大和朝廷になって、朝廷支配に関わる家の職や身分を定めるために与えられたのが始まりだ。庶民は氏姓と関係なかった。ということは、中央集権の中に強く組み込まれていない平和な集落では必要なかったということになる。かつて、村中が、個人は名で、家は屋号で呼び合っていたことも全国各地多かったようだ。


 井之川岳
 島の最高点へ行ってみようと、NHKのアンテナまで車で行って、歩き始めた。すぐそこだろうと、行く手に見える頂上に向かった。腹の不調からの風邪引きで薬屋を探してやっと薬を手に入れたところだったので、厚着をして行った。気温がやたらに上がってきて、大汗をかいた。やっと着いたと思うころ先に頂上らしきものが見え、そこに辿り着くとさらにずっと高く今度こそ間違いなく本物の頂上がやっと見え出した。これで半ばらしい。水も食料も持たず軽く考えたことを後悔して、よろよろと下った。


 闘牛
 元旦に闘牛の第1戦があるというので、見に行った。昼から4時ごろまでで、10番の勝負がある。車の置き場所がなくなると注意されていたので、ずいぶん早く行ったが、がらんとしていて様子がわからない。78回という背文字の揃いの新しいジャージの若者があれこれの支度をしている。暇そうな人を選んで、尋ねる。地元高校の7・8回生が成人の年で、元旦の第1回闘牛の一切を取り仕切る年番なのだそうだ。3000円の入場券も売って収益が同窓会に入る。彼らのうちの有志の持つ牛も出る。そろいの法被ではないジャージのデザインを考え注文するのも、みんな相談しながらやるという。一人前の島の若者の顔だ。島に留まる者が計画を立てて、スマホ連絡を取り合っているそうだ。彼らの仲間がどんどんやってきて、久しぶりの再会で賑わっていながら、ちょっとした打ち合わせですぐ仕事に加わっていく。手順も何もよくよく知っているようだ。生まれた時から馴染んだ、島の伝統行事だ。これこそ伝統というものだ。
 新潟山古志の角の突き合いという優しさと違って、ここははっきり勝負がつくまでやる。初めて見る闘牛とやや緊張したこちらからすると、えらくのんびりと始まっていった。取り組みの牛の名のアナウンスがあると、しばらくして幟を持った応援団の2・30人が掛け声をかけながら入ってきて応援団席に着く。またしばらくすると牛が勢い良くあるいはのそのそと入ってきて、場内を駆け回ったりじっと立っていたりする。相手の応援団が入ってまた直ぐあるいはずっと待たされて牛が入ってくる。直ぐ突っかけるのもあり、しばらく睨み合うのもあり、背に勢子と書いた法被を着た2人ずつが牛のそばに付き添って手を振ったり足で地を蹴ったりしてけしかける。
 激しく走り寄って突っかけたり、悠然と近づいてぐいと首を下げてから激しくぶつかったり、真正面からぶつかったり、体は斜めで首だけ曲げて突いたり、様々だ。双方走り寄るのは少なく、相手を見てから応じていくのが多い。戦い方は、個性なのか、訓練なのか。普段は、戦う練習などせずに、歩いて足を鍛えているだけだと聞いたのだが。ぶつかる時、角同士のすさまじい音のするときもある。ぱっと血が飛ぶときもある。
 勝負はほとんどの場合はっきりしている。片方が押し込まれたと見ると、負けた方がさっと逃げだし始める。勝った牛は、ざま見ろというように悠然としていることが多い。あくまでやっつけるというように追いかけるのも少しいる。負けた後、もう一度やり直すぞというように猛然と突きかかるのもいるが、一旦負けとなったものは追い出されてしまう。体が離れた時、血を流しているのが初めてわかるのもいる。
 押して押されて、足を突っ張ったまま滑る。そうなるように砂が厚く撒かれている。競技場作りには念を入れているのだろう、固すぎず軟らか過ぎずといった具合になっている。踏ん張って糞を垂れるのもいるし、小便を長々と出しながら取っ組み合っているのもいる。その糞交じりの砂を蹴上げる牛もいて、近くの見物衆が身をよじって避けるのも面白い。
 最もおもしろかったのは、走り回って逃げてしまったり、体をずらして避けて避けていやいやという態度で終わったりという不戦敗不戦勝があることだった。牛の表情など分からないのだが、牛だってやる気の出ない時はあるさ、といった顔に見えた。観衆は、やる気なしの牛には、あーあかやれやれかの溜息っぽいどよめきはあるが、割りにそっけない。勝った牛には盛大な拍手と歓声が起きる。勝った牛には、子どもを乗せたり、若者が飛び乗って気勢を上げたりする。78回生たちの牛は勝って、女性たちがお尻を押してもらって乗ったりしていた。
 50分も押し合い突き合う長勝負もある。角で押し合いながら途中でじっとしたまま動かず、勝ちを譲れと相談しているように見える様子もある。牛は突き合っていても、瞬きもせず、どこを見ているのか、目に表情が現れない。

奄美 3 沖永良部島

 三角形
 与論と同じ珊瑚礁の隆起した陸地だという。白い波の輪が取り巻いて、切り立つ岩場や輝いて茶色がかって見える砂浜までの、リーフの中の広さが見事だ。与論から来たからかずいぶん大きい島だと感じる。伊豆大島ほどの広さだ。細長い三角形で、なだらかな山地が三角の広い方にあって、島全体がゆるく傾いている。


 内城(うちじろ)
 和泊町歴史民俗資料館。島の地誌的成り立ちが、よくわかる丁寧な展示がまず目に付いた。4~5千人の町の歴史館としては、ずいぶん大きく、豊富な展示品が集められている。女性の刺青の写真もあって、アイヌとはまた違うようだが、卑弥呼時代に通じるのだろうと、興味をひかれた。冬の稲作とか、ターフナシ(←ターフミナラシ たぶん田踏み均し)という牛馬に田を踏ませる形の耕作とか、焼き畑での里芋・山芋と粟の交互作とか、いろいろと知った。
 内城は世之主、文字通り、よのぬしという琉球支配の出先として栄えた15Cの島の王の城のことらしい。城跡は、資料館のある辺りを含めて、沖永良部守備隊越山陣地として、大規模な戦車壕が掘られたりしたようで、城跡としては越山という本丸に当たるところぐらいしか、見るところがない。中心地であったがために、今に至る中心地として後の人たちに虫食い的に使われてしまったのだろう。
 もっともこの主というのも、与論島の世の主の説明では、琉球王派遣の出先貴族という説と、地元の豪族という説の2つがあると書いてあった。地元豪族が外からの支配の傀儡になっていくのは多くあることだから、結局同じことなのではないのかと思ったりした。日本の国体護持という降伏の形も言ってみれば同じようなものだ。アメリカの支配に屈して傀儡化したことは、悠然(傲然?)としたマッカーサーと並ぶと貧相にしか見えない現人神の畏まった(小さくなった?)あの写真がはっきり示した。あれほど日本人全員に対して敗戦を感覚的にわからせたものはなかったのではなかろうか。GHQのすごい宣伝説得力だ。それがここでは豪壮な城だったのだろう。
 城の沖縄を見通す丘の上に、日本復帰60周年記念碑があった。・・・・1952年9月27日南二島分離の新聞報道が入ると、小中学生も参加した全島民の復帰運動へと発展し、町長、婦人副会長、高校生徒会長が本土へ渡って陳情請願。町民は「何で帰さぬ 永良部と与論」と歌いながら・・・(抜粋)。復帰運動だ。我々が、一坪たりとも渡すまいと歌ったのは、返還運動だった。ここでは、小学生からだ。高校生が島民代表に入って活動しているのだ。老若男女というが、文字通りの全員参加ということは、まずあり得ないと考えてしまうのが情けないのだが、14歳以上の島民の98%という署名数は全員としか言いようがない。返還と復帰の違いだ。生活に根差す力ということを、考える。沖縄は実戦体験を持つ日本で唯一の地と言われるが、戦いは、銃弾が飛び交う以外の形で、ここで戦われた。与論の記念碑でも感じたのだが、全員が加わった自らの戦いの経験という意味で、奄美も沖縄と同じく、日本でただ一つの地だ。
 世之主の墓(ウファ)は、山の中腹に大きな横穴式で、内庭も内郭もしっかり石垣に守られている。沖縄形式のトゥール墓で女性の股を開いた形だとのあっけらかんとした説明板がある。これはまさに古事記の世界だ。墓そのものも大きなものだが、墓域はずっと広大であったようだ。今は新しい道路が迫り、境内もどこまでどうか良くわからない。
 隣の後蘭(ごらん)で後蘭孫八郎の城跡を散々探して見つからず、やっと出会った人に尋ねてみたら、迷った四つ角が城跡の角だった。遺跡調査も、大体のところはしたらしいが、今はかなりの藪に覆われ、案内板も古くかすかでわかりづらい。世之主の第一の重臣といわれるようだが、広い石垣に囲まれた城跡で、主人の王より大きな城だったのではないかと思ってしまう。こちらの方が、本来の土地の主だったからではなかろうかとも思う。孫八の墓に向き合って、ヌルの墓があるのも、そのことを意味しているのではなかろうか。この城の端には、平家の屋敷跡があって、最近まで人が住んでいたと説明があった。


 風葬の丘
 百合、鉄砲百合が永良部の特産ということを知った。明治30年代20Cに入る頃からだ。その畑を通って、国頭岬の近く笠石集落に行くと、眺めの良い公園がある。その展望台になっている小高い丘の下に洞窟があって、風葬の地と説明されている。その説明のある穴以外にも幾つも見つけられるが、草に覆われている。床面がやや整地された感じがあるほかは、単なる浅い洞窟だ。島の北の端近くで涯ない太平洋を見はるかす。こういうところで、死んだそのまま、焼かれも埋められもせずにじっとしているというのは、死者にとっても、周囲にとっても、ずいぶんといいなと思った。この島で火葬が始まったのは、1970年代だという。
 白骨となってさらに年月が経つと、洗骨といって洗い清めて、厨子甕(ずしがめ インジガミ)と呼ぶ甕に入れて葬り直すのだそうだ。土に還るというが、ここでは空(くう)に還って行くのを待って、そのあといわば歴史に籍を移すのだろう。人々の記憶に残る間は死んではいないのだという言い方があるが、ここでは記憶の薄れるまで、死生の中間のように死んだ姿のままに存在させているといえるようだ。


 国頭(くにがみ)岬
 リーフの中に一段高い珊瑚礁が広く広く突き出ている。その中に足場を選びながら入ってみた。海水溜まりを覗くと、黒い変なやつがいる。一度気付くと、あちこちに見つかる。海鼠に見えるが、真っ黒で、20cm足らず。帰って宿の元気な女将に聞くと、やおら分厚い事典を持ってきてめくって、これだろうという。黒海鼠といったか定かではないが、それより女将の物慣れた事典の扱いに感心した。足が地に着いて生きている。この島の年末年始の宿を取るのが大変で、計画をひっくり返して、さらに何とかと粘って、またかと声を覚えられたほど連絡して口説き落とした宿だった。いい女将さんで、大当たりの宿だった。
 国頭小学校の校庭、校庭の玄関前に巨大な、日本一と称するガジュマルがある。外見で幹ということになる気根や中心の幹だのの集合体は、周囲が10mははるかに超えている。40mばかりに広がった枝の下を頭を下げて歩くと土はふかふかといい踏み心地がする。梢の先の下に、桶を頭に載せた女性像があって、往時の生活・潮汲み仕事の労苦を偲ぶために建てた旨が記されていた。いい像だと思いながら、小学校に立てるのはね、という気もした。


 暗川(くらごう)
 道端に高倉(高床の穀物倉)の新しいのが観光用に建っているところで、横に暗川という水場への標識が下の谷を示している。急な濡れた階段を30mも下ると斜め下への洞窟になっていてその中へ階段は続く。横穴の縦横15mはありそうな中へさらに10mも行くときれいな水汲み場になっている。今はポンプで汲み上げているようで、パイプが深く入っていた。ここから、頭に水桶を載せて家まで運ぶのは、女の仕事とされたというが、大変な重労働だ。滑る階段にも、汗のあとが染みている気がしてくる。
 与論島でも、屋川(ヤゴ―)とか奄水(アマンジョウ)とか、古くからの地下水の水場があった。奄水は、ここから奄美定住が始まったとされる。岩だらけのこの南の島々では、一年中絶えない水が、命の水としてこれだけ大切にされたのだ。

奄美 2 与論島

 平ら
 船からの遠目で、平らなことが良くわかる。火山だとすれば盾型などと考えた。盾形火山は、日本では五島に一つあるだけと、前回の五島の旅で知ったのだったが、と思っていると案内書では珊瑚礁の隆起だとなっていた。
 小さい島だから歩きでと思っていたら、あいにくの雨模様。レンタカーを使う羽目になった。それでも、なるべく短時間にして、なるべく歩く。暖かいのが、いいのか悪いのか、歩くと汗となる。半袖1枚でいい。短パンを持って来ればよかったとさえ思った。小さいと言っても、奄美の各島が大きすぎるので、ここは小笠原の父島や母島ぐらいはある。
 1周4kmだそうで、ちょうどマラソンにいいのだが、隣の久米島が1歩先にコース認定をとってしまったので、しょうがなくて、高橋尚子がトレーニングに使ったところに尚子コースというのを設定して、何とか形を作ったそうだ。
 人気のない道を随分歩かされる。起伏は小さいから見通しがきくが、それだけ長く感じる。見えるのはサトウキビがほとんど。信号のところから真っ直ぐ行くと点滅する信号があるからそこを曲がってと、2つだけの信号が道案内の目印になっている。


 沖縄を望む
 与論港の南外回りに、入口の表示は何もないが、舗装された遊歩道があって、海を見ながら起伏を越えて歩ける。見晴らしのいいところに、写真入りの説明板があって、ここから望む沖縄の説明をしている。これには、さらに下にもう1段、沖縄祖国復帰会場集会の表題で、説明がある。52年4月28日サンフランシスコ条約で奄美諸島は祖国復帰したが、沖縄は与論の南の27度線で分断された。4月28日は屈辱の日と呼ばれ、沖縄復帰まで何度も27度線で海上集会が行われた。平成24年4月28日に沖縄復帰40周年記念に、沖縄国頭村と与論町が共催して海上集会を再現し、両町村の絆・友好・平和継承を誓い合った(要旨)とある。
 この道のラストに、小さな待合室風の与論駅がある。短いレールの上に汽車の車輪が2輪1軸乗っている。駅名版ヨロン駅の下左はおきなわ、右はかごしま。


 復帰前
 与論で話の端々に復帰前はということばが出てくる。復帰前のほうがよかったという含みを持って響く。本土復帰で盛り上がったという話と絡みながら、この復帰前という言葉の響きが重なる複雑さが、この島の辿ってきた道なのだろう。
 与論で、機銃掃射や爆撃の被害が多発していた。町史によると、45年5月から7月にかけて、毎日のようにというぐらいである。学校が全焼したりしている。米軍は上陸はしなかったようだが、沖縄本島の周辺として予防的威嚇だったのか、いわばとばっちりだ。
 米軍占領中も基地を置くといったこともなく、たまに船で来て見回るといったことだったようだ。だが、クリスマスには、小学生全員に一人ずつプレゼントを渡してくれたと聞いた。人気取りだと大人が言って、でも子どもは嬉しかったという。


 リーフ
 岩の丘の上から見ると、遠い沖のほうで白い波頭が立っては砕けている。広い環礁・リーフ。近くは澄んだ薄青い水、小さな波が寄せる。白いやや茶がかった砂浜。足元にかがんで、小さい石を拾い上げてみると、白い珊瑚のかけらが丸く削られていろいろな形の石になっている。普通のいわゆる石はない。砂浜のところどころには下がえぐられたごつごつの溶岩のように見える黒い岩が水の中から突き出している。沖縄先島でも感激して眺めたのだが、あの時よりももっともっとリーフの美しさに見惚れた。


 風とガジュマル
 民俗村というのがガジュマルの林に囲まれてあった。たった3人の1家族でやっている。島で今はもう見ることの出来ない茅葺の家を保存している。もう1軒の網小屋は台風で飛ばされたという。
 ちょっと見にはティピーに似た細い小さい草葺きの小屋は、1間(ま)か2間、その他の部屋は別棟になる。よく見ると、柱が細く、大屋根を載せられないと分かる。柱材は丸太のままで、根元の太くなった根張りのところで伐って礎石に載せてある。草は、葦に似ている。その屋根は割に薄く、雨には、急傾斜で対応しているようだ。たぶん屋根を重くしないためなのだろう。太い樹がないのも、屋根を軽くするのも、すべて風のためと思う。
 雨戸はあるが、障子はない。日中は開け放しなのだろう。敷居も、掘り込んだものでなく、外側に外れ止めの板を打ち付けてあるだけのものだ。
 島では至るところ新しい家を見かける。宿のおばさんの話の中で、数年前の台風で多くの家が飛ばされたということが出てきた。2年連続した大変な台風だったらしい。昔藁屋根だった頃も、台風は毎年来たが、飛ばされることは無かったという。それは、ガジュマルの屋敷林に囲まれていたからだと。それが、構造改革という大々的な改造があって、ガジュマルやソテツの屋敷林や、防風林を兼ねた境界林が切り払われて、サトウキビと黒毛和牛の牧草地の拡大になった。その後に、天皇が来るというので、県のお声掛かりで、道が整備され徳利椰子の並木になったのだそうだ。あれは風には役に立たないという。
 八丈で、谷間の木々の下に、ちょっと見には見えない家々が隠れていたことを忘れてはいない。あれを見た眼は、ここでも働くのだが、そういう光景には出会わない。多くはコンクリートで、さぞかし風が当たるだろうという眺めの良さそうなところに建っている。


 与論城跡
 明るい公園風に整備されている。眺望が広い。
 満州開拓団が、1943(昭和18)年2月、王道楽土建設の夢に踊らされて出発し、45年夏壊滅した。その島の人たちの無念への慰霊碑が、その旨を記して、町長名で建てられている。1978(昭和53)年の建立。戦後33年、ということはこの悲劇の33回忌ということだったのだろう。復帰25年、1953(昭和28)年の復帰前はもちろん、10回忌などではまだ建てられなかったのだろう。
 城跡の中央にある神社の、本殿も拝殿も一緒の殿内が、図書館風になっていて、多くの写真や資料が置かれていた。

奄美の旅  1

 まだ行っていない群島が、普通の定期便などで行けない所を別として、1つだけ残っていた。ずっと気にしていて、いつかはと狙っていたその奄美に、行くことに決めた。
 東京からの船便、鹿児島からの船便、飛行機便。船に気持ちは傾く。初めて沖縄へ行った東京から船という行き方は良かった、大当たりだった。初めて北海道に行った時の連続2晩の列車と、ほぼ同じ時間だった。遠いところは時間をかけて、距離感をつかんでが、ぼくの旅の鉄則だ。だが、やはり、時間が足りなくなる。2年前に、早割りという空便の切符の買い方を知って、だけど間に合わなくなって、残念だった。今度は。
 ネットで早割り予約、コンビニでの金払い、いろいろまごつく。22日間年末年始の宿探しにまたまた苦労した。折角やっとコースを組んで宿もいくつか取れたところで、どうしても取れない島にぶつかって、コースを逆転変更とあたふたする。宿の電話出てくれないのだよ、どこもほとんど。留守録もないし、メールの世界でもないのだ、南の離島の安宿は。そして、船便も毎日ではなく、出港が5時とか、着港が夜の10時とか。船に食堂は付いていなくて、港に食堂は開いていない。だが、行きたい、この苦労も旅のうち。2ヶ月かけて、やっと行けることになった。各島には飛行場があって、日に数便が飛んでいる。金をかければ、距離感を無視すれば、何ということも無いのだが。沖縄から戻るという行き方が安いのだと、知恵をつけられたが、戻るということに反発する気持ちが勝った。我ながらどうしょうも無いね。
 往きは晴れて、アクアラインの海ほたるを斜めに見下ろしながら高度を上げて、富士の火口の雪を見下ろしたり、海岸線の波の白い線に見入ったり、2時間は速すぎる。奄美大島から南に行く船は、早朝5時。真っ暗な中で、寝ぼけ眼で乗る。大きなフェリーは揺れもせず、海を眺めて、港々を観察して、1日飽きることも無い。
 リーフの端の波立ちは、沖の船からもよく見える。どうなるのだろうと見ていると、リーフの張り出しの小さい所へ近づいて行って、その先に船着きが現れた。外海に直接開いている桟橋だ。