まだまだ 近況
もうそろそろと思われているらしい。とあることから思わされた。やや僻みっぽくなっているかも知れない。
3カ月置きに泌尿器科と内科で診察を受ける。6か月置きぐらいに血液検査や尿検を受ける。1年置きに膀胱鏡検査やCTなどを受ける。どれも、いいともいえないが悪いともいえない程度で過ぎる。量が減ったので、むしろ安心していいウィスキーやブランデーを探して(というのはやっぱり安いのをということかな)飲んでいて、煙草もパイプを復活させている。体力は目に見える感じで落ちていくし、何かをしようという気力も薄く、取り掛りが遅い。ということを思うたびに、気にしないと念じる。
三陸に3度通った後、福島に3度通った。それを書き始めたら、すぐ次々にやることが出てきて、息つく間もなしに今は安曇野で畑をやりながら、学テの分析に手をつけている。今年の5月初めはメイストームもなく晴れっぱなしで、雨を待ち焦がれている。耕運機でひっくり返したところを雑草退治に再三ひっくり返すと、砂埃が舞い上がるほどだ。せっかく買ってきた深谷葱の苗を雨待ちでほっておいたら腐り始めてしまって、慌てて植えつけて、水を運んで落ち着かせる羽目になった。じゃが芋は、いい種芋を見つけて植え込んだが、土の中で蒸し焼きジャガになってはいないだろうか。暑さ負けしないように時間制限でさっさと切り上げてパソコンに向かう。それに飽きて、いっぱい飲む。
探せばあるもので、鹿児島日置市の有名酒造のこれまた知られた銘柄に34度のを見つけて、無濾過無調整という文句に惹かれて買ってきて飲んだら、これぞ芋焼酎と本当に久しぶりに堪能している。1升瓶で、はずれたらとこわごわ買ったが、開けていたスコッチの12年物をほったらかしてこれにした。減るのが早いようで、帰りまで持つのか心配だが、うまいものはうまい。いい機嫌になると、やっぱり気にしていたこれを書くかということになる。
今年はいつもよりずっと早い桜が終わったところで、もう熊の出没で放送が毎日入る。去年は夏から市の広報が毎日呼びかけをしていた。この冬は、庭先の畑の雪の中に、いやにはっきりした踏み跡を見つけて辿って行ったら、鹿の糞を見つけた。呆れるほどの大量だ。近くの人に確かめたら、植木の肌をかじられたといった。猿は相変わらず出てくるが、季節がいいからかやや少ないようで大助かりだ。
先日久し振りに秋葉原を、日本人はもう大事にされないようだと思いながら歩いていて、欲しかった小さい持ち歩きに楽な中古パソコンを見つけて、万を超えて高かったけれど、衝動買い的に買ってしまった。
それを立ち上げているうちに、おかしなものが入ってしまった。ウィルスなのか何なのか、いろいろ調べて、今はウィルスとも言えず特に悪いともいえないが怪しい変な奴が横行しているのだということがわかった。悪の落とし穴へ誘い込む入口を作るための場所を作っている、というのが今のところの理解だ。MSといったところは、おかしなやつもお客さんのうちで、そこが怪しげな仕事であろうと使ってくれればそれも業績のうちということなのだろうと思うしかない。それらを処理するのにずいぶん暇を取られた。怪しい奴を探して消しますというソフトが、別のそういうのからは怪しい奴と指定されるという堂々巡りをやったりして、えらくくたびれる勉強だった。プログラムから消すといったまっとうなことでは、表の名前が消えるだけで何の影響も受けずに居座っている奴もいる。調べてみると、関係するものがいくつもの場所に、わけのわからない名で、数十の部分に分かれて潜んでいる。それらを調べ上げて、こうやって退治するということを教えてくれるブログもある。
何とか整えた12インチのこのPCは、旅先に持ち歩いてどうかと、でかいモニターにつなげずに小さい画面でこれも書いてみている。ちょっとばかり遅いのが難点だが、こちらが調子を合わせてワンテンポ待ってやれば、そこそこいい調子だ。メモリーを増やして、ずっとよくなる予定だ。合うメモリーを探すのは、もう少し先で暇を見つけるしかない。
さて、福島についてだが、長くなり過ぎるので、やはり別の文にする。
進歩とはじっくりと進むものなのですね――地球、水俣、光合成――
考え始めたのは、自然科学研究所「仲間たち」14.5の、佐藤完二さんの地球のことからだった。物質を基礎に現在の地球を他惑星などとの関連の中で地学・地質としてとらえ直す、とてもよくわかる論だった。
その中で、地球も月も火星なども、隕石の集合体として始まったことが説かれている。そこの、隕石の出場所が気になり出した。おまけに原子がH・Heから、恒星内部の原子反応等を経て順序に重い原子に発達してきた物質の歴史とが、妙に重なりだした。物質の初め・発展と宇宙の初め・発展が重ならないわけはないだろう。
そんなことを考えるうちに、水俣の水銀公害を思い出した。無機水銀が有機水銀に変わるはずがないという科学者の説が強く、訴訟しても始めは進まなかった。そのことから公害の劇を校内創作演劇祭で上演したりもした。それが長い闘いのうちに原因がチッソ企業であると確定された。(だが、今も残された問題点が多いと指摘されながら、世間的には済んだことといった風だ。)その、無機と有機の変化問題は、物質の化学変化として、いったいどう決着がついたのか。
これをネットで探っているうちに、水銀の決着はさすがにしっかり追究されたことを知った上に、あれこれ飛んで道草を食って、そのうちに光合成の2段階に着いてしまった。光合成とは、葉緑素が太陽光エネルギーで水とCo2を分解合成して澱粉をつくる工程だ、ということは単なる知識で、理解はそう簡単ではないらしいと分かった。表裏2行程も初めて知って、なるほどと思った。このことを光合成に触れる初めから説明してくれていたら、ぼくの理解はずっと深まっていたはずなのに、理科では何をさぼっているのかとさえ思った。もっとも、多糖類の澱粉ができるのか、単糖ができるのか、さらに次の単糖・多糖の仕組みまでにたどり着くには、なかなかの時間がかかった。
だが、そこで、光合成のエネルギー問題はどうなったのか、またまた気になった。水の分解から始まるということなのだが、そのエネルギーについて触れてくれていない。あれこれ探して、見つけたのが、京大のページで、去年やっと電気エネルギーの測定?に成功したということだった。いくつかの新聞に報道されたらしいが、全く知らなかった。
目の疲れを気にしながらも、夢中になって(暇を掻き集めて)、終点に来たかなという思いがした時、研究者はしっかり研究をしてくれているのだと、無性にうれしくなった。教育は並んでいるのだろうか。
答えるということ
<なぜ2月だけ月の日数が少ないのですか>と聞かれて、暦の歴史をかいつまんで説明し、2月が年の最終月であったからそこで365日に合わせる調整をした、と答える。一応、質問者は2月が特別な月であることを知り、それならしょうがないと分かった気になる。分かりましたかと追い打ちをかけられて、分かりましたという。これでいいのだろうか。
この子・質問者は2月だけがなぜと聞いている。<だけがなぜ>をきちんと考えると、30日と31日の大小月があることを知っていると判断でき、その上での質問なのだと質問の抱える内容の大きさ難しさに思いが至る。つまり、聞きたいのは、平均化せずになぜ2月にしわ寄せするのかということだろう、と思いやれる。このことは、多くの子ども(いや大人も)が疑問にすることだ。しつこく言えば、大(31日)の月を5回、小(30日)の月を7回にすればいいはずなのだ。例えば、10までの偶数月を大、奇数月と12月を小の月とすれば、すっきりする。閏は12月にでもやればいい。
このことに正確に答えることはかなり大変で、詳しくすれば一冊の研究書ほどの量になりそうだ。そこには、暦・時を司るのは最高権力、ということを基調として、地学(天文)・数学などの自然科学者の研究努力と権力に対しての戦いの歴史が綴られることになるのだろう。それが最終的に決着していないから、2月だけという厄介が現代に残っていると言えるのではないだろうか。炎熱の8月に残る名が単なる記念ではない象徴のように思えてくる。
答えるべきなのは、聞きたいことについてだ。それは当然のことで、誰でもそう思うだろうし、子どもに関わる人ならそう心がけてもいるだろう。だが、知っている者が知らない者に聞かれたとき、自分の土俵という枠を外して、聞きたいことをまずしっかり受け止めるかどうかが、いい答え、つまりよくわかる納得のいく答えになるかどうかの分かれ目になると思う。何を聞きたいのか、つまり、その子をよく知ることが、まず初めで最も大切なことだ。答えるものは、まず聞き手でなければならない。そして、欲を言えば、いい大人・先達・教育者であるには、その答えの底辺や広がりに興味を持てるようにしていくことだ。そうすれば、子どもは納得した答え以上に次への糧も得て、さらに伸びていく。
NHKラジオで、夏休みに子ども科学相談という番組をやっている。夏休みの自由研究という子ども泣かせの宿題を今でもやっているのだろうかと気にしながら、聞こえてくるままに聞いている。大人にもファンがいるそうだが、ヘぇ~と思うことも多くて、つい聞き耳を立てる。するとついそこで、その質問への応答の適否を感じ、解決が何かを考えてしまう。その意味でとても勉強になる。ただ、聞き流す形だから、よほど記憶に留めるように努力をはらわないと、すぐ忘れてしまう。
最近は
「今 平和教育を考える」第9集の原稿を完成しなければならない。編集の計画もしなければならない。今年の学テの分析になかなか手を付けられずに苦しんでいる。今年採択になる小学校教科書の分析に入ることも考えなければならない。
だけど、本を読んでいる。
『古寺巡礼』79年の文庫版。中は1919初版とおおよそ変わっていないらしい。いつもの読み方とまるで違う読み方になっている。面白くなくても初めから終わりまで通して読み切るのがいつもだが、数ページ読んではやめ、また別の数パージを読むの形だ。行ったことのある所・寺、見た覚えのある建物・仏像についてのところを拾い読み、やめてまた読む。描写もあるが、圧倒的に、感じたことが多い。自分の感じることを探るために見ている対象物があるということらしい。とても、言葉が多い。新古今の幽玄・象徴性でよく引かれる「浦の苫屋の秋の夕暮」の情景や感覚を言葉で描写・説明するとどうなるだろうかなどと考えたりして読んでいる。
応仁の乱や建武の中興のあたりのものを図書館で探して読んでいる。昭和維新という言葉に出会ったのは、もうずいぶん前のある政党の選挙前ポスターだったと思うが、いつの間にか似ているようなずらしてあるような名の集団が登場した。それで興ざめしていたが、そのかなり前から日露戦争礼賛の宣伝があったことを思ってそれで明治維新のあたりを読み直していた。その中で建武の中興が参考にされた面があったらしいことを知ったのだった。バックの経済事情、生産性・労働人口・生産手法、流通事情など興味は尽きない。おまけに、それらを構造的にとらえらてみようとしていると、現世界状況にも考えが及ぶ。今火を噴いている幾つもの地域を間にした中露米世界は、欧亜間の地域をめぐる東西冷戦期からの事情、さらに一次世戦と二次世戦のときの事情と、対立する構造として似ているように思えてきている。
まだもう一つある。この夏の旅に久しぶりに北海道を考え始めて、北海道開拓の初期の民間の開拓団に関わるものを、これも図書館で探して読んでいる。依田の晩成社や関寛(寛斎)や二宮尊親など、そこにからまるキリスト教や報徳精神といったことや、アイヌとの関係や、小作・雇人――大規模農場企業化か、自作農――協同組合かといった目指した社会構造など、これも興味は深まるばかり。
こうやって今の己を整理してみると、分裂症かなとも思ってしまうが、思考のスピードも切り具合も鈍くなっているので、頭がそれだけ回らず中身が薄いから、分裂も混乱もせずにいるというのが実際のところなのだろう。
瀬戸内の四国側 その4 嵯峨野の藁屋根
西からの帰りの恒例になってしまったように京都に泊まった。いくらか時間があったので、嵯峨野の周辺を回った。そこで道際の民家の屋根上にちょっと覗く藁屋根の棟を見つけて回り込んでみると、大きくはないが整った素晴らしい藁屋根の民家を見つけた。写真を撮ろうとしていると、その家の人が出てきた。猫車を押して、畑に行くらしい。声をかけてみると、寒い風の中を嫌がらずに応じてくれた。お互いに水洟をすすりながら、聞いたところでは、京都府も市も藁屋根といったものの保存や修理などには一切関心がないらしい。社寺などにはずいぶん手を尽くしているのに、いやそうだから金が回せないのか。静かな農村に囲まれて残ってきた嵯峨野の社寺は、それだけが残って大切にされて観光客が集まるが、その周囲はどこにもある住宅地となっていくのは、仕方のないこととなるのだろうか。
個人の力ではとても持ちこたえられないという。材もなく職人も集められない、莫大な金もかかる。この広い地域ではほかに何軒もあったのになくなってしまって、すぐそこにもう一軒あるだけだという。集落 の狭い小路を奥に少し行くと、藁屋根が見えた。土塀を回した大きな構えの家だった。前に回ると、玄関のある正面の上の屋根はしっかりしていたが、庭の方にL型になっている主屋の方は藁が崩れてブルーシートで覆ってあった。(了)
瀬戸内の四国側 その3 過疎化・離村・排除
数百人の人口が、30人足らずになって、夫婦者は俺のところだけであとは一人暮らしだという。ここの保存指定はまだそれほど景気が落ち込まない頃だったから9割方は手入れが済んでいる。空き家ばかりになってしまったが、今はもう何もできない。観光が大事だとは皆言うことだが、地区で何かするということ自体、何かできる人の手が全く無い。区長もいくらか若い男一人の俺がやっていたが、もうその区自体の実態が何もない。
諦めの口調に、どう受け答えしたものか、こちらも途方にくれた。去年行った山口県上関町の八島の、人の未だ住みながらの廃村・廃島の様、あの時受けたあの震える感じが重なった。
高知県大月町沖の島の古屋野の集落も、見事な石垣に残る家数はかなりあったが、住んでいるとはっきりわかる家は1軒だけだった。漁港に1隻の船も見えなかった。この島の定住の祖といわれている三浦一族の墓地や住居址や敷石・石垣の残る道型など、藪に覆われ来る人もなく、だがしっかりと残っていた。発掘保存などすればずいぶん価値のあるものだろうと、話せた何人かの人にも言ってみたが、うなずくばかりであったことも重なった。沖の島は小中学校各2つを1つに統合して、今は小3ひとりだけという。この春その子の妹が1年になり、あとは泊まった宿の孫が2歳ということだった。
地元に高校がなく、寮や下宿で高校に通った若者は村に帰らない。同世代のいない老人ばかりの村に若者はいられない。海の孤島でなく陸の孤島で道がよくなったという場合も、近い都市の勤務に通うようになり、やがてその都市かもっと大きい都市に生活の本拠を構えるようになる。どんな場合も、過疎の根底の問題は地元に職の無いことだ。特産品を造るとか特産物を育てるには食うや食わずの何年もの辛抱が必要だ。UターンIターンの例はあっても、人口統計が変わるほどの%にならない。僻地・過疎というときには離村ということが裏側に意識されるが、離村・離農の離れるは自動詞だ。職や生活の便を求めて出て行ったという認識になるのではないか。事実は引きはがされる、故郷から排除されるということだろう。地上げ屋の追い立てのようなかなり相手の見える状態でなく、時代・経済状況の変化といった顔の見えないことがらでも、元はある。自ら動いたのではなく、排除されたと他動詞(の受身)で捉えると、見えてくるものが変わると思う。
啄木の「追わるるごとく(故郷を出でしかなしみ)」は、立志・出郷と故郷への愛着とのあわいといった個人レベルと読んでいいものだろうか。詩人の感覚はこの時代にすでに鋭く問題点を見ていたのではなかろうか。
原発の避難者も内戦からの避難者も、同じといえる。排除するという他動詞でとらえればその主語を意識することになり、それが基本の出発点だろう。ぼくの物心つくころの立場だった疎開っ子も、子供を都会から排除したのだった。当然主語は国を焦土にしても国体を守ろうと考えた者だ。もっと年上には排除された先が靖国だった人も多かったのだ。
瀬戸内の四国側 その2 石垣
愛媛県宇和島市の西に飛び出した凸凹の長い半島のその途中に北へ飛び出た小さい凸の岬である遊子水荷浦(ゆすみずがうら)は、湾曲する対岸から見ると、海から岬の稜線まで全面が石で覆われた壁のように見える。家は海沿いにあり、斜面はすべて畑だ。石垣の間の急勾配の狭い道を上ってみると、狭い所は2mに足りないほどのところもあり、広くても10mばかりと見える畑が一面に重なっていた。多くは黒いマルチでジャガイモが大きく育っていた。玉ねぎもかなりあったが、何もない所も多かった。もう少しして暖かくなれば種まきをするのだろう。
蜜柑畑でよく見かける荷物用のモノレールの軌道が遠い間隔で幾本か引いてある。尾根から下の浜の家の通りまで一面の石垣畑だから、水をどうしているのか気になっていたのだが、配水管らしきものもごく少なく、これで大丈夫なのだろうか。水を気にしたのは、この地の名前の水の荷ということだった。当て字ということも多いから、水を担いでということにいきなりなるわけではないが、かつて瀬戸内の島で段々畑に毎日々々水を担って運ぶ姿を延々と描いた台詞の無い名画『裸の島』で、とても心を動かされたのだった。何よりこういう映画を作るという発想(新藤兼人)にショックを受けたのだが、そのシーンはいまだに目にある。あとで聞いた話では、このじゃがいもは石垣保存や援農のボランティアによるらしい。5月には収穫のボランティアが出るよと言われた。
香川県丸亀市の塩飽本島(しわくほんじま)の地元の案内に段々畑の記載があって探してみたら、字の消えかかった説明板が倒れかかっていて、その下の藪の谷間に段畠はあったらしいのだが、草茫々どころか5mあまりもの雑木林に成り果てていて入ってみる隙間も見当たらなかった。
高知県愛南町の外泊、大月町の沖の島の母島(もしま)・弘瀬では、海べりからそそり立つ高い石垣で集落がつくられていた。その場所によって、形や色の違う石だったが、5mを越す高いのもあって、海岸から見上げると、城塞のようで、「天空に浮かぶ街」と言われるということが十分納得できる。動かせない巨石を避けるのでなく、むしろそれを支えの基礎にするように周りに手頃な石を組み上げている。手ごろな大きさの石がそこの斜面にそんなに転がっているとは思えないから、運び上げたものだろう。それはどれほどの労力を要する仕事だろうと思った。
外泊では、風よけのために、家は石垣に埋まるようになっている。石垣には窪んだ低い部分を作ってあり、そこに家の窓を作ったそうだ。出漁のために海の様子を見たり、漁に出た夫の帰りを待って海を見たり。遠見の窓と呼ぶのだそうだ。
瀬戸内の四国側 その1
日本の中には、まだまだ見るべきものは自然でも人文でもいっぱいあると、ずっと思ってきて旅を続けている。その思いはまだ持っているのだが、今はまだ地図などに記されているところでも、どうやらこれからは、ここにはかつて~と、廃墟・跡を見ることになりそうだ。これからは日本は観光立国でということを今新たに言い出している向きもあるようだが、足元は崩れている。そのなくなる寸前を、見ておきたい。こちらが動けなくなるのとどっちが早いか。
水軍
越年の旅は紀伊半島南岸から四国瀬戸内側沿岸の3週間となった。今回のテーマの一つは水軍だった。結果は、水軍そのものについてはほとんど何もなかった。
塩飽本島(ほんじま)には、勤番所と資料館があったが、生の実体に近づけるようなものは見当たらなかった。塩飽では咸臨丸水夫だれだれの生家跡と書いた板切れが打ち付けてある家は何軒も見つかった。そのほか塩飽以外の各地に残る遺跡も、ただ跡と記した石柱だけということばかりだ。がっかりしながら考えた。どこへ行こうと、例えば城跡はかなりしっかり残っていたり、忠実に復元された建物があったりはするが、城侍もそこで働いていたはずの下僕も、その実体などは見えない。求めるのは無理なことだ。地理や地形を見て、人数や船数など記録された各種の数字と組み合わせて、イメージを組み立てていくしかない。
そんなことを考えながら塩飽本島で歩き疲れて眺めのいいところで海を見ていると、どでかいタンカーが島陰から現れた。その横後ろから高速の小型船が追い付いてくる。その以前からやや近くで動くともなく動いていた似た高速タイプの2隻の船も、そのタンカーの動きに合わせるように向きを変えたりし始めた。マイクで何か指示しているような声も聞こえた。その近くで止まっていた小さな漁船が移動して見えなくなった。巨船は動かないように見えても速い。目の下の狭い海峡・瀬へ向きを変えてやってくる。数十トンぐらいらしい高速船や、さっき通ったかなり大きいタンカーと比べものにならない。数万トンなのか十数万トンなのか見当もつかないが、狭い海峡を左右二つに区切っているらしい小さなブイを回り込んでくると、ほかの船は入り込む余地がないようだ。3隻の高速船は離れて取り囲むように停まっている。やっと様子が飲み込めてきた。海上保安庁だか水先案内だかは知らないが、このデカ船を通すために、どこかから安全管理に出て来ていたのだ。後ろから全く同じ形で同じ大きさのタンカーが、ずっと離れて現れた。2隻とも空船と見えて喫水線が水面高く上がっている。瀬戸内を西へ行くのだから、阪神かその近くで油を下ろして産油国へまた向かうのだろう。大阪湾から外海に出ればいいのに。ひょっとすると空ではなく未だ山口のどこかか北九州辺りに残りを下ろすのだろうか。
なるほどこの島の瀬は海の関所になる。この辺りでも狭い方だろうと見えるこの瀬が通り道として安全で大事なのだろう。ここから全て見渡せて、この下の島陰に隠れて待ちかまえる仲間に合図すれば、たちまち取り囲める。
三たび三陸 その十
綾里駅前
前回見た案内板を確認しに行った。前回は付近の地図案内に小学校が警告を付けていたと思い込んだが、写真で見ると、どうも違うようなのだった。全体を写さず、小学校名と言葉だけ写したのが失敗だった。今回しっかり見ると、全体が津波警戒の案内板で避難所の地図と明治昭和津波の被害数の表に「お願い!! 津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください。」の言葉を添えたものだった。平成19年6月 大船渡市立綾里小とある。
高台の駅は被害なしだが、今回新しく大きな日時計の形の碑が建てられていた。その真ん中に「津波てんでんこ」。脇に添えられた碑には「想起せよ、東日本大震災の惨事を 大地震があったら必ず津波が襲来すると思へ 一刻も早く高台に避難せよ 逃げたら絶対にもどるな 自分の命は自分で守れ 津波てんでんこの教えを忘れるな 永々と後世に語り継ぐ教えとして、この碑を建立する」。綾里小名の避難案内図と向き合うように立つ新しい碑の言葉からは、4年前にこれを立てながら、30の人を失った悔いが伝わるようだ。またその横に、実にきちんとした分かりやすい被害状況が刻まれていた。地震発生と津波襲来時刻、津波遡上高(漁港と、7つの各地区ごと)、地区別の津波浸水域と全体の死者28行方不明3倒壊142などの数字が刻まれている。その浸水域の「石浜三十九‐二 大西家の庭」や「岩崎五十六‐二 市杵島神社の境内床下」といった遠い所は我慢して、近い「天照御祖神社の石段上から七段目」を探した。高台の神社前庭の突端に碑が新しく建てられて、石段のその段には小さな目印が付けられていた。
酒屋
仮設商店街で酒屋を見つけて、あまり期待はしなかったがのぞいてみた。宿はどこも地酒はなくて(考えればあるはずないとわかるのに)どこかの大手のものばかりで、いいのがないかと探していたのだった。
仮設だから小さい店だが、所狭しとそれぞれに違うラベルのものが並んでいた。洋酒がずいぶん多い。知らないラベルを丹念に読んで、説明を聞きながら欲しいものを選んだが、あれもこれも欲しくなって、車だからいいさと、数本を買い込んだ。そこで、なんでこんな東京でも珍しい品揃えなのかを尋ねたり、売れ方を尋ねたりして話し込んだ。跡継ぎのことから、店の再建に話が及ぶと、店を立て直すか決心できずに迷っているという。店をこじんまりとつくることは何とかなるだろうが、その返済をし食っていけるだけ売れるのか、買う人がどれだけ住んでくれるのかという。他所の赤の他人でしかないぼくには、それ以上話は続けられなかった。息子さんが達者だというパソコンで、メール販売やったらどうか、せっかく直接輸入のルートをたくさん持っているのだから。そんなことを言うのがやっとだった。
普代
堤防内被害ゼロのあの太田黒の堤防をもう一度確かめたくて、帰京前日に何とか回ることができた。ここの堤防でもっとも感心するのは、階段の広さだ。たいていの堤防の水門脇につけられている一人ずつ一列で登る鉄階段ではない。多数が一斉に上れる広い階段が、水門横の堤体そのものの内外両側に刻まれているのだ。浜に何人村人が出ていようと、ゆっくりしか動かない水門はさっさと閉めて、外の人は慌てずに群がって堤防を上って帰る、ということが自然にできそうだ。
前回よりもくまなく回って、山肌に新しい顕彰碑が建ったのを見つけた。前の津波被害の後に、この巨大堤防建設を推進した当時の村長への感謝顕彰の碑だ。不思議に建設当時の竣工記念碑のようなものは見当たらない。今回の被害を免れた感謝の念からであろうが、何で今新たになのか。津波を逃れられた唯一の村として譜代がもてはやされたからでもあろうが、集落内に堤防建設を巡っていろいろな問題があったのだろうか。それは今回の各地の参考にはならないだろうか。立ち入ったことを行きずりの者は聞けない。ここには宿もない。
重機の姿
宮城から岩手に越えると、途端に、何か違うと感じる。集落跡地の様子は同じだが、そこに重機の影がないのだ。それに伴う人の姿も、もちろん無い。伴うという言い方は人間に対して失礼千万だと、そうは思うがそう言うしかないのだ。前回にもそう書いたりしたが、被害地は重機の世界で、人はそれを動かすに必要な存在でしかない。だから、免許・資格を持った「技術者」しか働き口もないのだ。
前回、宮城が早く契約したから岩手がやっと契約相手を探し始めたころには、もう残り少なかったのだという話を書き留めた。今回それを確かめようとしたが、事情通にうまく出会えなかった。推測的な噂話と思うレベルでは、県内業者を優先するといった事情が絡んでいるとか、値段の問題だとか、住民の意思決定が遅れているだけだとか、様々だがどれも一端ではあるように思えた。
船長の話
今回は何人もの船長や元船長に出会った。外国航路の貨物船や遠洋航海の大型漁船と経験は様々だった。船上で津波に出会った人がいないのは残念だったが、陸にだけ住むものとはどこか違うようで、興味は尽きなかった。
気仙沼の湾の東側をずっとたどると、まるで造船所に入り込んだかと思うほど陸に上がっている大きな船の船尾の下をかいくぐるように車は通っていく。ある船長は船がまさにそこで今作りあがるところだという。この造船所は、前回も前々回も通ったが、常に仕事をしていた。それを言うと、あそこは津波の翌日から仕事を始めたのだという。全て流された中で地元に最も必要なのは船だと。そこ自体が流されたのに、掻き集めて始めたのだそうだ。だからとは言わなかったが、俺の船はあそこでだと言う。
津波でずっと内陸まで打ち上げられて残ってしまった大型漁船が、記念碑として残されないで、解体撤去に決まったらしいですねと水を向けると、あれでいいのだ、船主や乗り組みとしては我が子の無残な姿をさらしたくはないのだ。やっとそのことを回りが理解して残さないと決まったのだという。今後の戒めにと問い返すと、それは別のことで、あれがあったからどう役立つというのかと言われてしまった。
考えてみると、荒れた建物などを記念碑的に残すといった発想は、観光に行くためのポイントを作っておいてほしいと、外側のものが勿体ながるのとどこか似ているとも思う。東京旧市内の3分の2の面積では、どの街角にも一軒一軒のどの敷地にも東京大空襲の一つひとつの物語が詰まっているのが歴史の事実なのだ。それがどう風化していくのか、そうさせないのかは、その時々に生きる人間の問題だ。だが、しかし、そう思うことは思うのだが、やはり当面は残しておいて後々決めればいいのではなかろうかと、ぼくの野次馬根性が呟いてもいる。 (みたび三陸 終わり)
三たび三陸 その九
唐桑半島 津波碑
唐桑では、前回に28あると聞いた津波の碑を見て回ろうと思っていた。御崎のビジターセンターの災害展示をじっくりみたあと、8基あると聞かされて、各浜を回った。5基見つけたが、すべて同じものだった。昭和津波の後、朝日新聞が募金して贈った配分を受けてその一部で建てたということで、「地震があったら津波の用心」の同じ文面、同じ大きさ、石の材まで同じだった。ただ、立てられた場所はずいぶん違ったようで、健在のものも流されたものを仮に立ててあるところもあった。上半分の失われたものもあった。地元の人に聞くと、よほど詳しくないと入れないようなところにもあって、別種のもたくさんあるということだった。
唐桑に限らず、三陸には、至る所といっていいほど、ある。震災記念碑、津波記念碑、海嘯供養、海嘯犠牲者慰霊碑、津波襲来の地の碑、到達点の碑、祈震災復興碑、地蔵、観音像、と形も名も様々だ。仏像の台座石に刻んであったり、絵馬の奉納であったりもする。柳田国男の海嘯の碑もあり、高村光太郎の海嘯の文学碑もある。岬の見晴らしのいいところ、村を見下ろせる崖の端、墓所の一角、学校の横、浜への降り口、浜の船着きの端、と様々だ。多くは、明治の碑と昭和の碑が並べられているか、同じ碑面に並べて書き刻まれている。去年は姉吉に311の碑が新しくたっていたが、今年は多くのところで、新しく並んで立っていたり、全く単独に新しく立てられたりしている。
それら以外に、去年もそうだったが国道県道では、下り坂の途中には「ここより過去浸水域」上りには「ここまで過去津波浸水区域」といった道路標識が必ずある。また、道の側斜面やビルの壁面や、道路の端に、過去浸水水位とか、311津波到達点とか書いてあったり道標様の杭が立っていたり、標高の表示があったりする。そして、前回も多く新しくつけられていたが、避難路の指示標識がとても多くなった。
ことばにもいろいろあった。唐桑の「地震があったら津波の用心」という言葉は、他にも広く見られた。唐桑早馬神社「大津波高さここまで 子々孫々に語り継げ」、気仙沼三ノ浜?「大地震それ来るぞ大津波」、気仙沼浪崎?「大地震~~沖鳴りした~?(判読不能)~ら津波」、綾里「大地震の後には津波が来るよ 地震があったら高所へ集まれ 津波と聞いたら欲捨て逃げろ 低いところに住家を建てるな」、旧広田村「地震があったら・・・判読不能・・・それ津波機敏に高所へ 低いところに住家を建てるな」。重茂「強い地震は津波の知らせ その後の警戒一時間 愁へ惨禍の大地震」「後世への訓戒 大地震に後には津波が来る とにかく高い所へ逃げろ 住宅は津波浸水線より高い所へ建てろ 命はてんでんこ」。浄土ヶ浜「1大地震の後には津波が来る 1地震があったら高い所へ集れ 1津波に追われたら何処でも高い所へ 1遠くへ逃げれば津波に追い付れる 常に逃げ場を用意しておけ 1家を建てるなら津波の来ぬ安全地帯へ」。やはり姉吉の「~ここより下に家を建てるな」という簡単直截な語にひかれた。簡潔は、切迫の実感からくるものであろうし、願い・覚悟の強さにも感じた。
陸前高田 一本松
進められていると報道されている「復活」の様子を見に寄った。前回と同じ駐車場で、人はぐっと少なく数えるほど。道は同じ遠回り。前回も近寄れずがっかりだったYH(ユースホステル)の様子を何とか見ようと、海側の防潮水門の台に上って、眺めた。もともとは松原の中だったかもしれないが、この松はかなり以前から松原の松ではなくYHの裏に取り残されていたのだそうだ。YHの所有ではないのかということも聞いた。YHが崩されながらも耐えたおかげで残ったとも聞いた。鉄網でガードされてちょっとおかしな枝ぶりが、首をかしげて人間を見下ろしているように見えた。