三たび三陸 その十 | 学びをつくる会世話人リレーブログ

三たび三陸 その十

  綾里駅前
 前回見た案内板を確認しに行った。前回は付近の地図案内に小学校が警告を付けていたと思い込んだが、写真で見ると、どうも違うようなのだった。全体を写さず、小学校名と言葉だけ写したのが失敗だった。今回しっかり見ると、全体が津波警戒の案内板で避難所の地図と明治昭和津波の被害数の表に「お願い!! 津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください。」の言葉を添えたものだった。平成19年6月 大船渡市立綾里小とある。
 高台の駅は被害なしだが、今回新しく大きな日時計の形の碑が建てられていた。その真ん中に「津波てんでんこ」。脇に添えられた碑には「想起せよ、東日本大震災の惨事を 大地震があったら必ず津波が襲来すると思へ 一刻も早く高台に避難せよ 逃げたら絶対にもどるな 自分の命は自分で守れ 津波てんでんこの教えを忘れるな 永々と後世に語り継ぐ教えとして、この碑を建立する」。綾里小名の避難案内図と向き合うように立つ新しい碑の言葉からは、4年前にこれを立てながら、30の人を失った悔いが伝わるようだ。またその横に、実にきちんとした分かりやすい被害状況が刻まれていた。地震発生と津波襲来時刻、津波遡上高(漁港と、7つの各地区ごと)、地区別の津波浸水域と全体の死者28行方不明3倒壊142などの数字が刻まれている。その浸水域の「石浜三十九‐二 大西家の庭」や「岩崎五十六‐二 市杵島神社の境内床下」といった遠い所は我慢して、近い「天照御祖神社の石段上から七段目」を探した。高台の神社前庭の突端に碑が新しく建てられて、石段のその段には小さな目印が付けられていた。


  酒屋
 仮設商店街で酒屋を見つけて、あまり期待はしなかったがのぞいてみた。宿はどこも地酒はなくて(考えればあるはずないとわかるのに)どこかの大手のものばかりで、いいのがないかと探していたのだった。
 仮設だから小さい店だが、所狭しとそれぞれに違うラベルのものが並んでいた。洋酒がずいぶん多い。知らないラベルを丹念に読んで、説明を聞きながら欲しいものを選んだが、あれもこれも欲しくなって、車だからいいさと、数本を買い込んだ。そこで、なんでこんな東京でも珍しい品揃えなのかを尋ねたり、売れ方を尋ねたりして話し込んだ。跡継ぎのことから、店の再建に話が及ぶと、店を立て直すか決心できずに迷っているという。店をこじんまりとつくることは何とかなるだろうが、その返済をし食っていけるだけ売れるのか、買う人がどれだけ住んでくれるのかという。他所の赤の他人でしかないぼくには、それ以上話は続けられなかった。息子さんが達者だというパソコンで、メール販売やったらどうか、せっかく直接輸入のルートをたくさん持っているのだから。そんなことを言うのがやっとだった。


  普代
 堤防内被害ゼロのあの太田黒の堤防をもう一度確かめたくて、帰京前日に何とか回ることができた。ここの堤防でもっとも感心するのは、階段の広さだ。たいていの堤防の水門脇につけられている一人ずつ一列で登る鉄階段ではない。多数が一斉に上れる広い階段が、水門横の堤体そのものの内外両側に刻まれているのだ。浜に何人村人が出ていようと、ゆっくりしか動かない水門はさっさと閉めて、外の人は慌てずに群がって堤防を上って帰る、ということが自然にできそうだ。
 前回よりもくまなく回って、山肌に新しい顕彰碑が建ったのを見つけた。前の津波被害の後に、この巨大堤防建設を推進した当時の村長への感謝顕彰の碑だ。不思議に建設当時の竣工記念碑のようなものは見当たらない。今回の被害を免れた感謝の念からであろうが、何で今新たになのか。津波を逃れられた唯一の村として譜代がもてはやされたからでもあろうが、集落内に堤防建設を巡っていろいろな問題があったのだろうか。それは今回の各地の参考にはならないだろうか。立ち入ったことを行きずりの者は聞けない。ここには宿もない。


  重機の姿
 宮城から岩手に越えると、途端に、何か違うと感じる。集落跡地の様子は同じだが、そこに重機の影がないのだ。それに伴う人の姿も、もちろん無い。伴うという言い方は人間に対して失礼千万だと、そうは思うがそう言うしかないのだ。前回にもそう書いたりしたが、被害地は重機の世界で、人はそれを動かすに必要な存在でしかない。だから、免許・資格を持った「技術者」しか働き口もないのだ。
 前回、宮城が早く契約したから岩手がやっと契約相手を探し始めたころには、もう残り少なかったのだという話を書き留めた。今回それを確かめようとしたが、事情通にうまく出会えなかった。推測的な噂話と思うレベルでは、県内業者を優先するといった事情が絡んでいるとか、値段の問題だとか、住民の意思決定が遅れているだけだとか、様々だがどれも一端ではあるように思えた。


  船長の話
 今回は何人もの船長や元船長に出会った。外国航路の貨物船や遠洋航海の大型漁船と経験は様々だった。船上で津波に出会った人がいないのは残念だったが、陸にだけ住むものとはどこか違うようで、興味は尽きなかった。
 気仙沼の湾の東側をずっとたどると、まるで造船所に入り込んだかと思うほど陸に上がっている大きな船の船尾の下をかいくぐるように車は通っていく。ある船長は船がまさにそこで今作りあがるところだという。この造船所は、前回も前々回も通ったが、常に仕事をしていた。それを言うと、あそこは津波の翌日から仕事を始めたのだという。全て流された中で地元に最も必要なのは船だと。そこ自体が流されたのに、掻き集めて始めたのだそうだ。だからとは言わなかったが、俺の船はあそこでだと言う。
 津波でずっと内陸まで打ち上げられて残ってしまった大型漁船が、記念碑として残されないで、解体撤去に決まったらしいですねと水を向けると、あれでいいのだ、船主や乗り組みとしては我が子の無残な姿をさらしたくはないのだ。やっとそのことを回りが理解して残さないと決まったのだという。今後の戒めにと問い返すと、それは別のことで、あれがあったからどう役立つというのかと言われてしまった。
 考えてみると、荒れた建物などを記念碑的に残すといった発想は、観光に行くためのポイントを作っておいてほしいと、外側のものが勿体ながるのとどこか似ているとも思う。東京旧市内の3分の2の面積では、どの街角にも一軒一軒のどの敷地にも東京大空襲の一つひとつの物語が詰まっているのが歴史の事実なのだ。それがどう風化していくのか、そうさせないのかは、その時々に生きる人間の問題だ。だが、しかし、そう思うことは思うのだが、やはり当面は残しておいて後々決めればいいのではなかろうかと、ぼくの野次馬根性が呟いてもいる。         (みたび三陸 終わり)