三たび三陸 その九 | 学びをつくる会世話人リレーブログ

三たび三陸 その九

  唐桑半島 津波碑
 唐桑では、前回に28あると聞いた津波の碑を見て回ろうと思っていた。御崎のビジターセンターの災害展示をじっくりみたあと、8基あると聞かされて、各浜を回った。5基見つけたが、すべて同じものだった。昭和津波の後、朝日新聞が募金して贈った配分を受けてその一部で建てたということで、「地震があったら津波の用心」の同じ文面、同じ大きさ、石の材まで同じだった。ただ、立てられた場所はずいぶん違ったようで、健在のものも流されたものを仮に立ててあるところもあった。上半分の失われたものもあった。地元の人に聞くと、よほど詳しくないと入れないようなところにもあって、別種のもたくさんあるということだった。
 唐桑に限らず、三陸には、至る所といっていいほど、ある。震災記念碑、津波記念碑、海嘯供養、海嘯犠牲者慰霊碑、津波襲来の地の碑、到達点の碑、祈震災復興碑、地蔵、観音像、と形も名も様々だ。仏像の台座石に刻んであったり、絵馬の奉納であったりもする。柳田国男の海嘯の碑もあり、高村光太郎の海嘯の文学碑もある。岬の見晴らしのいいところ、村を見下ろせる崖の端、墓所の一角、学校の横、浜への降り口、浜の船着きの端、と様々だ。多くは、明治の碑と昭和の碑が並べられているか、同じ碑面に並べて書き刻まれている。去年は姉吉に311の碑が新しくたっていたが、今年は多くのところで、新しく並んで立っていたり、全く単独に新しく立てられたりしている。
 それら以外に、去年もそうだったが国道県道では、下り坂の途中には「ここより過去浸水域」上りには「ここまで過去津波浸水区域」といった道路標識が必ずある。また、道の側斜面やビルの壁面や、道路の端に、過去浸水水位とか、311津波到達点とか書いてあったり道標様の杭が立っていたり、標高の表示があったりする。そして、前回も多く新しくつけられていたが、避難路の指示標識がとても多くなった。
 ことばにもいろいろあった。唐桑の「地震があったら津波の用心」という言葉は、他にも広く見られた。唐桑早馬神社「大津波高さここまで 子々孫々に語り継げ」、気仙沼三ノ浜?「大地震それ来るぞ大津波」、気仙沼浪崎?「大地震~~沖鳴りした~?(判読不能)~ら津波」、綾里「大地震の後には津波が来るよ 地震があったら高所へ集まれ 津波と聞いたら欲捨て逃げろ 低いところに住家を建てるな」、旧広田村「地震があったら・・・判読不能・・・それ津波機敏に高所へ 低いところに住家を建てるな」。重茂「強い地震は津波の知らせ その後の警戒一時間 愁へ惨禍の大地震」「後世への訓戒 大地震に後には津波が来る とにかく高い所へ逃げろ 住宅は津波浸水線より高い所へ建てろ 命はてんでんこ」。浄土ヶ浜「1大地震の後には津波が来る 1地震があったら高い所へ集れ 1津波に追われたら何処でも高い所へ 1遠くへ逃げれば津波に追い付れる 常に逃げ場を用意しておけ 1家を建てるなら津波の来ぬ安全地帯へ」。やはり姉吉の「~ここより下に家を建てるな」という簡単直截な語にひかれた。簡潔は、切迫の実感からくるものであろうし、願い・覚悟の強さにも感じた。


  陸前高田 一本松
 進められていると報道されている「復活」の様子を見に寄った。前回と同じ駐車場で、人はぐっと少なく数えるほど。道は同じ遠回り。前回も近寄れずがっかりだったYH(ユースホステル)の様子を何とか見ようと、海側の防潮水門の台に上って、眺めた。もともとは松原の中だったかもしれないが、この松はかなり以前から松原の松ではなくYHの裏に取り残されていたのだそうだ。YHの所有ではないのかということも聞いた。YHが崩されながらも耐えたおかげで残ったとも聞いた。鉄網でガードされてちょっとおかしな枝ぶりが、首をかしげて人間を見下ろしているように見えた。