おもしろい本に出会った
今、神話関係の本を、地域のいくつもの公立図書館で探し回って、良さそうなのは借り出して、メモをとったり記紀原文と照合したりしながら納得できるかどうか読んでいる。家永教科書訴訟の証言者の直木孝次郎から始めて、10余冊懸命に読んできたが、まだ半分ぐらいだろうか。おととし「おくのほそ道」や杜甫の教科書教材で平和教育につなぐ授業プランを作った延長なのだと始めてから気づいた。
神話が教科書に登場し、建国神話まで出てきているのに、その実践的な提起が余りない。何かできないかと、始めた。目を開かれることばかり学ばされて、今までの不用意を思い知らされている。神話研究が、現在まで地道にこんなに積み上げられていたのだと感激もしている。それらの中で、これは最もおもしろい。
読まれる方は、「はじめに」と「あとがき」3ページずつを立ち読みしてから「終章――新しい日本像を求めて」16ページを読み、それから腰を据えて本文を読むのがよさそうだ。この「終章」が著者の言わんとするところをはっきりさせていてよくわかる。そして、神話問題に向かう姿勢として賛成できる。新書だからか表現の口調は研究論文風でなく読みやすいが、しっかりした論 だ。
東北再び 八戸から気仙沼
何を見に行くのか
前回は出たとこ勝負だった。見て考えた。帰る前から一度ではまるで分からないと思った。今回は何を見たいか狙いを煮詰めてみた。
① 津波の方向は、震源から直線的に来るのではないかと思うのだが、そうすると南向きの湾と北向きの湾では様子が違うはずだということになる。どう違うのか。
② 浸水観測図によると、半島の付け根などの狭まった低い部分で、津波が乗り越して、いわば海がつながったところがある。どっちからの波が早かったか、大きかったか。
③ 長い半島状の両側の背中合わせでどう違うのか。東に延びた半島の場合と、南や北に延びた半島ではどうなのか。
④ すぐ隣の湾や浜が同じか違うか、それはなぜか。地形か、津波の来方か、人工的な何かか。
⑤ 被害の報道・情報は多いが、被害小さくやり過ごせたところはないのか。防波堤に守られて人家の被害なしという記事を一つだけ見つけたが、ここだけなのか。
⑥ 高いところに集落を構えているのは、珍しいのか、多いのか。その知恵はいつからなのか。
コース動線だけ決めて出る
①②③を軸に地図で候補地を選んだ。田老より北に探り甲斐のあるところを見つけていたので、入りやすい八戸から南へとした。④⑤⑥は行って見るしかない。コースとしてつなげて辿ると、かなりの部分で海辺を舐めていくことになる。1日でどこまで行けるのか、まるで見当も付かない。だから、その日暮らしでいくしかない。その日で宿が取れるか心配でもあるが、先の予定に縛られては、意味がなくなる。きついけど1日で八戸に入ることにして八戸の宿だけ取り、東京にやっと雨が降って涼しくなったのを幸として、その雨の朝9日間の旅に出た。
今回の津波が過去最大ではなかった?
姉吉では、今回の津波の到達点の碑が建てられていて、それで距離関係がよくわかった。車の距離計での曲がりくねった車道の大雑把ながら、歩く感覚に合いそうだ。集落の一番下の家から明治・昭和津波の碑まで50m、そこから今回の到達点碑まで100m、その先500mで車の行ける海辺の最終地点。遡上高40mという地点がここであるのかどうか分からないが、地元が碑を建てるのだから、ここを最高点と受け止めていいのだろう。他の集落の明治・昭和津波の碑のあるところも、いずれも今回波をかぶっていない。どれだけ小さいかの判断はどう比べたらいいのか分からないが、1000年に一度という大きさではなさそうにも感じる。貞観の大津波といわれるのは、とてつもなかったのだろうとも思った。
田老は明治と昭和の大津波の港での最高水位を示すプレートが漁港の裏の岩壁につけられている。ここに来る度に見ているのだが、いつも下から見上げるばかりでものすごいとただ感心していた。今回は、何とか比べる写真を撮れないか場所を探してみた。港の外側の防波堤に沿って置かれた岩塊の列が辿れそうで、先端まで行くと、ほぼ横位置になって、プレートとその前の3階建ての監視塔とがしっかり並べられる。幸い上側の明治の水位標のほうがうまく陽に光ってはっきりした。監視塔は2階までのダメージは見えるが、3階のどこまでだったかは分からない。明治標は監視塔の3階の床の高さで、横にある電柱列の電線の高さだ。田老の港口では明治大津波と同じか越えていたようだ。奥の船着きの100m先の観光ホテルは、3階までかぶっている。遡上で津波の水位が上がったのだろう。電柱列で見ると、1mぐらいの差がありそうに見える。遡上高38mばかりの最高点とは隔たりすぎてよく見えない。
津波の碑はあちこちに
八戸に合併した階上(はしかみ)では浜ごとに3箇所で見た。気仙沼に合併している唐桑では、8箇所に立つと聞いた。朝に晩にそれを見て育つから、地震だとあの高さへ登るとすぐ思い浮かぶということだった。海の見える岬風のところが多いが、駅前の大きな観光案内図板の下の欄に標語が小学校名で書かれていたりもするし、郵便局の壁に線で示されていたり、あらゆるところといってもいい。津波避難路の表示も、新しいのもあるが、前からのものも多い。ただ、これは集落によって多いか少ないか大差があるようだ。国道や県道には岬部分を登って乗り越し浜へ下るそのつど、ここから・ここまで津波浸水想定地帯の標識が立っている。だが、大きく失われた街中でどうだったかは分からなかった。これらの存在と被害の相関関係を誰か調べているだろうか。民衆の知恵といった中に、どこにどう残っているのだろうか。防災学というような部門が多くの大学にあるようだがぜひ追求してほしい。三陸ではないある地で、多数付けられた表示板が、いつの間にかかなりなくなっていた、という話を聞いた。地価に影響するからだという言い方も聞いた。売る方だけのことなのだろうか。こういうことと防災意識との矛盾をどうすべきだろうか。
先人の知恵とは?
普代村に黒崎というちょっとした出っ張りのような岬がある。岩壁の景観のいい先端部は観光地になっているが、その直前の傾斜した平地に黒崎の集落がある。ここが実は普代で最古の集落であるという。古代の遺物もかなり出ているらしい。この地が選択された理由を聞いてみたが、住みやすいのだろうとか、海のものは出て行けば拾えるから海辺に住まなくてもいいのだろうとか、木の実や畑のそばが獣対策にいいのだろうとかいった推理的な答えしか得られなかった。間隔数百とか千とかの年数を考えると、先人の知恵という先人とはどの時代をいうのだろうとも思った。
海の見えない暮らし
黒崎にしても、姉吉にしても、集落からは海は見えない、潮騒も聞こえない。船は、台車に乗せて車で動かすのだそうだ。今はそうでも、車のなかった頃はどうしていたのだろう。海近くに船用の小さな置き場を作っているところもあちこちで見た。漁港とは別の船溜まりを持つところもある。高い防潮堤で海が遮られる問題は尋ねにくいが、やっと人を選んで2・3聞いてみると、海の見えない浜ということは必ず大きな問題になり賛否分かれる、という点はそろっていた。
それにしても、大規模堤防ができてかなりの年月経っているところと、低い堤防しかないところと、今回の津波で何か違いはなかったのだろうか。日常海を見ているのと見ていないのとでは、いち早くといった感覚に違いがありそうに思ってしまうのだが。
2マイル先
青森岩手県境に階上岳という700mばかりの山があって、車で登れるらしいので、雨の中行ってみたが、雨とガスで何も見えず逃げて帰った。翌日晴れたので、また遠くなって時間のかかるのを押して行ってみた。八戸がかすんで見えたが、海岸の様子はこんな遠望ではさっぱりだった。その後、南に下って普代村と田野畑の境に海から2kmもない七つ森という300m足らずのを地図で見つけて、折りよく庭仕事をしていた人に道を尋ねたところが、この家の周りも熊がうろついているぐらいで、森の中は危なくて仕様がない、と止められた。前日雨の中で出会った鹿が逃げようともしなかったのを思い出していたら、それに、ここの海岸は断崖で、登ったとしても2マイル先の海面しか見えないさと言われた。日常の日本語の中で、マイルという言葉を始めて聞いた。確かマイルは2種類あったはず。1km半ぐらいのと、2kmに近いのと、どっちが舟用の海里だったっけ。たぶんこの人は漁師で、ノットと海里を使いつけているんだ。でも一人乗りの船外機の舟ではノットなんて使いそうもないと考えると、でかい遠洋漁船の乗り組だったのかな。それとも浜の漁師たちはマイルで距離を見ているのかな。
小谷鳥 1 津波は南から来た
船越半島の南北背中合わせにある大浦港と小谷鳥(こやどり)海岸の漁港、山越えでつなぐ道もあって、連続して比較できた。北側の山田湾に面した大浦は大きな港で、手ひどくやられている。外洋に南面した小谷鳥は流された家の土台はあるが、穏やかな過疎の漁村に見えた。海水浴場のような砂浜が広く、片側に漁港がある。その境に浜から沖へ伸びる直線の防波堤が沖のほうは倒れていても手前部分はかなりきちんとある。この南側に開けた浜は大したことなかったのかと眺めていたが、どうも腑に落ちない何かがあった。何が気になるのかとしばらく歩き回って考えていたら、このちゃんと残っている防波堤の陸側が切り取られたように無いことに気づいた。切れ目が余りにきれいで、一見崩れたように見えないのだ。陸の岩につながらない造り方は余り見たこと無い。これはと見直すと、砂に埋もれているコンクリートの三角の角が僅かに見える。これが流された防波堤基部の残骸だろうか。うろついていると、やってきた人が丘に上げてある船の手入れを始めた。余り忙しそうでもないので、声を掛けてみた。ずいぶん長く相手をしてもらって、いろいろなことが分かった。感激の大きな順に3つに分ける。
第一は、津波の向きだった。地震ですぐに舟は沖に逃げた。直に外洋だから、すぐに逃げられる。岸近くなった津波は乗り切れないのだ。時間的にもよかった。夜中だったら全滅だ。大槌や釜石のような大きな湾では出るのに時間がかかるから、逃げようともしない。だから全滅した。沖で津波は南から北へ幾重にも来た。陸に向かってきたのではない。津波の中でも波が立つ。3昼夜沖で耐えて、みな無事に戻った。だから、ここには、今でも船がある。
小谷鳥 2 津波は斜めに来た
津波はこの浜に正面からでなく、斜めに来た。右(西)側の山肌に沿って奥まで行き、渦を巻いたように、戻るときに逆側に寄って、残った家を引きさらっていった。祖父の代からの俺の家もそれで流れた。船着きの漁協のコンクリートの建物が集落の半分ほど奥まで流された。だが、引き波の方がものすごかった。その建物も、みんな海へ行ってしまった。ここには残骸はほとんどないのだ。7人流されて、1人うちのばあさんだけ藪に引っかかった残骸の下から見つかった。28戸の集落で、今3戸、この地に14代だという。
田野畑の津波石は今回その上を3m越えたそうだが、気仙沼の打ち上げられて今も残る船にしても、ここの話にしても、重量のあるものが運ばれたところと、遡上最高点は、距離的にはとんでもなく離れているものらしい。運んだ水の深さというか厚さは数mにしか過ぎないはずだが、その力は恐ろしい。
小谷鳥 3 防潮堤・防潮林跡形も無く、縄文の昔に
あそこの緑の堤防のようになっているのは、近くの町の残骸を去年運んできて、何もなくなったところに積み上げたのだ。向こうの山のところのコンクリが防潮堤の付け根の跡で、あそこから砂浜との間をずっとこの道のとこまでこの高さで続いていた。砂地に造ったものはだめだ。根元からさらわれる。全部海のどこまでか行ってしまった。あの木の株がいくつもあるのが防潮堤の内側の防潮林の跡で、根株いくつか残っている。大きな松がそろっているきれいな林だった。あそこにまた12mの堤防を造るのだそうだ。土地の持ち高で応分の金を出せというので仕方ない出すことにした。若い者に任すしかない。ふさがれると海がなくなる感じだ。それについては言ってやった。ここに住んではいかんと県に言われていて、どこならいいのかがまだ決まらないから、家も建てられない。堤防がさらわれた跡に、縄文時代だかのえらい古い塩作りのカマの跡が出て来た。すごい大切な価値があるようだが、金が無いからほっておくしかない。
乗り越した津波
八戸の港の外境のところに蕪島というのがあって、僅かに陸とつながっている。八戸漁港の船着きのビルで1階の天井近くまで浸かったそうで、このくびれは沈んだはずだと思って行ったのだが、波打ちの間隔100mないほどで、標高は3mあるかどうか、島も小さいから、ほとんど同時に来ただろうことは見ただけでわかった。
田老の北の真崎の浜の右に先へ回りこめる道が続いていた。浜側はゆるい斜面のキャンプ場で車の道が鞍部まで付いている。上ってみると、岬風の付け根の鞍部で、向こう側が断崖になっている。幅は目測200mほど、海からの高さ30mぐらいだろうか。明らかに波は乗っ越している。鞍部から3mほど上の斜面の引きちぎられた木の幹の残りは向こう側を向いて倒れている。鞍部より上の引き波が南へ出たのは確かだ。が、どっちから先に来たかは定めがたい。居住地から見通せないこんなところの波の来方を見ていた人がいればさらわれているに違いないのだろう。
船越半島の付け根は、幅1km半ほどの広い長い平らだ。中央部でも5mまでの高さはないようだ。ほぼ全面が瓦礫置き場になっていて重機が動いている。昭和の大津波で全て流れて、その後は町有地で公園になっていたそうだ。両方からの波がぶつかったときにしぶきが大きく上がったのを見た人がいるらしいが、どちらがどうのとまではわからなかった。町側の一角にある天文台のドームの上を波が越したそうだ。人の視線は町へ向くのは当然で、こんなはずれの地が飲み込まれていく終始を見ている人はいるわけもないのだった。
防潮堤は越えられなければ強い?
青森の県境の階上(はしかみ)灯台のある台地が13.5mと表示してあった。もちろん無傷。この南側種市の海沿いの道は高い防潮堤に延々と守られ、内側に所々にある家ごと何の影響もない。食堂の親父の話では、チリ津波の後に高くしてあったので助かったという。だが、田老でのような大きさの波だったらどうなのだろう。
普代村の大田名部港には珍しく古い漁船がぎっしり並び、防潮堤の内側の町並みは全くの平和状態。だが、堤外の港施設は傷み、堤体の外側面は修理工事中だった。北の久慈や野田で防潮堤が崩れていたのに、ここだけ津波の勢いが弱いはずはないから、防潮堤がしっかり作られていたと思われる。ここの防潮堤は、両側面の一部が幅10m余りの非常用の階段になっている。これなら大勢でも一気に越えられる。よく考えられていて、堤防の設計自体が十分に考えられているのだろうと思われた。ここの町並みは、狭い谷筋を一直線に上がっていく道路の両側に200mほどか階段状に並んでいる。町の古さから、昭和大津波の後に計画移転したと見た。
あちこちで壊れた堤防の中で、堤体が破断したものと、一部がそっくりさらわれたものとがある。基礎が岩盤に据えられていたか、砂地に重さ頼りに載せていたかの違いだろう。人工物が如何に重くても、無限に近い水の重さ圧力に敵うわけがない。
地盤沈下 1.7m?
あちこちで船着きを波が洗っていたり、田畑に水が溜まっていたりする。造成された港湾だと、基礎の工事の問題が絡むが、明らかに全体に沈んでいるところも多い。あちこちで尋ねたうちで、沈下の程度でもっとも大きな数は1.7mだった。緊急工事的に岸壁だけとか、道路だけとかのかさ上げをしているのをいたるところで見た。とてつもない広さのかさ上げを始めているところもあった。その一方で、何もしていないところもあるが、これは決まらないから手をつけられないのだろう。復旧・復興ということは何を元にどう判断するのがいいか、誰がどうやって決めればいいのだろう。拙速ということ自体も問われるだろう。
合併やった○○は許せない
合併せずによかったという声と、合併してとてもやりきれないという声を聞いた。許せないといった優しい言葉でなく、具体的に激しい言葉も出た。○○と当時の首相の名をはっきり言われて、そうだったと、責任者を再認識させられた。大きな市ということになると中心部になおさら集中する。われわれのことは市の数十分の一だとか、元の村でいれば今一致してやっていられたとか、そして情けないという。
取り残された悩み
隣の屁の音が聞こえる暮らしを24時間、毎日毎日で、はじめて密集した暮らしをしなければならない人は、神経が参っていると聞かされた。一方で、多くが流された小集落に1・2戸残って孤立状態になっている大変さもあると聞いた。老齢化がそこに加わっているとも。被災者集合住宅で暮らすと出身集落ごとにまとまる傾向が強いので、少数集落の人が孤立し勝ちだという悩みもあるという。少数者の問題は、行政もメディアも取り上げてくれない。ボランティアも来ないそうだ。隅まで見る人は始めてだ、知ってくれるだけでいいから、帰ったらまわりに話してくれといわれた。
あちこちで工事をしている。港湾・漁港関係と道路、防波堤が多く、大規模なものが多い。公か大企業の発注で、大手が受けているだろうと思われる。地元の雇用がそれにうまく入れているのか尋ねると、かなり難しいようだ。単純作業の日雇い的な口はあるようだが、長期ではない。宿に泊まって現場に通っている人たちは、資格を持った専門家や熟練専門工だという。秋田・山形などからが多いらしい。急に横から入れる仕事ではない。早い者勝ちで、熟練工を先に契約されて、遅く計画が決まったところは人手不足で進まないらしい。今は、手に職を持つということがこういう形になっている。
孤立気味になった状態で周りの工事の様子を見ると取り残された気持が強くなる、ということはとてもよくわかる。
県によって違う?
岩手から宮城に越えると、何か空気が違う。第一に、宿がとりにくい。岩手はすんなりいったのだが、宮城に通える範囲からきつくなる。仕事の人以外はお断りと、何軒でも言われた。それだけ宮城の復興工事が盛んだということだろう。被災地への観光を遠慮しないでくれと、PRはしているが、現地の実情はこうなっている。旅の連中が何人もその苦情を言っていた。電話を掛けまくって、2つの市を越してやっとここで泊まれたという人にも会った。
岩手は復興計画がまだ決まっていないところが多いようだ。遅れるほど熟練工を集められず、さらに遅れている面もあるかもしれない。宮城に先手を取られたということになるのか。被災関係統計表の集計中といった記入などを見ると、仕事が遅いのかじっくり慎重丁寧に見極めているのか考えてしまう。早いことが宮城に最終的によいのか。拙速の両面を考えてしまう。
勘にしか過ぎないが、乱暴な言い方をすると、宮城は拙速でも困った人たちを速く何とかしようとしているらしい。それに対して、岩手は国家百年ではなく地方千年の計を時間がかかっても立てようとしているのではなかろうか。
一本松
津波以外は目をつぶるという偏頗な旅を初めてやっている身としては、前回も無視した一本松に寄る積もりはなかったが、気が変わった。明日伐るというニュースがくり返し流れるのを聞いているうちに、どういう具合なのか、人の動きを見ようという気になった。できればその場の声を聞きたい。三陸沿岸の最主要道のR45に奇跡の一本松という標示が出ていて、駐車場も指示されていて、そこから2kmほど大回りに歩かされる。R45から見えているのだが、歩いてみた。途切れることのない人の列だ。暑い中を歩かされる割には、人々は無駄話をしながら、単なる野次馬でしかない。どういうわけか、根元までは寄れないように止められて、ケイタイのカメラを向けるだけ。この人寄せしながら近づかせない処置と1億5千万かけてシンボルとして保存ということには、違和感しか持てない。以前の様子を知っているらしい人が声高に当時の、といっても津波後の様子をしゃべっていた。枯れた一本松が、かつての松林の列を示すように、飛び飛びに3本見えた。
宿で一人旅3人でこの話が出た。それぞれが聞きかじった話を出し合うと、1億5千万かけて枯れ木を保存してどうなのだというのが地元を含めて人々の最大公約数、その金で旧松林までいかなくとも植林したらというのがその次のまとめ、ということで全くそのとおり異議はない。宿の人もそうだと遠慮がちに言う。ここも第一次避難所で、当時はあふれかえったそうだ。
この同宿の一人は、定年退職後はじめて1ヶ月の大旅行で北海道から22日目という。三陸を1日で走っているのに、かなり的確な見方をしている。48年広島生まれで、大卒後他所に出て原爆記念館を聞かれ初めてそういうものがあるのだと知ったと、信じられないようなことを自慢げに言う男だった。人はさまざまだと思わざるを得なかった。
目的の達成率
①について、震源から直に来ると考えた方向性については、どうやら確からしいとはわかったが、確定まではいかない。各地の沖合いでの目撃談を集めなければ分からないだろう。南北の湾での違いはちょっと見に行ったぐらいで分かるものではない、ということが分かった。
②③④については、もっと場所を探せば、何か分かるかもしれないとは思う。が、見ていた人に会える可能性は小さいだろう。候補地をしっかり見極めた上で、多勢で聞き込みのフィールドワークをやるか一人で長期に腰を据えるかだろう。結果についてはあまり期待できそうもない。
④の地形については、前回から考えながらも、しっかり手に入れなかった海底地形図を、きちんと現地で照合して見なければならないだろう。特に隣を比べあうことは、海底から陸上までを通した地形としてやれば、ずいぶん見えてくるのではないかと、前回より強く思った。
人工物については、防潮堤の破壊断面を見て分かる構造からしても、かなりの違いがある。コンクリート厚さや側面の傾斜角度ぐらいしか見えないのだが、据えた基礎との合致など、設計・許可基準などの法的問題と実態としての施工法、予算や絡む人物などなど、素人が見ただけでは、疑心暗鬼でしかない。
⑤⑥については、碑に限らず、多くの知恵が伝えられ生かされているらしいことがわかった。いつの時代からどう伝わってきているのか、伝承や遺物を、民俗の面からもっと知りたい。つくづく普代村はすばらしい。
新たに分かったこと 考え直したこと 1 人が語るということ
現地の軽い被災の人が重い被災について語るとき、関心が薄くやや冷淡と感じたと、前回ここにも書いてしまったのだが、大変な間違いだったと、やっとわかった。そういう面がないではないようだが、もっと別の面に、情けないことにやっと気づかされた。流された人もいるのに、無事な自分らがあれこれ大変だなどと言えない、という慎みが口を重くしているのだ。この旅の直前、国語平和の研究集録第8集を刊行した。そこで浅田次郎の『蝉の声』の分析を提起したのだが、その論議の中で、語らない戦争体験者について重いやり取りをした。それがこの理解につながった。あさはかな奴だと自省する。
新たに分かったこと 考え直したこと 2 海底地形図
津波に関して海底地形図を基にした論議がなぜ盛んにならないのか、今回も地理的側面で付きまとった感想だった。水際が浅いか深いか、水際から沖までの海底の傾斜、島・岩礁などの妨波力、やや沖に設置したテトラポッドの効果、などなどに関わる分析をぜひ知りたいと思った。陸の地形だけ見ていて分かるものではない。
津波は駆け上がるという跡をなんとか目で見られたかと思う。前回は近くで見たかったのだろう、波の痕跡は平行しているように感じていたが、今回確かに奥が上がっていると見えた。トランシット(今はセオドライトというらしい)の簡易型などというものがあるのかどうか知らないが、あればいいなと思った。手持ちだって、傾きぐらい検知して差だけ出すことは簡単そうに思うのだが。10cmぐらいまで分かる高度計は安く手に入らないものか。見ただけでは余りに取り止めがない。
新たに分かったこと 考え直したこと 3 他のいくつか
防潮堤のすぐ前や向こう、つまり陸側にも海側にも、深い水溜りの掘れている所がある。内側は寄せ波が堤防を越えるとき高みから落ちる力で抉り取ったものだろうし、外側は引き波が堤防を越えるときに海のほうが既に引いていて、落差ができて、同じように落ちる力で抉ったものだろうと思った。だが、同じように堤防が残り、舗装されていない地面であっても、変化のないところもある。これはなぜなのだろう。前回考えた防潮堤の内側に堀があればいいということは、間違ってはいないようだが、そのプールは広さばかりでなく、かなりの深さも必要らしい。
八戸の船着きでは、水は静かにやって来たと言うが、水の力は恐ろしく強かったとも言った。静かな水なら浸水ですむと考えていたことは間違っていた。力の問題が大きい。海では波は水の上下動だが、陸に上がった波は水という不定形物体の横移動だ。速さの問題もあるが、水という重い物体が摩擦抵抗少なく、形を自由に変えながら、横向きに力を発揮する。浮力も持つ。場所により下向きにも上向きにも圧力を加える。地形や障害物によって、力の方向がさまざまに変わる。そういう流れの様子を想像して見るようになった。
津波の大きさとか強さというものを何を尺度で測るのか、改めて疑問になる。高さといっても、水平に高まったのではないらしいという点からすると、どこの高さで測ればいいのだろう。遡上高も、地形や防潮堤などの人工物と、水辺を越える段階での波の高さ速さとの関係で大きく変わりそうだ。大田名部港では、波高10mを越す津波が来て遡上高ゼロということになるのだろうか。あるいはこういう数字にすることが防潮ということなのだろうか。
陸前高田は、他と違うと感じた。何しろ平らが広い。20m30mの高さまで逃げるのは、どちらに向いても遠い。はるかかなたの周囲に緑の丘が見える。その丘はなだらかで低いのだが、ただ緑であって、家らしきものはまるで見えない。他の市街は、周囲のかなり高いところまで斜面に家が見えた。ここは平地が広いから斜面にまで住むことは必要なかったのだろうか。被害が特に多かったわけだと思った。一つの場所の災害の対策ということは、よほど地域の特徴をつかむ必要がある。そこに住むものと、用事でそこにいるものと、人の側からの対応の仕方も、考えるべきなのだろう。旅の途中ならどうするのだろう。
暑さに参った
この夏は汗疹に苦しめられてなるべくおとなしくしていたのを、やっと涼しくなりそうだと、東北の北なのだからと、期待していったのに、現地の人も嘆く暑さが続いて、全く参った。その上、ほんとに情けないことに、緊張を持続できないわが身に成り果てていることを、否応なしに突きつけられる。午後も3時ぐらいになると、目もかすみ、メモを取るのもつい忘れる。冷房をかけると、外にでるのに決心が要るから、冷房は一切かけずにまわったが、汗疹は増えるばかりだった。帰っても暑く、この文も煮詰められていないが拙速で出してしまうことになった。また行くことになるだろうが、今度はどういう形で行くのがいいだろうか。
九州
いつまでこういう旅を続けられるだろうかとまたまた考えながら、3週間の車の旅をした。ここ数年、どうも九州が気になって通い続けているが、年越しで天草・熊本を2週間ばかり回った時、次の旅で九州本土はそろそろ締めくくりになるかなと、先が見えてきた感じになった。それで、残ったところをつなげて辿ることにしたのだった。阿蘇から五家荘・五木、人吉、霧島、都城、飫肥、西都原、椎葉、祖母、九住。九州の内側にゆがんだ輪を描いて回ることになった。西都原に丸一日かけるため宮崎に2泊する以外は、海近くを通らないプランになった。これまで島や海岸沿いが多かったので、自然にこうなったのだが、山地ばかりだと印象がどう違うのかという興味もあった。テントも持っていったが、天気具合もおもしろくなく、とにかく寒いので、結局一度も使わないことになった。こういう点でも、一歩引けている。
海と山での違いは余り感じられなかった。考えてみると、九州島の横幅は、そんなに大きくないのだから、道路のよくなった今では、共通してしまうのだ。縦の道はよくなかった。特に椎葉の国道R265の南からの100kmばかりは、豪雨だったこともあって、くたびれはてた。地元でも、町道より悪いと言われていると聞かされた。合計5時間ほどのこの道で出会った車は3台だけだった。
どこもすいていた。季節的にまだ花にも早いということがあったが、どこでも客が減ってどうもならんという状態だった。特に外国人客ががた減りだという。九州なのにと聞けば、3.11というより原発事故で日本は危険度の高い地域というランク付けになっているらしいという宿の主人もいた。チェルノブイリで当てはめれば、日本全域危険地帯に入る広さだと考えるのも当然だろうという。福島は気の毒だと思ってしまう浅はかさへの指摘でもあった。地元の人と話すとき、原発をなくすにはどうするかという話題も多く出た。人々の認識は満一周年を経て鋭くなっているようだ。
今回は新しく熊襲・隼人ということを考えさせられた。郷土館や歴史資料館といったものがあると寄ってみることにしているのだが、ちょっと寄ってみた都城の歴史資料館で暇そうに掃除していた人に話を聞き始めたらおもしろくなって、長いこと話し込んだ。嘱託でここを管理をしているということだったが、詳しさからするとどうやら高校の社会科の先生といった人らしい。西都原になぜ古墳が集中しているのか、古墳は大和系勢力のものだが西都原に都と同時期に同型のものがあるのは直結していた証ではないか、といったことから、蝦夷に対する東北の柵や城戸のような、大隅の勢力との対抗拠点ではなかったか、大隅・薩摩にあった勢力とは熊襲なのか隼人なのか、熊襲という名は自称ではないから記紀にだけ出てくる蔑称ではないか、九州南部で西海岸より東岸が開けたのなぜか、大陸との関係や航路の状況はどうだったのか、朝鮮型山城の分布と重なっていないか、大和勢力とは朝鮮系勢力ではないのか。きりなく続き、きりなくおもしろかった。
霧島に行くために安い宿を探して高千穂に寄ることになり、その翌日が大降りになってしまった。3ヶ月前に来ているから暇つぶしを兼ねて雨の中だが町の郷土館を訪ねあてた。展示の仕方がなんとも不親切で、事柄だけで説明がない。ひとつだけどうしても聞きたいものがあって、学芸員がいるか尋ねたら、出てきて不機嫌に変な質問はするなとばかりの態度。だがしゃべり始めると、徐々に調子が出てきてこういうことああいうこと止めどがなくなり、こちらの聞きたいことへ切り替えさせようと口を挟む間をつかめないほど、まあおもしろいことはおもしろいから相槌を打っていたら3時間経って逃げ出すことになった。この話といい、展示といい、自分の好きなことだけ熱中する歴史オタクといったところだった。宿に帰って、これこれの人に話を聞いたといったら、○○さんに掴まったのですかお気の毒にと笑われた。尋ねたかった品物は、当の本人が、自作を参考までにと謎掛けのように説明なしで並べておいたのだというふざけた話だった。
雨でずれたが、新燃岳の噴火規制の通行止めで霧島付近が取りやめになったので、予備日がそのまま残り、ラストが暇つぶしのような放浪になった。久しぶりに別府の地獄巡りをしたり、2度行っているはずだが記憶が朧な中津に寄ったりした。
中津城の入場料金表には、普通の料金のほか市民割引・市民年間登城手形というのがあり、もう一つ「旧奥平家中津藩士の子孫の方」というのがあって通年入城無料となっていた。改めて見直すと、表示の頭には、紋章があって「徳川御連枝 奥平家居城 中津城 入城料」となっていた。シルバー割引は77歳以上とあった。新しい掲示板だった。城の神社の社前間近には砲弾を立てた日露戦役碑が明治三八年建立とそのままあって、ここでは東京のような戦後の取り払い令がなかったのだろうか。
青井阿蘇神社には平成14年に立てたりっぱな教育勅語の碑があり、石垣造りの古びた国旗掲揚塔がそびえて道を迂回させていた。宮崎神宮では門の横に皇紀二千六百七十二年と示されていた。神話の国というキャッチコピーの観光パンフもあり、高千穂の峰に天孫降臨を観光の目玉にしているには違いないが、ちょっと違うようにも感じた。寺社の由緒書きなどには、ここにはこれこれの神話伝説があるというものもあったが、何々の命(みこと)がどうこうしてと史的事実説明の書き方も多かった。国語教科書には、小学校から昔話と混ぜ込んで神話が登場している。意味など分からなくても馴染んで親しめばいいのだといった調子だが、それこそが危ない刷り込みだと、思わざるを得ない。源氏物語から始まった現代からの古代文献読み直しの動きは、神話にも及んできていて、ずいぶんおもしろく目から鱗的だが、一方にこういう世界があるのだということなのだ。
思い出したことがあった。広間に一人寝て飾ってある焼け焦げた獅子頭に睨まれている怖さの夜を含む情景だ。50年近く前、遠野から一日がかりの峠越えをして早池峰山麓岳集落に泊まった。遠野の町なかもひっそりと沈んでいて、あちこちの曲屋も路傍の石仏も草に埋もれているだけだった。30年ほど前に行ったときは、街中にも道端にもわらしの絵や民話の一節が掲げられていて、それはそれなりにかわいいかと思ったが、かつて泊まった御師の家はサッシも新しい民宿になっていて泊まる気もなくなり、そのまま山で野宿したのだった。民話と神話の違いなのだろうか、支配権力が絡むかどうかなのだろうか。去年冬の初めに徒歩とレンタサイクルで回った飛鳥・橿原は、まさに権力の地といっていいだろうが、こういった感じは持たなかった。
往路の五木、復路の椎葉が、この旅の中心になりそうだった。整備された主要な道路は1本しかないし、市街に出るには確かに距離的に遠くて不便であるのだが、それだけでしかなかった。本州の山深くと変わらない。隔たったとか閉ざされたとかいう期待は先入観から来る物でしかないのだった。そういったことを感じられるのは、もう島しかないのだろう。そんなことを思ったことで、九州の旅はもう終わりだという初めの気持ちがすっかり入れ替わった。この後の九州の旅は、島を探して訪ねることになりそうだ。20ぐらいは行ったけれど、まだまだ100やそこらはあるだろうから、行くのも大変だが、それだけに探り甲斐もありそうだと元気が出た。
だが、その前にもう一つ、どうしても東北が、というより津波が気になって、早く行かなければという焦りに似たものが、この九州をまとめて考えさせない。残る時間は少なすぎる。(12.4.23起)
田老から相馬まで辿って ② ――災害被災――
津波の地理的なことを知りたくて、東北東岸をなるべく海岸線伝いに辿るつもりで行った。ゆっくりじっくりをいつも信条にしているのだが、どうしても5月末の1週間しか時間がなくて、被災地のごく限られた僅かな部分になった。①の自然地理的なことをのぞいて、強く感じたのは、現代の被災の複雑さだった。あれこれ考えがまとまらなくて、何度も書き直しているが、急いで区切らなければ他に移れないので、一区切りつける。
なにもなくなった被災現地にはじめて立ったとき、残っている家々の土台跡を見て、とたんに感じたのは、焼け跡になってしまった我が家の67年前の光景だった。あちこちに風呂場のタイルと便器だけ目立つ。しばらくじっとしていて、何かが違うと感じた。ずっと探して水道が立っていないのだった。なぜだろう。今は水道は壁に組み込まれている、今は水道管が鉄や鉛でなく塩ビになっている、いや家ごと引っ張られたのだから引き千切られたのだ。もう一つ、あの時は、焼けたぼろトタンで防空壕の穴を囲っただけの「家」が所々にあり、継ぎはぎの国民服やもんぺ姿がどこでも見られた。今は、工作機械とその横の作業服姿と、たまに普通の買い物姿だ。
東北道はえらく空いていたのに、一般道で被災地に近づくとやたらに混んできた。被災地域の国道など大きい道路では、時間によっては信号待ちがあるほどだった。大型トラックが多い。歩く人の姿は少ない。あちこちに作業機械と車があって、作業服姿の人がいる。
3.11以後、何回もの旅をしたがほとんどどこでも宿はがら空きだった。ここ被災地では大勢泊まっている。だから、宿も何軒目かでやっと泊まれる。テント持参だったが、人の話を聞けるのはやっぱり宿だ。もう何年も客足は減るばかりだったらしいから、久しぶりの大賑わいであるようだ。みな作業のグループでの人たちだ。食堂でしか一緒にならないが、さっさと食べて朝は早い、話し込むこともできない。もっとも2食付数千円の安い宿だからかもしれない。万以上の高いほうは流れている情報通りに客足半減なのだろうか。
3箇所だけ近づいた観光地は、浄土ヶ浜は空いていたが、塩釜神社と松島は混んでいた。駐車場は空いているようだったから、ほとんどバス旅行なのだろう。田老では、バスで来ていた現地ガイド付きの一団に出会ったが、何を見たのだろうというほどで帰っていったのだった。
集落のほとんどが失われた浜の町や大半が被災した小都市では、食堂探しにおおいに苦労した。なるべく現地に金を落とす、といっても財布の問題も好みもある。一膳飯屋か普通の食堂を探すのだが、チェーン店しかない。独立店ではラーメン屋を見かけるのだが、毎度はちょっと困る。急造の商店街といったところも、食堂まではない。
津波の地理的な面を第一の目的で行ったわけだから、傾斜地に目がいく。土台だけになっているその数m上の隣家はいくらかの傷はあっても、ごく普通に暮らしているように見える。カメラがちょうどその境の高さになるような場所を探してあちこち動きながら、その境の差の僅かさ、地形の影響の微妙さに驚かされる。木造家屋でも天井まで水が来なければ浮き上がらず流されない、と教えられたことがあった。60年余り前に疎開先で、裏の天井沢の決壊で溢水に見舞われ、床に迫る水におびえていたとき、孤立した母子に握り飯を持って集落の男たちがこれ以上は増水しないと励ましにきてくれたのだった。流されるか床上浸水で済むかの差は、数十cmなのだということが、ここでは眼に見える。
被災者はどこかで短期長期の避難生活をしているためだろうが、失われた家の住民の姿は当然見かけない。見かけるのは直接被災の大変ではないらしい人たちの姿であるわけで、一見した程度だからか普段と変わらないように見える。被災した人たちはどこでどうしているのだろうかと思い巡らす。子どもたち・働き手・年寄り。新たな定住生活に入った人・被災臨時移住の人たち。それぞれの割合はどうなのだろう。流れているさまざまな数字も、現実のさまざまな姿を映してくれない。
何度か避難住宅地に出会った。狭そうだが何人暮らしかも分からないからなんともいえない。長屋作りもやむをえないだろう。だが、なんといっても、敷地が狭すぎる。広々と緑が広がる中に、窮屈に押し込められている。せめて倍の広さなら、干し物をくぐらなくても出入りできるだろうに、と思う。物置をつくっている家もあったが、それも限られた区画の中でしか許されていないように見えた。
かつて人口の大半が農家だった頃には、大家族でもあり広い家で多人数が住み、数人増えても住めることが多かったし、納屋を臨時の住まいにもできた。今人口の大半は勤め人になって、核家族だけの便利な今風新建築に住んでいる。農家も住み替えた家が多い。親類・知人の家に厄介に、とはならない。厄介になれるほどの親しさも、現代の核家族では得られない、ということも当然あるのだろう。
戻れるのかと考えるのだろうか、戻るかと考えるのだろうか。人間が1日以上生きるには、食と住の問題が付いて回る。数日や数ヶ月でなく先の人生長く食べて住むということは生計を立てることで、それは職業に就くこととほとんど同義だ。仕事の目当てがたってはじめて住むことを考える順になりそうだ。が、地付きで育った場合でもそうだろうか。先祖伝来の土地に生まれ育って、捨てられない情意は浅いものではない。過疎化の現実も、出稼ぎで定住する例も、多く見聞きしているはずだが、他(ひと)と己(おのれ)とは違う。また、仕事としての農・農地なり漁・漁場なり業種・会社なりの見通しを、個・私より先に考えなければならない面もあろう。遠い先よりも来年とか5年先10年先に生活がどうなるか考えなければならないところに、われわれはみな立たされている。ぼくも生きているうちに年金が減ることを予想しなかったわけだし、老人ホームに入る金が退職金より高くなるはずでもなかった。
こういうことは、中学生以上成人までの、進路問題・生活設計とほとんどといっていいほど重なる。3.11以後の中学生以上がこういった眼を持たないとか持たせられないなら、日常性のぬるま湯に溺れて甘えている(子どもも大人も)のだと、あらためて考えもした。3.11は、われわれ全てに「泰平の眠り」を覚めさせた。多くの論調がそれを示している。ここで何かが変われば、多くの失われた命への追悼にもなろうか。この一年の間に考えはしてきていたが、家がなくなった跡地とそのすぐ隣の平常といえそうな生活の様子とを、一目の中に見てしまって、どうしても考えざるを得なかった。
かつての焼け跡では、みんなだった、全部だった。それでも田舎に再疎開して、みんな貧しい中でそれほど目立たないはずでも、さらにひ弱な貧しげな様子と見えるのか、たちまち知らない者からでも疎開っ子と呼ばれた。その内側にある差別意識は、閉鎖的だった共同体的集団のよそ者扱いだと、そう単純に言えるだろうか。疎開もんだった人と、今もそんな話になることがある。被災生活の人たちは今、何とか普通の姿に見えるように気を配っていることだろう。継ぎはぎはもちろん、だぶだぶも着られないだろう。他所ごとでしかない会話に笑顔をつくって見せなければならない時もあるだろう。取り巻く外側は、変わらぬ平常の生活なのだ。
島の噴火での避難は、全島ぐるみであり、地域性を保つ工夫もかなりされたと聞くが、それでも帰れた人は少なかったようだ。今回も地域性の問題は論議はされていても、多くのところでうまくいっていないようだ。伝統文化といったことでなく、生活の問題として、漁に出たとか山仕事にはいったとかの人が日暮れに帰ったかどうか気にする人がいなくては漁村山村の暮らしは成り立たないだろう。日常品の店が近くにない生活は、冷蔵庫や車があっても、長年続けるには大変だ。病院・医療も特に老齢化の条件も加えて大きい。
全国各地の過疎化が似たようなことの中で進んできたが、いわばその地域等しくであった。今ここで起きている状態は、その地域の中、同じ自治体の中での差が大きすぎる。特に、合併の嵐で事情が厄介になっていると思う。小さかったときなら、1村ほとんど同状態になって、対処に村全て一致団結できたろうが、広い被災地でさえ今は広域化した市や町の一部でしかない。泊まれる宿のあったあたりでは、被害の様子を聞くと、この辺はそれほどではなかったが、浜のほうは大変だった、といった答えが何回か返ってきた。被災への援助も、自治体内の一部地域への予算となってしまう。だからといって損害の大きさは自治体でカバーできるものではない。さらに、貧しさへ傾斜した経済という構図が全体を覆っている。
今多くの工事などは復興と名乗っているが、その興はいつ時点の栄への復興なのだろう。被災地は、過疎化しシャッター通りになっていたところがほとんどだろう。あちこちに立つ復興工事の看板には同一建設企業名が記されている。つまり大企業で、地元の中小ではないようだ。まして流された、資金もない小会社ではない。それら建設大企業の下請けの何々組現場の道案内板があちこちに立っている。その下請けか孫受けの現場に、遠くから作業員が来ている。大忙しの安宿に、その人たちに混じって泊まって、永続就業を見つけられない被災者のことを考えた。予算保障のもとで、時間がかかっても、自分たちの手で納得のいく工事を進める、そういうことで立ち直るというようにならないものだろうか。
初め、遠くに避難した人にしか保障はされないということでやむなく出た人たちが多かったらしい。地域によっては留まった人にも補償されるようになったとも聞いたが、そうなった時には既に他所で居つき始めていてさらには動けなくなっていたとも聞いた。緩やかな日常性で動く官僚組織の援助・対策の遅さ・粗さが、災害被災の一刻一刻に揺れる暮らしを翻弄している。おらんとこの床まで波が来て恐ろしかったという2つ年下の人の話を聞いた。岬ふうにやや出っ張った所に2軒だけ残ったらしいが、田畑も家財も流されたのに見舞金がきただけだといっていた。流されて死んだ兄夫婦や姉のことを考えると何もいえないとも。
現代日本では、売買などの財産価値では木造建築の耐用年数は20年ばかりとなっている。それでも税金だけは築何十年でも取られるのは実に不思議に思うのだが。かつて祖父母が苗を植えて父母が育てその木を伐って子か孫が家を建て替える、というサイクルが農山村の常識だったと聞く。材と建て方と手入れがよければ、現代でも百年は十分保つようだが、当然金がかかる。安く、20数年の耐用でも、人は家を建てる。当然数百年スパンの津波の前には建て替えになる。その際、先行きの災害の危険性はどの程度の問題意識になるのだろう。地震・津波のスパンは永い。竜巻・洪水他にしても確率は低い。次の災害までは大丈夫、たぶん来ないと、運任せで済んでしまう確率は高い。人生30年は、寿命が80年でも通用する数え方で、30歳から60歳が人生だといわれると納得するしかない感じもある。100年3世代前である曽祖父母8人の名を言えるだろうか、祖父母4人ならどうか。名でなく経歴・性格ならどうか。彼らやもっと前の世代が受けた災害は伝説でしか伝えられない。その悲惨さ・恐ろしさの実感はどれだけ伝えられるだろうか。
大川小の悲劇についてはいろいろいわれているが、そのなかで、すぐ裏に山があるのに何でそこに向かわなかったか、ということにぼくも最も疑問を持っていた。登れるような山ではないと、現地を見て言っている人もいた。確かに裏山はすぐそばだった。藪に覆われ、かなりの傾斜でもあった。が、登れないとは見えなかった。藪をつかめるから、足を滑らせることもなさそうに見えた。子どもは大人よりはるかに身軽で達者なはずだ。逃げたといわれる道は遠回りだが、平らで歩きやすそうだった。通学路という決まりのことを思い出した。危ないところに入ってはいけないという注意も。藪山には、蛇も蜂も毛虫もいるという注意もありそうだ。だが、それより、教師が自然にどれだけ親しんでいたのか、道のない藪山に登るということをできる、そう考えられるような経験があったのか、ということを知りたい。津波の映像を見たときにも、逃げる人たちが畑や宅地をまっすぐ突っ切らずに、道をまわって走るもどかしさがあったことを思い出した。山の裾を上へでなく遠くへ横に走ってもいた。人々はいつから道でなければ歩けなくなってしまったのだろう、命がけというときにでも。3月は藪が薄く見通しもかなり効いて、肌を出さない服を着ていて、藪くぐりには最も適した時期だったのにとため息が出た。
天災は、必ず人災である部分を持つ。災害には、予想・想定の下で個人的・社会的に対策が立てられる。その対策を越えた部分が災害となる。個人的な部分は、俺が馬鹿だったと、天災と諦める形で自己内部に押し込めるのが普通だろう。それ以外の部分が問題になる。対策を立案する・させられる者がいて、それを認める者がいて、予算が付いて、実行する者がいる。それら各段階に相談・支援・協力・共同する者がいる。そこには給与・予算・便宜・名誉といろいろ付いている。
避難計画の内容・訓練は教育委員会の責任か、校長責任か。第1避難所となっている校庭から他に避難して行くにはその場の担当者の判断が許されていたかどうかの責任はどこにあるのか。第一避難所からさらに遠くへの避難訓練を実施したという話も聞かない。山村でも、山菜取りに藪をくぐる子どもは見かけない。これは各家庭の子育てという範疇に入るのだろうから、責任問題は出てこないだろうが、それでいいものだろうか。
この問題は、もっと広く考える必要があるとも考えた。ある中学の生徒たちがいったん避難して、それでも危険だとさらに逃げるとき、幼い子どもたちを助けて共に逃げ切ったという話が、美談的に伝えられた。広い谷間の一本道で、終着はその峠といったところだったらしい。遠くてへとへとになったががんばったということだった。谷間が広くても横の山肌のほうがはるかに早く簡単そうに見えるが、とそのとき思っていた。
車で逃げる映像でも、近くに斜面が見えているのに横方向に道路を走っている。水のある田んぼでは走れないだろうが、畑なら、3月の乾いた凍っているかもしれない乾田なら、車で突っ切れるだろうに。東北の車は乗用車もほとんど4WDだろうに。スタックしたらそこから足で走ればいい。斜面はすぐそばなのだ。30mという高さが分からないのだろうか。津波の最大の高さを知らないのだろうか。車をもったいなくて捨てられないのだろうか。車内という安全そうな空間に頼るのだろうか。車のほうが速いとか安全だとか思うからに違いないが、それはどこへ行くのに速い・安全なのか。自分がいきなりその場面になったら、いったいどうするだろうと考えてしまう。
田老から相馬まで辿って ① ――津波について再度の疑問――
1 津波とは何か、未だに模式図的に解明されていないのではないか
第1波の後、第2波第3波までに時間があれば、第1波の引き波が始まって、第2波が来たときにどこかでぶつかり合って、ある程度の力の相殺が起きたはずではないか。1・2波の間が普通の波のようにいったん大きく底を打つか、その間隔が相当開いているかすれば、このことはかならず起きそうだ。それを示す痕跡はどんなものか、どこかにそれらしきものが見つからないか、かなり探したつもりだが見つからなかった。見つけられなかっただけなのか、それとも第2波がなかったのか、それを今疑問にしている。第1波のあとに浜に下りたという話もあるとか聞くのだが、打ち上げられて陸上を漂って海に戻った多くの船のうちにまた上がったのもあるというふうには聞かない。陸の騒ぎをよそに海のどこかで寄せ波と引き波のぶつかり合いがあって、第2波は相殺されて陸まで来なかったのだろうか。
3.11時点ではよくわかるのが見つからなかった津波の模式図は、現在ではとても進歩してよくなっていて、しかもすぐ見つかる。だが、よくわかるのは第1波の先頭部分とその後に続く上昇した海面の様子だけで、第2波との間や第2波の形などにはどれも触れていない。通常の波の場合、波頭と波底はあきらかで、その中間あたりが水準面と考えてよさそうに思う。3.11津波の場合、第1波が延々と続いただけなのか、第2波との間が底がないに等しいほど僅かにくぼんでいただけなのか、あるいは第2波が第1波に追いついて重なるか同一化したのか。(こういうときでも第2波と呼ぶか、スピードの違う波が起きるのか)第2波があるのかないのか、どれだけ離れているのか、どれだけの強さか、などということは津波によって違うことはもちろんだが、模式図とはそこを超えて描かれなくてはならないはずだ。そういう眼で動画を見直すと、第1波の高まった海面をさらに高める段・波が追って近づいているようにも見える。船からの映像では、第1波を乗りこえる頂点があって次に下っているようにも思えるのだが、どうなっているのだろう。
2 津波の破壊力
堤防がどう壊れたとか、建物がどれだけ流されたかということは、被害の大きさではあっても、津波の力・強さと同じではない。津波は速度が速いという。被害側から見れば打撃力、重さ掛ける速さだ。重さは水量で津波の水量は膨大だが、ゆっくり動けば打撃は小さい。大堤防をかなり遠くの海中に作ればいいはずだ。そうでなければ、堤防の内側に速さを殺すプール・滝壺を作れば、水はかなり静かに広がり深まるということになりそうだ。流されるのでなく、浸水被害となる。もちろん、寄せる速さでの攻撃は強いし、浮き上がってしまえば流れるしかない。この点で期待していたのは浄土ヶ浜だった。浄土ヶ浜は自然の大理石の防波堤が海に突き出して、浜は囲い込まれている。あれを波は乗り越えたかと行ってみたら、確かに一部低い部分を越えたようで、観光遊歩道の一部が壊れていた。だが、ほかに浜は何事もなく穏やかで、奇跡的に残ったという観光船が客を呼び込んでいた。
田老の古いほうの堤防は2つとも水門(河口のも通行用も)を含めてまったく無傷だった。北側を囲い込むようにに新設された堤防がほぼ全壊状態になっている。残骸が外側にあり、手すりなどが外側に倒れているから、引き波の力によることは明らかだ。新堤防が壊れたのは、コンクリートの薄い皮を被せ中に泥土のあんこを詰めただけの安い造りが弱かったからだ。それは見て驚く薄っぺらなつくりだ。古いほうは、たぶん完全コンクリートなのだろうが、堤体の中を知ることはできなかった。堤防が残って内側が全滅に近い状態は他地区でもいくつもあった。
どこで見ても、周囲の斜面は、樹林が倒れたり表土までも剥ぎ取られたりしたところがあったが、軟弱地質らしい崖の崩れはいくつかあったものの、岩壁が崩れたところは見なかった。岬になっているところも、もちろん何の変化も見えなかった。人工物では、港の繋船岸壁だけがしっかりあって、その手前の厚い舗装の広場や道路の下が空洞になって割れたり崩れたりしているところもあった。しっかり残った建物が、全体大きく傾いているのもある。浅い基礎の地面が流されて足をすくわれたようだ。並んだ建造物の中でも崩れたり傾いたものの隣にちゃんと残っているのもあった。基礎から本体全体のしっかりしたものは耐えたのだ。多くのところで、水門だけ残って堤防が流されていたが、設計や施工の基準か所管部署が違うのだろうか。
3 引き波の力
小さな川の岸の鉄柵が川中へ向けて折れ曲がっているのを見て気づかされてから、引き波の問題を今回は多く考えさせられた。斜面の樹林の下側が水平になくなっている境目に、倒れて残っているのは、必ず海側に向いてだ。崩れたり残ったりしている堤防の上や階段の手すりも、多くは海側に倒れ曲がっている。それにしても、この小さな川の河口の水門は開いていたのだろうか。水門はきちんと残っているのに、引く水が川に集中したということはどういうことなのだろうか。
寄せ波から引き波に変わるとき、つまり寄せきった水量の頂点で、どの高さまでだったか、何がどうなって(破壊)いたか、誰かが調べているだろうか。地元の人に聞いても分からなかった。きちんと残った堤防の、頑丈な通行用水門の何トンもの扉が半開きで外側へずれ曲がっているのを見つけた。締め切れなかった扉が寄せ波には耐えたが引き波でずれたのだと見た。完全に閉まっていたなら、他の多くの扉のように耐え切ったのではなかろうか。別の所では取り付け部からさらわれた扉もあった。
車や船や家が引き波で流れ出す映像から、あれはどういうところなのか、防波堤がある上を越えて流れ出したのか、今回その疑問を解こうとしたがどうもよくわからなかった。木造の建築が壊れたのは、寄せ波に当たられたり浮いたりしたのであって、引き波ではないと思うのだが、それも確かめられなかった。
歌津は海沿いの国道が流されて迂回させられるが、奥に入り込む谷間の山の中腹に駅が見える。駅への上り階段の手摺は山側に倒れているのに、高架になった路床の斜面に貼り付けた1m足らずの石垣風の石はそっくりそのままだ。ホームに上がると、線路床が半ば残っている。後ろの山側から路床のバラスと山肌の土ごと大きく抉り取られた崖崩れ状の傷口が無残だ。トンネルから出てすぐ川を鉄橋で渡り、山腹から半ば張り出したかたちで路床とホームがつながっていたようだ。その小さな川の奥まで水が満ちて、鉄橋ごと流し去ったと見えた。多分、残った貼り付け石あたりが水に洗われたかどうかという高さなのだろう。振り返って5階分ぐらい下の小さな町の跡とその向こうの海を見ると、ここ足元まで満ちた水という想像がはっきりする。一目で入り江の左右を囲む出っぱりが見えるから、水平に高さを追うこともなんとかできる。ただ写真一枚には入らない。海に残る国道の脚の残骸がどちら側にあるかは分からなかったが、建物の残骸を乗せての引き波で抵抗の強い路面部分が流されたのだろうと想像した。
4 津波が寄せる方向
津波は、海面下数mまでの動きである普通の波と違い、海底から海面までの全てが動くのだという。そこから考えて、普通の波のように岸に並行する形で寄せてくる(だから半島などの大きな張り出し部分では巨視的には波がぐるっと取り囲む形で寄せる)のでなく、震源から円を描いて広がりほぼ直進する、つまり放射線状の方向性を持っているのではなかろうか。だからチリからでさえ到達するのだろう。そしてたぶん外洋でのその方向を規制するのは海底の地形だろう。陸に近いと、陸から張り出した山・半島・岬の、要するに海山の山脈の方向と高さで規制されるのだろう。山である岬に切り分けられて谷である湾に入り込み、河岸段丘や沖積平地にできた市街地を侵す。津波という名は、津・湾に入って狭められることでさらに高まることから来た名だという。海に疎く海図というものを使ったことがないので、どれほど海中の地形が明らかになっているものか分からないが、日本全図では無理でも50万図ぐらいなら、震源が決まれば津波の方向は読めるのではなかろうか。こういう素人考えを現代科学は既に解いてくれているのだろうか。
海底地形と考えると、大陸側プレートの下に海側プレートがもぐりこむという地震原因について考えてしまう。3.11後その模式図が多く示された。だが、津波となると、一気に海面上陸地上のことになってしまう。海水という衣を取り去って、海底から山地まで統一した等高線を入れて、裸の地表の図で考えられないだろうか。
今回もいつものように眼にしたものから何が見えるかの無手勝流だったが、周囲の地形を自然地理的にも人文地理的にも見ようということだけは考えていた。陸の岬の先の海中にはその山脈・稜線がどう伸びているだろうかと想像してみたりした。浄土ヶ浜の自然堤防は東をさえぎり南は開いている。津波はその開口部から回り込んでくるのと、低い部分から乗りこえて入っただろうが、巨大化することはなかったと見えた。開口部の狭さと囲まれた内部の広さに救われただけだろうか。南にだけ開けている湾の姉吉へ行ってみたが広く浅い湾で、その奥の地上部の狭い谷間は被害も大きかった。湾自体が奥深く狭まる綾里(りょうり)へは、時間切れで回れなかった。もう少し時間を掛けて地図を検討して狙いを定めないとならないと反省した。宮古は湾口の東に開いた市街地のほうが、湾の西南に深く入った最奥の津軽石よりも高い位置まで水が来たように見えたが、精密なGPSか高度計ででもないと見ただけでは分からなかった。
松島は、通り道の筋に当たっていた上に、おおいに興味があった。姉吉はちょっとへこんでいるだけだが、松島は震源から直線的には影になる位置に大きく広く入り込んだ地形で、しかも岬や多くの島が防波堤より高く立ち並んでいる。観光の中心地は浸水後の修復がされたのかいつもと変わらない様子だ。五大橋を横正面に見る民家の裏に回りこんでみると、水面とそれほど違わない高さにある管理小屋が、壁にも何の汚れ痕もなく建っていて、草地にも何も感じられない。五大橋が立ち入り禁止だったから、無傷ではなかったのだろう。影響の少なさの主因が湾の地形か、島々の存在か、震源からの距離か、決めようがなかった。外洋に直接する島に行ってみたいものだ。仙台は市街地は内陸で海辺は田んぼだ。その田畑は地盤沈下なのか水浸しが多かった。平地だから、かなり奥まで浸水区域は広がっている。ほとんだが草ぼうぼうであるのは塩害で耕作できないのだろう。あちこちが水路や道路の修復、市街の残骸処理などの立ち入り禁止で近づけない。この仙台を浸した波はどういう向きできたのだろう。高さは震源から離れている分低いように思うが、もっと遠いフクシマ原発には驚くべき高さだったと数字では出ている。はて。
河口水門のそばの管理小屋のような建物がほとんど無傷で残っているのを見た。海岸林のそばのモルタル塗り2階建ての普通の民家が2軒並んで残っているのも見た。1階は窓などが傷んでいたが、住めそうなほどに見えた。見通せないほど低い堤防が先にあるのか見たいところだが、立ち入り禁止で浜には入れなかった。局地的な地形や障害物によって、巨大な津波の力もかなり変えられるようだ。これも誰か詳しく調べているのだろうか。
海岸林では倒れたり枯れたりしているのを見たが、その多くは松などの針葉樹だった。広葉樹は少ないようだった。倒伏したのは根張りの浅い樹種で、枯死しているのは海水の塩分の関係だろう。根張りは、深さや広がりもあるが、絡み合い、曲直という面も大きいのではないか。かつて、松の切り株を抜いては焚き木に使って暮らしていた数年の経験からは、松類は抜きやすかった。雑木は抜けず、腐った残りを拾うしかなかった。岩ではないところに植えられる海岸林であるから、これはもっと追究されていい。一本松は話題になったが、海には松というのはいつごろから「常識」になったのだろう。植物史植物生態史ではどうなっているのだろう。
何も解決していない福島(その3)「仮設」を「仮設」へ
5月4日、私たちは福島に実家があるA先生の紹介で相馬市の仮設住宅を見学させてもらった。A先生の叔父さんが仮設住宅に入っているのだ。人が生活している所を見学するなど、やってはいけないことだが、今回だけは仮設住宅の実際がどうなっているのかぜひ知りたかったため、無理を言ってお願いした。A先生の叔父さん夫妻と娘さんが暮らすという仮設住宅は2DK。息子さんは高校を卒業した10日後に津波で亡くなったという。辛い思いの中、私たちを快く受け入れて下さった叔父さんに感謝したい。入って右側の畳の部屋にその息子さんの仏壇があった。その隣のカーペットの部屋には炬燵とテレビが置いてあった。「狭い、とても狭い」それが一番に感じたことだ。ダイニングには、赤十字から送られてきたという冷蔵庫と洗濯機、電子レンジがあった。驚いたのは、壁の薄さだった。厚さ10センチほど。隣の家の音が聞こえてしまうため、午後6時以後はイヤホンでテレビを視聴するようにしているとか。これではプライバシーなど守られたものではない。小さい子がいる家庭はどういう生活になってしまうだろう。畳が最近入ったということで見せてもらったが、厚さ3センチほどの、昔でいえば畳とはいえないような物だった。また、断熱には「プチプチ」を使うように配られたとか。これで人間的な生活が送れるのだろうか?入り口に「玄関」が最近ついたが、それまではすぐに部屋で、靴を置く場所もなかったとか。
「家」とは、寝て、食事をするだけの空間ではない。憲法第25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「国は、すべての生活部面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定めている。どう見ても、この仮設住宅では健康で文化的な最低限度の生活を営めるとは思えない。仮設の「仮」とは、『新明解国語辞典』によれば「一時のまにあわせ」とある。その言葉通りの「一時のまにあわせ」にしてほしい。もう1年以上もこんな中で生活しているとは信じられないことだ。政治家、官僚、そして東電の皆さんはぜひこの仮設住宅の現状をしっかりと見に来るべきだ。そして、「健康で文化的な最低限度の生活が送られるよう」1日も早く対策を立てるべきだ。仮設に入ればもう解決したかのようなことがあってはならない。
何も解決していない福島(その2)なぜ避難勧奨にならない
私たちは翌日、福島市渡利地区(福島県庁から1~2キロの地区)に暮らす裏澤利夫さん(77)のお宅を訪ねました。裏澤さんのお宅から異常に高い放射線量が出たと聞いたからです。裏澤さんは予定があったのもかかわらず。私たちの訪問を快く受け入れ説明してくれました。私たちが持っていった線量計では、庭の空間線量が2マイクロシーベルト、かなり除染したという木の下でも7マイクロシーベルトありました。裏澤さんによると高いときは50マイクロシーベルトや70マイクロシーベルトの時もあったとか。これはもう想像を絶する異常な高さです(静岡の500倍~700倍の高さです)。福島原発から裏澤さん宅までは原発から60キロほど離れています。この距離で50を超えるというのは信じられない高さだし、ホットスポットの実態を実感した思いでした。裏澤さんは、この異常な放射線量のため息子さん夫妻とお孫さんを線量が低い親戚の家に避難させたということです。問題はそれだけではありません。この裏澤さんの庭は「特定避難勧奨地点」の指定基準を大幅に上回っていますが、福島市が消極的なためこの指定を受けられないままになっているのです。そのため、指定されれば受けられるはずの行政支援が何も受けられないということなのです。子どもや孫と切り離された生活を余儀なくされ、それに対して支援すら受けられない。裏澤さんの気持ちを察するとやりきれないものがありますし、行政の不備に怒りを感じます。原発爆発事故による放射線の拡散がいかに広範囲であったか、それは1年以上たった今でも何も解決していないのです。(つづく)
何も解決していない福島(その1)異常な放射線量
連休後半を使い岩辺さんや静岡の仲間と共に福島に行ってきました。今回の福島行きは1年以上経過した福島がどうなっているのか、その実際を知りたいという思いからでした。2日半で580キロを走破するという強行軍でしたが、行って見て本当によかったと痛感しました。福島は何も解決していない、むしろ問題が絡み合い、複雑になっている、その現実は知らなければならないと感じた旅でした。また、福島の現実を見て、1年以上たっても補償すらしない東電や政府の姿勢に怒りを感じました。
私たちが何を見てきたか、それを問題ごとに簡単に報告したいと思います。
5月4日、昼前に福島入りした私たちは、レンタカーで相馬市に向かいました。その途中、昼食のために霊山(れいぜん)の「こだま」という食堂に入りました。この霊山は福島原発から直線距離で約50キロ。問題は方向が北西のため、かなりの放射能被害を受けたところです。店をやっていたのは70歳を超える人のいいおじいさんとおばあさん。造ってくれたうどんを食べながら話を聞きました。「原発事故がある前は娘と店をやっていた。この上に『こびとと学びのミュージアム』があるため、客もたくさん来ていた。でも爆発によって客はほとんどなくなってしまった。放射線量も高くて、娘と孫は福島市へ避難した。裏山ではわらびなど山菜が取れたが、今では誰も入らない。」と話してくれました。私たちが店の外の側溝で放射線量を測ったところ、7マイクロシーベルト。静岡市では0.1ぐらいですから70倍の高線量です。とても子どもや若者が住める所ではありません。高い放射線量が子どもさんやお孫さんとの生活を破壊してしまったと言えます。でも次の日、私たちはもっと高い放射線を経験することになるのです。(つづく)
断層
高千穂峡でちらっと疑問が頭を掠めた。眺めていたのは、圧倒的な柱状節理の両岸の壁とみごとな多くの甌穴だった。3ヶ月前に初めて見たときに圧倒された。今もその感覚はあるが、さすがにいくらか変わっていた。柱状節理の並びと変わり目のおもしろさへの賛嘆から疑問へという変化だったようだ。両岸は100mほど切り立った節理の壁が続く。立っている段は、幅が数十mのゆるく起伏した磨かれた段だ。その足元に大小の甌穴があちこちに掘られている。そしてさらにその足元の深い隙間の下に水面が光っている。5mほどに迫る壁の間の30mほどの深さが、一つだけある観光用の橋からのぞける。疑問は、初めのときにもあったようだが、水はなぜここを流れ削ったかということだった。そしてまた、水という柔軟な液体が、だが強い力で、これだけ深く鋭く掘り込むにはどれだけの時間がかかっているのだろう、何千年か何万年か、と思ったりした。
4.26朝日朝刊の「シェールガス採掘地震誘発? 米中部M3超が急増」を読んで、敦賀原発直下の古断層が活断層になる可能性を保安院が24日に出したことと重なった(4.25朝日朝刊「敦賀原発直下活断層か」)。前者は廃水を地下に捨てたことが断層を動かして地震を誘発したらしいということで、後者は大きな断層が動くと近くの小さな動かないはずの断層が連動するということだ。そこで、断層とは何か、活断層とは何か、どういう断層がどこにどれだけあるのか、と考えざるを得ない。だが、答えは調べなくても明らかだろうと思った。そんなこと誰にも分からない、地球上隈なく、限りなく深く調べるなんてことありえない。科学というのは、当面わかっていることで組み立てているものだ。全地域どこでも、原発の下にも、必ず断層はあり、それがいつどう動くか分からないのだ。
山を歩き旅をして来た中で、地面というものには眼を向けてきた。地層が露出したところでは足を止めてみてきた。一続きの地層は、一続きであって、必ず切れる。一続きに見える中でも変化しているところもある。1km以上続く高千穂峡の柱状節理の壁も、縦横斜め、あるいは曲がりくねって重なって続いている。溶岩が流れ冷えまた被さり合い圧し合いを繰り返したのだろう。だが、素人目にも断層と見えるところも多い。冷える途中も、固まってからも、振動が地震がひびを入らせ続けて来たのだろう。そもそも水が断層という軟らかい弱点を削って流れてこの峡谷を見せたのだろう。
3.11直後は原発事故情報が津波を軸に流されたが、地震・揺れ・破壊にまとまってきているのは、衆知といえるのではなかろうか。
教育実習の打ち切りが…
実習初日から教壇にたちました。指導教師の授業を参観することなく、いきなり授業となりました。しかし、これは彼女もがんばって授業をやり、しっかりやりました。二日目も同様でした。三日目・四日目は数日後に控えた体育祭と文化祭の準備で授業はなくて、高校二年生のホームルームにつきました。生徒との接触も密になり、三日目は多くの生徒と下校しながらたくさん話をしました。その話によると「校長先生の指示で、先生が担当をはずされたりして、イライラしている」「校長の講話の時間は体育館で、いろいろな教師の失敗談、降格、免職の話をするので嫌な気分だ」などと言っていました。
次の4日めの放課後に文化祭の準備で放課後に教室で数名の生徒が作業をしていました。ある生徒がふざけっこをしていて追いかけっこをはじめ、教室に鍵をかけてしまいました。彼女が「やることをやってね」と声をかけると「先生は来ないで」と言って校長室に走って行きました。その後、指導教師が「生徒が校長に直接文句を言ったようです。学年会をするので来てください」と言われました。そこでは、校長の指示だとして事実確認のあと、「君は生意気だ、担任と意見があわない、教師にはならないのか、人の気持ちがわかるはずだ」などと言われ「明日からは前面にでないで、指導の先生の後ろについているように」ということでこの日は終わりました。
次の5日目の朝、顧問理事から呼ばれ、校長室で「今日で教育実習は打ち切りです。明日から来なくていいです。すぐにお帰りください」と言われました。二年の教室に行き、生徒に謝罪すると生徒からは「先生、謝らなくていいんだよ」という声があちこちからあがりました。その時すぐに指導教師がきて「上からの指示で、門を出るまで見届けるように言われている」と言い、連れ戻され、門までついて校外に出されました。
この学校は昨年赴任してきた校長がワンマンでベテランの教師がどんどんやめているようです。彼女が去年お願いしに行って実習をひきうけることになったベテラン教師は今年実際実習に行ったら辞めていました。校長は若い教師を登用し、「生徒にはなめられないように。生徒の意見は聞くな。指示・命令が大事」などと言っていました。子どものためにがんばろうという教師が辞めていっています。
実習生の落ち度でないのに、簡単に「実習の途中打ち切り」をするなどあるのでしょうか。
