金の問題 根の一つ
前に続けて、金のことだ。実は、これを載せたくて前のを載せたということだ。金のことをあれこれと考え詰めてきて、3つの焦点があると思うようになった。一つはヴァーチャル化する元凶の不兌換紙幣という貨幣制。二つめは、投機で動く問題。3つめが、借金ということだ。一番大きいのは、不兌換紙幣だと思う。1と2は前ので考えを書いた。
かつて借金ということは、特別なものだった。かつて、というのはいつ頃までかというと、70年頃までとざっと感じている。ぼくの親族にも借金の連帯保証人になって、えらい苦労をした話がいくつかあった。つまり世の中が現金主義だった。その現金にも、兌換不能つまり政権への信用という担保にならない担保しかない紙幣経済というヴァーチャルな危険があると思っていることについては前で書いたので、こう繰り返しておくだけにする。
高利貸しということばが死語にされて、何とやらバンクというだましことばに置き換えられたことがよく表していると思う。その高利貸しに、大手市中銀行という信用の象徴といった権威を持つものが、資金を融通して稼いでいるという実体が明らかになってからもかなりの時間が経つ。高利の上限への法規制も、けっきょく例外だらけで実効性を持てない、つまりザル法であるようだ。そういう人様の金を弄ぶ(もてあそぶ)存在に翻弄されて、カードで便利にお買い物社会となっている。多重債務を解決しますという車内広告がやたらに目に付くが、どう考えても首つりの足を引っ張りますと読める。だが、その高利ででも今日一日の資金繰りに金が必要なのだという例を身近に聞いてしまうと、大変ですねとおざなりを言うしかない、無力だ。
30年間の賃貸料の総額より30年賦の持ち家の方がやすい、という計算で持ち家を買っている若い人が、ぼくの周囲にかなりいる。家を持つなどということは人生一代で一回という大仕事と思うのだが、現金主義でなければどうってこと無いのだろうか。払い続ける総額は、現在価格の倍額を超える契約なのにだ。30年間での自分の総収入が必ずその額を超す保証もないのにだ。30年間縛られるということは、かつての身売り前借とどう違うのだろう。かつては人に縛られ、今は金に縛られる構図に見える。
30年後に貨幣価値が上がっているのか下がっているのか、その予想の確実性を裏打ちとして持たなければ、いいとも悪いとも言えないことだ。が、若い人たちは、当面でいいともはっきり言う。遠い将来の予想を放棄せざるを得ない中で生きている。それに対して言うことばを持てない。
国家経済が借金を基盤に置いている。日本は常識的な数字でいえば破産状態なのだといわれてから久しいが、改善どころかますます借金は嵩んでいるという。これも前のに書いたが、忠義一徹の明治男の親父が買っていた戦時国債が敗戦で紙屑になって、それから我が家の貧乏が始まったのだった。かつて徳川政権が、その長期政権の途中で何度か借金を棒引きにして凌いだ。ということを歴史の授業では詳しくは教えられなかったが、いろんな本を読む中でわかってきた。明治維新というのも、各大名や徳川家や幕府やらが、いいチャンスとばかり借金を踏み倒して成立したらしい。今の日本の借金は、誰がかぶるのだろう。政権が革命的に倒されるのでなければ、将来の国民がかぶるという筋書きになるしかない。これは単純明快な筋書きだから、誰でもわかっていることだろう。それを考えるのは、考えても出口が見えそうもないから、揃って見ない振りをしているということなのだろうか。
有料老人ホームに入るには何千万とかかかるそうで、入ってここは駄目だとなっても金は戻らない仕組みだそうだ。どだいその前提の金がないからぼく自身入れるところを探してもいないが、ではどうするかとなると、なるようになるさと、考えないことにして日を過ごすしかない。日本と日本人はやっぱりそっくり同じなのだ。
金の問題を考え始めたのは、憤りからだった。今、やたらに空しい思いがある。先が見えない。
金のリアリズム
知りたいことは世の中にいっぱいあるが、その中でも、経済をめぐる問題が多い。そこからすると、経済はこれからの社会形成には必須の知識や理解だろうと思う。子どもの基礎学力として考えると、経済学の基礎は必須だと思う。さらにそれに関わる基礎として数学特に統計がまた必須となると思う。内容として何を基礎とするかももちろん問題だ。経済学といったとき、今、例えば大学の公開講座とか、市民大学といった講座には、謳い文句で見れば、中学や高校ではやらない面白そうなものもあるが、どうも重箱の隅といった感じもする。もっと普通の人の身の回りが、全体として経済の目から明らかになるようなものを期待したい。
今いくつもある疑問の一つは、株や投資だ。株価や市況の大幅乱高下の仕組みはどうなっているのか、その中心になるヘッジファンドなどのさらに中心になるのは、どんな個人で、どのぐらい儲けていて、その儲けはどう使われているのか。このヘッジファンドも最近は名が出て来なくなったようだ。風当たりが強くなって影を潜めたか、風を当てないように情報操作され始めたか。
端的にいえば、株価を乱高下させるという操作を通して、誰のところに利益を集めているのか。アメリカのサブ何とやらの仕組みは、ずっと前の日本にもあったことだそうだが(朝日08・6・4経済気象台)、元手要らずに儲けるということができてしまって、その後始末だけが多くの組織や人にかぶさる。途方もない額の儲けには多少の元手は問題にならない、要するに無から有を掴むわけだ。一過性で、その当人たちがまたその後路頭に迷うような失敗をするといった行く末なら、人間の悲喜劇と見ておいていいのだろう。が、そういったことの裏で、実は常に仕掛けて儲けている存在はないのだろうか。
NHKが日に何度も株や為替や商品市況などの変動を伝えるようになってずいぶんになっているが、この報道でどういう個人・どういう層が動くのだろうか。公共放送という公共とは誰なのだろう。個人向け国債が推奨され、しょっちゅう出てすぐ完売になるが、買っているのは果たして個人なのだろうか。個人名義が動いているだけで、儲けの到着点は特定の誰かではないのか。日本は貯金大国といわれ、その預金を株式や債券に変えさせようと、躍起になっている。急騰だの暴落だのというニュースがあっても、総体において、買っている持っている人は確かにいるらしい。そのことと、格差拡大の問題の中で出てくる数は少なく額は大きい高所得者という数字と、どう繋がっているのか掴めないのがもどかしい。
ヘッジファンドや投資銀行のトップがどれだけ得ているのか、個人名とボーナスの額を示した記事を切り抜いてあるが、それは数人の名とボーナスだけで、給与総額や人数もわからなかった。その個人の収入が、そのボーナス以外にどれだけあるか、そういう人物がどれだけいるか。調べることができるものかわからないが、推定でも知りたいものだ。
物々交換から貨幣経済に移り、貨幣が紙幣になった。その紙幣が、兌換から不兌換に変わったところが大問題ではないかと思っている。物という実感の世界から、貨幣という中間的な価値に置き換えるということで、一つの大きな認識変化はあったはず。そしてもっとずっと大きいのは、何とも入れ替えられながら、実は物質価値的な何とも交換できない不兌換紙幣の社会になったとき、世の中が一気にバーチャル化したということではないか。家計も世の中も日銀券という紙を信じることで成り立っている。その信は、政府というものへの信ということになりそうだ。だが、時の権力により、貨幣や債権などというものがごみに変えられた事例はいくらもあった。かつて親父が、たぶん国策信奉の忠義心からだろう、熱心に買っていた戦時国債というものは敗戦後すぐ紙屑になった。そこから我が家の苦労が始まったというお袋の愚痴を思い出す。そういうことでなくても、この世に金というものがどれだけあるのかさえ、普通にはわからない(実は誰もわからない)。そういう不思議な世界になっている。いろいろな発表・情報の額・数字の裏づけを取れる仕組みがあるのだろうか。
一人が一銀行に一千万円以上預けても、以上部分は元金も保証しないという制度が、数年前につくられた。これも、銀行救済策である上に預金減らしの一環なのだろう。そのとき、1千万円という額を考えてなるほどと思ったことがあった。どうも、これは超財産家対象ではなさそうだ。たぶん銀行に預金などというけちな方法で預ける「中流」向けなのだろう。確か銀行への融資などについての制約には触れていなかった。法律でも、融資は預金などと違って処理され、たぶん優遇されるようになっていそうだ。銀行に預かってもらうものと、銀行に貸してやるものと、天地の差がつけられている。
投機の売り買いの度に税金をかければ、今のおかしな状態をずっと減らせるという政策提言があるということを知った。それで、逆に驚いた。ものを買えば消費税を取られる。銀行預金から、退教に会費千円を送ったりすると、かなりの手数料を取られる。役所で証明を取ったりしてもかなり取られる。役所は何のためにあるんだといいたくなる。そんな今、税制というものは、投機にはずいぶんと甘く優遇しているのだ。つまり政策として投機を守り立て、預金ではなく投資だといっている。その博打に近い相場の渦を盛り上げさせて、その渦から吸い上げているものは誰なのだろう。
何かを作る、それを必要な誰かが買う、製造と販売。その売り買いの間に、また別の仲立ちの人物が入る、商業。そこまでは単純明快だ。だが、仲立ちの仲立ち、それも卸と小売ではなく、回して利ざやを稼いだり、買い溜めて高値に吊り上げたり、さらにそれらに使う金を貸したり、つまり市況の操作や投機が入ってくると、わけがわからなくなる。わけがわからない人が多いと好都合な人がいるから、わかりやすくしないのではないか。
計画経済というほどでなく自由ではあっても、物の生産・製造と消費・使用との間を、単純な流れ、収支の見える状態にできないものだろうかととても思う。競争に生き残るサバイバルということが言われ、一方で金余りの金が流れてと言う。サバイバルは、正社員と言う厄介を減らすためや、労賃の単価切り下げの口実に過ぎないという説に納得する。一方で、大きそうな大丈夫そうな企業がつぶれたりして路頭に迷う人が現実に生まれる。そのつぶれた事件で、損をしなかったり逆に儲けたりしているものが存在するはずだが、その名も金額も明らかにならない。儲けた者がいるはずだというのは、損があるのだから、収支の釣り合いから考えて、確実なのにだ。
株というのは、何かするのに必要な金を寄せ合う方策だが、そこで止められないのはなぜだろう。株主になるのは、その何かする何かに関わる者だけという単純化はできないだろうか、何かには関係なく金にだけ関係する者が悪の根源だろう。つまり、問題の根源は投機だということにどうしてもならざるを得ない。投機というのは、得と損の渦に金を巻き込んで、どこかに得が集中していく仕組みなのだろうと思える。損をせずにすり抜ける、あるいはたまに損をして見せるかも知れないが、結局は大きく儲ける、そしてそれが守られる、そういう法的な仕組みも伴っているのだろう。
法人という名を使うと別人格となるのだが、その法人を動かす個人、それも役職についているかどうかとは別に、名札をつけられない金額という形で動かす個人の名を明らかにする仕組みを作れば、かなりはっきりすると思う。法人の構成員が個人名で投機に加わるのは、金融や報道関係の場合は規制があるようだが、そうではない企業社員やまったくの個人なら自由なのだろう。今どんな業種であれ、大きな企業なら株式市況などと利害関係なしではないだろう。その企業の構成員が投機に加わることは、厳密に考えれば、おかしいのではないか。自社株のインサイダー取引規制などは、そこに関わる。自社株ばかりでなく、株すべてをこれで規制すると、取引できる人数は激減するはずだ。最も真正面から考えると、特別の事情の証明がない限り、買った株は何年以内に売ってはいけないとすればよさそうだ。株を、その本来の性格に戻せば、何か仕事をするための金なのだから、1年や2年あるいはずっと持っていることが当然なのだ。そうすればコンピューターで一瞬にという現今の投機はできなくなり、おまけに実質は仕事をしていない危ない企業も淘汰される。トウシロウの論議だけれど、構造改革とは、こういう構造を論議することではないのか。
個人の人権として、個人情報秘匿の権利は大きな意味がある。だが、何十億・何百億、はては何兆といった金額は、些細な個人・法人財産なのだろうか。靖国をめぐっての、公人・私人論があるように、金額をめぐっての公私の論が立っていい。金融資本主義という言葉が確立しているのかどうか知らないが、今の発達した資本主義の中心は金融資本と考えられているようだ。ぼくの感覚では、金融でなく投機といいたい。誰の何億が、どれだけの銀行や一般企業名義などを経由して、どこで働いたか、知る権利があるといえないのだろうか。損得の収支からいって、そこから多くの人が不利益を受けるのだから。
こういうことが考えられる「わかる経済学」が社会科の中に入ってくれないだろうか。中学段階でのそういう実践や説明文は既に出ていて、お前が不勉強で知らないだけだいうことなら、ぼくが恥をかくだけなのだが。経済学者という名で言われることのほとんどは、たちまちひっくり返るものだと思って白けて読んでいる。
このブログに3回載せた金をめぐる文は、PCの記録で見ると02年から飛び飛びに8回・8種の断片にしていたのを整理したものだ。それぞれを何回も直したり付け加えたりしているから、事柄に触れて考えた回数はずっと多い。今回捨てた部分もあるが、これだけ大騒ぎというほどになっているのに、元のままここにスライドした部分が多かった。つくづく思うのは、10年間余り変わっていないのだということだ。世の中がそうなのか、ぼく自身がそうなのか、難しいところだ。
変わったところは、スピードがさらに速くなったことだと思う。10年前にこういうことを気にしだしたのも、次々にいろいろなことが起こると感じたのがきっかけだったと覚えているが、それよりもさらに速くなっている。まるで近年のゲリラ豪雨のようだ。これは、IT化の進行によるのだろう。。1日24時間太陽の巡るにつれて各国の相場が開かれて変化していくのに、数字は電波に乗って時間無視で徘徊する。遊んでいる金を徘徊させている持ち主は誰か、突き止められないものだろうか。
これも、数字だけで動いているバーチャル化した金の故だと思う。少なくとも紙幣ででも目の前に積んで取引するなら、だましに対応する余裕もあるはずだ。そんな無茶を考えたくなる。現在の最も基本になってしまっている構造に対して何かができないものだろうか。今こそ糞リアリズムとぼくが言うと、近い人たちはまた始まったと見る。だが、やはり、この世の中がバーチャル化している今、リアリズムで考えようとどうしても言いたい。金のことで言えば、数・数字という抽象化は大切な認識だが、そこで生活・金という現実が捨象されてしまう。現実・具体の姿が捨てられては、人間の思考にならないのだ。何兆の負債の破産に何兆の税金をつぎ込んだというニュースは、それで何億円がこの人の懐に転げ込んだと、顔写真付きで報道されるという世界を夢見ている。
詩経
国語・平和サークルへの提案に必要で、久しぶりに詩経を読み直した。直接必要だったのは杜甫の詩「兵車行」だったが、図書館で本を探して読んだりしている途中で欲が出てきて、詩経に手を広げたくなった。訳や解釈の問題があるから、手にはいる3種を読み比べて、ついでにそれぞれの解説を読んだ。こういう基礎学習はやはり繰り返さなければならないと、しみじみ感じた。
20代中頃文学史の授業を構想して読んだのが、詩経をしっかり読んだ初めだった。その時から、古典や漢文を扱う中に、詩経の中の2・3編を必ず入れた。万葉の恋歌や防人歌と組み合わせて詩経の恋歌と防人歌を読むとか、奥の細道・漢詩を杜甫の春望で結ぶときに詩経の防人歌を入れるとか、日本の詩文への中国の関わりや、特に庶民の気持ちの共通性を扱った。中学では3年おきということが多いから、そのスパンで読み直し調べ直しをすればいいのだが、授業に成功していたりすると毎回の基礎学習からはどうも手が抜けてしまう。
詩経は、ホメロスより早く世界で最も古い詩集だ。さらに古い金文にも韻律はあるらしいが、そこまでは手を広げられないので、詩経を重視した。しかも、日本には直輸入されていたらしい。日本への仏教伝来と漢字伝来とはどちらが古いはずかとか、漢字が伝わったというその物はどんな品物なのかとか、中国への仏教伝来以前に中国には何教があったか、といったことをめぐっての生徒とのやりとりはたのしかった。
300余の詩編を、3000余の中から孔子が選んだということでぼくの知識は止まっていたが、今回は孔子が礼にかなうという視点から選び、他の易経・書経・礼記・春秋とともに並べたというのがやっと納得できてきた。詩経も国風以外はしっかり読んでいないのだが、雅・頌と3部立てであるわけも合わせておぼろながら理解した気持になれた。軍事力での攻防を背景にしながらも、異民族間で意を通じさせるための歌や決まり文句など、古い時代のやりとりを想像するのも面白い。孔子が詩経と合わせた五経を儒学の教科書に指定し、前漢が儒を国教に定めて以来、日本にはこの系統の詩経研究が伝わったはずだ。大学・中庸・論語・孟子の四書と併せて、四書五経は長い間日本知識階級の教科書だった。宋で朱子がその大変革をしたのだが、論語などは朱子に傾いたのだろうが、徳川が朱子学を国教としていながら、詩経の朱子の注(朱注・新注)の方は詩経の読みとして日本の中でどう変化したのか、よくわからない。ただ、現代の注釈本でも、古注ではとよく引かれていて、朱注は添え物のように感じる。詩経が全て歌われた「楽」でもあったことも、日本との関係で気になってきた。また宿題がいくつも増えてしまった感じでもあるが、もうそこまでやれるか心許ない。
ここまで綴って、ブログに載せるのを何となくぐずっていたら、書き加えることが出てきた。パソコンはデジタル化以前の古い方のことは苦手で、漢籍の厄介な字などでは総画検字でも見つからないなど、いつも苦労してきた。検索などやってもみなかったが、ちょっと考えを変えて検索してみたら、漢文世界でも新しい文章が個人HPなどいっぱい開かれていて、おおよそのことは図書館で探さなくても探れるようになっていた。ただ、困ったこともあって、引用の原典を記していないものが多いし、書き手が何者なのかもわからないページが多い。つまり信頼性にかなりの問題がある。何を調べればいいか、調べるときに何に注意するか、といった入り口の手がかりをもらうことに止まるようだ。苦労が減ったのかどうかもわからないが、まあよしとしよう。それにしても、本人の新規の説とはどうしても思えないのに、全くその典拠に言及せず、全く自説のようにしているのが多いのには呆れる。無記名イコール無責任が風潮となるのはどうしたら止められるだろうか。
北九州の旅で
年末年始の旅でいくつも考えたことがある。つまりいい旅だった。風物などを除き、学ぶ・考えるに触れることをまとめてみた。長すぎるのが気になるのだが分けるのも気に入らない。頭部分だけで、続きボタンがあった以前の形をやれるといいのだが、どうすればいいかわからない。それで、我慢してもらって、とばしたい人にはスライドする面倒をかけるが、1度に載せる。
あづち
この年末には雪はないだろうと、旅に出ることにした。年越しをどこにするかが、この時期の旅の勘所だ。大まかに九州、長い期間ではないから北部、中心は西と決めて、往復をどうするか迷った。車で通すのは、もうくたびれそうだ。年末は高速千円もない。料金計算をして、フェリーにした。それが、予約しようとしたら、休航が入ってしまうことがわかって、あわただしい出発を余儀なくされることになった。追い立てられながら、地図をにらんで、人が少なく宿はあるという難問と取り組んだ。平戸そのものも一部しか回っていないし、生月島もどうしても行ってみたい島だが、このあたりの島は次々に橋で結ばれているから開けてしまったかも知れない。前の九州行きの時に外して気になっていて、残っているうちでは大きいということもあり、平戸の北の大島に決めた。この島が大いに気になり出したのは、名前からだった。この大島は、的場(あるいは的山)という名が上についている。これが、何を見ていたときかアヅチと読むのだと知った。あづちは、まさに的場だから、そう読めなかったのは浅学のそしりを免れない。気になったのは、なぜあづちかということだ。もちろん姿形といった答えで満足はできない。弓の上手だといわれている信長が、安土城をなぜそう名付けたのかも気になっているのだが、岐山にちなんで岐阜と名付け天下布武を標榜した者としては、俺を標的にしろと全国を挑発したのかも知れないなどと思っている。そんな名がここにもあって、結果としては何もわからなかったが、今も気になっている。ついでに、あずちでは変換できずあづちで安土が出たから、的場の仮名遣いが今もづであると推測したというお粗末だった。
この大島の元村営今市営のフェリーが正月は欠航とまたまたわかって、民宿に連泊することになった。後でわかったのだが、もう一軒ある方に電話しなかったのは僥倖だったようで実質唯一だった。ネットで調べても、全国民宿案内の本を買っても、たいしたことはわからない。行き当たりばったりの旅のいいところでもあり、はずれると情けないことにもなる。築140年のこの宿は、食いきれないほどの種々の刺身も地元の料理も、大当たりだった。
大晦日の夜、どうせ明日はゆっくりと思ってのんびりした多くの時間を、TVにつかった。村、つまり島だけの放送チャンネルがある。時間で区切りながら、島の祭りを各集落ごとにかなりの時間を当てて集録してあったり、学校の運動会学芸会、総合学習の発表会など、村人ぐるみで、子どもの姿青年の姿大人の姿、膨大な量を流す。全ての中のどこにも自分はいないという村人がいるのだろうかと思ったほどだった。正月三日に成人式だそうで、島に帰って来ている若者たちに向けてということもあるのだということだった。この中では、悪くは育ちようがないと思った。村のほとんどが見ている学習発表会で手抜きをやる生徒はいないだろう。村の中で見ていると、子どもはのびのび辺り構わずにほって置かれているようだ。放任しながら見守るといった暖かさを感じた。教育という点からは、理想というか原型が見える。だが、ここの高校(分校)は間もなく廃校なのだそうだ。地元の子は本島へ行ってしまって、不登校などの都会の子を里親制度で受け入れて保ってきていたのだそうだ。いい成果を上げているのだが、どうしても自治体に金がないのだという。この宿も二人預かっているそうだ。
2泊となったことで、間の1日島中をくまなく回った。ガイド付きでだ。大晦日にほかに客もいないからと、家族の中に入ってしゃべっているうちに、先代当主の年寄りからかつての軍事施設の話が出て、見に行くと言ったら案内してやるということになったのだった。遠慮したのだが、どうもこの年寄りの位置が家族内でも不安定らしいことが感じられたので、一緒に行くことにした。電動車椅子が家の前にあったので足元を心配していたのだが、かなり達者で気にすることもなかった。むしろ、滅多に来ないところまで久しぶりに見て回れて喜んだようだ。強引に車で乗り入れたあたりは、始めて来たといっていた。用もなくなった年寄りは要するにほって置かれて暇をもてあましていて、気遣ってもらえる地位を確保するために電動車椅子を使っていると見えた。その夜おかみさんに見てきた感想と一緒にこの宿が大賑わいだった頃のことを聞いたと話したら、この先代が宿を潰しそうなことをやらかして、今もその尻ぬぐいに苦労しているという愚痴をあっけらかんと聞かされた。
老人部隊で若いのは将校だけという陸海3中隊が数だけ揃えて在島したという。三笠の艦砲もあったという砲台跡と
か、巨大望遠鏡の掩蔽壕とか、壱岐・対馬を見通すいくつかの台地を中心に藪に半ば隠れて今でも使えそうな頑丈なコンクリートが残っていた。飛行場を作るはずだったという平たい場所も見た。こんな名も知られない島にも戦争の傷跡が残っている。そして意外なほど規模が大きい。地理的にだろうが、秘密性で選ばれたのかとも思った。広くはもちろん、島の人もほとんど知らないというし、この宿の人もこの大正14年生まれの年寄りしか知らないと聞いた。案内板もなく、整備もされていないので、もう数年か後には、誰もわからなくなってしまいそうだ。長崎に関わっては、最近旧炭鉱の軍艦島が話題になるが、戦跡についてはあまり聞かない。長崎・佐世保という軍都・軍港を持ち、本州の西北という大陸に最も近い地理からも、もっともっと探られなければならないだろう。
猪
キャンプ場になっている岬の小屋前にタクシーがいて、どことやらの個人タクシー運転手のハンターが、十何年も通ってきているのだという。高麗雉を撃ちに来るのだが最近は猪が主になったらしい。近づくと芝生に妙な黒っぽい物が並んでいる。さらに近づくと、猪だ。小型のが4頭並べられていた。血抜きのためらしく、のど元に傷があって、斜面の下向きに頭を揃えている。押してみるとすでに固く、昨日かそれ以前の獲物らしい。戸口に鴨が1羽ぶら下でられている小屋の中にそのハンターが寝ていて、永い馴染みの年寄りが起こして話し始めた。それを脇で聞いているのも楽しい。呉れてやるから持ってけという。捌くのを嫌って、誰も受け取らないのだという。捨てていくと笑っていた。
島の至る所に猪出没とか、猪注意と立て札がある。泊まりを予約するときに、自転車で行くといったら、猪が出るから車で来いという。なんでそんな島に猪がいるのかと聞いたら、以前はいなかったが、海を渡ってきて、最近はしょっちゅう出てくるのだといっていたのが、どうやらほんとにほんとのことだった。その後の島でも猪に出会って、もちろん撃たれた奴だが、大橋を渡ってくるのかと聞いたら、海を渡ってくるといっていた。泳いでいるのを見たという人がいるそうだ。
それは3日後の生月島だが、ここも島中に立て札があって、神社への山歩きも薄気味悪かった。ここは宿取りに手こずってやむなく泊まった宿だったが、泊まりはもういないと言った夜中に騒がしいと思った朝、外に出てみると汚れたピックアップが目の前に止まっていて、なにやら動く物がいて、のぞくと狭い檻に犬が数頭押し込まれていた。猟の車かと見回すと、荷台の上に黒っぽい棒が数本突き立っていて、よくよく見ると猪の脚だった。2頭のかなりの大物で、後で聞くと100キロは軽く超えているということだった。横の駐車場の方にもう1台のピックアップが止めてあって、藪の近くで何人かがごたごたやっているので、近づいてみると、犬を押さえ込んで何かしている。のぞき込むと、猪にやられた犬の傷を縫い合わせているのだという。
口はガムテープで巻いて脚は2人ほどで押さえてはいたが、時々脚を震わせるほかは、針を立てられても騒がない。消毒薬を塗り込まれて解放されると、普通に歩いておとなしく檻に押し込まれた。檻には、よくよくすかしてみると、多くの犬が静かに押し込まれていた。三十数頭を積んでいるのだそうだ。もう1頭が出されて、こっちはもっと大怪我だという。肩2ヶ所と腋の下が大きく裂けていた。前の犬も似たところに傷を負っていた。腋の下が一番大きく20cmほどもあった。縫っている人は手慣れたもので、しゃべりながら、さっさと縫う。人間とは違って傷跡の見てくれなどかまわないにしても、縫合用の曲がった針を刺し羊の腸で作られているという糸を繋ぎ、実に手早い。やり方や道具は人間の場合とまったく同じだ。上側の前脚を押さえている女性が縫った結び目の上で糸を切る役をしている。手術用の薄いゴム手袋をして、針を挟む鉗子挟みを使って針を渡したり、これも手慣れている。もう一人の女性は、私は傷口見るのも怖いといって、近寄らない。2組の夫婦と男2人の一行らしい。聞くと、人間ならまず死ぬほどの怪我だという。また、犬は大怪我をしても、死ぬまでかかって行くともいう。そう訓練してあると、人ごとのようにあっさりしている。麻酔は、治りが確実に遅れるから使わないともいう。多く話してくれたのは、私は慣れていないのだといったやや若い男で、玄人らしい年のいった方は口数が少なかった。手術が終わると、道具を仕舞って、獣医かと思っていた男もさっさと乗り込んで、すぐに出発していった。あんな手術道具から化膿止めの抗生物質や消毒薬までを用意していることにも驚いた。彼らは都会の遊びのハンターではないのだ。ほんとのプロの猟師なのだ。
宗教・風俗
かくれきりしたんという言い方には注意しなければいけない、ということは知っていた。一般的には今も、そんなことは考えられもしていないのだが、ことは宗教であり、長い被差別のいわば怨念の歴史を背負った事柄である。生月島はかくれきりしたんの最も古い形が今に残るほぼ唯一の島といわれている。そのこともあってぜひ訪ねたいと思っていたのだ。明治以後のいわば復活キリシタンに対して、先祖そのままを大切にするいわば正統派隠れキリシタンの人たちがいるのだと理解していた。
殉教の跡が聖地として、今は観光地として残る場所は九州西半部に多い。それらのうちやそれらには入っていない、余り大きくない有名でもない寂れたというようなところを尋ねると、沖縄先島(八重山諸島)で見たおたき・うたきとの共通性を感じてしまう。八重山ではうたきとして観光地化した標示のあるところどころか、有名観光スポットの真新しい何かのすぐ横の数mの藪蔭にもそれはあったし、何もない道の横の茂みの中にもあって、至る所と言えるほどだった。足で歩いていたから見つけたのだった。それは、岩陰や木陰藪に囲まれた暗くひっそりとしたところにあった。それといっても、ちゃんとした祠を置いてあるのは少なく、石がいくつか置いてあったり、何もないただ空間であったりした。墓とは関わりなく別で、人の世界ではなく、神の世界であるらしかった。八百万の神ということはこういうことでもあるのかと思ったのだった。
そのうたき的な何かがずっと前からあって、それに殉教の事実か言い伝えが重なっているのではなかろうか、などと今回のいくつもの島では考えた。生月などではそれが残り、ほかでは信仰の薄れとともに消えていったのではないか。殉教ということが、よく言われるように見せしめの嬲り殺しだったとすれば、場所としては村に近く人の集まる所となりそうだ。公開では残酷すぎて上の者の評判もむしろ落ちるだろうからひっそりと人知れずという場合もあったかも知れない。どちらにしろ、当時の村落がどこに開けていたものやら、人口の多少も旅人にわからない。今開けているから当時も開けていたのか、今寂しいから当時も寂しい所だったか。生月で見た一つは、海辺の崖下のどう考えても人家とは近くなさそうだった。生月にしろ八重山にしろ見た限りのそういう所は、必ず、人の参った跡が認められた。まだ萎れきってない花を見た所もあったし、花器が貧弱だが置かれていた所もあった。花よりも榊(さかき)か樒(しきみ)と思える枯れた枝が多かった。土の様子からしばらく人が来たように見えなかった所は、数年のうちには藪に飲まれるのかも知れない。かくれきりしたんと呼ばれたかどうかは別として、そういう存在は、一島全員一地域全員、あるいは混在して紛れて、九州の特に西部では全人口の過半というほどであったともいう。それほどの広がりが、今は年寄りの一部がたまにそっと花や枝を供えるだけ、たぶんそのときには意味もわからない唱え言をいくつか口にする、ということになっているのだろう。
生月のラストに、博物館でおらしょを聞き、納戸神やその祈りの場の復元展示も見た。その伝承が形も意味も消えかかっている解説も読んだ。隠れるためには、宗門帳に載らねばならない。表面だけの仏教信者となる。そのために、経と似たことば・調子で祈り、像も仏像に似せなければならない。つまり外から見て仏教に見えることを代々続けて、その解説も密にとなると、信仰というよりも伝習としか言い様のないものになるのはやむを得ない。明治になってカトリック本山から勧誘されたときに同じ宗教と納得しなかったということは十分にわかる。だから、カトリックになることを新たな転びと拒否したこともわかる。転んだ者と一緒の名としてかくれきりしたんと名付けられる、つまりかくれきりしたんという名を転んだ者が名乗ることを認めないということもわかる。今も教科書には区別なしに使われているのだろうが、歴史用語としてと、現在のことばとしてと、何とかしなければならのではなかろうか。少数で、消えかかっているとはいっても、被害被抑圧の歴史を背負った人たちが今細々ながらでも言うことに、我々は何ができるだろうか。少数民族、少数言語、消えかかる風習・伝承、多くのことを考えさせられる。歴史遺産や絶滅危惧生物などともつながって、課題は多い。
生月(いきつき)島に関心を持ったのも、名からだった。壱岐・対馬に行くのが先になったが、計画はもっと古くからだった。いきつきを壱岐付きとしたらどうだろうという思いつきだった。長く、コンチキ号漂流記あたりの影響だったのかもしれないが、船・航海術と潮流・風向とが、どうなっているのだろうという疑問を持っている。特に日本海でどうなのか、例えば、船で壱岐に行く、遣唐使船が出たという西の五島や長崎の側から行くには、どこに寄るのか、天気待ちをするのか。的場大島も地理・距離的にいいが、潮流や航海術的にとか、湾や風向きとかはどうなのか。今の速い漁船なら、壱岐までどちらからも一時間とかからないといわれる距離だが、昔はそうではなかったはずだ。ついでにいうと、日本の古代での大陸との交流の道筋を、海と船の面から納得したいと、強く思っている。例えば、遣隋使遣唐使船は、行ったきりで帰らない。往復の力・時に耐えられる造船はできなかったろう。帰って来た遣隋使遣唐使の乗ってきた船はどうなったのか。同じく、遣倭船も帰らないとすると、その造船法は当然伝わったはずだ。長期の航海だから、造船・修理技術者も乗ってきているはずで、帰化しなかったにせよ技術を伝える暇は十分にあった。その交流から、何が生まれていたのだろう。実に興味津々だ。
風車
あちこちに風車があった。風力発電だ。ある所にはまとまって何基も十何基もある。北海道も東北もそうだが、人の少ない丘の上は、至る所というほどだ。どこでも、かなりの風が吹いていても、動いていないのが必ず何基もあることが不思議だった。ところで、例えば大島で聞いた所では、建てたのは何とかいう本土の会社で、九州電力に売っているのだという。そして、建てることを、地元のほとんどの人が知らなかったという。この風力発電のある所で話を聞けるときは、必ず聞くことにしていることがある。ぼくは、一度懲りたことがあるのだ。東北の山にスキーで登ろうとしたとき、この風車の近くで寝て、降雪中で、風を避けて離れた尾根の裏側であったにもかかわらず、夜中に移動せざるを得なかった。今回も音などの被害を聞いてわからなかったが、近くには牛舎もあることだし、やがては問題が顕在化するのではなかろうか。地元のことは地元でという地方自治がある。所有権者など利害関係者で決めるという民事の法がある。ダムや干拓やで現在は利害関係者というものの範囲が問題になるようになってきていることだが、景観などは法的に問題になる前に白砂青松はほとんど消えてしまった。国や自治体がやるには、公示などの手続きが必要だが、会社だと、通る人もいない建設地に立て札すればおしまいとなっているのだろうか。民営化路線とはそういうことも計算されているのだろうか。
太宰府と大野城
地理勘が働かないために最終日は時間の余りができたので、太宰府に寄った。天神様はどうでもいいから、かつての記憶でとてもよかったと思う観世音寺を探した。適当に入り込んだら磨崖仏への道標があった。それをたどって山道に入り、車を置いて歩いて探したが、山の上まで行っても見つからない。諦めて観音寺を見た。鐘は新しくできたと聞いた国立博物館に出張していて空だったが、寺はいい雰囲気だった。戒壇院は記憶になかったが、さすがに落ち着いたい
い建物だ。機嫌を直して府庁跡を見て、展示館に寄って聞いた。ルートが違っていた上に標示もなく整備されていないから見つからないだろうという。なんで道標なんかあるのだと言いたくなった。この次の宿題にするしかない。
かつて来たときには、府庁跡などは整備されていなかったが、ずいぶん遺構が復元されていた。礎石の列をつくずくと見て疑問が湧いた。藤原純友が焼いた後の再建だということだが、礎石の表面というのか、柱を受ける面がきれいに
磨かれているものが多い。凸凹になっているのは、後に荒れたのだろうと考えながら、あちこちで見た礎石で、面がきれいなのがあっただろうかと思った。時代はあれこれだが、皆建物が失われた後に礎石も痛んだのだろうか。国分寺な
どは数百年古いはずだが、どこの跡もきれいな面を見たように記憶していない。高さがまちまちなのを疑問に思った記憶もある。巨大な礎石をいくつかだけ掘り起こしたのか、低い石の方が削られたのか。柱の底面の方を凸凹に合わせたと考えると、細工は簡単かもしれないがやはり不安定だろうし、石の加工ということは石器時代から手がけて来たことなのだし、となる。柱と礎石がどうなっていたのか、また謎が増えた。
展示館で資料をもらってずいぶん知らないことを教えられた。さっき行った山は大野城の一角だった。その大野城と太宰府とキイ城との防御のトライアングルがあって、土塁でつながれていたなどということはまったく知らなかった。しかも、大野城の規模の大きさにも驚いた。また、朝鮮式築城が各地にあること、それが日本の築城の始まりだったこと、改めて日本と大陸とのつながりの深さを知った。
任那とか白村江の戦いとか、あったとかなかったとかよくわからないが、当然それとの関わりで水城や防人と同時期、壬申の乱の直前ごろ、ということは斉明女帝や中大兄の命令でなのだろう。守ろうとした相手は新羅なのか百済なのか、このときの日本の仏教勢力はどちら系だったのだろう。さっぱり納得いかない。今度なるべく早くこのあたりを探りに来てみよう。水城も復元されているらしいことだし。
私の09映画ベスト10作品!
日本映画ベスト10作品…①沈まぬ太陽、②サイドウェイズ、③ディアドクター、④いのちの山河~日本の青空Ⅱ、⑤ゼロの焦点、⑥大阪ハムレット、⑦おとなり、⑧のんちゃんのり弁、⑨南極料理人、⑩重力ピエロ、佳作;ヴィヨンの妻、ニセ札、蟹工船、
外国映画ベスト10作品…①セントアンナの奇跡、②扉をたたく人、③グラン・トリノ、④カティンの森、⑤ミルク、⑥ウェイブ、⑦母なる証明、⑧ポー川のひかり、⑨クリーン、⑩人生に乾杯、佳作;英国王給仕に乾杯、愛を読む人、縞模様のバジャマ、正義のゆくえ
ベスト・ドキュメンタリー…①泣きながら生きて、②子供の情景、③キングコーン、佳作;こまどり姉妹がやって来る
懐かしの名画…①祇園祭、②忍びの者、③三たびの海峡、佳作;ちいさこべ、真空地帯、赤と黒
そのうち今年No.1の映画は41年ぶりに観た『祇園祭』[中村プロ~日本映画復興会議編]の感想を書いておきます。
…製作は'68年。私は大学3年の秋に新宿[ミラノ座]で観たことを思いだした。…大学祭で講演に呼ぶ松尾章一氏[法大]との打ち合わせの後に新宿に出た!
内容は、祇園祭復活に賭ける京町衆の闘いを描いていくもの。主人公の染め物職人の"手"には感動したことを思いだした。その頃観た"祇園祭"[劇]も初めて大がかりの舞台装置で感動的だったが、土一揆の村の惨状・祇園祭を準備する町衆・京都の町を行く山車、それを新吉[町衆]とあやめ[河原者]の心情を背景に描くのは"やはり映画で"なければダメだと思った。"暮らしを大火、災害から守り戦のない世を作りだそうという民衆の闘いがその"手"と"水の流れ"を[青]で、"火と血を燃える熱情"を[赤]として、"差別を許さない清新な思い"を[白]の祭衣装に仕立て…フランス三色旗に見立てられていて感激したことを思いだした!
時に、京都府庁舎に"憲法を暮らしの中に"と垂れ幕が降ろされ蜷川革新府政・美濃部革新都政の第一期という革新の上げ潮の中で上映され、京都府知事選と絡んで妨害の中、日本映画復興会議が"映画人の良心"にかけて上映し、私も特別鑑賞券を売り歩いたことまで思いだした!
中村(萬屋)錦之助が映画化をを考えたのが60年代初め。日本映画界はヌーベルバーグ、やくざ路線と変わる中で斜陽の一途だった。数年かかって、映画人の良心と文化を守る取り組みが花開く。観ていると、あんな役で渥美清が、佐藤オリエ、高倉健、美空ひばりが出演していて、みんなでこの映画成功のために駆けつけていることに驚く。
原作[西口克巳作]は大学4年の卒論完成後の就職直前[春休み]か就職してすぐに読んだような気がする。
とにかく40年以上たって、再び観られて良かった!…VTRやDVDになっていないのが惜しまれる作品!
※フィルムセンター[京橋]で名画が1本500円で観られます。
他、新文芸坐[池袋]などでも名画2本が1000円で観ることができます。地域のいい映画を観る会なども探せばあります!
たまには映画鑑賞でもしよう!…私のオススメ作品
今年も余すところ1ヶ月。学校現場では秋の行事(新型インフルエンザの流行の中で大変だったことだろう。先生方の苦労が見える気がする…)も終わり、学期末を迎える時期だろう。今、世の中は"必殺仕分け人"による事業仕分けが終わったところで、それについての議論が起こっている。私は勿論"教育・文化・科学"関係の仕分けを注目していた。岩辺さんとアニマシオン活動を進めているので、とりわけ「子どもの読書活動」についての議論の方向が気になっていた。仕分け人が"効果があるのか"と斬り出した。この切り口はドリル訓練で学力テストの点数をあげる"学力観さながら。それに対して文科省の役人が"教育とはもともと即効果が出るものではない…"と応したが、このやりとりには驚くばかりか怒りが沸いた!…しかし、・捻出のパフォーマンスという面はあるとしても、大勢の前で議論が展開されることは自民党時代にはなかったことで民主主義としての一定の前進だと思う。…現場で悪戦苦闘する教師たちには、この議論はどう映ったのだろう?…学力テスト縮小、教員免許更新を止めて新たな制度を作ると打ち出されているが…。その一方で満足に休暇すら取れない日々の忙しさの中、教員の時間休暇を止め一日単位とする[東京都]などの提起もされている。今こそ"くらしと命を守る"労働組合の提起する番だと思う。
ここに"いのちとくらし"を守り、その懍とした生き方を問うた映画を紹介したい。一つは"沈まぬ太陽"[山崎豊子原作]…この映画上映の初日の舞台挨拶に立った渡辺謙は涙を流して公開までの干渉・妨害[AERA参照]を語ったという。映画人の良心をみた想いだ!(原作者の山崎豊子さんは、最新刊の外務省機密漏洩事件を題材にした『運命の人』で毎日出版文化賞特別賞を受けた)。物語の終末で再びアフリカに向かう恩地[主人公]に希望を見出だす。
…恩地の思いはかってのアフリカでの日々の視点から権力争いに翻弄され不遇な待遇を怒るというより、一瞬にして生命[家族など]を亡くした遺族の視点から、ともに今後を見守ることを指命として生きようとする。…原作は全編恩地の視点から描かれている。会長室篇でも国見が新たな改革者=支援者として登場するが、政治的策謀と権力争いに恩地・国見が巻き込まれていく…。…映画と原作の視点はぶれることなく、恩地が軸に描かれていく。少し映画の方に脚色もあるが主人公の思いと本質はかわらない!…会長室編[原作]では、政治的策謀や権力争いが克明に描かれ、恩地と国見の姿勢や動揺、怒りを良く伝えている…。やはり小説はいくらでも書けるので、それがよく書き込まれる。>
しかし、映画ならではのシーン[場面]が靖国神社前でシーン。…国見・恩地の視点は国家[国益]ではなく民衆に向いていたことが圧巻!あの場面に凝縮した映画づくりは上手い…と思い、思わず涙した!
国見役の石坂浩二は原作[脚本]をよく読み込んでいるなと感心した。それと香川照之の演技もいい。香川を一枚の写真(組合活動をしたために一日中姿勢を崩さず座っているだけの仕事に追いやられ…)を励みに閑職というよりイジメに耐える役どころが出色。それと対をなすのが西村雅彦の役どころかな…。
映画のラストの渡辺謙のナレーションだけは観客に委ねてほしいと感じた。
もう一作は、"いのちの山河~日本の青空Ⅱ"。 この作品は日本で初めて高齢者医療費無料と乳幼児死亡ゼロを成し遂げた旧沢内村[岩手県]の故・深沢村長の下で"いのちの行政"に取り組んだ姿を描く。
以前、教科書[小学社会6年/教育出版]にも掲載された。陸の孤島と呼ばれた無医村・沢内村の雪との闘いから"いのちとくらし"を守る闘いが描かれていく。映画づくり的には注文もあるが、事実の記録として大勢に観てもらいたい作品の一つだ。
これから上映される「戦場でワルツを」[シネスイッチ銀座など]・「カティンの森」[岩波ホール]などの作品や「キャピタリズム~マネーは踊る」が良い作品のようだ。
また、変わったところでは、①"気になる日本映画たち"~5日まで[池袋新文芸坐]。なかでも1日に上映される「青い鳥」(重松清原作)がいい!②"つながり映画祭~それでも明日は…"(障害者週間に合わせた映画とトーク・セッション)[渋谷アップリンク 12月3日~11日]③"映像の中の炭鉱"~11日まで。オススメ作品は30日上映の「三たびの海峡」(帚木蓬生原作)。[ポレポレ東中野]
9月例会「いま、教師はどっちに向かって成長していったらよいのだろうか?」
学びをつくる会の例会のことです。9月例会は「いま、教師はどっちに向かって成長していったらよいのだろうか?」というテーマで佐藤隆さんからお話があり、このことでたくさんの人からの発言がありました。佐藤さんは若い教師の自死が続いている現状から、学校と教師の現状と打開の方向について提起しました。その中で全国各地の若い教師たちのサークル活動の紹介があり、そこでは、研究の水準ということより、集まれば「丸ごと自分を受け止めてくれるという安心感」があることだと言われました。これを学校の中にくみこんでいくことが学校の再生につながるとされました。
これをうらづけるように参加した若い教師たちからは「学校全体が評価にさらされている」「自分の学級ビシッと度がチェックされる」「学校にはなかなか聞いてくれる人がいいない」などという学校の現状の声がだされました。また「いい教師にめぐまれている」という方もいました。いろいろです。
そして、「学びのわ」にくれば「聞いてくれる人がいる」「ベテランの先生の話を聞くことで大きな力になる」などという声があり、経験が多い教師からは、それぞれの「教育観」「教師観」が語られていました。私は司会をしていたのですが、これからの「学びをつくる会」の方向性をさぐる上でたくさん考えることがありました。
10月は、「小学校英語」について考えます。
教科書採択のこと
先月の続き。3日に足立区議会文教委員会が開かれました。これを傍聴しました。8月の教科書採択のことが話される、ということで行きました。共産党の区議から教育長に「9教科16種類、それぞれ数社ある教科書を全部読んだのか」という質問がありました。教育長は「全部はとても読めません。現場の先生方からの調査委員会報告、選定委員会の報告などを参考にしながら読みました」という答弁を引き出しました。ところが、そのあと自民党の区議から「私は教師の意見を聞くことに反対だ。教育委員の責任で決めてもらいたい」と発言があり、これに対して教育長は「2年後には本採択があります。その時には、今の議員の意見をくみいれた採択制度を検討したい」と答えてしまったのです。2年後にむけて教科書をどう決めたらよいか、子どもたちにどんな教科書を渡すか、などを議論していかなければならないと思います。
教育委員会は茶番劇
教科書採択が問題になり、8月11日、地元足立の教育委員会を傍聴しました。足立では、区議会自民党が「教員の意見を聞く調査委員会、選定委員会は無駄。そんな予算は削れ」などと主張していました。形の上では、調査委員会も選定委員会も開かれ、報告書も教育委員会にあげられましたが、実際の本番の会議では、この報告書はまったくの“無視”。委員が勝手に発言していました。そして各委員の発言も「レイアウトがいい」「写真が多くてわかりやすい」「音符が大きくて見やすい」など小学生が言うような「理由」をつけて、だからこの社の教科書がいい、というばかりです。しかもテーブルの上に置かれたメモを棒読みするばかりです。明らかにつくられたシナリオの上におこなわれている田舎芝居のようです。教育委員長は「何回も教科書を読んだ」と言いましたが、それは無理です。9教科16種目、70冊以上の本をこんな短時間で「何回」も読めるはずがありません。
結局、今回は、歴史教科書は「つくる会」教科書は採択されませんでしたが、教員や区民の意見は聞かないぞ、という強い意思表示のように思いました。二年後の採択にむけての運動が必要だと思いました。各地ではどうでしょうか。
このところのこと
しばらくご無沙汰してしまった。
時には開けてみるのだが、大谷さんが1度はいったきり、誰も書かない。これは困ったことだ。
ご無沙汰の間何をしていたかというと、1つは国語平和サークルでの「少年H」の教材分析を新しい形でやったのを直しに直した。おおげさに言えば、教材分析とは作品観と子供観とをどう結びつけるかの具体案作りだということを、それらの言葉を使わず気取られもしないで、言う中身をわかってもらおうとしたのだ。術語、慣用句、決まり文句というものは、簡単に通じ、意味不明なものだ。
1つは板橋の退教の「私たちの時代」という年刊文集に載せる文を、これもずいぶん手をかけて書いた。10回を超すこの文集は、かつて寄稿者が少なかったのだが、身の回りの小さいことをこそ断片でいいから書こうと呼びかけたのがよかったのか(そう勝手に自負しているのだが)、ここ数年書き手が増えた。それでしばらく送らなかったら今年は少ないということを聞いて、急いで送ることにした。そう決めたら、今までとは違う形でという思いが強くなって、ずいぶん苦しむことになったが、これもぼけ防止と楽しむことにして苦労した。前に載せた文章をほめてくれた人がいたのが、木に登る豚ほどでなくともやはりかなりのいいプレッシャーになった。同人誌的なこういう文章、つまり知った書き手のその人自身に関わる文章は、広くヘ向けたものとまた違う深い読み取りがなされる。それだけ書くのには悩む。このブログも
、ある程度そういう面を持っている。
1つは今年の学テの分析だが、分析までまだいけずにいる。学テの問題は去年からコピー防止のためか、ストレートには取り込めなくしてある。それをあれこれ工夫して取り込むのにずいぶん時間がかかった。問題は複写コピーの切り貼りのほうがよほど簡単なのだが、初めのときに取り込んでからパソコンで操作できるようにしておく良さを捨てられずに、馬鹿らしいと思いつつ時間をかけてしまう。
1つは、1つと仕事風に数えるようなことではないが、化膿に苦労した。そもそもは2月のスキーで久しぶりの緊張から締めすぎた靴で3時間もいたのが原因だ。鬱血した左足先が3月に化膿してしまった。膿み切るのを待って破って膿の出口を作って、軽く済んだ。だが安心してそれを放って置いたのがまずく、4月に深い化膿を始めてしまった。最高潮がちょうどゴールデンウィークの畑仕事の最中だったが、ついには立っていられず仕事を諦めるまでになった。熱が出ているようだったが、体温計は電池切れだった。医者は休みだし、探して行ったところでどうせ打つ手は特にない。化膿は待つしかないのだ。化膿とは、実に長い苦しいつきあいをしてきている。それでも色が変わってから数日待って、カッターナイフと木綿針を焼いて消毒して出口を切り込んでみたが時期尚早、さらに数日我慢してやっと膿が噴き出した。一気に楽になったところで帰京になった。切断したぼくの足先の断面は組織が再構成されて複雑なのだろうか、普通の筋肉組織での化膿よりずいぶん厄介だ。今もまだ足を出して風呂に入っている。
最後の1つは、そのし残した畑仕事だ。5月末に4日だけの暇に行って、中2日猛烈働いた。1日は6時から6時、間に2時間の食事作りと休み。次の日は、6時からかかって気付いたら2時になっていて、朝昼兼帯の飯を食って3時には畑に出たが、もう体が動かなかった。それでも、かなりよく手を入れられた。ほとんどの苗の植え付けと種まきを終え、一応の除草も、これまた一応の木の刈り込みも、毛虫退治も済ませた。数日置いて6月初めの少し長い暇で、梅の実が大きくなるか毎日見ながら、今度はややのんびりと、だがよく働いて、梅雨までのことは梅の収穫だけになった。今採った方が確実なのだが、少し色づくのを待ちたいのだ。その数日で全落果の恐れがあるのだが、今年もまた賭ける。