楽譜の中の作曲家 前書き
私は楽譜と直接向き合いながら 作曲家と会話をするように演奏しあるいは教えてきました 。ピアノを弾き出してもう半世紀以上 、ウィーンに住んでもう10年 。
中央墓地に眠る ベートーベンやシューベルトのお墓 にお参りをしながらつくづく思うことがあります。これらのお墓は空っぽだ、と。 作曲家というのは お墓の中にいない、楽譜の中に 彼らの魂を封じ込めているということです 。
現代社会では 楽譜は印刷されたものであることが当然のこととなっていますが 印刷技術に頼ることのできなかった昔は 作曲家の筆致が その感情をさらに生々しく表現していたことでしょう。時おり図書館や図版で 作曲家の自筆譜を見る時に 背筋の凍るような思いをすることがあります。遺言以上に遺言だと。
芸術家は彼らの作品の中に待機していて、それぞれの作品と向き合う演奏家、読者 あるいは鑑賞者にもしこちらの準備が出来ていればコンタクトに答えてくれようとしている気がします。
これを書いた時どういう気持ちだったのか?例えば..「ベートーヴェン氏、 私にとって この曲のここの転調は非常に衝撃的でブラボーを何度も叫びたいくらい、あなたがどんなにかんしゃく持ちでもこのフレーズだけで心底惚れてしまうくらい素晴らしいのだけど作曲家のあなたにとってはこれはごく自然なことだったのかしら? それともあなた自身も思わぬ出来の良さに《どうだ!》と嬉しくなったのかしら?」
「そりゃこの曲の白眉だよ。俺もそれを見つけたとき嬉しくて取っておきのワインを開けたくらいさ」
それにフォルテやピアノの強弱記号を書き加える時の 作曲家の心情を考えると フォルテッシモがまるでピアニッシモと同じくらいの デリケートさ、あるいはピアニシモがまるでフォルテッシモのような激烈な感情をぐっと内に引き込んだものであったのか。 時には強弱記号の付され方にメロディなど 以上に惹き付けられることもあります。その特徴は同時代の、あるいはその前後の作曲家と比較するとより個人の特性が明らかに分かります。
楽譜からイメージする作曲家の肖像、人となり。
今は作曲家について山ほどの研究がなされており、資料にもすぐ当たることができますが、私は試みとして楽譜から憶測する作曲家の人物像、彼らの日常のヒトコマをごく短い短編小説、あるいは寸劇の台本のように書いてみたいと思いました。あくまでも私の思い込みに過ぎないかもしれません。事実とまるで異なるかもしれません。でもその事実さえ真実であると言い切ることは出来ないところに想像の居場所があるように思います。
演奏家の一人がこんなことを考えながら弾いているのか、とお読みいただけましたら、またすっとんきょうな話だけどこの曲が聴いてみたくなった、と思ってくださるきっかけとなれば幸いです。