今回は家の中で私のピアノの先生が母から父に 移った時から、そしてさらに父の恩師である東京の先生のもとに通い始める時期を書いていきたいと思います。 まあそうは言っても普段の練習は母がいつも聞いているお夕飯の支度時です。だから うるさく怒って「音が違うリズムが違う」とダメ出しをしてくれるのは母でした。 それに練習管理も大変だったと思います。 私はもともと不器用なうえに頑固者で扱いにくかったと思います。 ハノンが大嫌いで踏み絵ならぬ踏みハノンをしたこともあります。 ハノンというのはピアニストが誰でも一度は通る道 テクニック を網羅した練習曲集です。 様々な要素のテクニックがありそれらを少しずつ 音階 半音階 アルペジオ 3度の練習 オクターブ トレモロ など 1日何十分も繰り返さなければいけないので なんでこんなことをしなければいけないのか 子供心に疑問でした 。かわいそうにハノンはボロボロになってカレンダーの裏で白く表紙をつけられました。 そんなに嫌いならやめてしまいなさいと言われ楽器に鍵をかけられてしまいましたが 母の予想に 反して こっちはむしろしめしめ、学校から帰っても練習しなくていいんだ、こたつの中で 学研の化学と学習や 小学3年生という雑誌を読みながら お菓子を食べる のにうつつを抜かしているのも2日、業を煮やした母にピアノの前に引きずり戻されました。 けれどもそんな中で初めて音楽の楽しみを知ったのが ベートーベンのソナタ。 ソナチネに入っている短いソナタただと思います。それと 共感するものが自分の中にあることを初めて知りました 。 いよいよ東京の先生に生徒として入門させてただけるかどうかに向けて 父の準備が始まりました。 他の先生にまだ一度も聞いてもらったことのないどころか 発表会はおろか人前でピアノを弾いたことのない私にとっては東京に行って そんな偉い先生の前でピアノを弾くなんて恐怖以外の何者でもありませんでした。 多分その時には ソナチネか ツェルニー30番のどれかそれからインベンション のどれかを 準備していったと思います。 人生の後半は割とお酒と混乱とあああー!な印象のある父でしたが教育にはわりと細かい計画を立てて準備してくれたんだなと 今になると思います。 当時 私は 生まれ故郷の銚子それから1年ほど 住んだ 八千代台を経て 四街道という町に住んでいました。 駅まで歩いて3キロほど バスもありましたが まだろくに 舗装 もされておらず 駅に出るのもなかなかの立地。 四街道からは 当初は 快速 も出ていなかったんだと思います 1時間ほどかけて東京駅に着きそれから 山手線 、池袋から西武線に乗り換えて 先生のお住まいの東長崎 というところでおりました。 東京とは言っても その当時はのび太くんの住んでいそうな のどかな雰囲気がありました。  駅から歩いて3ー4分ほどの一戸建て。 父も尊敬する先生の前で緊張した面持ちで私を伴ってレッスン室に入りました。 ドアを開けると 甘い懐かしいような香りが部屋に充満していて すぐ 古いクラシックなソファーと 肘掛け椅子 一脚 そして応接用のテーブルがあり そこには その香りの原因とも思われるタバコのチェリーがありました 。 壁際に 楽譜を雑然と乗せた小さな机があり その上にはグレーを帯びたエッフェル塔の絵画がありました。1階にはその部屋しかないような大きなワンルームで、古くて大きなグランドピアノが ステージのように向かって左に椅子があるように手前と奥に2台並んでいました。
先生はその当時 50歳 前後だと思われたのですが それまで誰とも会ったことがないような大人でした。 お顔立ちは ふっくらといえば ふっくらしかし お顔つきは峻厳。 いかめしいシュークリームのよう。 私は9歳から大学在学時の約20歳まで 約10年以上 通ったのですが一貫して先生の沈黙が長く、饒舌にしゃべるということは 1回もありませんでした。 その時も数分間近く感じられただんまりwith タバコ。 父が先生のタバコの状態を 見た上で 娘の演奏を聞いていただきたい旨を告げると 先生 は ふふんと笑って 奥のピアノで弾いてごらんなさい、と おっしゃいました。 私はどうせ逃げられないので とぼとぼとピアノのところまで行きました こんな大きくて古いピアノ なんて初めてです。それにゴツゴツと弾きにくく 大きなゴリラのボスのよう。先生はきっとわざと恭子への意地悪のためにこのピアノを弾かせてるんだ、と 勝手に思い込み恨めしい気持ちになりました。 機械仕掛けのように 覚えてきたことを 最初から最後まで弾き終えると 私の義務は果たしたというさっぱりした気分になりましたが 音楽のことに関しては 厳しい父の反応が気になります。 父もこれまでの娘への教育が正しかったどうか 先生の沈黙の次の一言が非常に気になるようで 多少前かがみになっていました。「次は来月いらっしゃい」と 先生が手帳を出してきたところで 父はほっと安堵の声で 「ありがとうございます」と 晴れやかな顔になり声も明るく その後 少し自分の近況などを話して 私たちは晴れて帰路に着きました。 帰りは 父は池袋でハンバーグをご馳走してくれました。 電車の中ですることが何もないと言うと 本を買って 買ってくれるというので私はすかさずマンガ本をおねだりしました。 いくつか候補はあったのですが父は これならいい、 買ってくれたのが 「あこがれ雲」という確か少女フレンド系の 1冊 読み切り漫画でした。( 日本の古き良き時代の夫婦で 日本初のパン屋さんを出すまでの若い夫婦の物語でした )このようにして 私は 毎月 東京にレッスンに通うことになったのです。 私にしてみれば 体 恐怖でしかなかったですが親にしてみれば 変な苦労をして工夫をして 忍耐をして 続けさせてくれたと思います。