言葉だけでは伝えられないもの(空海の手紙から考える)
言葉というのはどんなに尊い内容であっても、受け手の経験に基づく理解力、想像力の範囲に収まってしまうことが大半です。
直接、話し手がいる場合は聞き手の理解がまだ至らないところに気づいてもらえるかもしれませんが、本の形となればそれも無理なことです。
内容が人生の本質にかかわるような重要なことであればあるほど、話し手としては師匠と弟子のような形で間違いなく伝えたいと願うもの。
禅の世界では悟りを伝えるための老師・師家(しけ)と修行僧のような形でそういう伝え方を守っています。
新型コロナの影響で急増したテレワークは、理性(言葉)でやりとりできる範囲では有効ですが、仕事の本質や使命のような大切なことを伝えるためには、同様の工夫が必要になってくると考えています。
それは、これまで個人的に出会ってきた素晴らしいリーダーから受け取ったものは、その言葉だけでなく、場を共にすることで感じた、その在り方、その氣のようなものだったからです。
新型コロナが終息しても、対人コミュニケーションを離れて行う機会が増えるでしょうが、同時に直接会うことでしか伝えられないことがあることの重要性もまた見直されることを確信しています。
弘法大師空海(774-835)が伝教大師最澄に宛てた書簡の中に次のようなものがあります。密教の重要な経典の理趣経の注釈、理趣釈経を借り受けたいという最澄の申出を断ったものの一節です。(元より、高僧お二人の足元にも及ばぬ私ですが、道を求めることの厳しさと人と人が虚心に出会うことの難しさを教えられました)
又秘蔵奥旨不貴得文
唯在以心伝心
文是糟粕文是瓦礫
受糟粕瓦礫則失粋実至実
棄真拾偽愚人之法
(国会図書館デジタルコレクション、性霊集巻十、49頁)
(読み下し)
また秘蔵の奥旨(おうし)は、文を得ることを貴ばず。
ただ心を以って心に伝うるなり。
文はこれ糟粕、文はこれ瓦礫、糟粕と瓦礫を受くれば、則ち粋実と至実とを失う。
真を棄てて偽を拾うは、愚人の法なり。
(意訳)
また、密教ではその奥義(真理)を言葉にすることを重視していません。
ただ(僧としてやるべき修行を行い、師から弟子へ)心から心へ伝えることとしています。
(真理を伝える方便として使われた)言葉は、(きちんと悟りが生まれた後は)ただの糟粕(かす)であり、瓦礫(がれき)なのです。
そうしたカスやガレキにこだわれば、本質である真理(悟り)を見失います。
真理(悟り)を捨て、偽物(文)を拾うことは愚かな人のすることです。
凡人の私としては、そのとき最澄がもし頭を下げて教えを請うか、空海が出向いてその意とするところを直接に説けば、日本の仏教史もまた変わったような気も致します。
いずれにせよ、真理に対して、正直に向き合っていきたいと思います。