京都ひとり散歩(その17)~京都御苑①(閑院宮邸跡収納展示館) | 大根役者

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京都御苑には、地下鉄丸太町駅から入った。

間之宮口から閑院宮邸跡収納展示館に行く。

閑院宮邸門

閑院宮家は伏見宮、桂宮、有栖川宮家と並ぶ江戸時代の四親王家のひとつに数えられている。東山天皇の第6皇子・直仁親王がはじまりで、宝永7年(1710)に創設された。創建当時の建物は天明の大火で焼失、以降、再建されたと考えられているが、詳細は不明である。現存のものは明治16年に宮内省京都支庁として建築されたという記録があり、平成15年 から3か年をかけて全面的な改修と周辺整備が行われた。

令和4年4月1日に収納展示館がリニューアルされ、京都御苑に関する歴史・公家文化・御苑の自然等の紹介展示がされている。

 

京都御苑散策のスタート地点だ。

平安京の成り立ちから、現在の京都御所までの歴史と公家の生活のあり様をわかりやすく展示してある。

ただ、入館者に外国人が多い。彼らは、この文化を理解できているんだろうか?

発掘調査で出土した品々の展示も興味深い。

公家(くげ)ってなんだろう?

朝廷に仕える貴族・官人の総称であるということは、理解している。天皇の近侍で、御所に出仕する三位以上の位階を世襲する家で、元々は、朝廷を「こうけ」「おおやけ」と言った。

鎌倉時代以降、武力で天皇に奉仕する源氏や平家などの「ぶけ」に対し、儀式と文治をもって天皇に仕える宮廷貴族を公家と呼ぶようになった。

平安時代末期頃から貴族社会において公卿(太政官の高官)の家柄が限定されるようになった。藤原北家による摂関家の確立により、家格が固定化され、公家社会が形成された。公家社会においては、家格によって昇進できる官職が定まっていた。この当時kら、日本の社会各層で家の相続を前提とする家制度の成立が進行しており、公家社会の形成は、貴族層における家の成立である。公家の経済的基盤は、荘園・公領に対する収取権であった。公家のうち、上流貴族は荘園寄進を受けて本家として荘園支配を行った。中流貴族は上流貴族や大寺社から預所などに任命されて荘園管理権を得ることにより、経済的基盤を築いていた。

 

鎌倉時代には、主に軍事警察権と東国支配を担当する武家政権(鎌倉幕府)に対して、政務一般と西国支配を所掌する公家政権(朝廷)が存在することとなり、両政権が協調連携しながら政務にあたっていた。ここにおいて、朝廷と幕府、あるいは公家と武家の間の交渉、「公武関係」もしくは「朝幕関係」が成立する事になる。後の公武合体論につながってくる。在地では、徐々に、公家側の経済的支配権が、現地の武士(地頭)らに侵食されていき、室町時代になると公家政権は、京都におかれた室町幕府及び各国の守護により、公家政権自体が現実的に崩壊し、将軍家に仕える公家や、直接、諸国の荘園に下向する公家も現れてくる。

江戸時代に入ると公家らは御所周辺に集められ、公家社会は幕府から保護を受けることとなったが、反面、天皇と公家を規制する禁中並公家諸法度が定められ、公武関係が規定された。

平安時代の上流貴族は、イメージ通り、一日を遊んで暮らしていたようだが、下流貴族は、朝廷の仕事で忙しかったようだ。

江戸時代の公家の収入は少なかったので、生活はどの公家も苦しかった。最上位の近衛家でも所領は3000石に届かなかった。旗本並みの収入だった。彼らの多くは、朝儀に関する各家の仕事を家職として維持してきた。

公家が諸芸の家元になっていて認可を日本中に発行し、その免許を与えることで収入を得ていた。 学問、料理、芸道(和歌、書道、華道、楽器演奏)など、その家に伝わるものが彼らの武器となった。大名などと交遊し、家元として収入を得ていた。公家の詠んだ直筆の和歌、掛け軸などが旧大名家にかなり残っている。彼らは、大名家にそれらを贈り、多額の謝礼を手にした。

家元を名乗るため、代々子孫に家職を家業として伝えていった。

日本の文化を後世まで伝えることができたのは彼らの力に負うことが大きい。

閑院宮邸は、閑院宮載仁親王が明治10年に東京に移住するまでの邸宅であったとされているが、現在の建物がその邸宅であったかは不明だ。

 

建築には詳しくないが、天井に虹梁が設けられている建物は珍しいということだ。

そんなことを知らない大陸から渡来した方たちが廊下を何度も往復して、動画を撮られていた。

彼らの撮影を見ていると、必ず、演出が施されている。主役になりたいんだな。

僕は、この廊下を毎日、静かに磨き上げる誰にも知られない存在でありたい。【HIS】旅行プログラム