地下鉄・今出川駅で下りる用があったので、久しぶりに御所を訪ねた。
以前は、宮内庁事務所で受付をしなくてはならなかったのだが、今では、フリーになっている。
そりゃそうだな。清所門前に、並んでいる観光客は、日本人よりも外国人のほうが多い。
手荷物検査の後、御所内に入る。
清所門から入ると参観者休所があり、いろんな国の言語が飛び交っている。
平安遷都時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の今の千本通りにあった。現在の京都御所は、もと里内裏として、内裏が火で焼失した場合などに設けられる臨時の内裏の一つとして機能していた土御門東洞院殿の地だった。南北朝時代から北朝側の内裏の所在地として定着した。この内裏が明治二年の明治天皇東京行幸まで、日本という国家の文化・歴史・政治を見続けていくことになる。東京行幸後は京都皇宮と称せられた。
御車寄から御所内を廻る。
御車寄は天皇の許可を得た者が正式に参内する玄関であった場所で、昇殿を許された人はここで乗り物を降りてから建物の中に入る。御所内部の主要な建物と廊下でつながっている。
諸大夫の間
参内者の控え所で、3つの部屋がある。それぞれの部屋は、襖の絵にちなんで「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と名付けられている。麻地に墨で描かれた襖絵を通路から鑑賞する。
白壁に丹塗りの柱が鮮やかな回廊に囲まれた紫宸殿に向かう。即位式などの重要な儀式が行われていた最も格式の高い殿舎だ。で紫宸殿の屋根には、檜の皮を少しずつずらしながら竹釘で固定し、何層にも重ねた檜皮葺になっている。
高床式宮殿建築と呼ばれるこの建物の中には、天皇が座る「高御座」と、皇后が座る「御帳台」が置かれてい。紫宸殿の前には白砂が敷き詰められた南庭(だんてい)が広がり、紫宸殿に向かって左側に「右近の橘」、右側に「左近の桜」が植えられている。
紫宸殿に入る門が承明門
築地塀にある、外へ通じる門が建礼門だ。
承明門から中に入ることはできないのが残念だ。
「紫」は古代中国の星官で天帝の座である「紫微」に由来し、明清朝の皇城である「紫禁城」の「紫」と同由来である。「宸」の字は帝王の住まいを意味する。中国では唐王朝の都・長安に置かれた大明宮の第三正殿として「紫宸殿」が置かれ、皇帝の日常生活の場という内宮的性格を持っていた。
紫宸殿は本来天皇の私的な在所である内裏の殿舎の一つであったが、平安時代中期以降、大内裏の正殿であった大極殿が衰亡したことにより、重要行事が紫宸殿で行われるようになった。
内裏は鎌倉時代に火災にあって以後、再建されることはなかったが、里内裏で再建され、安政2年(1855)現在の京都御所に再建された。
左近の桜はもともとは梅だったといい、乾枯したのを契機に仁明天皇の時に桜に植え替えられた。
承明門から回廊沿いに進むと日華門がある。日華門から南庭を臨み、紫宸殿の全体像を見ることができる。
日華門の対面にあるのが月華門だ。
日華門を出て、回廊沿いに進む。
菊の飾り瓦と菊の御紋
檜皮葺の実物
高御座の写真展示
春興殿
日華門の南にある。西の安福殿と大庭を隔て、相対する。武具などが置かれており、鎌倉時代には、神鏡が置かれ、賢所(内侍所)となった。
現在の京都御所の殿舎があるが、平安時代の頃の春興殿とは、位置関係が異なり、安政年間に造営された内侍所(賢所)のあった場所に大正天皇の即位礼にあたり造営された。
外国人観光客が御所内にもあふれている。浴衣を着せてもらっているこの子たちが、日本の思い出を、自身の人生の中に落とし込んでいってほしい。ただ、無意味にこの場所は時を重ねていったのではないのだ。
小御所
清涼殿
平安時代中期以降、清涼殿が天皇の御殿とされた。紫宸殿が儀式を行う殿舎であるのに対し、日常の政務の他、四方拝、叙位、叙木目などの行事も行われた。清涼殿も次第に儀式の場としての色彩を強め、中世以降は清涼殿に替わって御常所が日常の居所となった。
菅原道真の怨霊のなす技と言われた清涼殿落雷事件は、延長8年6月26日(930年7月24日)に起こった。もちろん、この場所ではなく、旧平安京の清涼殿だ
現在の京都御所内にある清涼殿は安政2年(1855)に再建されたものである。
御池庭
蹴鞠の庭
御学問所
御常御殿
御三間
御内庭
現在の公開エリアは約一時間で廻ることができる。出口を出ると清所門前で、春の風景に人が集まっていた。
清少納言は「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」
と風景を愛でた。
紫式部は、中宮・藤原彰子に仕えた折、引き籠りになり、春の歌を献上するように申し付けられ、こんな歌を作った
「みよしのは 春のけしきに 霞めども 結ぼほれたる 雪の下草」
紫式部と清少納言の春への想いを対比してみるのも面白い。
紫式部の繊細な少女のような心に僕は惹かれる。