京都ひとり散歩(その15)~大谷御廟 | 大根役者

大根役者

日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

八坂神社の南楼門から円山公園方面に進むと大谷御廟の石柱が見える。

大谷御廟に足を進める。

大谷祖廟は、東本願寺の飛地境内だ。親鸞聖人をはじめ、東本願寺の歴代、全国各地の寺院・ご門徒の方々のご遺骨が納められている。親鸞聖人の墳墓は「御廟」と呼称されている。通称は「東大谷」、江戸時代には「大谷御坊」と呼称された。

 

総門(表唐門)

太鼓堂

本堂

親鸞聖人は、弘長2年11月28日(1263年1月16日)、弟の尋有僧都の住坊「善法坊」(現在の本願寺角坊)において90歳で入滅した。

荼毘の地については、親鸞の曾孫で本願寺第三代覚如の『御伝鈔』に「鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。大谷派は、「延仁寺」(京都市東山区今熊野)にて荼毘に付されたとしている。現在の「延仁寺」は、第二十一代嚴如が再興したものである。

 

親鸞聖人のご往生10年後、文永9年(1272)年の冬、親鸞聖人の末娘である覚信尼公が諸国の門弟の協力を得て、ご遺骨を吉水の北辺に改葬し、六角の廟堂を建て、影像を安置した。


廟堂建立の地は、現在の知恩院の山門の北に位置する崇泰院付近とされている。
この土地は、覚信尼公の夫である小野宮禅念の所有する土地だったが、廟堂建立の翌々年、文永11年(1274)にこの敷地を覚信尼公に譲ったとされている。


その後、覚信尼公は建治38年(1277)年から3度にわたって、ここを宗祖の墓所として寄進することを東国の門弟たちに通達し、遠方にいる門弟にかわり直接廟堂を護持する任に就きます。これが後の「留守職」となる。

 

この廟堂は「大谷影堂」とも呼ばれ、後に「大谷本願寺」となり、第8代蓮如上人時代の「寛正の法難」により破却されるまで、およそ200年間、諸国の門弟や同行によって護持されてきた。
 

慶長7年(1602)江戸幕府施策による本願寺の東西分立に際して教如は東本願寺境内に親鸞、及び本願寺歴代の仮墓を建立された。。

慶長8年(1603)には知恩院の拡張造営工事に際して祐誓の妹婿の善了の申し出により、親鸞荼毘の「延仁寺」の旧地と伝えられる鳥部山に代替地を拝領し、大谷道場は改められ新たに勝久寺として創建された。また、大谷道場の旧地には知恩院塔頭の崇泰院が建立されたが、知恩院作事奉行の一人、勝誉道清によって祖墳遺跡は残されることになった。

 

寛永16年(1639)に勝久寺は西本願寺に属することとなった。その後、勝久寺は西本願寺の親鸞廟所として整備され、大谷本廟(西大谷)となった。勝久寺が西本願寺の末寺になったことにより、東本願寺では新しい祖廟の造営が求められるようになる。寛文10年(1670)に、東本願寺第十四代琢如は、東本願寺境内に置かれていた親鸞、及び本願寺歴代の仮墓を教如・宣如の両墓と共に東山にある現在地に移し、大谷御坊と称する。

親鸞聖人御廟【HIS】旅行プログラム

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東本願寺は江戸時代に四度の火災に遭っているが、その際には大谷祖廟が御真影の避難所となった。文政6年(1823)の2度目の火災は11月15日であったため、この年の11月21日から28日までの七昼夜の御正忌報恩講は大谷祖廟において勤められた。

 

平成22年)に「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」の記念事業「大谷祖廟木造諸建物整備事業」の一環として、本堂と総門(表唐門)が修復されている。表唐門の修復工事の際に、屋根内部より「文久二年壬戌歳 二月廿日上棟 四脚御門建立」と記された棟札が発見される。それまでは「上壇間日記」の記録から、唐門(四脚御門)は安政4年(1858)以降に東本願寺から移築されたものと考えられていた。しかし、安政5年(1857)の東本願寺焼失により移築予定の門も焼失したため、現存する「表唐門」は新築されたことが確定した。

 

墳墓までも政争に巻き込まれることとなった。

 

1570年から1580年までの織田信長との石山本願寺一揆の時、徹底抗戦と和睦で意見が本願寺内で対立していた。

和睦を主張したのは、石山本願寺の宗主であった顕如と、顕如の三男の准如。徹底抗戦を主張したのが、顕如の長男の教如だった。結局、最終的に顕如が和睦を決め、石山本願寺は信長に明け渡された。この時の対立が、東西に本願寺が分かれる理由となった。

 

本能寺の変後、顕如は豊臣秀吉から七條堀川に土地の寄進を受け、御影堂と阿弥陀堂を建築した。これが現在の西本願寺だ。

一方、教如は徳川家康に接近し、七条烏丸に寺の寄進を受けた。これが、現在の東本願寺だ。

 

江戸時代に本願寺は、真宗大谷派(東)と浄土真宗本願寺派(西)に分裂することになった。

 

宗教論争ではなく、親子のプライドの問題であることが寂しい。まして、こんな些末なことに翻弄され、政争に、巻き込まれた宗祖、親鸞は、現在の姿に涙していることだろう。