京都ひとり散歩(その14)~八坂神社 | 大根役者

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久しぶりに八坂神社を参拝した。あの頃、祇園に場外馬券場があった。牝馬トウメイがレーストラックのスターになり、自民党、社会党で二議席ずつ分け合ったいた旧兵庫二区で、一議席を民社党に奪われた当時の社会党委員長・成田の秘密兵器として登場した土井たか子により、保守的な社会党に新風が吹き込まれた時代だ。60年代後半の嵐を経験した日本が、あの傷を癒し、70年に向かう時代、文化の根底も変わろうとしていた。女性がトレンドのキーワードとなっていた時代を思い出しながら、参道階段を上った。

由緒によれば、貞観18年(876)南都の僧・円如が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまるという説と朝鮮半島由来説がある。祭神は、祇園精舎の守護神・牛頭天王で、神仏習合の神だ。ただ、釈迦の生誕地・祇園精舎で、牛頭天王が信仰された事実はなく、日本独自の神だ。元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、明治元年(1868)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。

四条通から、東山通を渡り、西楼門前から境内に入る。ブロンズの狛犬が迎えてくれる。

楼門の矢大臣

左大臣

境内に入る。参拝客が多いが、中国からの団体客の嬌声が神域にふさわしくない。

西楼門は、明応6年(1497)に応仁の乱により焼失したものが、再建された。大正2年(1913)に四条通の拡張にともない東に6メートル、北に3メートル移動し、大正14年(1925)に左右に翼廊を建て現在の姿となっている。

絵馬堂

本殿へ進む参道に、七社の摂末社が鎮座している。

疫神社

別名蘇民将来社。文政6年(1823)建立。疫病除けの神としての信仰を集めている。重要文化財。

大田社・白髭社

大正2年(1913)建立。祭神は猿田彦命と宇受女命の夫婦神、猿田彦命は新羅神とされる白鬚明神とも称されている。

重要文化財。

北向蛭子社

正和三年(1646)建立。祇園のえべっさんとして知られている。重要文化財。

本殿前の階段を上ると左側に参拝客の行列が見える。

大国主社

明治10年(1877)建立。祭神・大国主命は縁結びの神様だ。天から降ってくる縁を願っての行列なんだろうな。

重要文化財。

後、常盤神社、大年社、十社が本殿に到る参道に鎮座している。

舞殿

明治36年(1903)建築の重要文化財。

本殿

本殿は国宝であり、承応3年 (1654)の建立だ。

本殿の下には、大きな池があり、青龍が棲んでいると言われている。。大和の「気」が貯まる龍
穴であり、開運に効果があるとの話がある。青龍は、方角を司る四神の一神で、東方の鎮守とされている。
本殿には、素戔嗚尊と櫛稲田姫命の夫婦神とその子供たちである八柱御子神等が祀られている。

 

斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を現在地・山城国愛宕郡八坂郷に奉斎したことにはじまる八坂神社の発展の契機は、元慶元年(877)、疫病流行に際して「東山の小祠」(祇園社)に祈りが捧げられ流行が止んだこととされている。
長徳元年(995)には王城鎮護の社として尊崇された二十一社(のち二十二社)に数えられた。
延久2年(1070)の太政官符には、「東は白河山、南は五条(松原)以北、西は鴨川、北は三条以南」で囲まれた広大な土地が境内地として定められている。

京都三大祭・日本三大祭として知られる祇園祭は洛中の禁苑であった神泉苑に神輿を送って、当時の国の数であった66本の矛を立て国家の安寧と厄災消除を願ったことに由来する。

手水舎

南楼門

明治12年(1879)に建てれた南楼門は、八坂神社の表参道・正門。入母屋造で、祇園祭の神輿や結婚式の際は必ず正門より出発する。

この狛犬は身替りの狛犬。源頼朝が奉納したと伝えられる本物の狛犬は、鎌倉時代の特徴をみごとに表現した木彫作品で、一方は頭に一角を高々と、一方はたくましく尾を上げて対峙している。木製の狛犬は、日本では非常に珍しく、重要文化財に指定され、京都国立博物館で常設展示中。この狛犬は、複製の狛犬。

南楼門前に藤屋と空也上人ゆかりの井戸がある。明治初年まで藤屋という名前の茶店があり、この井戸の清水を沸かし、八坂神社の参詣者に白湯を配るり、身を清めてから参拝したので「清めの茶屋」と呼ばれていた。

醍醐天皇が疱瘡に罹り、多くの人々も病に苦しむ中、空也上人は病気平癒を祈願し、この井戸の水を用いた白湯を人々に施した。

その白湯を飲んだ人々は病気が治ったと伝わっている。現在は藤屋が無くなり「中村楼」となっている。。

南楼門前の石鳥居は正保3年(1646)に建てられた重要文化財。

南楼門から、霊山護国神社参道までの間を南北に走る通りを下河原通りとよぶ。江戸時代の初めまでは、北の菊谷川と南の清水川とに挟まれた河原だったという話で、通りの名の由来とされている。

かつてこのあたりには、大坂城の落城後、高台寺に入った北政所を慰めるため、徳川家康が配慮したという遊芸の達者な女たちが住んでいた。豊臣家の存続をひたすら祈る日々のなかで、政所はしばしばこの女たちを召して楽しんだのだと言われている。

本殿の裏側から円山公園到る東北門の間にも摂末社が鎮座している。

大神宮社、悪王子社、美御前神社、日吉社、刃物社、五社、祖霊社、厳島社を回ると

絵馬堂に戻ってくる。

大神宮社

悪王子社

美御前社(うつくしごぜんしゃ)
重要文化財。祭神・宗像三女神が容姿端麗であったとの言い伝えから美容の神として信仰があつく、女性の参詣が多い。
社前に湧き出るご神水「美容水」を肌に数滴つけると身も心も綺麗になるという言い伝えがある。

刃物社

祖霊社

五社

日吉社

東北門
 
 

東北門前に鎮座する狛犬

厳島社

国宝1棟、重要文化財29棟が八坂神社の建造物に指定されている。

先述の木製狛犬等、8点の美術工芸品が文化財に指定されている。

外国人観光客であふれる境内だが、彼らに日本の文化と歴史を知って、理解し、彼らの国に持ち帰ってほしい。表面的な風景ではなく、時間と空間を切り取ってほしいと思っている。【HIS】旅行プログラム