(「あの頃、アラスでは毎日のように多くの兵士たちが死に、そして替わりが補充されては次から次へと前線に送り込まれていった。(中略)カール・ガブリエルの死を上官に報告したのは自分であるので、その名前はよく覚えている」・・・ヴィクトリアの夫カールの戦死について、同僚の兵士の証言。画像は、カールが埋葬されているフランス北部アラス近郊のサンローランブランジーにあるドイツ軍人墓地)
※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います。※※
----------
■ ヴィクトリア・ガブリエルについて
ヴィクトリア・ガブリエルは、1887年2月6日生まれ(日本の元号で言えば明治20年生まれ)、グルーバー夫妻の長女だった。
(次女は2歳になる少し前に死亡、三女は生まれてすぐに死亡している)
グレーベルン以外での居住歴があったという話は見当たらないので、生涯故郷を出ることはなかったと思われる。
同時代の人の証言によると、ヴィクトリアは金髪(やや暗めのそれ)ロングヘアーの美人で、身長約170cmのやせ型。
歌声が素晴らしく、農場から南に少し下った「ヴァイトホーフェン」という田舎町にあるカトリックの教会に通い、聖歌隊でリードシンガーを務めていた。
しかし、細くて歌の上手い可憐な女性をイメージすると、間違うかもしれない。
第1次世界大戦が始まる前のころ、グルーバー家では家の改築を行ったが、その際にはヴィクトリアも石材やモルタルの運搬などで忙しく立ち働いており、現場に雇われてきていた村人の一人は、ヴィクトリアについて、「男並みの力仕事もこなす働き者」という印象を受けたという。
父親の監視がきつかったという理由があるのかと思われるが、両親と同様に人付き合いは薄く、日曜日に教会のミサに出席して聖歌隊で歌うとか、用事のある時以外は基本的に農場を出ず、畑仕事や家畜の世話、家の仕事といったことに従事していた。
何人かの男が言い寄っていた、との証言がある。「ある男が求婚のために家に来た時などは、父親のアンドレアスがヴィクトリアをクローゼットに閉じ込めて隠した」等の話があるが、真偽はともあれ、男にとって目につく存在ではあったのかもしれない。
いずれにしても、グルーバー家のメンツは、特に家長のアンドレアスとその妻のツェツィーリアは、働き者ではあるにせよ、人付き合いの悪い偏屈者として近隣からは引いて見られていたが、ヴィクトリアについては総じて好意的にみられていたようだった。
このヴィクトリアだが、家では異常な状況下にあったのは「その3」にも書いたとおりだった。
16歳のころから、実父アンドレアスによる性的虐待を受けていたのである。
-----
(1914年夏、第1次世界大戦が勃発した。画像は出征するドイツの兵士たち)
1914年4月、ヴィクトリアは27歳の時に、カール・ガブリエルという近場の集落の青年と結婚した。
カールは1888年12月16日生まれ、結婚当時25歳。ヒンターカイフェックから南東に約1kmほどのところにある「ラーク」という小さな集落の住人で、家業は農業。男ばかり6人兄弟の長男だった。
ヴィクトリアとカールは1914年3月に結婚と相続に関する取り決めを行い、この時に、農場の権利はグルーバー夫妻からヴィクトリアとカールに移転されている。
のちの警察の調べに対して、村人の一人は、「カールがヴィクトリアと結婚したのは、もっぱらグルーバー家が資産家で、ヴィクトリアがその一人娘だったからではないかと思う」と述べているが、
恋愛結婚であったのか、それとも、両家の思惑も絡んだ上での、日本でいういわゆるお見合いのような形での結婚であったのかは情報がなく、真相は不明だった。
ヴィクトリアの苗字は「ガブリエル」になったが、結婚後もヒンターカイフェック農場の実家で暮らし---夫のカールにとっては義理の両親と同居の形---ほどなくしてヴィクトリアの妊娠も明らかになったが、結婚生活はあまりにも短かった。同年の7月に第1次世界大戦が勃発、カールは兵士として前線に向かったのである。
カールは結婚当初から、義理の両親との折り合いが良くなかった。
これは例のローレンツ・シュリッテンバウアー(のちに嫌疑をかけられた人物の一人)の証言だから、やはり、話半分以下で聞くのが妥当かもしれないが、
その証言によると、カールはシュリッテンバウアーに対して、義理の両親から酷い扱いを受けていること、農場の権利を自分やヴィクトリアに譲っているくせに、帳簿(金)はいまだに彼らが握って放さないこと、義理の両親は非常にケチで、昼メシもろくに食わせてもらえない、などと不満を言ったりしていた。
結婚式が済んでまだ2~3週間しか経っていないころに早くもラークの実家に帰ってしまい、両親にヒンターカイフェックへと戻されたということもあった。
村人の一人は、カールが一時実家に帰った理由について、「ヴィクトリアとアンドレアスの肉体関係に気付いたからではないか」と推測しているが、真相は不明だった。
シュリッテンバウアーによると、人々はカールとヴィクトリアについて、「そのうち離婚になるだろう」と噂しあっていたが、結婚したその年の7月に戦争が始まり、カールも出征してすぐに戦死したので離婚にまでは至らなかった、とのことだった。(離婚する間もなく戦死)
カールにとって、軍への入隊はうっとうしい義父の監視やいじめを逃れるいい機会だと考えたのではないか、という見方さえあった。
カールの軍歴について、開戦の約2週間後には予備歩兵として兵員名簿に登録されているが、グレーベルン(ヒンターカイフェック農場)の住所ではなく、実家であるラークの住所での登録となっているところに、(義理の両親や妻との関係における)問題の根の深さが垣間見られるかもしれなかった。
第1次大戦に緒戦から従軍した兵士たちについてよく言われるのは、彼らはこの戦争はそう長引かず、クリスマスまでには家に帰れると考えていたフシがあったということだった。
カールがその認識だったかどうかは定かではないが、前線は早々に地獄の様相を呈し始めた。
1914年12月12日、彼はバイエルン第13予備歩兵連隊第6中隊(第3小隊)の一員として、フランス北部アラス近郊のヌーヴィルサンヴァにおいて、味方塹壕よりもさらに敵陣に突出した危険地帯にある聴音哨で活動していた。
擲弾(てきだん)が彼の近くで炸裂したのはその時だった。即死だったという。
(※ 聴音哨=ちょうおんしょう=目と耳で敵の動向を探り、後方の味方に伝達する役割を担う。画像は聴音哨の一例。ちなみに、カールが入隊したのとほぼ同じ時期に、のちのドイツの総統・アドルフ・ヒトラーも、バイエルン第16予備歩兵連隊に入隊している。)
戦前からカールを知り、別の中隊に所属していた同僚の一人の証言によると、その擲弾は、手投げ式いわゆる手榴弾ではなく、銃で発射するタイプのものだったとのことだが、
小学生時代からカールの友人だったという同僚や(この人物は別中隊に所属し、近くの塹壕を守備していた)、カールと同じ小隊に属していた同僚の証言では、カールの死は「地雷」によったとされており、正確なところはわかりにくい。
(画像は銃で発射するタイプ。水色矢印の先が弾。長い棒が付いている)
後者(第3小隊の同僚)によると、カールは12月12日に同小隊に配属され、同日午前10時に任務に就き、2時間後の正午ごろには戦死していた。
「あの頃、アラスでは毎日のように多くの兵士たちが死に、そして替わりが補充されては次から次へと前線に送り込まれていった」
「カール・ガブリエルの死を上官に報告したのは自分であるので、その名前はよく覚えている」
「カールは入隊時には、まだ軍での訓練を受けていない素人補充兵だった。前線に出たのは、12月頭が初めてではなかったかと思う」
のちの警察の調べに対して、小隊の同僚はそのように証言している。
戦前からカールを知り、別の中隊に属してカールの持ち場から300mほど離れた塹壕を守備していた二人の兵士もカールの遺体を確認した。
それによると、カールは額がやや裂けており、下顎を怪我していたが、遺体は間違いなくカールのものであると確認されたという。
遺体のポケットからは、妻ヴィクトリアの写真が出てきた。
のちの殺人事件の捜査により、警察は、カールの遺体が同僚の兵士らによって塹壕近くに埋められたことまでは把握したが、詳細については不明のままだった。
しかし現在、カールの遺体は、社団法人ドイツ戦争墓地維持国民同盟によって戦死地であるフランス北部アラス(近郊のヌーヴィルサンヴァ)にほど近いサンローランブランジーの戦没者墓地に埋葬されていることが明らかとなっている。
(ヒンターカイフェックからアラスまでは、直線で約645km。2枚目は、ドイツ兵士による他国兵士の前線での埋葬の様子、1916年か1917年の撮影)
ともあれ、カールの最期(遺体の行方)の判りにくさから、事件後に様々な噂が囁かれたのも事実だった。
「カールが実は生きており、偽名を使い、他人に成りすましてヒンターカイフェックに戻ってきたが、妻とその父親との関係を知るに及んで、一家を殺害するに至ったのではないか・・・」
これが噂の代表的なものだったが、事件後に長らく囁かれていたこの噂に拍車をかけたのが、ルートヴィヒ・ヘッカーという、ドイツのインゴルシュタットに本拠を置く地方新聞の編集者であり作家でもあった人物が1950年代初頭に書いた、この事件に関する一連の記事だった。
その中でヘッカーは、事件の直前に「灰色のコートを着た謎の男」がヒンターカイフェック農場近くの森をうろつき、あるいは、雨の中を立ち尽くしながらグルーバー家のほうを窺うなどし、これにグルーバー家のメンツ(特にヴィクトリア)が「夫のカールが帰ってきているのでは?」と戸惑い怯える様子を---ソースは一切示さず、それでいて当人たちにしかわからないはずの心理~情景描写をふんだんに盛り込みながら---どこかのブログさながらに妄想たくましく描いているが、
なぜかこの話がそれなりに信じられ、しかも時を経るに従い内容が一部改変されて---たとえば「灰色のコートを着た男」がいかにも復員兵っぽく「軍用のコートを着た男」に改変されて---のちの世に伝わり、この事件の薄気味悪さを演出する一つのエピソードとして、あるいはカール生存説の一つの傍証として語られるようになったのだった。
(カール生存の可能性は1922年の事件当時から囁かれており、警察も、その線を軍時代の同僚に当たるなどして調査したのは事実だった。しかし、事件と同時代の証言の中には「灰色のコート(あるいは軍用のコート)を着て森をうろつく謎の男」等々の証言は出ていない。)
いずれにしても、カールは資産家の一人娘と結婚し、農場の権利も手にして、6人兄弟の長男としては両親の望み通りであったろう良い感じのレールに乗って前途洋洋に見えていたのに、結果的には、面白くもクソもない短い結婚生活ののちに、遠い異国の地で敵弾に倒れてしまった。
シュリッテンバウアーによると、ヴィクトリアの母ツェツィーリアは、カールの訃報に接し、「ああ、やっと離婚できたわ」---あるいは、「早くも離婚だわ」とも---と言い放ったという。
ヴィクトリアについては、夫の訃報に接して、さして嘆くこともなかった、との情報もあるが、他方で、カールの遺体を確認した戦前からカールを知る兵士の一人が語ったところによると、
1918年の復活祭のころ、その兵士が初めての休暇を取って戦地からラッヘルスバッハ(ヒンターカイフェックから南に約2.5kmの地区)に帰郷していたとき、ヴィクトリアが夫の最期について聞くために、その兵士のもとを訪ねてきたという。
しかしこの時、兵士はヴィクトリアがすでに知っている以上の情報を提供することはできなかった。
(画像は1916年、フランス北部ギーユモンの前線で、機関銃座に散乱するドイツ兵の遺体。当時の画像や動画を見ていると、遺体の行方のことで混乱を生じないほうが不思議と思える)
-----
カールの死の翌月(1915年1月9日)、ヴィクトリアは娘のツェツィーリアを産んだ。その名は祖母にちなんで付けられたものだった。
ツェツィーリアの法定後見人は、祖父のアンドレアスが務めることになった。
ヴィクトリアがツェツィーリアを産んだ数か月後、アンドレアスとヴィクトリアが性交渉中の現場を当時のメイドが目撃し、メイドはこの事態を当局に通報、ヴィクトリアは逮捕され、裁判により1か月の実刑を言い渡された。
(アンドレアスは1年の実刑。判決はノイブルクの地裁により、1915年5月に言い渡されている。このあたり、少し詳しめなところは「その3」を参照いただければと。)
1915~1916年ごろかと思われる時期に、ヴィクトリアは、前出のローレンツ・シュリッテンバウアーという13歳年上の男性と親密な仲になろうと試みたようであった。
シュリッテンバウアーは1874年8月生まれ、グレーベルンでは自治会長的なポジションについており、自身も25歳の時に両親から農場を受け継ぐと同時に、結婚して家庭生活を営んでいた。(子供は娘が3人、息子が1人)
この人物にも軍歴はあるので一応紹介すると、開戦して間もない1914年9月初旬に、インゴルシュタット予備歩兵大隊第3中隊の一員としてして軍役に就いた。
しかしその直後から、右手中指が関節炎になる、腹が痛い、頭痛がする、歯が欠ける、胃腸炎になる等、当時41歳の素人徴集兵にいきなりの軍役は心身ともにきつかったのかは不明ながら、次から次へと襲い来る体の不調により、1915年8月初旬に「軍役に適さず」として除隊となっている。
(赤ピンの先がヒンターカイフェック。ノイブクルやインゴルシュタットは、その北部に位置する。ヒンターカイフェックからノイブルクの市街地までは、直線で約18km)
シュリッテンバウアーにとっては、ヴィクトリアを含めたグルーバー家の人々は旧知の間柄だった。
グルーバー家の全員が死亡し、何を言われても彼らには反論すらできない状況でなされたシュリッテンバウアーの証言によると、当初、肉体関係を結ぼうとすることにおいてはヴィクトリアのほうが積極的であり、妻子ある自分としては、その誘いをいなしていたのだという。
ところが、1918年7月14日にシュリッテンバウアーの妻が亡くなり(癌を患っていた)、独り身になったシュリッテンバウアーは、その約2週間後にヴィクトリアとの間で最初の性交渉を持ち、同年12月ごろまでの間に、計5回ほど男女の逢瀬を重ねるに至ったという。
「ヴィクトリアはまったく尻の軽い女でした。彼女の夫が死んですぐのころでしたが、彼女と一緒にタンスを運んだことがあるのです。私の馬車に二人で乗って運んでいたのですが、そしたら彼女、『今なら簡単に私を襲えるわ』と面と向かって私に言うんです。私は誘いには乗りませんでしたよ。その時はまだ妻がいましたから。
1918年10月15日に私の妻が死にまして---調書の原文でこの日付になっているが妻の命日は7月14日なので、シュリッテンバウアーの記憶違いか、文章に起こした者のタイプミスかと思われる---それから2週間ほどした時のことでした。ヴィクトリアが干し草置き場にやって来て、私をそこにとどめながら、結婚してとせがむのです。私は嫌だとは言いませんでした。妻が死んで2週間が経っていましたし、家には女手が必要だと考えていたからです。
その時、ヴィクトリアはこちらが求めもしないのに、私の手を掴んで干し草の中に身を投げ出しました。彼女を抱いたのはその時が初めてでした」
シュリッテンバウアーはさらに、ヴィクトリアのことを、ことあるごとに自分から股を開きながら結婚をせがむ、たしなみのないようでもあり、いじらしいようでもあり、見ようによっては好ましいような気がしなくもないという、よくわからない女として描きながら、
「自分から求めてくる女なんて、彼女が初めてでしたよ」
と---ヴィクトリアが反論できない状況の中で---供述している。
ともあれ、二人は互いに結婚を望むようになった。
「結婚のことを、父(アンドレアス)に話してほしい」
ヴィクトリアはシュリッテンバウアーにそう頼んだという。
当時シュリッテンバウアーの長男は13歳だったので(その下の男の子たち二人は幼くして死んでいた)、ヴィクトリアと結婚すれば、ゆくゆくはヒンターカイフェックを長男に継がせるという手もあり、実益という点でも悪くはない結婚に思えたのではないだろうか。
しかし、シュリッテンバウアーにとっての気がかりは、ヴィクトリアとその父アンドレアスとの間の---村人周知の---よからぬ関係についてであった。
父娘はそのことで数年前に刑務所にまで入れられていたが、シュリッテンバウアーは、その関係がいまだに続いているのではないかと疑っていた。
自分たちの結婚後も、アンドレアスとヴィクトリアとの間で、そんな関係が続いてもらっては困ると考えたのである。
そこで彼はアンドレアスのもとに赴き、「ヴィクトリアと結婚したい」旨を告げると、アンドレアスは「ああ、いいよ」と。
さらに、シュリッテンバウアーは(あくまで彼自身の証言によると)アンドレアスに対し、
「自分は善良なクリスチャンであり、あなたのような行為は受け入れがたい。ヴィクトリアに(性的に)手出しするのはもうやめてほしい、彼女を正道に立ち返らせてほしい」
ということをお願いしたが、この依頼に対してアンドレアスは、
「ま、そのあたりは、おいおい見ていくということで・・・」
などと言葉を濁したという。
その少し後でシュリッテンバウアーがヴィクトリアに会ったとき、彼女から妊娠していることを告げられた。
「あなたの子よ」
ヴィクトリアはそう言った。
これに心当たりがなかったのか、それとも否定しなければならない何らかの理由があったのかは不明ながら、シュリッテンバウアーは認知を拒否した。
「君の父さんの子じゃないのか?」
シュリッテンバウアーは抗議したが、ヴィクトリアは譲らなかった。
また、ヴィクトリアはこの時、「父アンドレアスは、もう二人の結婚を認める気はないようだ」と告げた。
「結婚は認められない。しかし、子の認知はしろ」という状況だった。
(あのオヤジ、気は確かか?・・・)
訝(いぶか)り憤ったシュリッテンバウアーは、そのすぐ後で、ヒンターカイフェックに赴きアンドレアスと対峙した。
「お前が父親で間違いない」
真意を問いただすシュリッテンバウアーに対してアンドレアスはそう主張し、生まれてくる子の認知と、養育費の支払いを求めた。
シュリッテンバウアーはこれを拒否、子の父は自分ではなくアンドレアスである、このことを当局に訴えるとまで言ったが、アンドレアスは「それでも構わない」として態度を変えなかった。
ついには怒ったアンドレアスが鎌を振り上げ、シュリッテンバウアーを追い掛け回す事態にまで発展した。
いまや結婚どころの騒ぎではなくなった。
アンドレアスが野良仕事をしているすきを見て、シュリッテンバウアーがグルーバー家を訪れ、ヴィクトリアやその母ツェツィーリアにもう一度子供について尋ねてみても、「あなたが父親だから、認知して、養育費を払え」の一点張りだった。
あくまでシュリッテンバウアーによると、ヴィクトリアは当初、「認知さえしてくれれば、お金はいらない」との趣旨だったのが、いまやヴィクトリアまで---父親の意向に逆らえなかったのではないかと個人的には思うが、甘いだろうか---心変わりしていたのである。
一方のアンドレアスは、二人の結婚については認められない、との立場を鮮明にしていた。
もしシュリッテンバウアーがあくまでヴィクトリアと結婚しようとするなら、法廷に訴えて出るとまで言っていた。
そんな中で、ヴィクトリアはおなかの子を出産した。(1919年9月7日、命名ヨーゼフ)
シュリッテンバウアーはなおもグルーバー家からの認知と養育費支払いの要求を拒否していたが、アンドレアスの横柄な態度と、金を要求されていることに我慢ができなくなり(本人談)、
1919年9月10日、ホーエンヴァルトの警察に赴き、アンドレアスが娘ヴィクトリアに対して近親相姦行為を行っていること、そして、去る9月7日にヴィクトリアが産んだ男の子の父親はアンドレアスであることを正式に訴えた。
「あいつを刑務所にぶち込んでやる」
そう息巻くシュリッテンバウアーに対して、ある村人は、「いまは農繁期じゃないか。やめてあげたら?」と諭したというが、シュリッテンバウアーを止めることはできなかった。
結果、アンドレアスは1915年の時のそれに引き続き、再び不名誉な嫌疑により、身柄を拘束されてしまった。(1919年9月13日)
(赤ピンの先がヒンターカイフェック。そこからヴァイトホーフェンを囲んでいる水色の四角の中心までは、直線距離にして約2km離れている。現在、農場があった場所は、このヴァイトホーフェンに属している)
ところがその後、なにかしらの不透明な経緯により、シュリッテンバウアーはこの訴えを取り下げるに至り(9月25日)---しかもわざわざ罰金を支払ったうえで取り下げている---アンドレアスは釈放されることになった。(釈放日=1919年9月27日)
この時の不透明な経緯について、あくまでシュリッテンバウアーの言い分によると、ヴィクトリアが彼のもとにやってきて泣きじゃくりながら「訴えを取り下げてほしい」と頼み、
結婚できる可能性はまだ残されているということ、また、訴えの取り下げとヨーゼフ認知の見返りに、グルーバー側から相当の金額(内訳は2000マルクの現金と3000マルク相当の有価証券)を支払う、ということを約束したというのだった。
また、9月27日のアンドレアスの釈放に続いて、9月30日までに、シュリッテンバウアーによるヨーゼフの認知や、養育一時金(1800マルク)支払いの合意、また、ヨーゼフの養育権についてのアンドレアスへの譲渡などの手続きが行われた。(アンドレアスがヨーゼフの法定後見人に)
シュリッテンバウアーは裁判所において養育一時金支払いの合意をしているが、その金はすべて、グルーバー家(ヴィクトリア)が工面してあらかじめシュリッテンバウアーに渡していたもので、彼は単に、貰っていた金を養育費の名目でグルーバー家に戻しただけであり、懐はまったく痛んではいなかった。
-----
これで騒動はひとまず収束するかとも思われたが、話はここでは終わらなかった。
10月8日、シュリッテンバウアーはふたたび騒動を蒸し返した。
当局に対して再び、「グルーバー父娘について、近親相姦の事実がある」と訴えて出たのである。
前に一度罰金を支払って訴えを取り下げた経緯もあり、この時のシュリッテンバウアーの訴えは、当初相手にはされなかった。
ところが、シュリッテンバウアーがシュローベンハウゼンの地方裁判所で、自らの訴えが真実であることの宣誓を行うに及んで(10月23日)、当局もこれを無視できなくなり、1919年12月31日、検察官はこの件をノイブルクの地方裁判所に起訴した。
(妙に簡単に起訴しているように見えるのは、時代的な人権意識の薄さに加えて、もしかすると、ドイツの裁判のやり方というのが、例えば現在の日本のように「警察と検察が公判維持に足る証拠をかき集めてから起訴して、裁判官がそれらの証拠を---あくまで建前の上では---中立にジャッジするというやり方」ではなく、「裁判官その人が真実追及の主役となり陣頭指揮を執って、証拠の収集や犯罪事実の有無の認定に当たるという、俗にいうところの『職権主義』というやり方」が影響し、起訴前ではなく起訴後が真実探求の主戦場になるので、起訴へのハードルが低かった---わりと気楽に起訴していた---のかもしれない。自分は当初このことについてよく知らず、ヒンターカイフェック事件を調べる中で、妙に裁判所の判事などが殺害現場に出張ってきて現場検証をしたりなどしているので、戦前の日本も含めて、昔はそんなものだったのかと思いつつも、当時の裁判事情について多少知るまでは、腑に落ちないものを感じていたのだった。)
いずれにしても審理の結果、アンドレアスとヴィクトリアは、証拠不十分で無罪となった。(1920年?月)←当初「5月」としてアップロードしていたが、「5月」とする情報もある一方で、多くの情報は判決月について明らかではないとしている。
(9月27日のアンドレアスの釈放後すぐに訴えを蒸し返し、当局に相手にされないと見るや、今度は裁判所で宣誓してまでグルーバー家への訴えを審理の俎上に載せようとしたという、シュリッテンバウアーのこの尋常ではない一連の動きを、どう見るべきなのだろうか?
この点、シュリッテンバウアーがグルーバー家から金を強請っており、その履行がなされない~あるいは不十分だったために、すぐさま訴えを蒸し返したのではないか、あるいは「ヴィクトリアとの結婚を許す」という条件で訴えを取り下げたところ、アンドレアスが「釈放されれば、こっちのもの」とばかりに態度を豹変させたので、これに怒って、訴えを蒸し返したのではないか等々、様々な見方があるが、
仮にグルーバー家がシュリッテンバウアーから金を強請られていたのであれば、近親相姦についての審理の中でその不法行為---「自分たちに近親相姦の事実はないのに、シュリッテンバウアーは虚偽の訴えを起こし、訴えの取り下げをネタに金を強請ろうとした」ということについてもグルーバー家から暴露されるのではないかと思うが、そういう話にはなっていない。
とすると、訴え取り下げの条件はやはり「ヴィクトリアとの結婚を許す」ということではなかったかと思うのであり、釈放されるなりアンドレアスがそれを反故にしたため、怒ったシュリッテンバウアーが宣誓してまで訴えを蒸し返したのではないかと想像するが、真相は不明。)
-----
驚くべきことに、狭い集落内でこれほどの仲たがいをしたにもかかわらず、時が経つにつれて、両家の関係は表向きは修復されたという。
アンドレアスとシュリッテンバウアーは、互いに以前のように外で出会えば口をきくような関係には戻った。
(アンドレアスとしても、シュリッテンバウアーは、少なくとも法的にはヨーゼフの父親ということになっているので、過去のいきさつはあったとしても、完全に無視するというわけにもいかなかったのかもしれない。)
シュリッテンバウアーとヴィクトリアについては、この騒動により、少なくとも、表向きは終わったような感じではあった。
1920年の秋から約1年間、グルーバー家でメイドをしていたクレスツェンツ・リーガーによると、シュリッテンバウアーがアンドレアスと話をするのは見たことがあったが、ヴィクトリアと話をしているところを見たことはなかったという。
ただ、「二人はなおも、結婚を望んでいるように見えた」という村人の証言もある。
いずれにしても、無罪放免となったアンドレアス---シュリッテンバウアーとしては完全に攻め手を欠いてしまった---からは娘との結婚を拒否され、「娘に手を出すなら訴える」とまで言われている状況の中で、
50目前の男やもめとして農場を切り盛りしているシュリッテンバウアーとしても、現実問題として、そう悠長に構えてはいられなかったのかもしれない。
1921年5月(殺人事件の約11か月前)、シュリッテンバウアーは、知り合ってまだ3週間しか経っていなかった28歳の女性と再婚したのだった。
(女性は、シュリッテンバウアーとの結婚の前に非嫡出で4人の子供を産んでいたが、うち3人は幼い時に死亡し、生き残っていた8歳の男の子一人を連れての結婚だった。恋愛結婚ではなく、お互いの状況を鑑み、利害が一致したという形での結婚だったであろうと言われている。)
ヴィクトリアはまた一人になってしまった。
13歳年上で4人の子持ちのシュリッテンバウアーとの結婚を望んだ、その心根がどういったものであったのかはよく分からない。
何も考えず、恋愛感情や肉体的快楽、あるいは、なにかしらの腹黒い思惑で動いていただけかもしれないが、ひょっとすると、15戸に満たない集落に住み、不名誉な嫌疑で収監されたこともある子持ち30過ぎの(後がないかもしれない)ヴィクトリアにとっては、
グルーバー家のそれと地境を接する農場を営み、500mほど離れた家に住むシュリッテンバウアーとの結婚は、そのまま自分の将来のとりあえずの安泰と両親との同居の円満な解消、すなわち父親による性的支配からの解放を意味しており、
彼女はシュリッテンバウアーとの結婚の中にその光明を見出し、あがくような思いでそれを欲していたのかもしれず、
言ってみれば、磯野家の波平がサザエに手を出しているようなものであったグルーバー家においては、波平(アンドレアス)は少なくともマスオ(カール)のような入り婿---厳密にはマスオはいわゆる「入り婿」ではないが---を望んでいたのであり、
「肉体関係にあった娘のサザエ(ヴィクトリア)が、500m先に居を構え地境を接する農場を営む新郎の家に移ってしまう(別居)」という不愉快な結果が見えていたからこそ、波平(アンドレアス)も、それに頑強に抵抗していたのかもしれない。
しかし仮にそうだとすると、シュリッテンバウアーと結婚することによって現状から脱出するというヴィクトリアの一縷の望みも、今や絶たれてしまった。
ヴィクトリアが一人取り残される中、
「ヨーゼフの本当の父親はだれなのか?」
という口さがない噂話だけが、
村人たちの間で囁かれ続けることになったのである。