ヒンターカイフェック殺人事件・その5(マリア・バウムガルトナーについて) | 雑感

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ヒンターカイフェック殺人事件

(1922年3月31日、マリアは借り物のリュックサックに荷物を詰め、故郷キューバッハから、新たな働き口であるヒンターカイフェックまでの約16kmの道のりを徒歩で目指した)

 

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 マリア・バウムガルトナー(グルーバー家のメイド)について

 

マリア・バウムガルトナーは、ヒンターカイフェックから南西約16kmのところにある「キューバッハ」という田舎町で生まれた。

 

1876年10月2日生まれとの情報がある一方で、事件現場からやや西寄りの地点に建てられた供養碑には、マリアの生年について「1877年」と刻まれている。

(事件当時44~45歳。いくつかの情報を総合すると、「1877年10月1日生まれ」が正解ではないかと思われるので、以下、それを前提に。

ちなみにこの供養碑では、アンドレアスの生年は「1857年」となっているが、これに関しては、ヴァイトホーフェンの教会墓地にある一家の墓碑では「1858年」となっており、他の情報と合わせても「1858年11月9日生まれ」が正解ではないかと考えたので、アンドレアスについては1858年生まれとして扱っている。)

 

ヒンターカイフェック殺人事件

 

父親はマリアが11歳の時に、母親はマリアが27歳の時に、それぞれ亡くなった。

 

5人の兄弟姉妹があったが、2人の兄弟(4歳上の兄と2歳下の弟)は酒好きで、ひとところに留まらない性格をしており、

 

家を出たきり、便りもないまま何年も戻らず、ある日突然戻ってきては、また不意に出ていくという具合で、他の家族とは疎遠な生活を送っていた。

 

姉妹は、一番上に年齢不詳の姉がおり、マリアの下に一つ違いのフランツィスカ、さらにもう一人、姉か妹がいたが、こちらは1932年の時点で死亡していたという以外は生年氏名ともに不詳だった。

 

一番上の姉は第1次大戦中に死亡しており、詳細不明の姉妹のほかには、マリアとフランツィスカ、そして、流れ者のような二人の兄弟が残されているのみだった。

 

妹のフランツィスカは1904年に結婚し、事件当時はシュローベンハウゼンの東地区であるミュールリートで、夫や子供たちとともに暮らしていた。

 

マリアがかろうじて血縁らしい関係を維持できていたのは、事件当時は、このフランツィスカだけだった。

 

マリアには軽度の知的障害があった。

 

片方の足がもう一方の足よりかなり短く、歩く際に片足を引きずるなど歩行障害もあった。

 

バイエルン州には障害者として登録されていた。

 

未婚で子供はなく、キューバッハの実家で長らく母親とともに暮らしていた。

 

信心深い性格で教会には熱心に通っており、ダンスホールなど、男女の出会いの場に出かけるようなことはなかった。

 

フランツィスカによると、マリアには男っ気がなく、男と恋仲になるようなことはなかった。

 

亡くなる2~3年前のこと、マリアはフランツィスカに、「エックナッハの農場の使用人(あるいは牧夫)に求婚され、しつこく付きまとわれて困っている」と言ったことがあった。(エックナッハ=キューバッハの南西約7kmのところにある集落)

 

「それはいったい誰なの?」

 

フランツィスカが尋ねても、マリアはそれが誰なのかを決して言わないのだった。

 

事情で、事件に遭う数年前には持ち家---もとは両親のものだったそれ---を失っていた。

 

その家はバウムガルトナー家の親戚の女性が入手し、マリアはその女性のもとで居候をしたり、ミュールリートのフランツィスカの家に泊めてもらったりしていた。

 

居場所を求めて、農家で住み込みのメイドとして働いたりもしていたが、どこも長続きせず、奉公先をたらい回しのようになっていた。

 

マリアの手取りは安く、食べると着るとで精いっぱいであり、蓄えなどはなかった。

 

ヒンターカイフェックに来る直前には、キューバッハの南西約2~3kmのところにある「ウンターヴィッテルスバッハ」という集落の、とある老婦人の家で働いていた。

 

ところが、そこの区長が、「うちの地域には、障害者に居てほしくない」と言い出したため、マリアは途中でクビになってしまった。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

ヒンターカイフェック殺人事件

 

居場所を失ったマリアはやむなく、ミュールリートのフランツィスカの家に数日泊めてもらい、次にキューバッハの元実家に戻って、親戚のもとでやっかいになっていた。(1922年春)

 

やがて再びミュールリートを訪れたマリアは、フランツィスカに対して、「自分にはもう住む家もない。新たな奉公先を世話してほしい」と訴えた。

 

フランツィスカはこれに応じ、シュローベンハウゼンで仕事の仲介をしている女性のもとに赴き、姉のために何か仕事はないものかと相談すると、女性もこの話を請け負ってくれた。

 

マリアは再びキューバッハに戻って元実家で暮らしていたが、1922年3月の終わりごろ、先の仲介人の女性がフランツィスカのもとを訪れ、

 

「マリアに、いい仕事を見つけたのよ。ヒンターカイフェック農場というのだけど、そこの奥さんをあなたのところに送るから、話をしてみなさい」

 

ということを伝えた。

 

グルーバー家(ヒンターカイフェック農場)では前年の8月の終わりごろに、当時のメイドが屋敷内で起こる不気味な現象に怯え、「この家は何かにとり憑かれている」として突然辞めており、一家は代わりのメイドを探していた。

 

ヴィクトリアがミュールリートのフランツィスカのもとを訪れたのは、3月30日のことだった。

 

このときマリアはキューバッハにいたため、ヴィクトリアはマリア本人と会うことができなかった。

 

そこでフランツィスカは、本人を翌日(31日)にヒンターカイフェックに送り届けることを約束した。

 

1922年3月31日、マリアはキューバッハに住む知り合いの農婦に借り受けたリュックサックに荷物を詰め、みぞれの降る中、長い道のりを歩いてフランツィスカの家までやってきた。

 

そこからさらにフランツィスカに付き添われてヒンターカイフェックを目指し、到着したのが午後4時半~5時ごろだった。

 

フランツィスカによると、ヒンターカイフェックまでは1時間かからない程度の道のりだったが、途中で道に迷い、予定の時間よりも到着が遅れてしまった。

 

到着時、グルーバー家には、アンドレアスの妻ツェツィーリアのみが在宅だった。

 

農場の風景は、フランツィスカには薄気味悪く、うら寂しいものに感じられたという。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

 

しばらくするとヴィクトリアが帰宅した。

 

フランツィスカはヴィクトリアやその母ツェツィーリアと話をし、マリアが落ち着くのを待って、1時間ほどで農場を後にした。

 

フランツィスカが正面玄関を出て家路に就こうとしたとき、背後で物音がしたので振り返ると、マリアが目に涙をいっぱいにため、ぎこちない足取りで駆け寄ってきた。

 

マリアはフランツィスカを抱きしめたまま、しばらく行かせようとしなかった。

 

やがて、「また来るから」との言葉とともに、フランツィスカはマリアの腕をほどいた。

 

これが姉妹の最後の別れとなった。

 

数時間後、マリアは農場の一家5人とともに、何者かによって惨殺された。

 

遺体は、台所横の小さなメイド室の床で、格子柄の毛布に覆われ横たわっていた。

 

着衣は到着時のままであり、

 

借り物だった彼女のリュックサックは、まだ開けられてさえいなかった。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(画像中央、やや右寄りの木の根元付近に、供養碑が建てられている。農場の景色はフランツィスカには薄気味悪く、うら寂しいものに感じられたという)

 

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ヒンターカイフェック殺人事件

(今回、上のマリアのくだりで、大筋には全く影響しない部分ながら、いくつかの資料を突き合わせてみて、「確度的にどうか?」と思われた情報も---1か所---取り入れて構成しました。

上の画像は、ヒンターカイフェック農場とヴァイトホーフェンのカトリック教会の位置関係。実際の教会へのルートは、青の点線とは少し違い、おそらく農場の南側にある森---魔女の森と言われ、ここにも小道が通っている---を突っ切る形ではなかったかと思われます。

おそらく、「墓碑」の水色矢印の先端にあるそれが一家の墓碑だと思われますが、一つか二つはズレているかもしれません。事件に関心をお持ちの方で、ヴァイトホーフェンに行く機会のある方は、よければ、行って確認してみていただければと。)