『ブレードランナー論』その4 デッカードVSロイ・バッティ最後の死闘をどう見るか? | シネマの万華鏡

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ひさびさの新作記事が書けたところで、今日はブレランの続きにいってみたいと思います。

 

過去記事はこちら。

 

 

 

 

しかしブレランはネタが尽きませんね。さすが世界中でさまざまな解説本・関連本が出てる作品だけあります。「書きたい!」「読みたい!」という熱量を生み出し続ける何かがこの作品にはあるらしい。あともう少しだけ、書かせてください。

今回は、前回の雨の効果の話を踏まえたところで、クライマックスのデッカードとロイ・バッティの最後の戦いについて。

 

ブレランのレプリカント像

 

ブレランにおいてレプリカントとは何なのか? やっぱりこれは本作を観る上でどうしても突き当たる話だと思うんですよね。

『メイキング・オブ・ブレードランナー』にも書かれているように、フィリップ・K・ディックの原作と映画のレプリカント像には大きなズレがあります。

ディックのレプリカント像(「レプリカント」という言葉は映画オリジナルですがアンドロイドという点は同じ)の原型はナチスなのだそう。そう言われてみれば、ルトガー・ハウアーのアーリア人的な容姿や革コート風の衣裳はナチスの親衛隊を彷彿とさせます。その時代に生まれていたらナチスのプロパガンダ映画に出演させられていたかも・・・という雰囲気、ありますよね。実際ディックはロイを見て自分のイメージどおりの「冷酷で、アーリアンで、完全無欠」なルックスだと喜んだのだとか。

つまり、原作では人間らしい心を持たない人間の比喩としてレプリカントが登場するわけなんです。

ただ、ディックが観たのは作品の一部(20分間の特殊効果撮影完成版)で、恐らく前半部のロイ・バッティじゃないでしょうか? というのは、後半のロイは「冷血で完全無欠」というイメージからどんどん乖離していくからです。

 

ロイ以外のレプリカントたちは終始、彼らが人間を凌駕する強靭な肉体を持っていることを強調して描かれています。例えば、レプリカントの眼球工場でリオンが冷凍庫内に平然と手を突っ込むシーンや、セバスチャンの家でプリスが沸騰している湯の中のゆで卵を苦も無くつかんでセバスチャンに投げてみせるシーンも。

でも、ロイは違う。

デッカードとの最終戦の最中に寿命が尽きそうになった時、ロイは手に釘を刺してそのショックで意識を取り戻します。壮絶な表情・・・痛いんです、すごく。このシーンに関しては映画解説では必ずキリストの殉教を表現しているという話をひとしきりされて終わるんですが、私はそれよりもここでロイが激痛を感じていることに違和感を感じました。

この辺り、映画の中でも微妙にレプリカント像の揺らぎがあるように見えます。

 

ロイ・バッティのキャラ造形にロイを演じたルトガー・ハウアーの意見が色濃く取り入れられたことはよく知られていて、ロイが原作よりもずっと(さらに、当初映画で予定されていたよりもずっと?)人間に近い印象になったのはその影響が大きいのかもしれません。

そのせいでロイ・バッティは非常に魅力的なキャラになった。だからこそ『「ブレードランナー」論序説』の加藤幹郎氏のように「早すぎる死という魂を打ちひしぐ恐怖と戦い、まがりなりにもその恐怖を克服する」ロイ・バッティこそがこの作品の主人公だ、という主張も出てきたわけですが、じゃあ極めて人間くさいロイが本作の流れの中で浮き上がっているかというとむしろ逆。特に彼が人間以上に人間らしい姿を見せる死の直前の一連の行動も含めて、多少の矛盾を孕みつつも大枠では奇跡的なまでの調和を作り出していると言えるんじゃないかと。

 

「ブレードランナー」論序説 (リュミエール叢書 34)

 

観念の世界へのワープ

ところで、ロイがデッカードとの最終戦を展開する場面がきわめて特殊なのは、ロイが「人間性」を見せるというだけでなく、デッカードに憎悪や殺意を抱いているというよりは限りなくデッカードに何か根源的な問いを投げかけるために行動しているように見えるという点です。

ロイは一緒に反乱を起こし地球に潜伏していた仲間たちをデッカードに殺された。愛するプリスも。とことん彼を憎んでいるはずです。現にリオンはデッカードを憎み、彼を殺そうとした・・・ところがロイはデッカードの指を折ったものの彼に再び銃を握らせ、自分を撃つようにと挑発します。

デッカードを仕留めたところでロイ自身余命幾ばくもないとは言え、完全に理屈度外視。リアリティーが吹っ飛んでいて、不思議な展開なんですよね。

これもルトガー・ハウアーのアイデアで、本来はお互い死力を尽くしての格闘が見せ場になる予定だったところ、ルトガーが「生死を賭けたゲームみたいな」ものにしたいと提案し、リドリー・スコットもそれを気に入って、場面を大きく変更したんだそうです。

 

ちなみにこの場面でも、街のどこかから雨に乗って『平家物語』が聴こえてきます。しかも、意図していなかったとしたら偶然すぎるくらいに、「生と死を賭けたゲーム」にふさわしい一節が使われているんです。

 

 

実はシチュエーションにジャストミートなのに誰も触れない『扇の的』

(『平家物語』屋嶋の戦い「扇の的」の場面)

 

『平家物語』に関してはブレランを解説したいくつかの本を読んでも、全く解説のまな板に載せられていません。

外国人には内容は100%理解不能なのだから『平家物語』というチョイスに意味があるはずがないということなのか、日本人解説者も私の知る限りこれについて解説している人は(この曲が『平家物語』だと指摘している人はたくさんいますが)いません。

たしかに、日本人にすらよく聴き取れない部分が殆ど。唯一はっきりと聴きとれる箇所が、「入り日かたむく(屋嶋潟)」という一節で、ここで『平家物語』の「扇の的」だということが分かるんです。

雨の夜の湿った空気に乗って聴こえてくる『平家物語』はどこか物悲しくて、アクション・ムービーを盛り上げる効果はまるでなし。ところが、デッカードとロイ・バッティが繰り広げる戦いの「死を賭したゲーム」という側面に焦点をあてると、この場面にピタリとハマるから不思議です。

 

『扇の的』が歌い上げるのは、ご存知のとおり源氏と平氏の屋嶋の合戦の場面です。

屋嶋は瀬戸内海における平家の本拠地でしたが、平家は陸で敗北し海上に追いやられます。平家の巻き返しの可能性はもはや薄れかけている・・・そんなある日の夕刻、平家方の船団の中から美しい官女が乗った小船が前に進み出て、舳先に立てた扇を射抜いてみよ、と誘います。

敵も味方も見守る中、この扇を見事に射たのが源氏方の那須与一。その瞬間、敵味方であることを忘れたかのように与一に喝采をおくる源平の武者たち。あたりは斜陽に包まれた夕刻、滅びゆく平家の美学が不思議な情感とともに心に沁みる1コマです。

この「扇の的」の光景、どことなくロイ・バッティがデッカードに仕掛けたゲームに重なるものがあります。ことに、この場面の持つ、とびきり幻想的な雰囲気、そして滅びゆく者の美意識を際立たせたあたりが。

 

デッカードと内なる声との問答

(この場面はロイがセバスチャンを介してタイレルとチェス対戦する場面と対応しているんじゃないかと。タイレルの部屋のチェスの駒はレプリカントの形をしていて、ロイがチェッカー柄の壁を突き破るこのシーンは、彼がチェス盤=人間の支配から完全に逸脱したことを示しているように見えます。そして「ゲーム」という共通のキーワードも)

 

「カモン、デッカード! 俺はここにいる。真っすぐに撃て」
「さあ、どう生きのびるのかな。(How to stay alive?)」
「(死と隣り合わせで生きるのは)恐怖の連続だろう? それが奴隷の一生だ」
映像は霧と点滅する光に包まれ、どこからともなく聴こえる『平家物語』の琵琶の音色と姿の見えないロイ・バッティの遠吠え(!)がこだましている。この上なく幻想的なシーンです。

初めてこの場面を観た時、これはもはや狩られる側と狩る側の死闘の場面というよりも、非常に観念的で哲学的な領域にワープしたシーンだ、という印象を受けました。それは今も変わらない、むしろ今や確信に近いものに変わっています。

 

ルトガー・ハウアーとリドリー・スコットが一体どんな意図でこの場面を作り出したのかはわかりませんが、冥府からこだましてくるようなロイの声はどこかデッカードの深い内奥から湧き上がってくる心の声のようにも聞こえる。もっと言えば、この場面のロイ・バッティは、デッカードの分身と化しているのではないかという気がしてなりません。

というのは、上にも書いたようにロイはすでに自己防衛や仲間の復讐のために戦っているのではなく、デッカードに命のはかなさ、支配される者の悲哀、赦す心の崇高さを教えるためだけに最後の力をふりしぼっていると言っても過言ではないからです。

完全にリアリティを超越していながらも、もしかしたらロイが終盤きわめて人間的になっていくのは、デッカードの分身的な立ち位置から彼に問答を仕掛けるという展開のための必然性からではないか?と思ってしまうくらいに、コアな問いかけがなされていく。奇しくも(あるいは意図してなのか)、この場面に本作のテーマが集約されているんです。

 

そして、前回書いた雨の日のなつかしさがここで威力を発揮します。

世界にこだますようなロイの声が、雨が引き出す懐かしさと相俟って、まるで自分自身の潜在意識の底から湧き上がってくる問いのように、心に深く刺さるんですよね。

ずぶ濡れになってよろけながら逃げるデッカードを、

How to stay alive?

というロイの声が追ってくるあたり、自分自身が生き方を問われているようで。

ここは凄く好きな場面。時々ロイの声が聴きたくなって、何度も観てしまうところです。

 

レプリカント疑惑こそ主人公がデッカードである証し

 

さて、殺そうと思えば殺せたデッカードを救い、「俺はおまえたち人間が想像もつかないような光景を見てきた・・・」と短い生涯を総括し、息絶えたロイ。彼の魂の昇華を象徴するかのように天高く飛び立つ白い鳩・・・

とてもヒロイックなロイの最期。かたやデッカードは敵であるはずのロイに救われた上、彼の死を傍観していたにすぎない。これは主人公逆転論が出てきてもおかしくありません。

もっとも、ロイがデッカードに吐露したレプリカントの悲哀が、この後デッカード自身に降りかかってくるものだとしたらどうでしょうか?

 

デッカードがユニコーンの夢を見るシーンと、その夢を何故かガフが知っていることを暗示するユニコーンの折り紙をデッカードが拾い、何かを悟ったように頷くラストシーン、劇場公開版では削られたもののその後ディレクターズ・カット版で復活したこれらのユニコーン絡みのシーンは、デッカードがレプリカントであることを仄めかすものです。(これは『メイキング・オブ・ブレードランナー』巻末のリドリー・スコットインタビューで、監督自身が認めている話です。)

人間以上に人間らしく生を全うしたレプリカント・ロイの死を見届けた後、人間であるはずのデッカードが実はレプリカントだったことが判明するというオチ。

個人的には、このオチがあってこそフィリップ・K・ディックらしさが生きてくるし、デッカードに主人公のたすきが戻ったと言える気がします。

劇場公開版のデッカードとレイチェルが緑の中をドライブするハッピーエンドって、「酸性雨のディストピア設定はどうなったんじゃい!!」と叫びたいくらいに、違和感がある。(そうか、つまり違和感をさしはさむことで「この結末はフェイクだ」と宣言していたのかもしれないですね。)

 

ロイ主人公説を展開された加藤幹郎氏は、デッカード=レプリカント説を否定されています。たしかにここを否定してしまうと、デッカードは主人公には見えないかもしれません。

加藤氏は映画は完成したら作者の手を離れたとえ作者の製作意図がどうであろうとも解釈に影響を与えるものではないとの立場を取っておられ、「(ユニコーンの折り紙は)せいぜいのところ擬餌にすぎない。そしてそうした擬餌と戯れ、あからさまな謎に拘泥するところに、残念ながら、この映画の監督リドリー・スコットとその尻馬に乗る評論家たちの想像力の限界がある。」と書かれています。(ちなみに加藤氏によれば「インターネット上の解釈者」はもっとタチが悪く、作者本人によって意図的に流布された「作者の意図」を鵜呑みにしているだけの存在だそうで。)

しかし、映画評論家の見識がいかに確かであろうと、作者の製作意図を否定しうるほどの見識というものが存在するのか、私にはわかりません。

個人的にはそういう議論よりも、作者が発表した製作意図は売らんかなの方便なのかそれとも真実なのかを吟味した上で取り入れるほうが好みですね。

 

いずれにしても、私はファイナルカット支持派です。

スタッフの中にはデッカード=レプリカントという設定には反対意見が多かったということですが、その理由は「観客が共感できないから」という興行的理由が大きかったとか。

でも、私自身はむしろデッカードがレプリカントであったほうが、彼が最後に大きな十字架を背負ったという意味で、共感を呼ぶ気がするんです。また、上にも書いたように「フィリップ・K・ディック作品らしい世界の相対化」でもあると思うので。

皆さんはどう感じられたでしょうか? ぜひご意見をお聞かせくださいね。