『ブレードランナー』論その3 雨とレトロフィッティングが作り出す懐かしい未来 | シネマの万華鏡

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『ブレードランナー』論その1はこちら

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ようやく図書館で参考文献を借りられました。ビフォア・コロナの時代なら予約した翌日には届いたんですが、今は誰かが触ってから72時間経過してから貸し出しというルールになっているそうで、時間がかかります。でも、図書館閉館期間の悶絶状態を思えば、借りられるようになっただけで感謝しなきゃですよね。

 

『メイキング・オブ・ブレードランナー』、面白いです。『岡田斗司夫ゼミ#201』も結構この本がネタ元になっていることがわかったので、この本に基づいて前回の内容を少し修正しています。各シーンの意味やブレラン各バージョンの違いの詳細は勿論、7ページ・29項目にわたる「ブレラン間違い探し」まで! マニア心をくすぐる、ブレランファンのバイブルですね。

さらに、去年こんな本↓も出ていたようで。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』映画化のそもそもの発起人であるハンプトン・ファンチャーの本。これも機会があったら読んでみたいですね。

 

とりあえずこれで予定していた材料が揃ったので、今日は個人的にブレランがカルト化した大きな要素の1つだと思っている「雨」について考えてみました。

 

今回のテーマ:雨とブレラン

ご存知のとおり、ブレランの世界、すなわち2019年のロスには間断なく酸性雨が降りそそいでいます。(ちなみに原作では雨は降りません。) 酸性雨というからには何か害があるのかと思いきや、そういう描写はどこにもない・・・つまり、雨はストーリーに直接影響を及ぼす要素ではないんです。
たしかに、酸性雨は近未来のディストピアの殺伐とした光景にとてもふさわしい。でも、映画の中で終始雨を降らせるのは、それだけで製作難度を引上げてしまいます。殺伐とした光景・陰鬱で希望のない世界を描くだけなら、もっと別の方法もあったはず・・・にも拘らずリドリー・スコットが雨にこだわった理由は、一体なんだったのでしょうか? そして、雨がブレランにもたらした効果とは何なのか。

これが本日の課題です。

 

ブレランと『エイリアン』、そしてホドロフスキーの『DUNE』

本題に入る前に、ブレランの世界観に関してちょっとだけ面白いことが分かったのでその話を先に。

リドリー・スコットがブレランの世界観を構築するにあたって、フランスのグラフィック・アート雑誌『メタル・ユルラン』(英語版は『ヘヴィ・メタル』)の世界観をイメージに取り入れていたことは岡田斗司夫ゼミでも触れられています。

『メイキング~』の中でリドリー・スコットはこんなふうに言っていて、かなりこの雑誌、中でも特定のアーティストに惚れ込んでいたようです。

「(『メタル・ユルラン』の中で)特に、本名はジャン・ジローだが”メヴィウス”という名で知られたフランス人アーティストの作品(ヴァンドデシネ)がよかった。(中略)平凡な要素と空想的なものとを並列に並べるというメビウス一流のやり方・・・センスがいいのかもしれない。あるいは、単純に彼の作品が存在だというだけのことかもしれない」

 

そう、リドリー・スコットが惚れ込んでいたのはメヴィウス。この人、実はホドロフスキーの幻のSF大作『DUNE』の絵コンテを描いたことで知られるカリスマ的バンドデシネ作家なんですよね。(下はメヴィウスの画集)

 

MOEBIUS Chroniques Metalliques

 

『DUNE』は、製作陣にダン・オバノンとH・R・ギーガーというのちにSF映画界に名を轟かせることになる2人を始め、出演者にはサルバドール・ダリやオーソン・ウェルズなど、今思えば目もくらむような豪華絢爛なメンバーで製作されるはずだった超々大作。ホドロフスキーの嗅覚の鋭さ、人脈の広さが窺えます。

しかし、一旦はハリウッドで製作にこぎつけたものの、結局映画会社のほうが腰が引けてしまい、ホドロフスキー版『DUNE』はボツに。その後、失業したダン・オバノンやギーガー、メヴィウスは『エイリアン』の製作に関わることになります。

言うまでもなく『エイリアン』はリドリー・スコットが監督した作品。『エイリアン』の成功を受けて、映画会社は今度はリドリー・スコットに『DUNE』の監督話をもちかけ、リドリーもその気になっていたんですが、どういう経緯か結局『DUNE』はデヴィッド・リンチ監督の下に映画化され、あのひたすら評判の悪い『DUNE/砂の惑星』が出来上がる、というわけです。

 

(ホドロフスキーの『DUNE』に関して詳しくはこちら

 

『エイリアン』の成功の蔭に、ホドロフスキーが発掘して映画界に引きずり込んだアーティストたちの功績があったことは周知の事実ですが、リドリー・スコットがブレランの製作にあたってもメヴィウスのバンドデシネをイメージに取り入れていたというのは初めて知りました。(ただし、メヴィウスはブレランにはクレジットされていないので、あくまでも世界観の参考にしたという話でしょう。)

ある意味で『DUNE』が実現しなかったからこそ『エイリアン』の成功があったと言えるし、ブレランもまたその恩恵の川下にあるということでしょうか?

リドリー・スコットの作品の中で、この2作だけがどこか違うDNAを持っているように見えるのは、もしかしたら『DUNE』の影響を結構受けていたせいかもしれません。それでいて、ホドロフスキーより圧倒的に洗練されていて一般ウケするものを作ったわけですよね。

 

リドリー・スコットは初めから雨にこだわっていた

(あらゆる場所が雨に濡れていることで独特の世界観が生まれる)

 

さて本題の雨です。この件は、メヴィウスではなく、本作に「ビジュアル・フューチャリスト」として参画したシド・ミードに関係しているようです。

シド・ミードが映画製作に関わったのはブレランが初めてではなく、1979年の『スタートレック』にもプロダクト・イラストレーターとして関わっているのですが、世界観構築にどっぷり関わったのは本作が初めてだったみたいですね。


『岡田斗司夫ゼミ』によれば、シド・ミードのデザインする車が気に入ったリドリー・スコットが、「車だけでなく車が走る環境のデザインにもかかわりたい」と言うミードにブレランの世界観を描かせてみたところ、出来上がったのがこちらに掲載されている「夜の街並み(Downtown City Scape)」なのだそう。で、この絵の濡れた地面がリドリー・スコットのツボに入ったのだという話でしたが、別の記事では、リドリー・スコットがシド・ミードの起用を決めたのは、彼の画集にあるCity On Wheels(雨の高速道路を走る車のイラスト)が決定打だったと書かれています。

どちらが真相なのかはともかく、どちらの絵にも雨(あるいは雨に濡れた街)が描かれている点は注目すべきでしょう。

 

初めから雨の夜という環境で撮影しようと思っていたからリドリー・スコットはシド・ミードの絵を気に入ったのか、それとも、シド・ミードの絵を見て雨の夜の世界観を思いついたのか? そこのところははっきりとしないのですが、いずれにしてもリドリー・スコットとシド・ミードが2人とも雨の夜の光景という絵ヅラに魅せられていたことは間違いないのかもしれません。

 

もっとも、『メイキング~』に収録されたインタビューの中でリドリー・スコットは、最終的に夜✕雨という設定にすることを決めたのは、屋外撮影所で撮影しために余計なものが見えないようにする必要があったためだ、と味気ない話をしています。

なんだか拍子抜けするような話ですが、リドリー・スコットはこの作品に関するインタビューでしばしば同じ質問に違う答えをしているようなので、本当にそれだけだったのかどうかは疑問です。

もしリドリー・スコットの言うとおりだとしたら、雨を降らせたことで得られた「背景隠し」以外の効果は全て偶然の産物。それにしてはブレランにとって「雨」の効果はとてつもなく大きい。雨なくしてブレランは語れないほどです。

 

ブレランを観る人は何故懐かしさを感じるのか?

私が思う「雨がブレランにもたらした効果」の1つに「懐かしさ」があります。

初めてブレランを観た時に一番強く感じたのが、これでした。この光景、この音、どこかで経験したことがある・・・そういう気持ちにさせるんです。

この感覚が私だけのものではないことは『ブレードランナー究極読本』の中に「「ブレードランナー」の懐かしい未来」というコラム(文:添野知生)が掲載されていることからも明らかです。

「ちょっと待て、全くわかっちゃいねえな。ブレランが懐かしいのは、リドリー・スコットが「レトロフィッティング」という技法を使っているからだ。この街は未来だけど同時に懐古趣味をくすぐるようにできてるんだよ。」

と言われる方もいらっしゃると思います。たしかにそれはその通りなんです。

「レトロフィッティング」とは、「古い機械や建造物に新しいものを付け加えていって改良する」(『メイキング~』による)こと。ブレランの世界は、古い街並みの土台はそのままに近未来の要素が付け加えられた都市。だから、未来でありながらどこか懐かしさを感じる・・・というわけなんですね。

リドリー・スコットは「映画は七百層にもなったレイヤーケーキみたいなものだ」と言っている通り、レイヤリングという技法を得意とする人。このレトロフィッティングも、建物や機械の上に形態の変遷という「歴史」を重ね上げていくと言う意味では、一種のレイヤリングと呼べるのかもしれません。

ただ、雨もまた別の方向からこの作品に懐かしさを加えていると私は思っています。

雨の日に懐かしさを感じた経験、ありませんか?

これ、どうやら個人の感覚にとどまらない、集合的無意識ともいえる感覚のようなんですよね。

何故そうなのか、私はまだ見つけられないでいるのですが、ひとつ言えることは、雨の日には普段聴こえないような遠くの音ーー例えばずいぶん遠くにある線路を通過する列車の警笛など--が聴こえることがあって、そういう音が耳に入ってきた時に、とりわけこみあげるような懐かしさを感じるということです。

ふわっと風に乗ってくるような、雨の日特有のこだまし方で聴こえてくるそういう音を聴いた時、何故か物理的な距離ではなく時間的な距離のある場所、つまり遠い過去の記憶の中から聴こえてきたような気持ちになる。

「胎児の頃の記憶」といった話は私はあまり信じないほうですが、それでもこればかりは、母親の声を羊水の中で聴いていた頃の記憶につながっているのではないか・・・と思うことがあります。

なにしろ、理屈では説明できない類いの懐かしさ、だからこそ心の深い層までしみわたっていく気がして。

ブレランの中で言えば、街にどこか遠くから(芸者ガールの看板からでしょうか?)こだましてくる平家物語の謡声、あれなんかまさに私のイメージする「雨の日特有のこだまし方」そのものなんですよね。ブレランの中では、雨が降っているだけでなく、「雨の日の音の感じ」もちゃんと再現されているんです。

この「雨の日特有の音のこだまし方」は、本作全体の(とりわけ終盤のデッカードとロイ・バッティの戦いの場面の)冥界のような雰囲気を作り上げる上で最もその効果を発揮している気がします。

本作の「冥界性」に関しては次回以降また詳しく書きたいと思います。

 

ちなみに、本作は原作者フィリップ・K・ディックとは非常に険悪な関係の中で製作されたようですが(原因はリドリー・スコットが「原作を全部は読んでいない」と言ったことなど諸々)、特殊効果撮影の完成版上映会でディックに映像を観せたところ、ディックは感動すら表して、「正確な映像じゃないが、私が原作を書いている間に心に浮かんだ映像の肌触り、トーンそのものだ!」と言ったのだとか。ディックの原作には雨すら降っていないのに・・・ディックが感じた「既視感」も、もしかしたらこの「懐かしさ」というポイントと無関係ではないのかもしれないですね。

 

雨とネオンサインが作り出す猥雑なのに幻想的な世界

 

もうひとつ、雨の効果として私が主張したいのが、光と雨が生み出す幻想的な映像です。

ブレランという映画は、夜の闇に包まれながら、同時に光に溢れています。光と闇のコントラストに物凄くこだわった作品だと思うんです。

無数のネオンサインが煌めく猥雑なダウンタウンも、黄金の塔のように光り輝くタイレル社も、脈拍のような規則的リズムで光と闇を交互にもたらすサーチライトも・・・どのシーンをとっても、光と闇が表裏一体に混在していて、それが雨の情感と相俟って幻想的な世界観を作り出している・・・とにかく惹き込まれる世界です。

 

多分、もしこの映像から雨を取り払ったとしても、それはそれで鮮明な美しい映像として成立するかもしれませんが、ただ、幻想的な印象はかなり削がれてしまうんじゃないでしょうか?

でも、私が思うに、この映画は幻想の霧に包まれていなければならない。特に終盤。雨はあのクライマックスのために必要な装置だと思うんです。

これも、音と同じく「冥界」という話につながるので、また続きは次回に。

続きは少し間を置いて、じっくり本を読んだ上で書きたいと思います。