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伊丹万作氏の文章を紹介している昨年の記事ですが、
改めて読むと、また考えさせられました。
終戦の日の今日、再掲したいと思います。
だまされたものの罪は、
ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、
家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた
国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
-伊丹万作 「戦争責任者について」より抜粋ー
最近ショックだったこと。
伊丹万作(映画監督1900-1946。俳優・映画監督の伊丹十三の父)の「戦争責任者について」は、
映画界の戦争責任者を追及する運動に関して、考えを述べたものです。
一部を目にする機会があり全文を探してみると
青空文庫にありました。
戦争が出てくる小説や、ドラマ・映画では、
庶民はひたすら被害者で、
憎むべきは国の上層部と描かれています。
戦時下の国民は、「だまされていた」し、不自由な生活も上から「強要されていた」,
だから責任は上にある。わたしは、そう思っていました。
(隣組長などの圧力も、彼らも「だまされて、上から抑えつけられた結果」と見ていた)
ところが、終戦の翌年に書かれたこの文によると、
庶民は、だまされるばかりの被害者だったとは言えない、と。さらに、
いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
現代は、情報も行き渡るようになったので
もう戦時中みたいなことには、ならないはず、と上から目線でいましたが
戦時中の描写を見ると、今もちっとも変わらない!
ショック
新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。
家畜的盲従とは強烈な表現ですが
あとで「だまされた」と言い逃れしても遅すぎる。
信念を持って行動の選択をしようと、肝に銘じました。
ぜひ読んでみてください。
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2021年7月26日
「国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」
■わたしたちは、さまざまな勘違い・思い込みにとらわれて、自分自身を低く見積もり、心の自由を自ら手放しています。