記憶の記録 19.四年夏
浜辺に咲く
淡く青い朝顔が
晴れ渡った青空の陽光に
照らされて、海は穏やかに
波を立てずに静まっていた。
のんびりと流れる時間は
わたしの頭の中にある
かき乱していた方々にある不安を
掬いさらっていった。
思い残すことはもう無いと、そう言える日はきっと来ないんじゃないかな。
わたしはそんな不安を持ちつつ、
みかげ君とわたしの両親を連れて、沖縄にやって来た。
父の病気を境に、いつからか死を気にするようになり、
そしてせめて一度はこうした旅行をしてあげようと、みかげ君の賛同も得てやってきた。
行きたい場所はわたしが決めてしまったのだけれど。
本部半島の水族館でクジラを見て、
古宇利島で満天の星空を眺め、
名護のホテルで夜を過ごした。
途中、沖縄らしい大雨に降られて、
みんなずぶ濡れになって服を着替える
そんなアクシデントもありながら過ごす時間を楽しみ、
あっという間に一日は過ぎていった。
浜辺で強い陽射しを受け、ぼおっと過ごしていると
白い砂浜に青い花が浮かんでいるかのように見える。
「静かな朝だね」
父はわたしの後ろからそっと話しかけてきた。
「来れてよかった」
「望んでいたことは、本当にやろうと思えば叶うんだ」
父は誰かの名言を引用したかのように言う。
わたしは少し笑み何も言わずにその言葉を受け止めた。
自分の命を感じて、わたしに何かを残そうとしているのかもしれない。
すぐというわけではないけど
いずれそういう日もくると
ほのかなうれいを感じさせてわたしに伝えた。
浜辺の向こうでは母とみかげ君が楽しそうに談笑している。
その内容までは聞こえてこないけど、きっと楽しい話をしているのだろう。
…
いつも迷ってばかりだった。
娘は私に似てすぐに行動に移せない。モヤモヤした気持ちばかりでスムーズにもスマートにも動けない。
たった一つ驚いたことは、今の仕事を決めたときだ。
迷いはあったのかもしれない。それでも仕事を決めたときにはなんの前触れもなく私たちに自分の仕事を説明してきた。
それから娘は私には手の届かないほどの成長を遂げた。
距離的な隔たりができたのもあるけれど、私には出来ないかのようなスムーズな決断をするようになっていた。
そういえば、みかげ君との結婚も、いつの間にか決まっていたかな。
たった一つではなく、たくさんの行動が彼女を動かしている。
どきどき迷い、家に帰ってくるときも、その弱さが愛らしい。
いつかそんな娘への思いを本人に伝えるべきか、迷っているのは自分の方だ。
思い返せば自分自身の親には何もしてあげられなかった。思い返してももう遅い。ただ今、私は娘といれて幸せだ。
…
父は物静かに海を眺めていた。
どきどきこうやってぼおっと考え事をする姿を見かける。
言いたいことがあるなら口を開けばいいのに
つむんだまま。動かない口が苛立たしい時もある。
だいぶ日差しも強く、
病気もした高齢な父がいつまでも日射の下にいるのはきついだろう。
「そろそろ行こっか?」
わたしは言った。父はその声で現実に引き戻されたかのようにわたしの方を見た。
「そうだな」
そして大きな声を出す。
「おおーい。行くぞー」
珍しく出た父の大きな声。
そして両手を広げ、母とみかげ君を呼んだ。
どきどき父はふいをつくような行動に出る。そんな父がおもしろい。
「おーい、行くよー」
わたしも大声で二人を呼んだ。
母とみかげ君も大きく手を振り返して応えていた。
「オオー!行くぞー」
母が応える。
みかげ君はこんな山野一家についてこれず、ただ手を振っていた。
わたしたちは親子だ。
たとえ永遠の別れが来ても、今も、これからも。
記憶の記録 18.四年春
四十代半ばの客人だった。
「記念に何かを残さないかと言われまして」
と彼は言って現れました。
いったいこの人は誰に紹介されたのか、
それについてはいっさい触れようとしません。
客人はただ悩み、いつの出来事を記念に残すのがよいかを、
わたしに相談し続けました。
こういったケースは珍しい。
たいていの客は記念に残したい物語が決まっている。
「そうですね」わたしは過去の公開されている書籍をタブレットで紹介していく。
「例えば、楽しかった旅行の記憶を起こすとか、
子供の頃の忘れていた記憶を呼び起こしながら文章にしていくとか」
彼は首を捻るばかりで肯定的な素振りを見せない。
「学生時代の物語、飼っていたペットの話、
恋人との話、なんてのもありますけど、
家族の話が一番多いですかね」
ペラペラと例となりそうな出版物を開き、彼に見せていく。
彼の強張った表情は全くほどけない。
結局その日は何も決まらないまま、
陽射しの暖かくなり始めた都会の路上へ客人は去っていった。
その客人が次に会いに来たときはこう訊ねてきた。
「どうして自分の物語を残さなくてはならないんですかね。
それは誰のためですかね」
わたしには本が完成した時の依頼主の顔が浮かぶ。
それぞれの想いを持って胸いっぱいに喜ぶ。
「本は、本人のためのものです。
公開されている方も、基本的には自分の事を知ってほしいという思いから書きます」
「なら、やはり、私はいいです」
「でも、すでに費用も振り込まれていますし、
何かしら残されてみてはいかがですか?」
ホームページの依頼フォームに入力してカード払いの決済も通っている。
通常、最初は問い合わせがあり、説明をしてから実際に書くか書かないかを決める。
「お支払いした分は返済しなくて構いませんので」
「いえ、そういうつもりで言ったのではなく、そういうわけにはいきませんので」
しばらく沈黙が続いて、客人は口を開いた。
「むしろどちらかといえば、
自分の人生なんて何も残したくはないと思ってしまったので」
わたしは沈黙した。そして彼がここに来た理由を考えた。
その時、一つの答えが生まれた。
「すみません。あなたのためではないかもしれません。
あなたに書いてほしいと望んでいる誰かのために書くのかもしれません」
再び少しの沈黙があり、やがて彼は口を開いた。
「あの人は、私に何を望んでいるのか。私に資金を援助してくれた。
実は、私は死のうとしていたんです」
「あ、あの、それは」
思いもよらない話に、私の声は漏れた。
「生きていてもつまらないばかりの人生でした。良いこともあったのかもしれません。
でも思い出は浮かべれば苦しくなるばかりです。
SNSで自殺サイトを見てる中で、その人と出会いました。
そして私にここを紹介してくれました。
『どうせ死ぬなら死ぬ前に何かを残してみないか』と」
わたしの心臓は飛び上がりそうになった。
「あの、では、書き上げたら死ぬんですか?」
「書き上がったらそのつもりでした。
でも書けません。
だから死ねません」
心の中で一つ大きな安堵のため息をついた。
「では、取り下げで宜しいでしょうか?」
彼はそれにも首を横に振った。
「いや、それは」
今度は心の中で大きな落胆のため息をつく。
いったいどうすればいいのか。でもこのままこうしていてもどうにもならない。
「では、いったん預からせていただきます。
書きたいものが決まりましたら、お会いしましょう」
「ええ、そうしていただければ」
彼もまた安堵したかのような笑みを浮かべた。
死を決心し最後に残すための私小説、
わたしはとんでもないものを預かってしまった。
彼を死なせるわけにはきっといかないだろう。
今は待とう。
彼が心変わりしてくれる日が来るのを信じて。
記憶の記録 17.四年冬
年明けの空は青々と晴れ渡っていた。
風一つなく穏やかな陽気、
朝晩は冷え込むけど過ごしやすい一年の初めだ。
結婚して初めての元日を夫の実家で迎えている。
親戚付き合いが増えるのも結婚した証なのだ。
みかげ君は愛媛県生まれだけど、両親は川越に住んでいる。
愛媛の方は彼の父親の地元だった。
みかげ君のご両親は愛媛の大学で知り合い、そのまま愛媛で結婚した。
父親の実家は土地持ちだったから、両親はその土地に家を建てて暮らしていた。
そしてみかげ君は生まれた。
父親は近くの食品会社に勤め、母親は専業主婦だった。
みかげ君の一族は代々役所勤めだったけれど、
父親は民間の会社に就職した。
川石一族の継承は伯父に託されていた。
伯父には一男二女がいて、一族は安泰にみえたが、
大学で東京に出た長男は卒業しても帰ってこなかった。
伯父は、役人になるのが嫌だと言っていた、みかげ君の父親の影響を、息子が受けてしまったのではないかと苦慮し、自らの弟を責めたそうだ。
「あの頃はほんと、やだったなあ。自分も受験勉強中だったから二階で勉強してると、一階で親と伯父が揉めててさ。けっこう怒鳴り声が凄かった」
みかげ君はいつかそう語っていた。
そしてわたしは温和そうに見えるみかげ君の父親からは怒鳴り合う姿は想像できず
「みかげ君のお父さんもけっこう怒鳴るんだねえ」
と感嘆すると
「いや、違うよ。母さんの方だよ」と返してきた。
わたしは感情的なみかげ君の母を思い出して、納得してから笑った。
そしてみかげ君が東京の大学へ入学するのと同時に
両親共々川越へ引っ越してきた。
愛媛の伯父とは祖父が亡くなったときにも揉め事になった。
まったく帰ってこない弟を伯父は責め、
みかげ君の父はわずかな相続金をもらっただけで土地やらなにやら多くの資産を放棄し伯父に渡す結果になった。
結局、伯父の息子は愛媛に帰ってきて、今は愛媛で結婚して市議会議員を目指している。
みかげ君たちと伯父たちはそれ以来絶縁となり、結婚式には伯父一家も祖母も姿を見せなかった。
だからわたしはみかげ君の親戚には母方の人たちとしか会ったことがない。
みかげ君の両親は年老いた婆ちゃんと共に暮らす。
わたしの両親より一回り若い。
そして正月はみかげ君の母の妹一家もやって来て一緒に過ごしている。
狭いこたつの部屋で座る場所も困り、わたしは端っこにちょこんと座る。
「よくきてきれたねえ、そんな場所じゃ足が寒いでしょ」
婆ちゃんは皺たくさんに笑み作り、わたしを自分の側のこたつに足の入る場所へ呼んだ。
足が暖まる。
わたしの祖母は両親とも、
わたしが小学生の時に亡くなっていて、思い出はあまりない。
だからこの優しい温もりが心まで伝わる。
「お父さんは元気?」
今度はみかげ君のお母さんが、秋に腸閉塞を患った父を心配してくれた。
「ええ、もう全然、大丈夫みたいで。少し痩せましたけど、家で普通に過ごしてます」
みかげ君の家族は温かく優しい。父方の家系については不明だが、みかげ君の性格はこの母方の家系の血を引いているのだろうと勝手に想像する。
みかげ君とお義父さんは黙って、
新春のテレビを見て、
ビールを飲んで、
おせち料理をつまんでいる。
「お雑煮食べる?」
台所の方から、
叔母さんが顔を出して聞いてきた。
「あ、いただきます。手伝います」
「いいのよ座ってて」
立ち上がろうとしたわたしを制止して、
叔母は台所へ引っ込んだ。
やがて運んできたお雑煮は、
濃いめの醤油味が利いた懐かしい味がした。
ここにわたしの第二の実家がある。
いつかここで暮らすこともあるかもしれないし、とみかげ君は言っていた。
それも悪くないと、わたしは心に止めた。
記憶の記録 16.三年秋
とかくうまくいかない気持ちに陥ると、しばらくの休暇をもらって実家へと帰る。
意味もわからずヒステリーになり、みかげ君をおいてけぼりにして一人帰ってきた。
日も沈みかけ、鈴虫が鳴き声が響きだした。
バス停から家までの長い農道を一人歩いて帰る。
田んぼの稲は刈り終えていて、稲のない
殺風景な土の大地が一面に広がっている。
もうすぐその景色も完全に闇に包まれ、農道を照らす
外灯だけの一本道が姿を現す。
吹き抜ける風は涼しく、秋の始まりを告げている。
家の前の灯りに安心し、家の玄関を開ける。
「ただいま」
「あら、いらっしゃい」
母はまるで知り合いでも訪れたみたいに、我が娘を出迎える。
わたしはお土産のクッキーを渡す。
「わあ、嬉しい。これ食べたかったのよ」
これで母の機嫌は良くなる。
家に上がり、居間へ行くけど父の姿がない。
「お父さんは?」とわたしは母に尋ねる。
「うん、なんか調子悪いって言ってる。寝てるのよ」
「どうしたの?風邪かな」
「なまけてるだけよ。すぐに調子悪いとか言って、まったく」
母は父の病状も気にせず、イライラしている。
わたしは父の寝る寝室を訪れる。
「お父さん、入るね」
「ああ、お帰り。すまんな。せっかく帰って来たのに寝てて」
「ううん。いいよ、別に。それより体調は?」
「ああ、なんかだるくてね。ただの老人病だよ」
「病院は?」
「いや、いってないよ」
「またあ。だからお母さん怒ってるんだ」
「たいしたことないって」
わたしが生まれて間のない頃、父は大病を患った。
肝炎が悪化し、二週間の入院となった。
かなり悪化するまで病院にいかなかった父を、母はかなり心配したという。
父は病院嫌いで、なかなか医者にいかない。たいしたことのない病気で病院にいくのは人手の足りないお医者さんの仕事の妨げだとかいう。
本当はただ病院が嫌いなだけだ。わたしも母もその意見で一致している。
「よくならなかったら病院いくのよ」
わたしはそう一言残して部屋を出た。
居間に戻ると秋刀魚のいい香りが漂っていた。
「いい香りねえ」
「ねえ。安く売ってたの。それから」台所から現れた母は栗ご飯を茶碗に盛って
やってきた。「やっぱりこれよねえ」
「それも安かったの?」
「これは、食べたかったの」
秋の始まりに引っ張られて、母は秋めいたご飯を用意する。
「いただきます」と言って栗ご飯は箸で掬う。
口の中に広がる栗の甘味が嬉しい。確かに秋はこれがいい。
結婚式の引出物で買ったという壁掛け時計はまだ8時を指している。
一日は長い。
秋の長湯。
田舎の古い造りのお風呂は気持ちいい。
湯気がもわもわと夜空に吸い込まれていく。
こんな田舎だから窓を開けていても気にならない。
田舎は田舎の安心がある。
お風呂上がりに家で作った梅シロップのソーダを飲む。
シャワシャワとして、程よい酸味と甘味が口一杯に広がる。
「ああ、おいしい」
「でしょ。今年は上手にできたの。少し持って帰る?」
自慢げに、
そして、当然でしょという気持ちも含みそう言う。
「あ、うん、重たいから少しだけね」
「じゃあ」
母は早速小分けのボトルに梅シロップを詰めに行く。
それからしばらく母と好きなドラマを見て、バラエティ番組を見て過ごした。
夜が更けて、眠りに空いている部屋へと移る廊下の途中に、父の寝る部屋がある。
少しだけ立ち止まって心配する。もう後期高齢者だ。
この先、母と二人でここに居続けることを気の毒に思う。
その夜は何もなく過ぎた。
父は翌朝病院へ行った。
腸閉塞を患っていた。
記憶の記録 15.三年夏
傘はカラフルな方がいい。
オレンジや黄色、緑もあった方が華やぐだろう。
雨はしとりしとりと降っていた。
灰色空から雨粒がぽつりぽつりと落ちてきた。
街中は喧騒、
だけどその音は冷たく響き渡る。
梅雨冷えで、
どこか寂しささえ感じ漂わす。
秋葉原の中央通りは、様々な人々でごった返す。
コスプレする若者もいるし、地味な服のアニメオタクもいる。
アナログの電気機材を買い漁りに来る人もいれば、名店のランチを求めて訪れている人もいるだろう。
このサブカルチャーに包まれた街で、わたしは友人と待ち合わせをしていた。
みずちゃんとは仲がいい。
高校以来の親友だ。
大学生の頃にはいっとき会わなくなったのだけれど、
高校時代の友人たちの集まりで呼ばれて再開した。
マンガやアニメが好きな彼女と決して趣味が合うわけではないのだけれど、
お休みの日にアキバや中野、コミケに付き合わされるのはけっこう刺激的で楽しい。
「あ、お待たせ。待った?」
わたしはみずちゃんの質問に首を横に振る。
彼女はだぶだぶのシャツに、緩いチノパンをはいている。
「今日は、その格好なんだ」
コミケの時にはじゃっかんコスプレの入った制服みたいな格好をすることもある。
「時と場合によるのよ」
そして空を見上げる。
「ああ、天気」
「それもあるのよ」
雨の中を歩く。
水たまりポチャポチャ、
川ゴウゴウ。
アキバ外れの集合施設のカフェでランチ。
水色水玉模様のわたしのシャツに、黄色と赤のオムライスが映える。
メロンソーダも添えて色とりどりの食事にしよう。
銀色スプーンで太陽みたいなオムライスを掬い、
口に運べばいつの間にか皿は空になる。
外の雨はまだ止まない。
雨だからとて歩みは止めない。
みずちゃんはカラフルごった返すメインストリートをせっせと歩いていく。
探していた原画は店舗で直売りしかしていないプレミア一点物。
この街には博物館のように興味のないお宝が溢れている。
わたしはみずちゃんについて行く。
自動ドアを開けた内側にはアニメのテーマソングが高い声で歌われて、
大きなパネルの萌えキャラが迎え入れる。
みずちゃんは一階のポスターやグッズには興味を示さず2階へ上る。
2階にはたくさんのコミックがあるけど、今日はそこを素通り、
3階のフィギュアコーナーも見向きもせずに階段を上っていく。
そして4階の展示コーナーへと入り込む。
なんだかわからない手書きのイラストが展示され並んでいる。
「あの」みずちゃんはお店の店員に声を掛け、何かの雑談をしている。
そしてそのまま奥の方に行ってしまった。わたしはそのあとをついていく。
「だいたいこのあたりがそうなんだけどな」
「あ、わたし、自分で探してもいいですか」
「いいですよ。見つかったら声掛けてください」
みずちゃんはうなずいて嬉しそうに探す。
「しばらく時間かかるから、好きなの見てていいよ」
ふと厳しい表情になって、わたしに声をかける。
「ああ、ありがとう」
そしてわたしは一人。
アニメに溢れた独特の世界を走り下りて、灰色雲から雨滴り落ちる路上へ閉め出される。
いつもこんな感じで、わたしは一人。
みずちゃんとは変な友達関係を続けている。
これでもわたしは仲がいいと言う。きっとそうなくなったら、ここへ来ることもなく、
刺激は失われてしまうだろう。
みずちゃんとはこれからも友達だ。いつでも、遊べる仲であれればいいな。