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M3Variant : 高齢者の仲間入りしました

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLのほとんどはM3型(多顆粒型)ですが、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

25.4.15(火)
前々日このビジホにチェックインしてから、WiFiは問題なく使えていたのだが、20時頃、PCがネットから遮断された。リセットしても復旧せず。スマホ(アンドロイド)は OK。

25.4.16(水)
朝起きた後、PCをリセットしても状況変わらず。朝食後、日光東往還歩きの続きに出た。街道歩きから戻った後も、状況変わらず。フロントへ行って状況を話したら、機内モードの可能性を言われた。あー。それは確認してないな。
他の宿泊客に迷惑をかけるかもしれないが、無線ルータをリセットしてみることはできないか聞いてみら、試してみるとのこと。


部屋に戻ってPCの通信環境設定を確認したが、機内モードにはなっていなかった。いったんわざと機内モードにしてすぐに元に戻した後、繋がった。その直後、ホテルフロントの職員が来たので「繋がりました」と答えた。機内モードのせいではなく、無線ルータのリセットで復旧したのだろう。

過去に、スマホ,PC両方とも繋がらなかったことは何回かあったが、スマホは繋がって、PCは繋がらないというのは今回が初めて。通信規格が同じとはいえ、通信を担うソフトウェアは機種によって異なるから、特定の相手機種だけ繋がらなくなる故障モードがあっても不思議ではないということかな。

25.4.13(日)
朝、野田のビジホをチェックアウト。茂木本家美術館や関宿城博物館などを見学した後、茨城県結城へ。駅前のビジホにチェックイン。このビジホは今年2月02日、南米旅行で羽田空港へ行く前日に泊まっている。

25.4.14(月)
結城駅でJR水戸線に乗り、小山で乗り換えて古河駅に着いた。JR東北本線で唯一、茨城県にある駅である。この駅は初めてだな。「ふるかわ」と読みたくなるが「こが」である。万葉集では「許我」、吾妻鏡では「古我」と書かれているそうだ。そういえば春日部も戦前は「粕壁」と書いたそうだ。
古河駅西口で朝日自動車の路線バスに乗り、境町へ。9:00 住吉町バス停からこの日の街道歩き開始。

 


↑この日歩いたルートと写真など
印刷して持ち歩いた白黒地図はこちら

 

 

10:05 5番目の旧宿場、谷貝宿に差しかかったあたりで、タカかワシか、猛禽類らしき形の石像を見た。前回の歩きでは左右一対のカエル石像を見たが、ここら辺の人はこういう石像が好きなのかな。

県道56号と交叉した先で、10:50 6番目の旧宿場、仁連宿に差しかかった。仁連は「にれい」と読むそうだ。東漸寺という寺に樹齢500年の菩提樹があるという記事があったので、行ってみたが見当たらなかった。

 

旧諸川宿 染谷商店

 

旧諸川宿 大橋醤油店

 

国道125号と交叉した先で、11:50 7番目の旧宿場、諸川宿に差しかかった。ここは古い建物がわりと多く残っているようだ。

12:10 諸川宿の先に「下七五三場」という名のバス停があった。後で検索したら「しもしめば」と読むらしい。森塚良郎氏のブログ「日本の街道地図一覧表」の地図によると、ここが瀬戸井道との追分らしい。

12:55 寿司活魚京平という大衆食堂があり、ここで昼食を取った。歩き始めから 23,813歩、15.8km。ここの主人は話し好きな人で、アジフライ定食を食べ終わった後、いろいろ会話した。日光東往還の少し西側の道が鎌倉街道だそうだ。13:40 昼食後、街道歩き再開。


大戦防という変わった名の交叉点を通過し、14:00 8番目の旧宿場、武井宿に差しかかった。このあたりに戊辰戦争での官軍兵士の墓があるそうで、昼食を取った時に、店の主人からもそう聞いていたのだが、どれがその墓かはわからなかった。
武井宿の少し先で、「街道歩き旅」と「街道・古道歩き」の日光東往還歩きは、どちらも少し西のルートを通り、「鎌倉街道」と記している。昼食を取った店の主人から聞いた鎌倉街道の話しと合致するかな。

 

線路がないのに踏切警標

 

14:25 踏切警標があったが、線路はない。踏切跡かな? そうではなさそうだ。

 

吉田用水

 

結城といえば、やはり結城紬が有名かな

 

15:30 道を間違えたことに気づき、数百m引き返した。現在の県道から斜め右に入る旧道の位置を間違えたようだ。


9番目の旧宿場、結城宿に差しかかり、16:00 JR水戸線の踏切を越えた。踏切の名は「境街道踏切」。日光東往還の別名だろう。この日の東往還はここまで。踏切から線路脇の道を通り、駅を越えてコンビニに立ち寄った後、ホテルへ戻った。昼食後は、15,586歩,9.2km。

25.4.12(土)
 

 

朝起きたら、ホテルの部屋から朝日が見えた。予報では天気もいいらしい。この日の街道歩きはすぐに東往還の続きに入るのではなく、少し逸れて野田道・流山街道を歩いた後で東往還に入ることにした。野田の街中を歩きたかったためである。

 

↑この日歩いたルートと写真など
印刷して持ち歩いた白黒地図はこちら


ビジホを出て電車で梅郷駅へ。8:00 梅郷駅からこの日の街道歩き開始。駅前は前回通った旧山崎宿である。いったん日光東往還に入った後、すぐに離れて野田道・流山街道に入ったまではよかったが、その先で道を間違え、400mほど引き返した。

 

「疱瘡神」碑と、アマビエ像。
どちらも疫病退散

 

8:31 石仏数体の右隅に「疱瘡神」と書かれた石碑があった。天然痘退散を願った石碑だね。8:56 アマビエの石像があった。こちらは真新しい像だが、やはり疫病退散を祈念したものである。いつかまたパンデミックが来る時があるだろうな。

 

興風会館

 

8:59 キッコーマン本社前を通過。隣に興風会館というのがあった。キッコーマンの前身に関連があるようだ。

 

その少し先には旧野田商誘銀行の建物。


10:00 蕃昌新田で日光東往還に戻った。この日の東往還歩きはここからということになるかな。10:30 過ぎ、2番目の旧宿場、中里宿付近を通過。

 

江戸川では海まで51km

 

12:01 江戸川の堤防上に出て少し先、宝珠花橋の先に「海から51.0km」という表示があった。江戸川なので、東京湾河口から 51kmということになる。
堤防の上から「台湾料理 鴻鑫」という看板が見えた。何と読むのかな。少し引き返してここで昼食を取ることにした。歩き始めから 25,719歩、16.8km。12:45 昼食後、街道歩き再開。

13:26 電柱に「カラスの巣監視中」と書かれたベルトが巻かれていた。相当しつこいカラスがいるのかな。14時前、日光東往還の本道から少し逸れて、多功道・台町通りに立ち寄った後、本道に戻った。14:40 関宿関所跡の石碑前を通過。そのすぐ先で台町通り・多功道と合流。このあたりが3番目の旧宿場、関宿宿(せきやどしゅく)かな。千葉県の最北端である。

 

スクーターに乗った案山子

 

カエルの石像

 

県道から分かれて利根川の堤防に向かう途中、スクーターに乗った案山子があった。変わった案山子だな。と思っていたら、そのすぐ先に左右一対のカエルの石像があった。変わった物が続くなあ。だれが設置したんだろう。左右一対の像というと阿型と吽型の組み合わせが伝統的だが、ここのカエル像はどちらも吽型だった。

 

利根川では海まで120.5km

 

堤防に上ったら、「海から120.5km」と書かれていた。利根川なので、こちらは銚子からの距離ということになる。利根川に架かる県道の橋を渡って茨城県に入った。茨城県だが、このあたりは常陸ではなく下総である。江戸時代の治水、河川切り替え前の流路が下総・常陸国境だったようだ。

利根川を挟んで両岸に旧宿場があり、4番目の旧宿場、境宿に入った。「住吉町」バス停でこの日の街道歩き終了。昼食後は 13.5km,20,078歩。
朝日自動車バスの路線バスに乗り、東武動物公園駅へ。この路線バスは関宿を経由するので、茨城→千葉→埼玉と、県境を2回越えて3県を跨ぐ。高速道路を通らない路線バスで3県跨ぐのは珍しい気がする。

東武動物公園駅で電車に乗り、春日部で乗り換えて愛宕駅で降り、野田のビジホへ戻った。