M3Variant : 高齢者の仲間入りしました -8ページ目

M3Variant : 高齢者の仲間入りしました

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLのほとんどはM3型(多顆粒型)ですが、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

25.5.01(木)
天気予報を見ながら気仙沼街道の続きを歩く日程を窺い、この日にした。自宅を出て盛岡駅前で牛丼チェーン店で朝食。新幹線で一ノ関駅へ。ここまでは前回と同じ。一関駅前 8:00発の気仙沼行き路線バスに乗り、道の駅かわさきへ。
なお、駅名は「一ノ関」だが、市名は「一関」だそうで、表記が微妙に異なっている。この記事でも、地名と駅名とでこの二つを一応使い分けているが、昔の人は表記の揺れにあまり気を留めなかったようだ。
こういうことに、正解は一つと決めてかかるのは現代人のいいところでもあるが悪いところでもある。ちなみに岩手県交通の路線バス時刻表では「一関駅前」と表記されている。

 

↑この日歩いたルートと写真など

印刷して持ち歩いた白地図はこちら

 

8:25 道の駅「かわさき」から街道歩き開始。前回既に歩いている旧薄衣宿をもう一度通った後、新規に歩く区間へ。

 

往還塚石仏群

 

8:55 往還塚石仏群に立ち寄った。

 

笠松

 

松くい虫被害防止の立看板の先に、県指定天然記念物笠松があった。この木も松くい虫にやられる可能性はあるだろうな。

 

ヤマブキ

 

9:35 市道から分かれて林道に入ったが、しばらくは舗装。三島山が見えてきた。

 

三島山

 

この山の向かって左側の峠を越える予定である。9:47 舗装が終わり、未舗装の林道に。9:50 三島峠を通過。それほど険しい峠ではなかった。標高も250mほど。

 

砂金露天掘り跡

 

三島峠を下った後、再び緩い上りになった先に「堀り子の墓」と書かれた標柱が、その先には「山砂金の露天掘跡」と書かれた標柱があった。『気仙沼街道:岩手県「歴史の道」調査報告 岩手県文化財調査報告書第四十集』(岩手県教育委員会 昭和55年)には、金山沢金山跡と記載されている。グーグルマップでは、そこから7~800mほど北に「三島金山沢金山跡」と表示してあるが、これは位置を間違えているようだ。

金山沢金山跡から緩い坂を下り、10:20 作業中の60代ほどの男性から話しかけられた。気仙沼街道を歩いていると答えた。

10:40 旧千厩宿に差しかかった。この先で外食できる場所があるかどうかわからなかったので、少し早かったが、千厩で昼食を取ることにした。歩き始めから 12,344 歩,7.9km。11:35 昼食後、街道歩き再開。

 

大夫黒

 

昼食を取ったところのすぐ近くに、大夫黒という馬の置物があった。「たゆうぐろ」と読むそうだ。解説によるとこの地で産れた馬で、平泉の藤原氏から源義経に贈られた後、源平・屋島の合戦まで義経に同行したそうだ。

 

酒のくら交流施設の蔵

 

大夫黒の近くには「酒のくら交流施設」があった。なんとなく通り過ぎたが、見学すればよかったな。

 


夫婦岩

 

正午前、彌榮神社の前を通過。鳥井の脇に夫婦石があった。男根と女陰に似た自然石である。『気仙沼街道:岩手県「歴史の道」調査報告 岩手県文化財調査報告書第四十集』の地図にもこの夫婦岩が載っているが、東に5~600mほどずれた所に印されていて、位置を間違えているようだ。

12:10 千厩駅でトイレを借りた。我田引鉄の典型例としてよく引き合いに出されるJR大船渡線は、正方形の三辺のような鍋弦ルートがここ千厩で終わり、元の計画ルートに戻る。そのせいか、駅も町外れにある。気仙沼街道のルートは、千厩から先は気仙沼線の近くを通るので、少し気が楽である。

12:25 旧街道ルートが消失している区間へ寄り道してみたら、私有地なのでトラブルの責任を負わないという表示があった。その少し先まで行ってみたが、個人宅で行き止まりになっていたので引き返したところ、70代くらいの女性が出て来て、この私道でのトラブルで訴訟を起されたらしいことを言われた。トラブルの責任を負わないという表示もその対策らしい。
苦情は言われなかったが、立ち入りはなるべくやめて欲しいらしい。あー。どうもすみません。気仙沼街道を歩いていて、ここが旧ルートかなと思いました。すぐに国道に戻ります。

 

旧気仙沼街道コース

 

12:45 旧気仙沼街道コースという表示があった。こういう表示があるとルートを判定するのに役立つね。その先にも同じような表示が何か所かあった。そのあたりから便意を催してきていて、13:20 清田小学校という廃校跡の旧校舎脇で用を足した。

14:12 旧室根村の道路標識があった。合併前の旧室根村に入ったことになる。その先に七日市一里塚跡があるそうなのだが、うっかり通り過ぎてしまい、立ち寄らなかった。

 

室根山

 

15:00 金鶏城跡入口、龍雲寺に立ち寄った。寺の背後には室根山が見えた。

折壁の町内に入ったら、「岩手屋旅館」という看板の旅館があったが、「町頭 仙台藩」とも書かれていた。このあたりは盛岡南部藩ではなく仙台の伊達領だったし、岩手という県名も明治以降のものなので、こういう例があっても不思議ではないかな。

15:35 折壁駅でこの日の街道歩き歩き終了。昼食後は 14.8km,23,298歩。折壁駅で1時間半以上待ち、17:09 発のJR大船渡線気動車に乗り一ノ関へ。盛岡へ戻った。

3年前に宮古街道(閉伊街道),一昨年に遠野・釜石街道,昨年は鹿角街道を歩いたので、今年も岩手の旧街道を歩いてみようと、なんとなく気仙沼街道を歩くことにした。


気仙沼街道の大部分は岩手県内にあり、そのルートと沿道の遺跡については、『気仙沼街道:岩手県「歴史の道」調査報告 岩手県文化財調査報告書第四十集』(岩手県教育委員会 昭和55年)から情報を得た。この報告書は、文化庁が1978(昭和53)年から都道府県教育委員会の協力によって作成した「歴史の道調査報告書」の中の一つで、岩手県分は全国遺跡報告総覧からダウンロードできる。

また、森塚良郎という人が同氏のブログ「日本の街道地図一覧表」に、この報告書の地図をトレースして掲載しており、それも利用した。ただし、報告書の地図以外の部分(文章・写真・図など)は掲載されていない。

25.4.27(日)
自宅を出て盛岡駅前の牛丼チェーン店で朝食。新幹線で一ノ関駅へ行き、在来線で花泉へ。

 

     

↑この日歩いたルートと写真など
    印刷して持ち歩いた白黒地図はこちら

 

8:20 JR東北本線花泉駅から街道歩き開始。8年前の2017年、おくのほそ道ウォークで4月30日に登米市浅水からここ花泉駅まで歩き、翌5月01日に花泉駅から一ノ関駅まで歩いた。駅前の道はその時歩いている。
8:30 芭蕉行脚の碑に立ち寄った。たしか8年前には立ち寄っていない。

8:50 石巻街道と気仙沼街道の追分に到着。花泉駅から2.2km。『気仙沼街道:「歴史の道」調査報告』によると、気仙沼街道の起点がどこであるかは諸説あるそうだが、同報告書ではここを起点として調査報告をしている。
追分付近が旧宿場、金沢(かざわ)宿で、おくのほそ道の曾良随行日記では「加沢」と表記し、「安久津 松嶋より此処迄両人共ニ歩行 雨強降ル 馬ニ乗 一リ 加沢 三リ 一ノ関 皆山坂也 黄昏ニ着 合羽モトヲル也 宿ス」と記述している。大雨の中、馬でこのあたりを通ったことがわかる。

 

金沢宿の図

 

金沢宿の問屋場跡,検断所跡の前を通った後、金沢宿の図と説明があった。

 

金沢八幡神社大名行列

 

その先の金沢八幡入口の鳥居の前には、大名行列を模した行事の解説があった。

 

道標

 

国道342号を挟んでコンビニの向いに道標があった。解説によると「道、右ハいしのまき、左ハうすぎぬ」と刻まれているそうだが、実物の石碑は表面が摩耗していて、読み取れそうになかった。

 

前鹿野一里塚跡

 

国道から分かれて、東の緩い上り坂へ。9:20 前鹿野一里塚跡を通過。その先には「気仙沼街道」と書かれた標識が2か所あり、2つめの標識の先で未舗装路になった。民家の前を通り、旧街道が切通しで遮られているところを越えた先でいったん県道に合流し、すぐに県道から分岐。その先で西に栗駒山が見えた。
10:40 地図に植立峠と記載されている場所を通過したが、険しい峠ではなく、平坦な台地だった。峠というからには分水嶺かな。

 

捕獲用わな警告

 

11:12 歌澤神社の先で県道から離れ、左の道へ。捕獲用わなの警告表示があった。

 

節水協力の表示

 

11:28 節水への協力を呼びかける表示があった。そういえばこのあたりは溜池が多いな。奥羽山脈や北上山地から離れた台地で、水資源が乏しいのだろう。その先のあたりに一里塚跡があるらしいのだが、見当たらなかった。

 

盛土の先から薮道

 

その先で林道に入ったが、すぐに赤土の盛土で遮られていた。盛土の先は薮で草ぼうぼうだが、道の痕跡はあった。国土地理院の地図にも点線で道が記載されているので、薮道を進んでみることにした。

 

湯殿山供養碑

 

20分ほどで薮から林道に出たあたりに、大きな湯殿山の石碑があった。高さ4mほどもあったかな。湯殿山の石碑はあちこちで見かけるが、これだけ大きいものは珍しい気がする。
また、近くに木の標柱があり、「本陣」「永正四年 ・永正七年 古戦場」と書かれていた。帰宅後に検索したら、戦国時代に起きた永正の乱の古戦場らしいが、この地での戦闘に関する記述は見つけられなかった。

林道を少し進んでスマホで位置を確認したら、予定ルートよりだんだん北にずれていた。ちょうど正午頃だった。引き返して湯殿山石碑まで戻り、そこからは薮の中にある道の痕跡を辿って進むことにした。今度の薮道はさっきの薮道よりも薮が深く、アップダウンもあって倒木も多かったがなんとか通って行った。

20分ほどで左側(北側)に林道が見えた。予定ルートは右側(南側)だと思っていたので戸惑ったが、このひどい薮道はごめんなので、その林道に出た。結果としては予定のルートだったようだ。12:35 県道に出た。この日の山道区間はこれで終わり。県道を東進したら遠くに北上大橋が見えてきた。

 

北上川の狭隘区間

 

13:20 北上川の橋を渡った。北上川は岩手・宮城県境付近のこのあたりで狭隘区間を通っている。両岸の谷幅も川幅も狭く、洪水の多い地帯でもある。今の時期は雪どけ水もあるせいか、水量が多い。

 

谷起の渡し跡付近

 

現在の北上大橋のすぐ左(北側)に、旧街道の谷起(やぎ)の渡しがあったらしい。

 

旧 川崎村

 

渡った先に「川崎村」の道路標識があった。一関市に合併される前、東磐井郡川崎村だった頃の標識だな。近くの浪分神社に立ち寄った後、旧宿場薄衣宿を通った。薄衣の読みは「うすぎぬ」だそうだ。

13:50 旧街道から国道284号線に出た。この日の気仙沼街道歩きはここまで。旧金沢宿から15.5km。東進から西進に向きを変え、道の駅かわさきへ。14:00前、道の駅かわさきに到着。花泉駅から 29,046歩。朝、コンビニで買ったおにぎりを食した。

道の駅かわさきには、一ノ関駅⇔気仙沼の路線バスが通っていて、昨年秋まで平日は1日9往復,土日祝8往復あった。当初はここでそのバスに乗って帰る計画を立てていたが、今回調べ直したら、昨年10月から平日3往復,土日祝1往復に減っていた。
全国的に路線バスが縮小,減便されているのは知っているが、一気に 1/3とはねえ。しかも一ノ関駅行きはすべて午前の便。これでは道の駅かわさきまで歩いた後、帰宅の手段に使えない。調べ直してよかったな。

これとは別に、一関⇔千厩の路線バスがあり、ついさっき歩いて来た旧宿場薄衣を通り、平日6往復,土日祝3往復ある。この日は日曜で、薄衣 16:04発の一関営業所行きの便があるが、1時間半以上あるので、道の駅かわさきから、北西に 3kmほど離れたJR大船渡線の陸中門崎駅まで歩くことにした。
なお、次回の気仙沼街道歩きの続きでは、バスで道の駅かわさきへ行き、そこから歩き始める予定である。

遅い昼食の後、道の駅かわさきから歩き始めた。ついさっき歩いたばかりの旧宿場薄衣を通った。仙台藩御本蔵跡や一関藩御本蔵跡があるそうなのだが、どこかはわからなかった。

 

大船渡線100年 陸中門崎駅で

 

15:05 陸中門崎駅に到着。この日の歩き終了。道の駅かわさきから 5,486歩,旧街道から国道に出た箇所から 15.5km。


15:22 発の一ノ関行き気動車に乗車。すぐに北上川の鉄橋を渡った。この鉄橋で半世紀近く前の架け替えの際にあったエピソードを思いだした。

老朽化で橋桁を架け替える準備をしていたのだが、架け替えの少し前に信越本線(現在のえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン)沿線で土石流災害が発生し、長期不通となった。復旧のため、流出した信越線の盛土区間には橋梁を新設することになったのだが、橋桁の新造に長期間を要する見通しとなった。そこでこの大船渡線北上川橋梁架け替え用に造ってあった橋桁に白羽の矢が立ち、急遽、架け替えを延期して、信越線の復旧用に持って行ったそうだ。もちろんその後で大船渡線用ももう一度造ったのだろうが、当時少し話題になった。
たしか 1978年か 79年頃だった記憶があり、今回ネット検索したら、1978年5月18日に起きた白田切川土石流災害で、死者13名を出す災害だったそうだ。


一ノ関で東北本線に乗り継いで帰宅。

25.4.16(水)
8:30 JR結城駅前のビジホから日光東往還のルートへ向かい、8:40 東往還に合流。

 

↑この日歩いたルートと写真など
印刷して持ち歩いた白黒地図はこちら

 

東往還に合流したあたりの街灯には、個人宅の名がいくつも書かれていた。街灯に商店や事務所の名を表示している例はよく見かけるが、個人宅の名を出しているのは珍しいな。


駅の北側あたりが9番目の旧宿場、結城宿の中心である。結城宿内の東往還ルートはサイトによって少し異なっているが、森塚良郎氏のブログ「日本の街道地図一覧表」「茨城 02-02 関宿多功道」の地図に描かれているルートを歩くことにした。

 

清酒「武勇」蔵元

 


旧小西商店

 

結城紬で知られる結城の街中には古い建物も多い。清酒「武勇」,保坂家住宅,旧小西商店などの前を通った。いずれも登録有形文化財だそうだ。

9:00 結城の元道路元標の前を通った。元の場所から移設したことが書かれていた。森塚良郎氏「茨城 02-02 関宿多功道」の地図によると、このあたりから結城道が2本、東へ分かれているが、同氏「茨城 02-03 結城道」の地図を見ると、東のあたりでこの2本は合流している。

 

向右xxヲ経テ宇都宮ニ至ル

 

9:15 「向右xxヲ経テ宇都宮ニ至ル」と刻まれた道標があった。xxの部分は4行で、4つの経由地が書かれていた。写真を撮ろうとしたら近くにいた70代くらいの男性から、これは古い物ではないよ。と言われた。まあ、「xヲ経テxニ至ル」という書き方は、明治以降のものだろう。

9:40 茨城県から栃木県に入った。下総から下野に入ったということにもなるのかな。だとすると東海道から東山道に入ったことにもなるが、現在の県境が旧国境だったとは限らない。

 

芝桜

 

9:55 工場敷地の前で芝桜が咲いていた。この時期はよく見かけるな。

11:03 石造宝篋印塔の前を通過。近くに秋田藩出張陣屋跡があるそうだが、どこかわからなかった。その先には仁良川コミュニティーセンターがあった。こういう公民館は施錠されて閉まっていることが多いが、この時は開いていて、地元の人が十数人ほどで装飾か何かを作る作業をしていた。ここでトイレを借りた。

国道4号線バイパスの下を通った先、11:53「龍興寺入口」という看板に「自治医科大学聖霊殿在所」と書かれていた。解剖実習用に献体された遺体の霊殿か? 立ち寄ったら年中行事が掲示されていて、「自治医科大学献体者慰霊祭 十月」と書かれていた。こういう献体のおかげで新しい医師が育成され、医療体制が維持されるのだから、感謝せねば。

 

下野薬師寺 塔跡

 

正午過ぎ、下野薬師寺跡に立ち寄った。今では何の建物も残っていない。近くに現在の下野薬師寺があるが、後世の再建だろう。境内に錦魚葉椿というのがあった。錦魚(金魚)のひれのような花びらのツバキだそうだ。

 

多功宿の道標

 

10番目の旧宿場、多功宿に差しかかった。道路拡張工事のため山門を移動した寺の先に交叉点があり、角に道標があった。「東 上三川」「南 薬師寺」「西 石橋」と刻まれていた。

このあたりには昼食を取れる場所がなく、いったん東往還から逸れてJR石橋駅を越えて西口へ行ってみた。大衆食堂が1軒、「営業中」の札を出していたので中に入ったら、団体用の仕出し弁当を多数準備している最中だった。この日の昼食営業はもう終わりで、提供できないとのこと。あれまあ。13:30 で少し遅かったな。

仕方なく国道4号線、日光・奥州街道に出たらコンビニがあった。このコンビニでサンドウィッチを買って食べた。歩き始めから 30,749歩、19.6km。このあたりは日光・奥州街道15番目の旧宿場、石橋宿である。

 

石橋駅西口 グリムからくり時計

 

食べ終わった後、街道歩き再開。JR石橋駅を越えて東口へ。日光東往還に戻った。このあたりでは栃木県の名産、大谷石で造られた蔵をいくつか見かけた。

JR小山車両センターに遮られている区間は地下道を通った。地下の交叉へ向かう道は自動車専用のため、歩行者用の側道を進んでその先で階段を下った。車両センターの地下は車道・歩道両方あった。

14:50 日光・奥州街道との合流地点、鞘堂追分に到着。日光東往還を歩き終えた。ここからは日光・奥州街道。このあたりを小山駅から雀宮駅まで歩いたのは2010年5月10日だった。

 

旧雀宮宿仮本陣 芦谷家

 

15:40 旧雀宮宿の仮本陣、芦谷家前で右に折れて、雀宮駅へ向かった。日光・奥州街道16番目の宿場、雀宮宿の中心はこのあたりか。

 

雀宮駅

 

すぐに駅が見えてきた。日光・奥州街道歩きで 2010年5月10日に雀宮駅まで歩いた時は新駅舎建設中で、プレハブの仮駅舎だった。15年後の今、この写真のようになっていた。

15:50 雀宮駅でこの日の街道歩き終了。昼食後は 8.1km,11,842歩。JR東北線から水戸線に乗り継ぎ、結城のビジホに戻った。