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M3Variant : 高齢者の仲間入りしました

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLのほとんどはM3型(多顆粒型)ですが、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

県南の気仙沼街道を歩いたので、今度は県北の小本街道(岩泉街道)を歩いてみることにした。盛岡から北上山地を越えて、太平洋に面した岩泉町小本に至る旧街道で、気仙沼街道に比べ、標高の高い地点を通る。
ルートと沿道の遺跡については、『小本街道:岩手県「歴史の道」調査報告 岩手県文化財調査報告書第六十六集』(岩手県教育委員会 昭和56年)から情報を得た他、森塚良郎氏のブログ「日本の街道地図一覧表」の地図も利用した。

25.5.09(金)
朝、わりあいゆっくり自宅を出て、奥州街道と小本街道との追分へ。このあたりの奥州街道は 21年5月20日に歩き、24年4月16日には鹿角街道を歩き始めた時に通った。

 

↑この日歩いたルートと写真など

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是よりは小本街道

 

10:10 歩き始め。追分近くに「是より小本街道」と刻まれた石碑があったが、古いものではなさそうだった。

 

鬼の手形 三ツ石


10:20 鬼の手形に立ち寄った。岩手の名の由来という説の一つだそうだ。

11:25 道を間違えたことに気付き、引き返した。

 

塩のみち野田街道

 

11:40 「塩のみち野田街道」と刻まれた石碑があったが、これまた古いのもではなさそうだった。野田街道というと、もう少し北の別の街道だと思っていたのだが、ここも野田街道と呼ぶのかな。いずれにせよ、小本街道の途中から分かれて北に向かうと思う。

 

名乗坂エドヒガンサクラ

 

11:45 しめ縄を巻いた木が見えたので、立ち寄ってみたら市指定の天然記念物「名乗坂エドヒガンサクラ」だそうだ。

11:58 「名乗坂一里塚跡」と書かれた標柱の前を通過したが、一里塚の痕跡はなかった。

 

庄ヶ畑の道標

 

12:30 庄ヶ畑の道標に到着。『小本街道:岩手県「歴史の道」調査報告第六十六集』によると、元文年間の絵図にはここで左に折れて北側を通るルートが描かれているそうだが、寛政元年の銘があるこの道標には「右 野田道」と刻まれていて、寛政元年までには南側のルートになったと推定している。

13:00 頃から旧街道ルートを外れ、現在の国道を歩かざるを得なくなってきた。旧街道は近くの山中を通っていたらしい。近くに「大堂の一里塚」跡があるらしいのだが、立ち寄らなかった。13:31 盛岡市のゴミ処理場、もといリサイクルセンターの入口を通過。

 

レースのような走り方のバイク

 

リサイクルセンターの先のあたりからバイクが1台、レースのような走り方で何回も往復していたのに遭遇。カーブの多い坂道で、レースのように走るのが楽しいのだろうが、ここは公道。サーキットではないぞ。私から1メートルほど脇を 100km/h超のスピードで何度も通過していった。私のようなよそ者が気に入らなかったこともあるのかな。いずれにせよ危ないね。

 

次回はここから左の道へ

 

14:52 旧街道と現国道との分岐点に到着。次回はここで国道から分かれ、左の道へ進む予定となる。

ちょうどやって来た車の助手席からご婦人が下りてきて、このあたりに桜の名所があるそうなのだが、場所を知らないか? と聞いてきた。さすがにそんなことは知らない。

旧街道との分岐点から国道を数百mほど進み、14:58「土室バス停」に到着。この日の小本街道歩き終了。奥州街道との追分から 18.6km,自宅から 31,545歩。

定刻 15:33のJRバス東北を待ったら、20分以上遅れてやって来た。この路線バスに乗って帰宅。

25.5.05(月)
初回,前回より30分早い新幹線で一ノ関へ。JR大船渡線に乗り継ぎ、折壁駅へ。

 

↑この日歩いたルートと写真など

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8:30 折壁駅からこの日の街道歩きを開始し、すぐに国道284号の旧道に出て、

 

室根神社鳥居

 

8:35 室根神社鳥居前を通過。背景に室根山が見えた。山岳信仰の神社だろうが、現在の室根山の頂上には電波塔などが多数見える。

8:55 養鶏場へ行く道の分岐点手前に、ちょうどトラックが2台やって来て停まり、運転手2人が何か話を始めた。分岐点から先は狭い道で、トラックはすれ違えないだろう。1台が先に行き、2台目は入口で待つことにしたようだった。

 

日東遼天和尚生誕地

 

9:32 日東遼天和尚生誕地という解説板の前を通過。このあたりでは石碑や石仏を多く見かけたが、この和尚と関連あるのかな。

 

宮城県に入った

 

10:00 宮城県に入った。岩手県内の気仙沼街道ルートは、『気仙沼街道:岩手県「歴史の道」調査報告 岩手県文化財調査報告書第四十集』(岩手県教育委員会 昭和55年)で調べられたが、同報告書の対象はこの県境まで。
この報告書は、文化庁が1978(昭和53)年から都道府県教育委員会の協力によって作成した「歴史の道調査報告書」の中の一つで、岩手県分は全国遺跡報告総覧からダウンロードできるのだが、他の県の分は残念ながらダウンロードできない場合が多いようだ。
ただ、森塚良郎という人が同氏のブログ「日本の街道地図一覧表」に、この「歴史の道調査報告」の地図をトレースして多数掲載しており、ダウンロードできる。ただし、報告書の地図以外の部分(文章・写真・図など)は掲載されていないし、出典がすべて「歴史の道調査報告書」という訳ではなく、他の文献からトレースしたものもある。

気仙沼街道の宮城県分について、森塚良郎氏のブログから入手できないか調べたが、残念ながら見当たらなかった。他のサイトも調べたが、結局、宮城県側分の資料は見つけられなかった。そんな訳でここから先は私の勝手な推測で歩くルートを決めたが、川沿いに下る国道284号の旧道ルートあたりなので、大きく外れてはいないだろう。

 

菅江真澄絶賛の不動明王堂

 

10:28 不動明王堂の前を通過。標柱の解説に、菅江真澄が絶賛したことが書かれていた。菅江真澄というと、江戸時代に奥羽の風俗を書き記した人物で、東北各地でそのゆかりの場所を見かける。日本海側、出羽のほうに多くあるような気がするが、太平洋側のこのあたりにも来ているんだね。

 

タケノコ

 

10:55 タケノコが十本以上芽を出していたが、近くに民家が何軒もあるのに誰も採りに来ていなかった。食べられないタケノコということだろうか。

 

通行止

 

11:15 国土地理院の地図に掲載されている川沿いの道だったが、通行止の表示。土砂崩れで塞がれていて、土砂はそのまま川に流れ込んだ形になっていたので引き返した。ただし、資料がないのでここが旧街道だったかどうかは不明。

12:05 気仙沼駅前の「とんかつ勝子」で昼食。折壁駅から 21,725歩。話し好きの女将さんだった。名物女将だろうな。昼食後、歩きを再開。
13:00 気仙沼市三日町の三叉路に到着。資料がないのでどこが気仙沼街道終点かは不明だが、勝手にここだろうと判断。歩き始めから 15.0km。

終点と決めつけた地点からは港へ行ってみようとしたが、この頃から便意を催していた。地図を見たらその先にコンビニとスーパーがあるので、そこで用を足した後に港まで行こうと考え、歩いて行ったら、コンビニは別の店になっていた。さらにその先のスーパーまで行ったら、何と閉店していた。店終いした直後のような雰囲気だった。
あれまあ。このまま港まで行ってもトイレがあるという保証はない。仕方なく駅へ戻ることにした。13:30 なんとか便意を持ちこたえ、駅のトイレに辿り着いて用を足せた。

 

線路の終わりとBRT専用路

 

大船渡線の気仙沼から先の区間は、東日本大震災と津波のため、BRT になった。駅のホームから下り方向を見たら、線路は車止めで終わり、その右から BRTの専用道が始まっていた。1984年の三陸鉄道開業で全線繋がった三陸縦貫鉄道路線だが、27年しかもたなかったね。

唯一の有人駅で窓口があり、最寄駅仙北町までの乗車券を買おうとしたところ、新幹線に乗らずに行くなら、ホリデーパスのほうが安いとのこと。あれまあ。こういう企画切符があったんだ。知っていれば朝来る時、一ノ関から折壁までの分もこれで乗れたのにな。少し損した気分。

 

いわてホリデーパス

 

14:17 の大船渡線気動車に乗って帰宅。

25.5.01(木)
天気予報を見ながら気仙沼街道の続きを歩く日程を窺い、この日にした。自宅を出て盛岡駅前で牛丼チェーン店で朝食。新幹線で一ノ関駅へ。ここまでは前回と同じ。一関駅前 8:00発の気仙沼行き路線バスに乗り、道の駅かわさきへ。
なお、駅名は「一ノ関」だが、市名は「一関」だそうで、表記が微妙に異なっている。この記事でも、地名と駅名とでこの二つを一応使い分けているが、昔の人は表記の揺れにあまり気を留めなかったようだ。
こういうことに、正解は一つと決めてかかるのは現代人のいいところでもあるが悪いところでもある。ちなみに岩手県交通の路線バス時刻表では「一関駅前」と表記されている。

 

↑この日歩いたルートと写真など

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8:25 道の駅「かわさき」から街道歩き開始。前回既に歩いている旧薄衣宿をもう一度通った後、新規に歩く区間へ。

 

往還塚石仏群

 

8:55 往還塚石仏群に立ち寄った。

 

笠松

 

松くい虫被害防止の立看板の先に、県指定天然記念物笠松があった。この木も松くい虫にやられる可能性はあるだろうな。

 

ヤマブキ

 

9:35 市道から分かれて林道に入ったが、しばらくは舗装。三島山が見えてきた。

 

三島山

 

この山の向かって左側の峠を越える予定である。9:47 舗装が終わり、未舗装の林道に。9:50 三島峠を通過。それほど険しい峠ではなかった。標高も250mほど。

 

砂金露天掘り跡

 

三島峠を下った後、再び緩い上りになった先に「堀り子の墓」と書かれた標柱が、その先には「山砂金の露天掘跡」と書かれた標柱があった。『気仙沼街道:岩手県「歴史の道」調査報告 岩手県文化財調査報告書第四十集』(岩手県教育委員会 昭和55年)には、金山沢金山跡と記載されている。グーグルマップでは、そこから7~800mほど北に「三島金山沢金山跡」と表示してあるが、これは位置を間違えているようだ。

金山沢金山跡から緩い坂を下り、10:20 作業中の60代ほどの男性から話しかけられた。気仙沼街道を歩いていると答えた。

10:40 旧千厩宿に差しかかった。この先で外食できる場所があるかどうかわからなかったので、少し早かったが、千厩で昼食を取ることにした。歩き始めから 12,344 歩,7.9km。11:35 昼食後、街道歩き再開。

 

大夫黒

 

昼食を取ったところのすぐ近くに、大夫黒という馬の置物があった。「たゆうぐろ」と読むそうだ。解説によるとこの地で産れた馬で、平泉の藤原氏から源義経に贈られた後、源平・屋島の合戦まで義経に同行したそうだ。

 

酒のくら交流施設の蔵

 

大夫黒の近くには「酒のくら交流施設」があった。なんとなく通り過ぎたが、見学すればよかったな。

 


夫婦岩

 

正午前、彌榮神社の前を通過。鳥井の脇に夫婦石があった。男根と女陰に似た自然石である。『気仙沼街道:岩手県「歴史の道」調査報告 岩手県文化財調査報告書第四十集』の地図にもこの夫婦岩が載っているが、東に5~600mほどずれた所に印されていて、位置を間違えているようだ。

12:10 千厩駅でトイレを借りた。我田引鉄の典型例としてよく引き合いに出されるJR大船渡線は、正方形の三辺のような鍋弦ルートがここ千厩で終わり、元の計画ルートに戻る。そのせいか、駅も町外れにある。気仙沼街道のルートは、千厩から先は気仙沼線の近くを通るので、少し気が楽である。

12:25 旧街道ルートが消失している区間へ寄り道してみたら、私有地なのでトラブルの責任を負わないという表示があった。その少し先まで行ってみたが、個人宅で行き止まりになっていたので引き返したところ、70代くらいの女性が出て来て、この私道でのトラブルで訴訟を起されたらしいことを言われた。トラブルの責任を負わないという表示もその対策らしい。
苦情は言われなかったが、立ち入りはなるべくやめて欲しいらしい。あー。どうもすみません。気仙沼街道を歩いていて、ここが旧ルートかなと思いました。すぐに国道に戻ります。

 

旧気仙沼街道コース

 

12:45 旧気仙沼街道コースという表示があった。こういう表示があるとルートを判定するのに役立つね。その先にも同じような表示が何か所かあった。そのあたりから便意を催してきていて、13:20 清田小学校という廃校跡の旧校舎脇で用を足した。

14:12 旧室根村の道路標識があった。合併前の旧室根村に入ったことになる。その先に七日市一里塚跡があるそうなのだが、うっかり通り過ぎてしまい、立ち寄らなかった。

 

室根山

 

15:00 金鶏城跡入口、龍雲寺に立ち寄った。寺の背後には室根山が見えた。

折壁の町内に入ったら、「岩手屋旅館」という看板の旅館があったが、「町頭 仙台藩」とも書かれていた。このあたりは盛岡南部藩ではなく仙台の伊達領だったし、岩手という県名も明治以降のものなので、こういう例があっても不思議ではないかな。

15:35 折壁駅でこの日の街道歩き歩き終了。昼食後は 14.8km,23,298歩。折壁駅で1時間半以上待ち、17:09 発のJR大船渡線気動車に乗り一ノ関へ。盛岡へ戻った。