不定期のシリーズとなっている「好きなNBA選手紹介」。今回は、あまりの超人的プレーに「バスケットボールの神様」や、ジャンプの滞空時間のあまりの長さに空を飛べるんじゃないか?と言う意味で「エアー」と呼ばれた選手の紹介です。
その名は、もちろんマイケル・ジョーダン(Michael Jeffrey JORDAN、以下「MJ」と記載)です。
ポジションは「ガード」ですが、「ゴッド(神様)」という人もいたそうです(かつぼうさんの周りにはいませんでしたが)。そんなMJを、本ブログは「史上最高のバスケットボール選手」と認定しています。本ブログでの異論コメントは、絶っ対に認めないです。他の選手が最高だ!と仰りたいのならば、本ブログ以外でご存分にどうぞ。
今回は「その1」ですが、最終回がいくつになるか見当がつかない位に長くなると思います。初心者向け情報を多めにするでしょうが、コアなファン/マニア向けの情報も少なからず書きたい。WIKIには載っていない情報/逸話も、少なからず書きます。本シリーズをご熟読頂ければ、「MJについてだったら なかなか知っているね」と言われる位は書くつもりです。
情報量は当然ながらかなり多くなると思いますので、もし読んで下さるならある程度は覚悟して読んで頂きたいです。逆にMJに興味がない人は、今日から数日は本ブログを読まなくてもいいかもしれません。ま、この記事はいつでもここにありますので、いつかMJを深く知りたいと思われる時があったら、いつでもここにいらして下さいね。手始めにはちょうどいいと思いますよ。
MJは1963年2月17日(そう、今日ってMJの60回目の誕生日なんです!そして今年は2023年ですね)にニューヨーク市ブルックリンで生まれ、家族はすぐにノースカロライナ州ウィルミントンに引っ越します。中学生時代はとてもシャイな性格
で女の子と話す事さえ出来なかったそうで、「こんなんじゃ、結婚できないんじゃないか?」と心配したご両親がMJに家庭科を学ばせたそうです。アメリカの少年らしく、野球
とアメフト
はプレーしたそうです。それまでも遊びでやってはいたでしょうが、バスケを本格的に始めたのは11歳の頃。自宅にバスケのゴールが設置されたのが切欠で、お兄さんのジェフとバスケ
の1on1に明け暮れたそうです。ま、ジェフ兄さんには全っ然勝つ事が出来なかった
そうで、それが伝説的な背番号の切欠になったのですが(本文下の「逸話」に書きます)。
中学校卒業後に進学したのは、バスケの強豪/E.A.レイニー高校。そこで実力がありながら1年生の時に1軍に入れなかったのは、有名なエピソードです。神様にも挫折は有ったんですね。2年生時からはもちろん1軍入りして、3年の時にはチームを州大会優勝に導いています。
MJが住んでいたノースカロライナ州は、NCAAの強豪大学が4つもある全米屈指のバスケ処
。その中でMJが選んだのは、ノースカロライナ大学 ( 以降UNCと記載 ) でした。同大学の愛称は「ターヒールズ」で、「足跡
」という意味です。UNCのグッズで漢字で「足」と入っているのは、愛称の和訳です。センスありますね。後にLAレイカーズでマジック・ジョンソンとショウタイムバスケでNBAを席捲するジェームズ・ウォージーは、UNCの2年先輩です。
この頃のHCディーン・スミス氏は1年生をレギュラーに抜擢する事は滅多にありませんでしたが、もちろんMJは例外でした。MJのUNC時代を語る上で欠かせないのは、やはり ( MJが1年生の時の ) 1982年のNCAAのトーナメント決勝です。ウォージーと共に大暴れして進んだNCAAトーナメント決勝の相手は、パトリック・ユーイング率いるジョージタウン大。その試合で、MJは終了間際に決勝シュートを決めています。そのシュートは「THE SHOT」と呼ばれ、今でも語り草になっています。
スミスHCの文武両道の方針や厳格で勤勉だったご両親の影響もあり、大学の授業に休む事はほとんどなく成績優秀だったそうです。ちなみに専攻は、地理学でした。
UNCの3年を終えて、NBAドラフトにアーリーエントリー。これには、意外にもスミスHCの勧めがあったそうです。1982年にウォージーを出してチーム力が下がっていたでしょうに、1984年にはMJも快く送り出す。懐が深いですよね。ただ、3年間在籍したこのチームを、MJはプロ入り後もずっと愛し続けて
います。
1984年NBAドラフトでは、全体3位でシカゴ・ブルズに指名されています。以降、MJはキャリアの大半を同チームで過ごします。
え?神様の指名が全体3位なの?と意外に思った人もいるでしょう。MJは凄い選手だと知られてはいましたが、大学時代はスミスHCの方針でチームバスケをやっていました。MJの大学時代の平均点は、何と20点に届きません。それに当時はまだ「バスケは背が高くってナンボ」という考え方があり、全体1位(アキーム・オラジュワン、ヒューストン・ロケッツ)と2位(サム・ブーイ、ポートランド・トレイルブレイザーズ)はともに身長が213㎝。ブルズさえ、MJを背が高い選手獲得とのトレード要員として指名したそうです。その証拠に、ブルズは翌日のシカゴの新聞に「僕たち頑張りましたが、背が高い選手を指名/トレードで獲得できませんでした、ごめんなさ~い!」って感じの(違)謝罪広告を出したそうです。
ジョーダンのブルズ入団時には驚くべき事が2つありました。1つ目は、プロサーヴと言う代理人を務めてくれる会社がMJとチームの間に入り、破格の契約(7年で、600万ドル!)を勝ち取った事。それから、ナイキとも破格の契約(500万ドル!)をした事
です。
入団前にロス五輪で金メダルも取り、トレードに出される事もなくブルズ
でプレーする事になったMJ。お世辞にも、良い選手が大勢いるとは言い難かったチーム
です。当時のアシスタントコーチがドラフトに参加したスタッフ(社長?GM?)に「貴方は間違っていなかったよ!この新人(MJ)は凄ぇ奴だよ!」とすぐに電話したほど絶賛し、当時のチームメイトも「練習を始めてすぐに、彼(MJ)がこのチームのベストプレーヤーだとわかった」と言ったなど、チーム内の評価はあらたまりました。金メダルを取ったロス五輪代表選手でしたし、プレマッチで結果も出した
ので、ファンにも受け入れられました。
NBAでの初試合は、1984~85シーズンの開幕戦のワシントン・ブレッツ戦(もちろん、後のウィザーズです ← 何だか因縁ですね)です。16得点・6リバウンド・7アシスト・2スティール・4ブロックショットの活躍でした。
活躍するにつれて、相手チームのファンにも「MJを見たい」という人が増えていったそうです。1年目で早くもチームの中心選手となり、82試合全てにスタメン出場。平均得点は28.2点でした。もちろん新人王
を獲得していますし、ルーキーなのにファン投票のガード部門2位でオールスターにも出て
います。ま、フリーズアウト
(MJにパスを回さなかった事。MJの人気に嫉妬したデトロイト・ピストンズのアイザイア・トーマスが主犯w)がありましたがね。
ブルズはMJ入団前のシーズンは27勝(55敗)しかしていませんが、MJ入団一年目は38勝(44敗)。まだ負け越してはいますが、東カンファレンス7位で4年ぶりにプレーオフには行っています。実はジョーダン加入でチームが勝ち越すのは、1987~88年シーズンからです。ま、それまでも(何故かw)プレーオフには行けていますがね。
後にチームに有名なトライアングルオフェンスをもたらすテックス・ウィンター氏がチームに入った2年目は、開幕3試合目で骨折。ブルズは、MJの残りシーズンを治療/リハビリにあてる決意をしたそうです。ですが、シーズン終盤にチームがプレーオフ争いをしている中、MJは試合出場を懇願
。67試合目から試合に出て、見事チームをプレーオフに導きました。そして圧巻だったのは、プレーオフ緒戦のボストン・セルティックス(以下、「セルツ」と記載)戦の第2試合です。当時のセルツは、ラリー・バード/ケヴィン・マクヘイル/ロバート・パリッシュという最強のフロントコート陣
を擁していました。ディフェンスもとても堅い事で有名でしたが、それを怪我あけの選手がいとも簡単にこじ開け
ました。何と、MJは63点取ってしまった
のです。しかも、この試合でMJは3Pシュートを1本も決めていません。全てFGとFTなのです!驚くべき事に63点取った選手がいたのに驚くべき事に試合はブルズの負け
でしたが、試合後のラリー・バードのコメントが有名です。
「僕たち相手に、ジョーダンは凄い事をやってのけた。この試合のMVPは彼だ。あれは、マイケル・ジョーダンの姿をした神だね。」
有名なこの(↑)言葉ですが、既に現役時代から「レジェンド(伝説)」と呼ばれた選手の↑のコメントによって、MJは「バスケの神様」と呼ばれる事になります。この年は、何度も書いている様に怪我でシーズンの大半の試合に出られなかったにも関わらず、オールスターやオールNBAセカンドチーム(控えのベスト5みたいなもの)に選出されています。
ふぅ、その1はここまでです、書いてて結っ構~疲れましたわ(笑)。まだ、プロ2年目を終えたばかりで、先は長いですね(笑)。そして、以下はこれまでの逸話です。記事の続きは、確実に明日です。
・MJのご両親がニューヨークから引っ越した理由は、MJのケンカです。身体的特徴(耳)をからかった友達(女性)をひっぱたいてしまったそうで、こんな事をしてはダメだと思ったご両親が田舎に移り住んだそうです。
・MJの象徴的な背番号「23」は、兄ジェフがつけていた45の半分です。で、ジェフに少しでも近づきたいから0.5を足して23になったのです。ま、有名な話ですよね。
・E.A.レイニー高校バスケ部で1軍に入れなかった理由は、身長が低かったからです。MJの才能には気づいていたコーチが、1軍の控えよりは2軍で試合に出て成長して欲しいという意図もあったそうですが.....。本人は悔しかったでしょうね。悔しさをバネにしたのか、2軍では40点以上取った試合を連発したそうです。で、悔しさがバネになった訳ではないでしょうが、身長も10㎝伸びたのだとか。
・そのE.A.レイニー高校での逸話は色々なところで語られていますが、中には「バスケ部に入れなかった」というものがあります。もちろん、それは間違いです。入部はしていますが、1軍でなかっただけです。
・UNCでウォージーが先輩だったのは書きましたが、2年下にケニー・スミス(主にロケッツで活躍したシューター)がいた筈ですが...。ケニーとは一緒にやったんですかね?時期的にはかぶりますが、MJが3年の時にケニーは1年だった筈だから、一緒にはプレーしていないかな?
・ロス五輪バスケアメリカ代表のHCは、インディアナ大学HCのボビー・ナイト氏。大学では指導時に怒鳴りまくるどころか鉄拳制裁さえした事があるのでは?とも言われた、熱血HCです。彼が五輪前の囲みの会見で記者の一人から、「アメリカ代表は勝てないんじゃないですか?」と質問された時の答えがカッコいいです。「 お前、マイケル・ジョーダンって選手、見たことねぇのか?ヴィデオじゃなくって、生でだ! 」でした。これで、この囲み会見は終わりだったのだとか。ただ、この質問をした記者って、確か日本人だったと思います。「見たこと」? う~ん、無いでしょうねぇ(笑)。ってゆーか、名前さえ知らなかったかも。
・誰のコメントだったかは忘れましたが、「もしUNCのスミスコーチがMJにリミッターをかけなかったら、大学時代の通算平均得点は40点をはるかに越えた筈だ」と言った人がいました。またその人は、「MJが20台後半の体力がピークだった頃に今のNBAに現れたら、1試合40点以上は取る」とも。ロッドマンでしたっけ?さすがに40点は無理かなと思いますが、ハンドチェックのルールが変わっています。もしかしたらって思いますよね。
・本文に、ルーキーシーズンにオールスターに選出された事と(デトロイト・ピストンズのアイザイア・トーマスに)フリーズアウトを食らった事を書きましたよね。パスが来なかったので当たり前っちゃ当たり前ですが、ジョーダンはオールスターでわずか7得点でした。で、オールスターの2日後に、フリーズアウトの主犯wアイザイア率いるピストンズとの試合がありました。延長になったとはいえ、その試合でMJはブルズの新人記録となる49得点!リバウンドも15取っています。もちろん、ピストンズを破って(139‐126)います。MJはフリーズアウトの仕返しをバスケでした訳です。カッコいいですね。
・背番号23は、シカゴ・ブルズと母校のノースカロライナ大学で永久欠番になっていますが、何故かマイアミ・ヒートでも2003年に永久欠番になりました。これは当時ヒートの社長さんだったパット・ライリー氏が、当時MJが在籍していたウィザーズとの試合前にMJへの敬意を表したからです。良い話ですよね。ライリー氏って意外に熱い男なんですね。ま、これも有名かな。
・足の骨折でシーズン大半を棒に振った2年目ですが、この頃MJはノースカロライナ大学に戻って専攻していた地理学の単位を取ったそうです。
・MJの逸話ではありませんが、現在ノースカロライナ大学の体育館は「ディーンスミスアリーナ」と呼ばれています。偉大なHCだったんですね。
・これもMJの逸話ではありませんが、MJが骨折で18試合しか出られなかった1985~86年シーズンのブルズの戦績は.....。何と、30勝52敗です。よくまぁこんな悲惨な成績で、プレーオフに行けましたよね(笑)。
・本文にも書いたセルツ戦の63得点は、いまだに破られていないNBAプレーオフ最多得点記録です。ちなみにブルズは3連敗でプレーオフ敗退となりましたが、その3試合のMJの平均得点は驚異の 43.7点 です。もう一度書きます、MJは平均で44点近く取りましたが、勝ち抜いたのはセルツでブルズはただの1回も勝っていません。
・その63点取ったセルツ戦ですが、この時セルツのベンチにいた選手はMJがスーパープレーで得点するたびに「おぉ!」とのけ反ったり「すっげぇ!」と歓声を上げていたりしたそうです。「選手が観客になってしまっていた」と、当時のセルツのHC(KCジョーンズでしたっけ?)が語っています。
・有名な話でしょうが、MJは早い時期から頭髪を剃ったいわゆる「スキンヘッド」でした。これは、若い頃から薄くなった頭髪を「ハゲ!」と言われたくなかったからです。NBAのトラッシュトークって、えげつないですからね。ってゆーか、MJのもかなりえげつないですがw。
・これも有名でしょうが(有名な選手だから、有名な逸話が多いw)、1986年のプレマッチでMJはバックボードをダンクで破壊したそうです。これを聞いて、「バスケのバックボードって、あまり大きくないMJでも壊せるんだな」と驚きました。ですから、後年シャキール・オニールがバックボードを壊しまくったと聞いても、「あんだけデカけりゃ、そりゃ壊れるわな!」位にしか(笑)思いませんでした。
・MJと言えば、本文でも書いた破格の契約をしたナイキですが.....。最初に好きだったサプライヤーは、よりによってアディダスだったそうです。何か笑える話です。