連作短編集『劇場という名の星座』
[書籍紹介]小川洋子による、帝国劇場を題材にした、連作短編集。雑誌『すばる』に、2025年3月号から10月号まで、8カ月にわたって連載したもの。ホタルさんへの手紙「ホタルさん」とは、遅れて来た観客を闇の中、席まで案内する時の懐中電灯から案内係をさす。十日前に亡くなった父親の部屋を片づけていた時、娘は、「屋根の上のヴァイオリン弾き」のパンフレット(プログラムのことか)をみつける。そこから、父親の人生ただ1度の観劇体験と一人の案内係との交流を描く。盲目の父親は舞台で演じられるユダヤ人一家の受難の中に、娘たちを送り出す父親の悲哀を感じ、涙を流す。父親と案内係の女性の手紙が胸に迫る。ちょっと泣きそうになった。内緒の少年劇場に住み着いてしまった少年を描く。少年の姿は、裏方のエレベーター係や楽屋食堂の料理人の女性や衣裳部屋や売店や付き人など少数の人にしか見えない。少年は小さい時に別れた母親を探していると、いうのだが・・・話の中に、東京宝塚劇場、芸術座、日劇を巡って来た葬列が出て来る。劇場の前に並んだ俳優や裏方たちに「先生、ありがとうございました」と送られる故人は、名前は出てこないが、菊田一夫と思われる。一枚の未来を手にする切符を取れなかったが、好きな俳優が出る劇場を見るために、夜行バスで東京まで出て来た少女。観劇チケットを見知らぬ紳士から譲られた研究所の資料室で働く補助員の青年。好きな俳優の最終公演を観るためにカレンダーに印を付けて、やって来た薬剤師の女性。この動きを3つ視点から描く。遠くからやって来た少女は、上演中に支配人の配慮で中に入れてもらい、パンフレットと小さなグッズを買い求める。資料室補助員は、初めての観劇体験に没入するが、隣の席が最後まで空いていたことを気にかける。そこは、薬剤師の坐るべき席だったが、「ミス・サイゴン」の刺繍のされた鞄を持つ認知症の老女の歌った「命をあげるよ」の歌に惹かれ、派出所で老女の娘さんが迎えに来るまで付き添い、ついに観劇に遅れてしまう。スプリングゲイトお仕事は何ですかと聞かれ、「帝国劇場の幕内係です」と答えると、たいてい不可解な顔をされる。劇場であらゆる仕事を引き受ける人のことだ。中でも、着到板の名札に名前を書き込む仕事が重要。着到板とは、楽屋入口のすぐそばにある出演者やスタッフの出入りを示す板。劇場に入る時、板をひっくり返して黒い名前を出し、出る時は、黒い札をひっくり返して赤い名前に変える。これで今劇場内に誰がいるかが分かる仕組み。ベテランの座長の着到板は木目が消え、琥珀色に変色し、新人のは木目の白さが残る。主人公の幕内係は心をこめて名前を書く。幕内事務所の物置に古い着到板が保管してある。亡くなった役者たちのもので、もう使われることはない。ある時、幕内係は、抜擢されて「ミス・サイゴン」のキム役になった新人俳優に、ある札を見せる。「初代のキムを演じた女優さんです。若くして病気で亡くなりました」(本田美奈子のこと)幕内係の男性の給料日のささやかな贅沢は、商店街にある「スプリングゲイト」という店で、ヘッドマッサージを受ける。その施術師の言葉。「行列の先頭に立ちたい人はいくらでもいますが、その通り道を整えるだけ整えて、無言で行列から離れてゆくことのできる人は、そう多くありません」生まれたばかりの赤ん坊の頭蓋骨に隙間がある「泉門」についての言葉。「生まれ落ちて、体と魂がきちんと一つになるまで、しばらく時間がかかるのかもしれません。先にこの世に出て来た体が、魂のために入口を開けて待っているんです。それが泉門、スプリングゲイトです」劇場の地下街にある占いの店で、姓名判断の際、占い師は言う。「姓名判断がなぜ成立するか、ご存知ですか?名前が、その人の人生に最も強く貼り付いた印だからです。他人が勝手にはがしたり、他の誰かと入れ替えたりはできない」こちらへ、お座り下さいロビーには、“幸福の椅子”と呼ばれる席が一席あるという。それがどの椅子かを知っているのは、売店で働くたった一人の人間だけ。幕内係、役者、支配人、社長、誰も知らない。定年などで劇場を去る最後の時、これぞと思われる売店の後輩に秘密を伝える。そういう伝説の“幸福の椅子”。ある時、主演級の女優が急病で出れなくなり、脇役の女優が代役に指名された。急遽、劇場に来て、台詞と動きを習得しなければならない。その女優がロビーで台詞を覚えていた。売店のその人は、女優をさりげなく“幸福の椅子”に案内する・・・ある女性は後妻に入り、3年間だけ先妻の子どもの母親だったことがある。離婚して、27年間、全く交流がなかったが、人から見せられた「レ・ミゼラブル」のパンフレットの中に、かつての義理の息子の名前を見つける。照明助手として。女性は劇場に足を運び、息子だった人の作り出す光と影を堪能する。そして、終演後、あの“幸福の椅子”に坐る・・・ 劇場は祈りに包まれた場所です。役と出会う時は神さまからいただいたと思い、役と離れる時は、頭を垂れ、神さまにお返しする。サークルうてな付き人から千秋楽にもらった胡蝶蘭の鉢を持ち帰った楽屋係は、家の庭に温室を作り、もらうたびに、そこで育てていた。そして、いつの間にか、付き人、楽屋係、通訳さんの三人は、そこで休演日の時をすごすようになる。胡蝶蘭の花に見える部分の一部は、実は萼(がく)で、うてなと呼ばれ、 2枚の花弁を最も美しく見せられるように支える。それはこの3人の役割と重なり、いつしかこのサークルの名前を「うてな」と呼ぶようになった。楽屋係の重要な仕事に楽屋と舞台をつなぐエレベーターの操作がある。台本を読み込み、どこで誰がエレベーターを使うか、頭にたたき込まなければならない。長すぎた幕間(まくあい)母親が臨月で劇場に行き、観劇中に産気づいて生まれた男性。実際は病院で生まれたのだが、男性は、「僕は帝劇で生まれた」と思っている。だから、母は「ローマの休日」の第2幕を観れていない。20年後、再演された時、男性は母親にチケットをプレゼントする。20年前、お腹の中で一緒に観た舞台だからと、母親だけに行かせる。劇場は待っている帝国劇場が建て替えられることになり、その最後の公演の日、沢山の人が劇場の前に集まる。そこで、「一枚の未来を手にする」の章で、薬剤師の観劇をさせなかった「ミス・サイゴン」の刺繍の鞄の女性が何者だったかが、分かる。彼女は「パラソル小母さん」と呼ばれた人だった。「ホタルさんへの手紙」の章で、「屋根の上のヴァイオリン弾き」のパンフレットを父親から受け継ぎ、再演の旅に初日に劇場に足を運ぶ女性。女性は、劇場の中で彷徨っていた少年を連れて去っていく・・・という、麗しい7篇の帝国劇場物語。裏方やチケットを求める名もなき人々の物語。さすが芥川賞作家。美しい文体で劇場への愛がにじみ出る。既に挙げたミュージカル以外に、「エリザベート」や「モーツァルト!」なども出て来る。「たった一枚の切符で、こんな時間を過ごせる、自分だけの椅子を用意してもらえる。何と素晴らしいことでしょうか」私も帝国劇場では沢山の演劇を観た。その話と、トリビアは、明後日。