福島県須賀川市(新幹線が通る郡山市の南)にある宇津峰は、太平記ファン、南北朝時代ファンにもあまり馴染みがない場所かもしれません。

時系列に沿って北畠軍団の年表を作ると…(年号は南朝使用)

 

延元三年 五月   北畠顕家 戦死

____ 九月   吉野から奥州に向けて義良親王・北畠親房らが奥州に向けて船出

____ __   遠州沖で嵐に遭い親王は吉野に戻り親房は常陸で南朝勢を募る

興国元年 六月   北畠顕信が宇津峰城に入る

__二年 四月   北畠親房が篭る小田城が落城
__四年 _冬   常陸の南朝最後の拠点 大宝城・関城が落城

 

西暦1338年から1343年までの五年間、北畠親房を中心に南朝は常陸で必死の挽回を試みていました。

しかし時代はすでに足利。湿地帯を利用した籠城戦もついに南朝力尽き、これを最後に南北朝時代は一応の終焉を見た、と言えるでしょう。

 

とはいえ北畠には顕家の弟・顕信が健在。顕家が戦死したのが21の時ですから、興国元年(1340)の時点で顕信も二十歳前後の若者です。

 

宇津峰を目指すと、そこはクルマがすれ違うこともできない狭い狭い砂利道でした。

 

 

途中コワモテのおじさんとすれ違うことになるのですが、なんとか切り抜けセーフ。

 

 

道はやがて行き止まりに。最終点にあるのがこの神社でした。

 

 

宇津峰の案内板です。南北朝時代の激闘について書かれています。

 

 

せっかく神社の入り口まで来たけど、城址はさらに先、山の頂上にあるとのこと。

ここから約一キロ、距離としては大したこともないのですが…

 

 

なにせこの急勾配。時間もすでに午後4時になっており、山に登ったら最後、帰る頃には日が暮れそうと考えると先に進むのは断念。

そもそもこの時は朝の霊山ハイキングで疲れていまして(笑

 

 

駐車場からの景色です。この宇津峰は、確かに守るのには適していても、地元を支配下に置き多賀城や関東に打って出るには不向きと言えるでしょう。それは先の霊山についても同じことが言えます。

 

常陸の親房と宇津峰の顕信は、白河の結城親朝を中継して連携し北関東から南東北で勢力圏を拡大しようと図っていましたが、小田・結城らが相次いで幕府側に投降するに及び、親房は吉野に戻ることを余儀なくされ、顕信は一人東北の地で必死の奮戦。

しかし宇津峰城は正平八年(1353)に落城、顕信はその後も今の宮城県内に現れ度々幕府の軍勢と戦い続けました。

 

ところで顕信の元には守永親王という皇子がいたようです。金ヶ崎城で戦死した尊良親王の皇子でした。

津峰城が落ちた後の消息はわかりませんが、北畠顕信との関係を考えると宇津峰を去った後は顕信と行動を共にし、現在の仙台市泉区にある山野内城で戦死、西光寺に墓が残る正平親王と同一人物の可能性は高いのではないでしょうか。

 

 

ぜひともあらためて太平記関連の記事をお読みいただけると幸いです。