頼りにしていた小田が足利に降ってしまうと、北畠親房は北西の大宝城へと逃れます。

それでもまだ親房は強気。白河の結城親朝を呼び寄せて挽回する気マンマン。この根拠なき自信、少しは見倣いたいくらいだ。

 

下妻市にくると大宝城…というか大宝八幡宮の案内板がある。城址はこの八幡宮の同じ敷地に。

 

 

立派な観光名所となっている大宝八幡宮です。駐車場も広いしお土産屋さんも軒を連ねて賑やか。先の小田城とはまた違った賑わいでした。

 

 

鳥居の右隣にこの案内板。

西に鬼怒川、東に小貝側が流れ周りは湿地帯、そこに小島のように浮かぶ大宝の低丘。

天然の要害ですが、しかし周りを抑えられると北の丘陵部以外に外と連絡するルートはなく、ちょうど金ヶ崎城の新田軍のように狭い場所に閉じ込められた格好となります。援軍がなければ風前の灯火。あとはどのくらい持ちこたえられるか、それが問題だ。

 

 

鳥居をくぐるとすぐ左手に現れる大宝城の説明板。

小田城、そしてこの大宝城と、親房の善戦に水を差す人物がいたようです。それは他ならぬ吉野の朝廷からの使者。

吉野朝、北畠親房の東国軍、東国軍から派生する藤氏一揆。南朝は三つに割れてしまい、ただでさえ劣勢な戦いをさらに追い込むのだから愚の骨頂としか言いようがないですね。

 

 

大宝八幡宮の仁王門です。

 

 

その門の脇には由緒の説明が。

頼朝が奥州藤原氏と戦う前にここを祀ったと。平泉の将・照井の末裔としては屈辱の場所。

 

 

社殿が見えてまいりました。

 

 

この木は「奥州紅」と名付けられている神木。前九年・後三年の役に赴く八幡太郎義家、そして平泉と戦う前の頼朝もここで必勝祈願なのだそうだ。これまた屈辱の史跡です。

 

 

七福神の石碑。ちょっとユーモラスだったので屈辱を忘れた瞬間。

 

 

 

鐘楼。そして奇妙な形の岩がゴロゴロ。

 

 

神社へのお参りと屈辱の歴史で、大宝城と北畠親房を忘れてしまった。

本格的に南北朝の話題は次回で。