仙台から福井県まで車でおよそ8時間。早朝に出て一乗谷に到着したのは夕方近くでした。

一乗谷はもともと訪問予定地ではなかったのでさらっと見て終了。本来の目的地は、南北朝時代に新田義貞が孤軍奮闘した敦賀の金ケ崎城です。

 

 

金ケ崎城の案内板。

これを読むまで、新田義貞が立て籠もった金ケ崎城と、織田信長が九死に一生を得た「金ケ崎の引き口」が同一であることを改めて確認。同じ史跡でも縦系列のつながりは、遠隔地だとなかなか意識しないものです。

 

ぢつは小学生時代に『太平記』を読んで、金ケ崎を岩手県金ケ崎と勘違いしていました。

というのも金ケ崎に落ちのびる時のサブタイトルが「義貞北国へ」みたいな感じで、我々仙台人にとって北国といえば北海道を別にすると青森岩手秋田しかありません。

その岩手県の金ケ崎は自分にとっても身近な場所であり、またのちに義貞戦死の遠因となる平泉寺と平泉を混同していたこともあります。

 

 

金ケ崎城がある丘のふもとの石碑。

 

『太平記』十七巻の二十四には次のように書かれています。

 

<かの城(金ケ崎城)の有様、三方は海に寄って岸高くし、岩滑らかなり。(略)岸絶え、地僻り(さがり)にして、近づいて寄らば、城郭一片の雲の上に峙ち、遠く矢を射れば、万仞(ばんじん)の谷の底に落つ。>

 

岬の突端にある壮大な山城を想像していたものの地図を見るとやけに小さい。実際に自分の目で金ケ崎城を見上げた時は、思ったより小さくて驚いたものです。

 

 

 

さて駐車場から登り数分歩いただけで頂上に近いところに出ました。

そこは後醍醐天皇の皇子、尊良親王が戦死した場所。

 

 

 

小さい山とはいえ周囲は断崖ですから守るのは容易な金ケ崎城。しかし周囲を完全に包囲され、杣山からの援軍も撃退され、あとは自力で粘るのみ。しかし小城ゆえ食糧の備蓄もほとんどなく、ついに周辺の草、空飛ぶ鳥、磯の貝や海藻、そして馬まで食い尽くし、やがて戦死した兵士の肉を食うという凄惨な飢餓が待っていました。

 

城の主将は新田義貞の嫡男新田義顕。まだ二十歳前の若者。義顕は戦の疲れと食糧難で力も尽き果て、尊良親王の前で自害することとなります。そして親王もそのあとを追いました。

尊良親王がここで自害したとすれば、新田義顕もまたここで自害したことになります。

 

新田一族が比叡山を出て北陸に落ちてからは、悲しい出来事の連続。この金ケ崎城の悲劇も忘れられませんが、木の芽峠を越えて解囲戦に来た杣山の軍勢の全滅もまた気の毒。