先月、仙台にある南朝皇子の墓を紹介しました。

 

http://ameblo.jp/lucky-penguins904/entry-12268359750.html

 

この山村宮・正平親王が戦死した実沢の城を探してきました。

実沢といっても広く、仙台の城郭の本を参考に探すと、出てきたのは山野内城でした。

 

仙台市青葉区の明成高校に沿った道は北西に、そしてゆっくりとカーブして北へと向かい、東北自動車道のガードをくぐって最初の信号を過ぎると間もなく左手に緑色の案内板。

 

 

山野内城はこの看板の矢印の通りに狭い道を左へと。

100Mほどのところで左側に「山野内城址・万人渕」の案内板が。

 

 

ここから西に見る小高い丘がその山野内城らしい。

 

 

山野内城は北に七北田川が流れ断崖になっている天然の要塞。

南側は起伏の激しい丘陵地なので、宅地化された現在ならともかく、森林が広がっていたであろう南北朝時代に大軍の通行が可能だったとは思えません。

なおこの丘陵部一帯は昭和前半まで山林であり、狼も出たというくらいでした。今では考えられないほど民家が並んでいるわけですが…

 

さて案内板。

ここは源平合戦時代の武将山内首藤経俊の飛び地と伝えられているのだとか。前述の南朝皇子山村宮が拠点としたことから山邑城とも呼ばれています。

山村宮はここで戦死し、年号をとって正平親王として墓が建てられました。

 

戦国時代は須藤一族がここを居城としたものの、戦国時代の天正年間に追われ逃亡(のち自刃)、残された女子供は七北田川に身を投げました。

その怨念は消えることなく、やがてこの渕は万人渕と呼ばれるようになったのだそうです。

 

うむ。怨念と万人のつながりがよくわからん(笑

 

 

城の北を流れる七北田川。今でこそこの水量ですが、かつてはもっと水が豊かだったことは間違いなし。ここが万人渕ということになりますか。

 

七北田川の対岸に渡り山野内城を撮影してきました。

 

 

この写真だとわかりづらいのですが、道がカーブした先に川が流れていて、ここから直接城の方に行くことは出来ません。

 

 

茨城の北畠関連の城を見終わって帰ってきたのが五月五日。ここ山野内城を見に行ったのは翌日でした。

仙台にも歴史はあるということを、仙台人は忘れちゃいけません。