さらされる顔と私
~ユニークフェイス大阪 松本 学
「容貌」から「顔」へ向かって

 松本学さんは今、広く「顔」が「普通でない」人たちの自助グループ「ユニークフェイス大阪」の世話人として活動しています。松本さん自身、顔の左側が「腫れて」います。限りなく「ふつう」に近く、少しアンバランスな印象を受けるだけですが、それが原因で、いじめをはじめとして、いろんな生きずらさを経験してきました。人間にとって顔とは何なのか? さまざまな角度から考えます。今回は「容貌」と「顔」の違いを考えました。

◆松本 学(まつもと・まなぶ) 1972年1月栃木県生まれ。94年東北大学文学部卒業。99年大阪教育大学卒業。現在大阪府立大学総合科学研究科修士過程。「ユニークフェイス大阪」代表世話人。問い合わせ、連絡先は〒547-0033 大阪市平野区平野西5-9-2-607 [Email]uniqueface@geocities.co.jp


左の頬に「腫れ」がある私

 私の顔。「ふつう」に限りなく近い。しかし、「ふつう」そのものではない。では、いったいどういう顔なのか? 左の頬からあごにかけて、大きな腫れがある。そのため、今まで「おたふくかぜ」といわれたり、「歯が痛いのか?」とたずねられる。左眼のまぶたもはれぼったい。ウインクをしているようでもある。一目見て、「あれ?」ともう一度見なおしてしまうような、顔。しかし、おたふくでも、歯痛でもない。これは生まれつきなのである。そして、腫れているからといって、痛みがあるわけでもなく、悪性のものででもない。ただ、腫れているのである。生まれつきこの顔なのである。これを医学では、「リンパ管腫」という。これが私の顔である。リンパ液の入った小さな粒が顔の左の医頬から首にかけて、無数にある、らしい。顔面神経の下にまでこの粒はもぐりこんでしまっているから、手術をしても、とり切る事が不可能である。
 このような顔を持つことの困難、生きづらさは、さまざまな常識によって隠蔽されてきた。そして当事者は、孤立を余儀なくされてきた。私もその例外ではない。「生きて」はいける。しかし、幼稚園にはいったころから、顔が原因でのいじめをうけた。同級生はおとなしい私の頬をつねったり、頬を膨らませて私のまねをしたりした。小学校では、顔の腫れによるいじめに加えて、手術あとのキズでのせいで「整形手術失敗!!!」とまでいわれた。教師達はまったく助けてくれなかった。異性が気になる年頃になると、「自分は相手にされない」とあきらめつつも、形成外科での手術で、「ふつう」の顔になる日のことを夢見ていた。高校2年の夏、二度目の手術をうけ、手術前と手術後でほとんど変わりがないことに失望する。しかし、それを感情に出すことはなかった。「それほどかわらないだろう」とうすうすはわかっていたからだ。あの夏、私はこれ以上自分の顔が「ふつう」になることをあきらめた。これでやるしかない。「変な顔」といって私を見下したり避けたりした人たちを見返してやろう、人は顔ではないのだ、そう思った。
 しかし、私がどんな思いで生きているか何てこととは無関係に、人は私の顔に必要以上に注目し、「どうしたのか」と聞いてくる。「よけいなおせわだ!」とおもう。しかし、人はどうしても「ふつう」と違う顔、私の左頬に注目してしまう。そして好奇心を膨らませてしまうのだ。大阪に住んで、電車に乗っていても、人ごみを歩いていても、私の顔を見ている人はいる。私には人ごみの中にまぎれるということができない。人ごみにまぎれるかわりに、部屋に閉じこもるしかない。それとも私の顔の皮を何十にも重ねてしまうか。

ユニークフェイスとはなにか

 このような生きづらさを背景として、1999年3月、大阪梅田で、ユニークフェイス大阪が発足した。東京、中部と足並みを合わせてである。99年11月末日現在の会員数は全国で約120名。そのうち、大阪30数名、そのうち女性が大半である。このユニークフェイスとはどのようなグループなのであろうか。これには少しく説明を要する。私たちのグループは、「容貌」と「顔」の問題を抱える人たちのあつまりである。あざ、キズ、麻痺、病気などによって顔が「ふつう」と違うとされてしまう人々の集まりである。ここで注意してほしいのは、このグループが、たとえばリンパ管腫だけで、集まってくるのではない。今までに、疾患ごとといった学問的分類にしたがって、集まった集団は多くあった。難病のさまざまな患者会、精神病などのグループ、アルコール依存、薬物依存などの嗜癖から立ち直ろうとするグループなどである。しかし、私たちは、そういった既成の枠組みではなく、「見た目」の問題という新しい枠組みで集まってきている。今までに存在した患者会の枠をこえた、大きな枠組みなのである。見た目の問題があるといえば、たとえば、やけどの会フェニックスがあげられようし、先天性四肢障害児父母の会、口唇口蓋裂の親の会なども、「みため」の問題を抱えることがあろう。また、どこかの医学部の医師によって半ば強制的に集められたわけでもない。私たちは、非常な偶然と、何人かの強固な意志によって結び付けられた当事者集団なのである。
 あざやキズ、麻痺、病気といったものをひとくくりに「疾患」と考えたとき、あざやキズなどを持つことは、「疾患によって固有の容貌をもつ」ことといえるだろう。この顔/容貌を、私たちの言葉では、「ユニークフェイス」という。顔/容貌が「ふつう」ではない、ということは非常に大きくて多様な問題をはらんでいる。そして、この多様な問題は、社会的常識と大きくかかわっている。常識とかかわるということ、これは、顔の問題を抱える人たちが、非常な困難を強いられるということを暗示している。つまり、常識によって当事者は虐げられ、とじこめられる。どのように顔の問題が社会的常識によって隠蔽されているか。顔の問題を抱える当事者はこの常識による隠蔽によってどのような生きづらさを感じているか。こういったことを社会に対して、訴えるためにこの会は立ち上がったのだ。

「顔」と「容貌」の違い

 私はここで、「顔」と「容貌」との違いを指摘することで、これからの話を進めていきたい。私たちはふだん、顔を何気なく見ることで、日常生活を送っている。しかし、顔という場所には二つの意味の違いが存在する。ひとつは、デザインとしての顔。医学写真の顔などは、その顔に人格を見ることはふつうしない。症例を指し示すために使われる顔。カタログの顔。これを私は、「容貌」と呼びたい。たとえば眼や鼻のかたち、輪郭などはデザインである。
 一方、私たちは、人の顔に、デザイン以外のものをも見出す。それはどのようなかたちで現れてくるか明らかにはならないかもしれないが、確かに顔という場所に現れてくる「その人」そのものである。このように、容貌という土台の上に、現れてくるようなその人そのもの、これを「顔」と呼びたい。
 このような区別がどうしてここで出てくるのか訝(いぶか)る向きもあるかもしれない。つまりこういうことである。ユニークフェイスをもつ人は、その人の人格、内面などが現れてくるような「顔」ではなく、実は、デザインとしての顔である「容貌」の特異性によって、いろいろな問題を抱えている。だから、ユニークフェイスを持つ人の目指す地点は、「容貌」ではなく、「顔」をみてもらうことなのだ、ということである。ユニークフェイスに対して、ある種の感情を抱く人は、恐らく「容貌」の特異さを、「顔」の特異さ、つまり人格の特異さにまで押し広げて解釈しているのだ。これはユニークフェイスを持つひとにとって、非常に不本意なことである。

 容貌を過剰に意識させる「常識」

 会が実際にはじまって、改めて感じたことがある。今まで日本ではこの問題が大々的に取り上げられなかったということだ。これには、いくつかの側面がある。まず、ユニークフェイスを抱える本人とその家族は、ユニークフェイスであることをいかにも些細なこととして、扱ってきた。これには、いくつかの「常識」が影響している。

「顔は問題じゃない」という建て前

 はじめの「常識」は、「見た目の問題」は、「人間の人生にとって本質的なことではない、二次的な問題である」ということである。この「常識」の与える影響力は大きい。たとえば、「顔はもんだいではない、こころこそが大切である」という言い方。とくにユニークフェイスを持つ人が男性である場合、容貌ではなくて、内面性で自分を表現するように求められる。内面性という土俵で勝負すれば、必ず評価してくれるという慰め。しかし、そういう「常識」と表裏一体となって、非常に強力な「デザインの美至上主義」が存在する。この「常識」は、先の「内面イコール本質」という「常識」があるがゆえに、存在することができる。「本質的には内面が大切である」と留保することで、建前としては、前者をかたり、現実の行動には、後者を適応する。これが、「ふつう」の人の戦略のひとつであろう。この「常識」に裏打ちされた価値観がもっとも反映されているものが、テレビである。テレビに登場する俳優は美男美女であり、一般に「性格俳優」といわれる俳優でも、ある一定レベルの容貌の規準を満たしている。たとえば、久本雅美が、美しさで売っていないといっても、それは、一般の人が安心してみることのできるレベルの顔である。その程度の顔は、すでに折込済みなのである。つまり、私たち(「ふつう」の人と、ユニークフェイスを持つ人)は、「容貌」という言葉とその言葉が意味するものの範疇をあらかじめ予想している(ここで、ユニークフェイスをもつ人は、「ふつう」の人に負けず劣らず「容貌の美」にこだわるということは十分に考えられる。実は、かくいう私もそうであったかもしれない)。つまり、ユニークフェイスをもつ人は、「ふつう」の顔の規準から外れてしまう。ここに、さまざまな問題が生じるのだ。換言すれば、「容貌」と「顔」はちがうものであるはずなのに、私たちは、この二つのものを一緒に論じてしまっている。いっしょに論じてしまうがゆえに、ユニークフェイスを、美醜の問題にひきつけて議論してしまうという傾向が生じるのだ。その結果、当事者は、美醜という観点からは、どうすることもできない、また、美醜は本質的なことではないということから、問題を隠蔽するのだ。一方、「ふつう」の人は、「美は本質ではない」という「常識」を隠れ蓑にすることによって、堂々と美至上主義へと入り込む。ここに、ユニークフェイスの問題は入り込む余地を見出せないのである。
 ユニークフェイスにかかわる「美至上主義」のもうひとつの例として、化粧があげられる。とくに女性の場合、あざを持ったりすると、ファンデーションで隠すことが可能になる。あざを、隠すことに特化したファンデーションがいくつかの化粧品会社から出されているし、専門のメイクを有料でするところもできてきている。このことは何を意味するのであろうか。化粧というのは、自分のあざやキズを隠すことである。そして、隠蔽することによって、「ふつう」の顔に近づけようとする手段である。しかし、ここで問題が生じる可能性がある。化粧によってあざを隠蔽すると、化粧をした本人にある種の後ろめたさが生じることがある(ここで私は化粧によって本人が得られる社会的自信、リハビリ効果を否定するものではない)。また、化粧をするということは、それを落とすときがあるということであり、隠蔽するということは、逆に暴露される可能性におびえたり、いつかカミングアウト(自ら名乗ること)しなくてはならないという気持ちが本人に沸き起こる可能性を否定できないということとつながる。つまり、化粧とは、「ふつう」の美しさにどこまでも近づこうとする営みであるが、それゆえ、ユニークフェイスを持つひとにとっては、限界を突きつけられるものになるということである。
 さらに、「男らしさ」「女らしさ」ということも大きく影響するように思われる。実はユニークフェイスの会員は女性が大半なのである。これはどういうことを意味するのであろうか。私は、いつも自分の顔を気にしたときに、「男は顔じゃない、ハートだ」といわれつづけてきた。確かに内面は重要だ。しかし、それは男であろうと、女であろうと、関係のないことのはずだ。「男は……」というところに、「男は顔について語るな」という規範が存在するように感じる。その反対で、女性の場合は、「美しさ」を常に求められてきた。「女は顔が命」というのは、いまだに大きな影響を与えている。これは、会員の男女比に明らかではないか。では男女のどちらが、よりつらいのか? それは、どちらともいいきれない。すくなくとも、会員数をもってしてはいえない。男はユニークフェイスの問題を持っていて、それによって生きづらさを感じていても、問い合わせすらできない可能性がある。「美しさ」について語ることができないのだから。

「顔の美」の価値

 これまで述べてきたこと、これからユニークフェイスというムーブメントが目指していくものは、どういうものだろうか。
 ユニークフェイスは「もうひとつの美しさ」を価値観として、社会に認めさせることが必要だろう。確かに「容貌の美」というのは、存在する。デザインの均整が取れていることなどはそうだろう。しかし、もうひとつの「顔の美」という価値を考えることもできよう。「わたし」の内面がにじみ出るような顔、これは確かに存在する。たとえば、私たちが写真を撮られるとき、「いい顔」に撮られたと思ったり、「だめ」な顔に撮られたりする。「いい顔」に撮られるとき、どういう状況だったか、振りかえってみるとよい。とてもいい気分だったり、写真を意識しないような要因が働いている。これはたとえばカメラマンが気のおけない友人であるとか、恋人であるというような例である。こういった場合、私たちは撮られることの緊張を解いて、私そのものとも呼ぶべき、なにものかを放射しているのだ。

あえて容貌/顔をさらす

 ただし、ここには、ある種の修練が要求される。「顔の美」は、容貌からにじみ出てくる美しさであり、ただ見るだけでは、見るものの前に現前しない。そのように困難な顔の美を、「ふつう」の人が見つけられるように、私たちは活動しつづけなければならない。そのために私たちは、メディアにも出つづける。今まで隠蔽されてきた容貌/顔をあえてさらす。そこには、見世物小屋を見るような、好奇の目が存在することはわかっている。そして、こうした好奇の目がもっとも隠微な差別であり、もっとも強固に身についてしまっているということも確かだろう。それでも、少なくとも私は、少しづつ顔の美を認めてもらうために、容貌の美だけで人を判断してしまうような社会の規範に対して、異議申立てをしていくつもりである。こうして、彼らに、私の容貌と顔を、容貌と顔の違いをつきつけることで、私たちの問題が、わずかでも理解されていくために。