311で多くの方々が亡くなられました。
あらためて心からお悔やみ申しあげます。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波が地震発生後およそ50分経った15時36分頃[3]、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)を遡上してきた。この結果、河口から約5kmの距離にある同校を襲い[4]、校庭にいた児童78名中74名と[5][6][7][8]、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡した[9][10]。スクールバスの運転手も死亡している。
学校の管理下にある子どもが犠牲になった事件事故としては戦後最悪の惨事となった
という事故がありました。
お子さんを亡くされたご家族のうち23人のお子さんの
ご家族が起こした訴訟で先日仙台地方裁判所で有罪の判決が
石巻市に下されたのです。
そして原告のご家族がホッとする中なんと石巻市は
控訴を決めたのです。
以下が判決の要旨です。
【事実経過】
大川小の教員らは地震直後、児童を校庭へ避難誘導し、保護者らが迎えに来た児童以外の下校を見合わせた。学校は海岸から約4キロ離れ、県の浸水予測では津波は及ばないとされていた。集まってきた地域住民の対応をしながら、ラジオ放送で情報を収集。午後3時半ごろまでに、従来と格段に規模の異なる大きな津波が三陸沿岸に到来し、大津波警報の対象範囲が拡大されたことを認識した。
石巻市の広報車は、遅くとも午後3時半ごろまでに津波が北上川河口付近の松林を越えたことを告げて高台への避難を拡声器で呼び掛け、学校前の県道を通過。教員らはこれを聞いていた。
教員らはこの直後ごろ、大川小から西に約150メートル離れた河川堤防近くの県道と国道の交差点付近に向け、校庭にいた70人余りの児童とともに移動を決め、同35分ごろまでに出発した。大川小には同37分ごろ津波が到来。教職員と児童は歩いている間に津波にのまれ、裏山に逃れた教員1人と児童4人が生き残った以外、全員が死亡した。
【注意義務】
広報車による避難呼び掛けを聞く前は、学校に津波が到来し、児童に具体的な危険が及ぶ事態を教員らが予見可能だったということは困難だ。この段階では県内に津波が襲来するという情報しか得ていない。裏山も土砂災害の危険はあった。
だが、広報車の呼び掛けを聞いた段階では、程なく津波が襲来すると予見、認識できた。地震は経験したことがない規模で、ラジオで伝えられた予想津波高は6~10メートル。大川小の標高は1~1.5メートルしかなく、教員らは遅くともこの時点で、可能な限り津波を回避できる場所に児童を避難させる注意義務を負った。
【結果回避義務】
移動先として目指した交差点付近は標高7メートル余りしかなく、津波到達時にさらに避難する場所がない。現実に大津波到来が予期される中、避難場所として不適当だった。
一方、裏山は津波から逃れる十分な高さの標高10メートル付近に達するまで、校庭から百数十メートル移動する必要があったが、原告らの実験では、移動は徒歩で2分程度、小走りで1分程度だった。斜面の傾斜が20度を上回る場所はあるが、児童はシイタケ栽培の学習などで登っていた。避難場所とする支障は認められない。
被災が回避できる可能性が高い裏山ではなく、交差点付近に移動しようとした結果、児童らが死亡した。教員らには結果回避義務違反の過失がある。
子供たちも馴染みのある裏山に避難をしていれば
全員無事だったと判断されています。
災害の被害者同士である中で争われた
厳しい裁判。
学校関係者の判断が命うを奪う結果につながったことは
間違いありません。
ランキングに参加しております。
是非応援よろしくお願いいたします。
しかし、子供達を失ったご家族の気持ちを考えると
石巻市は判決を謙虚に受け入れ、今後の復興を共に
歩んでもらいたいと思うのですが。