酒場人生覚え書き -10ページ目

続・続 人間機雷 325

第六章 夢幻泡影
三 歳月 


3 国士への道 1 ( 5)
書経は前600頃書かれた政令集である。古代からの君臣の言行録を整理したもので、聖王の『虞書』、夏朝の『夏 書』、殷朝の『商書』、周朝の『周書』の4章あり、尭・舜から秦の穆公に至るまで全58篇で構成さている。
礼記は前漢末期頃書かれた“礼”(戦国以前の制度・習慣)が説明された書物である。日常の礼儀作法や冠婚葬祭の儀 礼、官爵・身分制度、学問・修養などについて説明されていて全49篇ある。


易経は前700頃書かれた古代の占術理論書である。卦を説明する『経』とその解説の『十翼』で構成されていて、 十翼は、卦に関する『彖伝』上下、爻に関する『象伝』上下、用語を説明する『繋辞伝』上下、乾坤二卦に関する『文言伝』、配列を説明する『序卦伝』、八卦を説明する『説卦伝』、対比を説明する『雑卦伝』からなっている。 

自然現象を万物の事象の象徴としてとらえ、生成変化を予測するという内容から儒家だけではなく、道家にも尊重された。もともとは『周易』と呼ばれており、『易経』と呼ばれるようになったのは宋代以降のことだ。
春秋は前5世紀頃書かれた魯国の歴史書である。もともと編年体の年代記を孔子が整理したとされている。『春秋』の 本文自体は各年が数行単位の簡潔なもののため、解説書として、前漢初期には『公羊伝』『左氏伝』『穀梁伝』などが伝わり、前漢末期に左丘明が編纂した『春 秋左氏伝』が主流となった。


それらの概説を教えられてもこれがいったい何の役に立つのだろう・・・・という困惑さがさきにたち熱は入らなかったが、それでも繰り返し読み続けるなかで、いくつかの名言にも巡り会った。
詩経のなかに出てきた『切るが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し』である。切磋とは象牙や骨を細工する時、切ったり削ったりすることであり、琢磨とは球や石を加工する時、叩いたり、磨いたりすること。つまり磨いたうえにも磨きをかけるというところから、学問のうえにも学問を積み、修養のうえにも修養を重ねるのにたとえたもの。たとえば至誠館の道場生連中が互いに励ましあって、ともに向上につとめてきたのはまさにこれであろう。

 

          

『戦戦兢兢として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し』とは恐れ慎んで、深い淵に臨んだり、薄い氷の上を歩く時のように、いやがうえにも慎重に対処する心構えをさすことである。
春秋のなかにある『驕りて亡びざる者は、いまだこれあらざるなし』驕りたかぶって亡びなかった者は、いまだかつていないという教えも心に留めおいた名言だ。
また『己を修めて人を責めざれば、則ち難より免る』  はひたすら自分を磨くことに努め、人の過失をとがめない。これを心掛ければ、危難を免れることができるとでも解釈するのだろう。
易経のなかにある『積善の家には余慶あり。積不善の家には余殃あり』は善行を積み重ねてきた家は、孫子の代に至るまで幸せに恵まれる。不善を積み重ねてきた家は、後々まで必ず禍を受けるということだろう。


少年の頃から慣れ親しんだ名言として『至誠神の如し』がある。中庸の名言だが、すなわち“至誠は神のような力をもつ”というものであり、『君子はその位に素して行い、その外を願わず』であった。“君子というのは、現在の位置や境遇のなかで与えられた責任を果たすことだけを考え、そのほかのことは一切念頭におかないものである”・・・・ということは、予科練時代に教官から教えられたことは、護国のために何も考えること無く、死んでいけということだった。

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こころ絵 『逆境』

『逆境』

 

広辞苑には“逆境”とは“思うようにならず苦労の多い境遇”とあります。

自分の人生を振り返ってみれば順境の時よりも、逆境に苦しんだときの方が多かったような気がします。

シェークスピアは 『逆境こそ身のためになる愉ばしきもの。それは蝦蟇(がま)に似て、醜く、毒を含んではいるが、頭の中に貴重な宝石を宿している』と言います。

西洋のことわざには『順境は幸運者を試し、逆境は偉大さを試す』というのもあります。

・・・・とすると偉大さを“試されすぎた”のが私の人生だったのでしょうか(笑)。

 

ロシアの小説家トルストイは『逆境が人格を作る』のだよと言ってくれているのだけど、はてさて人格が高まったのかどうか・・・・

そしてドラえもんは“のび太”に言います

障害があったらのりこえればいい!道をえらぶということは、からずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ

・・・・励まされるナア。


            酒場人生覚え書き

 

逆境の中にありながら、これもまた順境と思えたらと気合いを込めて逆書きしてみました(笑)。

 

 

 

 

 

                 

続・続 人間機雷 324

第六章 夢幻泡影
三 歳月 


3 国士への道 1 (4) 
 「最後が『仁・義・礼・智・信』の“信”だが、心と言葉、行いが一致し、嘘がないことで得られる信頼なのだよ。嘘のために一度損なわれた信頼を、取り戻すのは難しい。たとえ、仁なる生き方を実践していても、人に信頼されないことには社会で生きていけない。信頼は、全ての徳を支えるほどに大切なのだ。
これについてはこんなたとえ話がある。二宮尊徳はしっているだろう。彼は生活が苦しい藩士のために、“五常講”という金融の仕組みを作った。五常すなわち『仁・義・礼・智・信』の徳を実践するものであれば、その“心”を担保にお金を借りられるというものだった。借りた者は、借りたときの感謝の気持ちを忘れずにきちんと返せば、五常の徳を実行したことになるというこの制度は、後の信用組合の原型となったのだよ」

これは「生きる基本」であり、自分磨きの基本中の基本であると諭されてからというもの
仁:礼に基づく自己抑制や他者への思いやり
義:物事の理にかなったこと。道筋を通すこと
礼:社会の秩序を保つための生活規範。けじめを持って行動すること
智:物事を理解し、賢いこと。知恵を磨き続けること
信:約束を守ること。守れないときは事前にお詫びし、了解をいただくことを自問自答しながら日々を過ごすようになったのだが、過去を振り返ると冷汗一斗の思いに襲われることしばしばであった。

 

                          

秀敏は四書五経に取り組んだ。
四書五経とは儒教の教典で重要な9種の書物のことで、四書は、「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経は、「詩経」「書経」「礼記」「易 経」「春秋」である。
もともと孔子の時代には、詩経、書経、易経が明確に整理されていただけだったが、そのご漢代までの間に礼に関する『小戴礼』を、楽に『詩経』をあてて、儒 家の基礎経典としての五経が尊重されるようになったのだ。また、宋代に朱子学が興って、儒教を体系的に学ぶために儒家の経典をまとめ、論語を中心として礼 記から大学と中庸を独立させ、儒家思想について多く書かれた孟子を加えて四書としたのである。


ちなみに『大学』は前430頃書かれたもので、もともと『礼記』のうちの一篇。漢の武帝が儒教を国教と定めて大学を設置した際、その教育理念を示したものとされ、要するに君子の学習方法を論じたものである。
『中庸』もまたその頃書かれたもので、『大学』と同じくもともと『礼記』のうちの一篇。中庸とは偏りが無く永久不変という意味で、道徳の原理、不変の道理を論じたものである。
『論語』は上下20篇からなり、孔子の談話、弟子の質問に対する答、弟子同士の討論などが書かれているが、漢代には、魯国に伝わった『魯論』20篇と、斉国に伝わった『斉論』22篇、古文で書かれた論語『古論』21篇の三種類があった。その後漢代末に鄭玄 が『魯論』を基礎として現在の20篇に集約したものが現在伝わっているものである。
『孟子』は孔子の弟子・孟子による、『論語』を真似た言行録であり、当時の儒家の標準的理解が記述されていて、孟子の仁義を中心とした思想によって解釈されている。
また五経のうち『詩経』とは前470頃書かれた中国最古の詩歌全集である。西周初期から春秋中期(前11世紀?前6世紀頃)の多くの詩の中から孔子が雅楽に合う305編を選んで編集したもので、地方民謡の『国風』、諸侯歌謡の『小雅』、天子歌謡の『大雅』、霊廟歌謡の『頌』の4章で構成されている。

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こころ絵 『頑』

『頑』

かたくな

 

(かたくな)な心”といえば“片意地を張った心”とでも訳すのだろうか。

青春時代そんな心根を隠し持った美しい女性から、“ひじ鉄”を食らったことがあった。

おっと、今どき“ひじ鉄”なんて言葉は使わないんだろうな(赤面)。

いまふうに言えば“フラれた”のだが、心の傷も癒えてカサブタもきれいサッパリとれた頃、酒場で偶然にあった彼女に言われた言葉は
貴方って見掛けによらず頑固者なのね・・・・私の気持ちを知っていながら、振り向こうともしなかったんだから

何をかいわんやである。

去る者は追わずサ・・・・

などと言いながら、心底ホレていた彼女からつけられた古傷に、涙のような血が滲んできた。


              酒場人生覚え書き
 

ひじ鉄”なんて言葉が普通だった、遠い遠い青春の日の想い出・・・・いまでは“”をまとって歩いているような親父だって、たまには昔日に涙することだってあるサ。

 

 

 

 

 

 

 

 

続・続 人間機雷 323

第六章 夢幻泡影
三 歳月 

 

3 国士への道 1 (3) 
「“義”とは、人の歩んでいく正しい道のことである。義をおろそかにすることは、道を踏み外すことになる。仁を実践する基本として、義を貫くことが必要なのだよ。本当に人を愛し思いやる生き方は、正義を貫いてこそ成り立つものと思え。
武士道では、義の精神が重く考えられてきた。貴君も知っている武田信玄と上杉謙信の『川中島の合戦』のとき、海のない山間部を領土とする武田方が、敵対する今川・北条側より商人の往来を制限され、塩の供給を絶たれのだが、これを聞いた上杉謙信は、塩を自国から供給すると申し出た話はあまりにも有名だ。
“武士が雌雄を決するのは弓矢と刀である。敵であっても窮状では助けるのが武士であり、弱みにつけこむのは卑怯”と考えた謙信は、義を貫いたのだ。謙信が“義の人である”と後世まで賛じられたのもこの故事からなのだ」


「有名な話で自分も知っています。信玄が死去した際には“吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや”と号泣したと言われていますし、一方の信玄も、勝頼に対して“謙信は義理堅い人物だから、自分の死に乗じて攻めてくる事はない”と言い残したという逸話も有名です」

 


「謙信の死後、後を継いだ上杉景勝と勝頼は同盟を結んでいる程であるから、謙信の“義”は讃えるべきものであるな」
「つぎは“礼”だが、これは人の世に秩序を与える礼儀礼節は、仁を実践する上で大切なことである。親や目上の人に礼儀を尽くすこと、自分を謙遜し、相手に敬意を持って接することが礼、場合に応じて自分を律し、節度を持って行動することが節という。
礼節を尽くして人を訪ねるという意味の「三顧の礼」という故事がある。この言葉の元は、三国志だ。
劉備玄徳は、戦いで優位に立つために、優秀な軍師として諸葛亮孔明を迎えようと考え、彼の草庵を訪れた。しかし、一度目、二度目の訪問時は留守のため会うことができず、三度目、長いこと待った末にようやく会うことがかなった。その後諸葛亮は、自分が劉備のために奔走することになったのは、劉備が自分を目下とみなさず、礼を尽くして何度も訪ねてくれたからだと語ったという」


「その話はも聞いたことがあります。礼節は己を謙遜し、相手に敬意を持つことから始まるのですね」


「そのとおりだ。また“智”とは、人や物事の善悪を正しく判断する知恵なのだ。さまざまな経験を積むうちに培った知識はやがて変容をとげ、智となって正しい判断を支える。これをより智を高めるには、偏りのない考え方や、物事との接し方に基づいた知識を蓄えることが必要なのだよ」


「予科練時代の座学でも『仁・義・礼・智・信』は学びましたが、老師のお話を伺っていると、特攻精神をたたき込むために本来の意味からかけ離れて解釈されていたように思います」


「これから学びなおしたら良い。中国の儒学者洪応明は、『菜根譚』という書を残したが、これは儒教、道教、仏教の教えを踏まえ、処世の道、よりよく生きる知恵を書いた随想集なのだ。このなかには、“あまり暇があると、つまらぬ雑念が生じる。あまり忙しすぎると、本来の自分を見失ってしまう”というように、偏った生き方を戒める言葉がいくつも書かれているからこれもまた学ぶがよい。
儒教では“中庸”といって、よいバランスを保って生きることが大切とされており、これは、正しい判断力すなわち“智”を高めるにおいても同様といえるだろう」
 

「分かりました」

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こころ絵 『南無観世音』

『南無観世音』

 

43歳で頭を丸め仏門に入った山頭火ですが、終生を漂泊者しながら句を作り続け58歳で亡くなるまでに84000句を詠んだと言われます。

出家してすぐに熊本県植木町の味取(みとり)観音堂の堂守となりましたが、それも1年ほどしか続かず、翌年の春「解くすべもない惑ひを背負うて」と行乞(ぎょうこつ)流転の旅にでます。

 

その頃の句に

松はみな枝垂れて南無観世音

あるがまま精一杯生きてゆきたい南無観世音

南無観世音おん手したたる水のひとすじ

などがあります。

観世音菩薩は“観音サマ”の俗称で親しまれ、多くの人から信仰されているのですが、ほかのどの菩薩よりも寛大で、人間の苦しみや憂いを聞きとどけてくれるのだそうです。

 

山頭火もまた人に言えない孤独感や、苦悩や、死生観を観音様に祈りつつ、すべてを委ね、救いを求めたのでしょうか。

上掲の三句はどれも山頭火の心の叫びが聞こえます。

 

                 酒場人生覚え書き

 

ふたたび旅に出ようとする山頭火の後ろ姿に『南無観世音おん手したたる水のひとすじを添え描いてみました。

 

背景に薄く滲み出しているのが菩薩さまの横顔です。

見えない方は信心が足りないですよ(笑)

 

 

 

 

続・続 人間機雷 322

第六章 夢幻泡影
三 歳月 


3 国士への道 1 (2)        
老師は論語の進み具合を見計らいながら、その折々に解説してくれるのが、論語に傾倒するモチベーションとなっていた。
その一例を時折おもい出しては咀嚼してみる。
雲峰寺の月心老師は宗教家でありながら、昭和最後の剣聖と崇められ、あらゆる武道を極めていた。そのうえ弘法大師の流れをくむ入木道五十三世の伝統を受け継ぎ書家としても高名であったし、四書五経にも造詣は深く、大正天皇に進講されたこともある。
そのおり皇室から二十一史の下賜があった。  


二十一史は、中国の古代から元代までの各王朝の歴史書の総称で、中身は「史記」、「前漢書」、「後漢書」、「三国志」、「晋書」、「宋書」、「南斉書」、「梁書」、「陳書」、「。後親書」、「北斉書」、「北周書」、「隋書」、「南史」、「北史」、「新唐書」、「新五代史」、「宋史」、「遼史」、「金史」、「元史」の二十一部である。これは雲峰寺の書庫に収められている貴重な蔵書である。
また陽明学に裏付けされた東洋政治哲学の権威であり、人間学にも造詣の深い師の人格の骨ともいうべき核心は、「無我・至誠の愛国心に燃える思想家」としての一面である。

老師は講義の初めにこう諭してくれた。
「日本でも古くから浸透していた儒教の教えに五常『仁・義・礼・智・信』というものがあり、この徳性を拡充することにより、人として守るべき五つの道。すなわち君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の道をまっとうすることを説いている。このことはすでに知ってはいるとおもうが、表皮的にとらえるだけでは何の意味も持たない。言葉面よりは心で受け止めることが大事なのだ」
夢おろそかに聞き流すのは止めよう・・・・老師のその一言が教えてくれたのである。

 


 

「“仁”とは人間が守るべき理想の姿である。自分の生きている役割を理解し、自分を愛すること、そして身近な人間を愛し、ひいては広く人を愛することだ。義・礼・智・信それぞれの徳を守り、真心と思いやりを持ち誠実に人と接するのが、仁を実践する生き方なのだよ。
例えば“武士の情け”という言葉があるが、これは仁から生じているものなのだ。単純に情け深いのではなく、自分には厳しく周囲には寛容に、かつ正義に基づいた慈愛を持って接することが大切とされているのだ。戦国武将・織田信長にはこの点が欠けており、敵ばかりでなく味方にも非情であった故に、天下統一はかなわなかったのだ」


「信長は戦国武将の中でも好きな人物ですが、その理由として柴田勝家や林秀貞といった、信長がかつて弟、信勝との家督争いを行っていた時期に信勝側についた人々を許したり、北陸戦線で秀吉が柴田勝家と仲違いして戦線を離脱した事を咎めなかったという逸話ものこっています。この“非常に寛大”さが魅力的だと思っていたのですがその非常さはどこからきたものでしょうか。それに誰もが思いつかない事を積極的に実践するという点も信長の魅力だち思っています。桶狭間の戦いの奇襲攻撃や南蛮文化を受け入れる姿勢、長篠の戦いなど戦に鉄砲を持ち込んだエピソードは非常に有名ですよね」


「たしかにそういう一面もあったかも知れぬが“鳴かぬなら殺してしまえ”の俳句のたとえの様に、比叡山焼き討ちや一向一揆など仏教勢力に対する苛烈な処置はいかがなものか。他にも、浅井長政や朝倉義景の頭蓋骨を家臣に見せたというエピソードも、信長の残忍な性格を表す逸話だろう。それにあまりにも自意識過剰であった。フロイスという宣教師は“日本においては信長自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではない”と述べておったと驚きを隠さず書き残している。信長は家臣の意見を聞かず、重要な事は自分で決断していた事でも分かるようにこの自信過剰さがから生じた非情さこそが身を滅ぼしたと言えるだろうな」 


「わかります」

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こころ絵 『消』

『消』


”の字は水を表す「さんずい」に、ちいさいをも意味する「肖」とで「水がなくなる」意から“消える”とか“消す”というはたらきを表しますね。

広辞苑で“”を牽いてみると

① あとかたもなくなる。ほろびる。少なくなる。火がきえる。
消滅・消尽・消失・消散・消長・消耗・解消・雲散霧消
② 使いつくす。ちらす。火をけす。
消費・消却・消灯・消火・消防・消化・消毒・抹消・費消・私消
③ ひかえめである。
消極」とあります。


仏教では“消化”とか“消除”あるいは“消滅”などの熟語を、悪いことや煩悩を無くしてしまうことに使うのだそうです。

」は別の物に変えてしまうこと
」は取り除いてしまうこと
」は尽きてしまうことですから、消化・消除・消滅のいずれも、意味としては大同小異ですね。

仏典中の“消化”はショウケと読み浄土宗の大切なお経のひとつ『量寿経』のなかには五戒に背くなと書かれてかれています。

五戒とは「殺すな 盗むな 浮気をするな 嘘をつくな 酒に気をつけよ」ということですね。


他はともかく“酒に気をつけよ”は身につまされるな(冷汗)。


            酒場人生覚え書き

 

消除”は災障(災いや障り)を消し去ったり、心の煩悩や迷いを取り除く事に用いてきた語です。

災障消除諸縁吉祥ならんことを」と悪い物を消除して、諸縁(もろもろの因縁)を良い物にしていきたいという願いを、ひたすらに祈り続けることこそが浄土宗の原点になっているのでしょうか。

三番目の“消滅”ですが、仏教では「悪いことが消え失せる」ことに使います。

煩悩や迷いを取り除くという点では、消除と同じです。

人々は“諸罪消滅”して、多くの善根が育つことを願うべきだと説かれていますが、諸罪とは、知らぬ間に蓄積してしまった大小の罪のことです。

 

一国の首相ともあろうお方にさえみえた『消』にまつわる諸悪の記憶も消滅しないままの厚顔無恥・・・・そんな魑魅魍魎の跋扈(ばっこ)する世の中にあって、我が身を守る『護符』がごときものととして描いてみましたが、“消化”も“”も“消滅”も、汚れきった己の浄化のために都合よく解釈していたのでは、果ては仏罰のなかで地獄に堕ちるばかりですぞォ~~~。

 

仏教の世界だけに限らず善は賞され悪は罰せられること必定ですから(冷汗)。

 

 

 

 

 

 

 

続・続 人間機雷 321

第六章 夢幻泡影
三 歳月 


3 国士への道 1 (1)
矢張り秋山征志郎の勧めに従って、この雲峰寺に来たことは本当に良かった・・・・ことある度に秀敏はそう思う。
この1年足らずの間に会った人たちも、この山寺での生活に彩りを添えてくれた。
月心老師、蒔田源一、その妻(根津)貞子、そして馬賊だったという岩間権六は、ある朝、秀敏に突然挑みがかったが、敵わないと思うや研ぎ澄ました鎌で斬りかかってきたこともあった無頼者だった。
ついには雲峰寺の天狗に殺されたと噂された、村一番の乱暴者岩間権六だったが、彼の片思いの相手は事もあろうに蒔田源一の妻貞子であったことも後に知り、なぜか苦笑が腹の中に生じたりした。

その腕力自慢の無頼者権六と貞子の愛息根津銀治郎の立ち合いの様子を蒔田から聞いたときから、いずれ機会があったら月心に手ほどきを受け、蒔田に鍛え上げられたという銀治郎と竹刀を交えてみたいものだと思っている。


また今もことある度に交遊がある村の青年達も、初めのうち“あの東京もん(者)は予科練がえりらしい”と嫌悪と奇異の目にさらされよそ者扱いだった秀敏を、やがて仲間として受け入れるきっかけとなったのは公民館道場『錬成館』に暴れ込んできた権六を、こともなげに叩き伏せたことからだった。それからというもの畏敬の眼で見られるようになり、やがては村祭りの手伝いのあと車座になって一升瓶の酒を回し飲みする仲間になっていった。

そのうちの何人かは錬成館の門下生に名を連ねたが、乞われるままに村芝居の立ち回りに一工夫してやったりしたものである。それもまた楽しい想い出である。

そんななかで秀敏の苦手とするのが、月心老師に命じられた“四書五経”の素読である。
予科練時代は飛行練習生となる前の教育を受ける所だったから、カリキュラムの殆どが、手旗信号とか、鉄砲の撃ち方とかの軍隊教育と航空学の初歩的な数学、機関学、爆薬学、弾道学といった座学だった。それに帝国軍人精神を鍛えるという目的のしごきにしごかれた体育科目が加わった程度であるから、漢籍を眼にしたことも無かったし、ましてや意味も分からず繰り返す素読などは思ってもみなかった苦行である。

 


 

月心老師は村の子供たちを集めて、法話を面白おかしく聞かせたり、小学校低学年の子供らにはまず“いろは”“数字”などから始め、“甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸”の十干や“子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥”の十二支・方角・町名・村名などを学ぶ。初めは月心老師が書いて与えた「手本」を見ながら書き習うのだ。
高学年になると写経にまですすみ、そのなかから仏法を自得させる高度な教えに進むから児童のほとんどが『般若心経』や 真言宗の『光明真言』をそらんじている。
またそれに平行して週に一度は“子曰く”ではじまる論語の素読をさせている。
それは江戸時代庶民は日常生活に必要な教養を求め「読み」・「書き」を主とする簡易な教育機関であった「寺子屋」と、武家の教養を積むために設けられた「藩校」を兼ねているような教育機関のようなものであった。
村人の有志も農閑期には三々五々と集い、説法を聴き、月心老師の蔵書から借り受けた漢籍の解釈を尋ねたりしている老農夫もいたりする。すべてが老師の徳を求めての集いである。
それを横目に見ながら秀敏も不得手ながら懸命に励んだ。
四書五経とは儒教の教典で重要な9種の書物のことで、四書は、「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経は、「詩経」「書経」「礼記」「易 経」「春秋」だが、老師から手始めにはこれが良かろうと勧められた「論語」には、どこかで聞いたことのある言葉が出てくる論語から始めた。
老師から「日本で最も『論語』を読み込んだ人は、後に270年間続く一大時代を築いた徳川家康と、現存する多くの大手企業の元を創設した渋沢栄一なのだよ。日本史上、政治と経済でもっとも成功したリーダー2人が、2500年以上前から存在する古典から学んでいたことを覚えておくがよい。貴君のようにこれから世に出て行こうとするものにとって、徳に心しておくことが肝要なのは論語の中に出てくる儒教の教え『五常』」である」と言われたことも、論語に対する興味をかきたてられた。                                                                                                                                                                                             続 

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こころ絵 『胡蝶の夢』

『胡蝶の夢』

 

宮本武蔵の師でもあった沢庵和尚が最後に書いた一字は「」だったそうです。

ただし、添え書きはこう云います。

是もまた夢

非もまた夢

弥勒もまた夢

観音もまた夢

仏云く

まさに是の如きの観を作すべし

 

そのことから思い出すのは『荘子』にでてくる「胡蝶の夢」の話です。

あるとき、荘周(荘子)は、胡蝶(ちょうちょ)になった夢を見ました。

ひらひらと気ままに飛び回りながら、自分が荘周であることに気づきません。

ふと目覚めると、驚いて辺りを見回しているのは、まぎれもなく荘周です。

さて、これは荘周が胡蝶になった夢を見たのでしょうか、それとも胡蝶が荘周になっている夢を見ているのでしょうか・・・・

沢庵さんも死にのぞんで荘周と同じような心境になって、人生そのものを『』と見立てた一字だったのですね。

 

胡蝶の夢」の小話は“もしかしたら、夢の中にいるのかも知れないですよ”という荘子のメッセージが、三千年の時空を越えて聞こえてくるようなきがします。

 


             酒場人生覚え書き 

 

」という字を「」に象ったつもりだけど、このチョウチョは“”の

ようで不細工すぎるな(苦笑)