こころ絵 『今日亦無事』
今日亦無事
旅行などから帰ってきたときに「全員、無事で帰りました」と知人・友人・家族に伝えたり、長い間無沙汰で過ごしている人に手紙を書くとき必ず「おかげで無事に暮らしております」と書き添えたりしますが、そこにはただの挨拶ではなく“無事”で過ごしていることの“幸せ”を伝えようとするこころが感じられます。
この“無事”という言葉、もとは仏教語で“精神的になすべきわずらいのない状態”のこと、言い換えれば“こだわりもなく、障りのない心の状態”をさしている言葉なのだそうです。
人は知らず知らずのうちに“悪いこと”が起こらないように願います。
そして、毎日が何事もなく平凡のうちに過ぎていくと、それに飽きたらずに何か“特別な良い出来事”が起こることを願ったりします。
人間の欲望は際限のないもので、欲するものが多すぎては、それと同じぐらいの失望や不幸が起きてしまうといいます。
いつも心にしまっておきたいのは『今日亦(また)無事』という言葉・・・・
“特別な悪いことも、良いこと起こらず、日々が平凡であることほど良いことはない”という願いです。
世界ではいまもなお戦争とか紛争が起こっていますし、身近でも凄惨な事件が絶えず起こっていますがこれは、無事の反対の“有事”です・・・・そう思うと無事のありがたさが身にしみます。
無神論者であることが自慢だったような“悪たれ小僧”も、歳を重ねたいまは『今日亦無事』などと描きながら、家族の、知人の、社会の、そして世界の無事を願ったりしています。
表六玉の独り言 207
しんちゃん 2
(3) 空襲警報
断末魔の叫びをあげる戦況は、ただ毎日が楽しければいい子供の世界にも、次第に暗い影を落とし始めた。
空襲警報は昼も夜も発令され、ゲートルに国防服、戦闘帽のおじさん達がメガホン片手に「空襲警報発令!」と、悲鳴のような声で叫び回り、遊びに夢中だった子供たちも、家に追い立てられる事が多くなった。
遊び場の小広い道も、母達のバケツ片手の防火訓練場となり、仕方なく道端ですきっ腹をかかえ、眺めていたりした。
「ノボちゃん、敵が攻めてきたらオレがやっつけてやるからナ!」
石を投げつける真似をして、胸を張ったしんちゃんは、真っ黒に日焼けした顔に白い歯を見せて笑った。
そのくりくり坊主のしんちゃんの顔を見て、ホッとしたのは、日増しに多くなる空襲警報の恐怖感からだろう。
静かだった愛宕町にも息が詰まるような緊張が漂い、親兄弟の顔にかげりを見た子供の心の中に、泣き出したいぐらいの恐ろしさが、日増しにふくらんでいった。
そんなある夜、早めの夕食をすませた家族は、めいめいに時を過ごしていた。
夕食は配給されたサツマイモ二本が並んでいるだけだが、おなかの空ききった私や弟にはご馳走であった。
兄たちは毎夜の代用食に恨めしそうだったが、それでも残らず平らげている。
父や母はこんな時なにを考えていたのだろう。
一口つまんでは、しきりに水を飲む父の顔が思い出される。
頬のこけた無精ひげの父は、一番上の兄を横に座らせ、次男の兄を膝に乗せて、ラジオから流れる大本営発表の戦果を聴きながら、ウンとかホウとか言っていたようだった。
末っ子の弟は赤い輪の着いた緑色の蚊帳の中で、すでに寝息を立てている。
私は黒い布で覆いをかけた薄暗い電灯の下で、見古しの何冊かの絵本を見開いていた。
爆弾を抱え敵陣に突撃した三人の勇士の話や、敵の来襲で死んでもラッパを離さなかった兵隊さんの話の本に混じって、母にはぐれた子供のペンギンが広い南極を、氷塊にのったり、優しい船長に助けられたりしながら、母さんペンギンを探し歩く絵本もあった。
このボロボロになったペンギンの絵本がお気に入りで、ペンギンのひとこまひとこまの表情まで覚えてしまったのに、最初から終わりまで眺め、脱いだ一揃えの服と一緒に、枕元に置いておかなくては安心して眠れないのだ。
「同じ絵本を毎晩読んで、よくもまぁ飽きないねぇ」
そう言う母の言葉も毎晩くり返された。
その夜もそんな母の言葉を、夢心地で遠くに聴きながら、コトンと眠りに落ちようとしていたその時である、突然、闇の底からわいて来るような不気味なサイレンが鳴り響いた。
空襲警報の発令だ。
電灯は消され、細めに空けてあった雨戸が閉められる。
七月の太陽に終日灼かれた家は、灯火管制のため開け放されることがないから、夜になってもムッとした熱気が籠もり、蒸し風呂のようだ。
だが息苦しいほどの緊張が、それすら忘れさせてしまう。
両親の緊張はそのまま私に伝わり、言いしれぬ恐怖に抱きすくめられながら、暗闇のなか母を探しにじり寄る。
不安げに耳をすます父や兄たちの息づかいが聞こえるようだ。
弟だけは寝息をたてて眠っている。
4 B29
それは余りにも静かな地獄図の序幕であった。
東側の天窓のガラスが夕焼けに染まるように赤く照り、やがてその薄明かりは家の中まで射し込んできた。
いつもと様子が違う異常な気配を感じ取った父は、外に飛び出していった。
「東の空が真っ赤だ!空襲だ!」
叫びながら家に飛び込んできた父は「避難しろ!」と怒鳴った。
暗闇の中、かねて用意してあったリュックを兄たちに背負わせ庭に出た。
狭い庭先に掘られた防空壕に、五人の子供と母を避難させた父は、水をいっぱいに汲んだバケツを片手に、屋根に上がっていった。
日頃はもの静かな父が、厳しく怖い顔になり、他人のように見えた。
五羽のヒナが母鳥の懐に隠れるようにして、真っ暗な穴蔵の中で寄り添い、それでも今からなにが起こるのだろう、と外をうかがっていた。
「敵機だ!B29だ!」
兄が悲鳴のような声で叫んだ。
はるか上空に黒く大きな影が黒雲のごとく広がり、グオーン、グオーンと不気味なうなり声を上げながらゆっくりと移動して来る。
その黒雲から、手にすくった砂をこぼすように降り注いでくるものがあった。
そしてそれが落ち行く辺りは異常に明るく輝く・・・・美しい、と感じた。
続
次回 8月6日
こころ絵 『助長』
『助長』
『助長』とは読んで字の如く“助け育てること”です。
ただこれの使い方はなかなか難しいものがあり、自分では助長のつ
もりでも、無理に力を加えたばっかりに本来の成育を害することもあ
ります。
古代中国にこんな話があります。
宋という国に自分が植えた苗がなかなか成長しないのを心配して、田
んぼに出掛け苗を引っ張った人がいました。
朝から晩まで片っ端から苗を引っ張ったので、くたくたに疲れて帰り家
の者に言いました。
「今日は疲れたよ、苗を引っ張って早く育つように助けてやったんだ」
言われた息子が驚いて田んぼに走って行って見ると、もう苗はすっか
り枯れてしまっていた・・・・と言うお話しです。
連載中の『三尺の距離』から取り上げたテーマでしたが、どこかの国
の教育ママに、こころして聞いていただきたい話でもあります。
表六玉の独り言 206
しんちゃん 1
(1) その昔、戦争があった
ほんの70数年前、日本が世界を相手に戦争をしていたことを、知らない若者が多いと聞く。
その戦争で延べ1000万人の兵士が戦争にかり出され、戦死した兵士の数は約200万、非戦闘員まで含めると約300万余の人命が失われた。
「えっ、アメリカと戦争してたア?ウッソー」
「だって仲いいじゃん」
アメリカ人のような髪をして、アメリカ人のような化粧をして、アメリカ人のような洋服
を着た少年少女達は、アメリカ人のようなジェスチュアをして、アメリカ人の食い物にかぶりつきながらそう言った。
だからどうしても書き残しておきたかった。
昭和16年12月、日本とアメリカは戦争に突入した。
人が憎しみあい、たがいに殺戮することで正義を勝ち取ろうとする戦争、これほどの罪悪はないものを、四年近くも続いた地獄は数え切れないほどの悲しみと苦しみと混沌を人々に強要した。
戦争末期のころ、五歳の私が体験した小さな思い出は、風化することのない残像といっしょに、今も心の中に張り付いている。
父、要次郎の仕事上の都合から、東京四ッ谷を引き払い、甲府市内に引っ越したのは、日本軍が満州征服に成功し、その勢いで中国全土に戦線を拡大していた、昭和8年頃のことであった。
日本が軍国主義一色に染まり、国民すべてが耐乏生活を強いられる中で、我が家の子供は二人になり三人になり、ついには息子ばかり5
人。
兵力増強のために、産めやふやせやの時代、母、登美恵は誉(ほま)れ高き軍国の母となり、新聞にまで掲載されたという。
父は国鉄に勤めていたから戦争にかり出されることもなく、私がもの心ついた頃には甲府市の愛宕町で、質素だが幸福な家庭生活を送っていた。
甲府盆地を抱きかかえる山の一つに、小高い愛宕山がある。
丘陵に近いその山は、信玄の隠し湯として有名な積翠寺温泉にだらりと連なり、武田氏の居城跡、武田神社も懐におさめている。
その麓が愛宕町であり、甲府駅の北にある小さな静かな町である。町の真ん中を横切って流れる川には古い鉄の橋があり、それを正面にみる川のほとりに、我が家はあった。
小魚が泳ぎ、ザリガニがのっそり歩き回るその清流も、時に水を満々とたたえ、川端の木々の緑を映したりもした。
春には愛宕町全部がむせかえるような新緑に抱きかかえられ、秋には燃える紅葉に行き交う人々の頬が染まりそうであった。
少しばかり裏道を歩き石段の上にいくと、遠く甲府の街並みを淡いシルエットに変えながら、その向こうにクルクルと金色の太陽が沈みゆくのも見えた。
( 2) しんちゃん
甲府の外れにある玉幡軍用飛行場から飛び立つ、複葉練習機『赤とんぼ』が、軽快な爆音をたてながらのんびりと旋回する。
子供達が『赤とんぼ』にむかって思い切り手を振ると、両翼を左右に振りそれに答えてくれることもあった。そんな時は肩を抱き合って歓声を上げた。
『赤とんぼ』は決まって坂上の大きな榎の上を通り抜け、愛宕山の向こうに消えていくのだ。
この榎の大木は、家から愛宕山に抜ける坂道のてっぺんに、空に向かって太い腕を拡げて立ちはだかる仁王様のように生えていた。
その姿は橋の上や、川や、坂道で、鬼ごっこをしたり、ザリガニ捕りに興じる子供達をいつも下に眺め、見守っている。
夏の朝早くには、大きなクワガタやカブトムシ、黄金ムシをその根元にいっぱい呼び寄せ、早起きの子供達にプレゼントしてくれた。だから子供達は、その大きくたくましい榎が大好きだった。
少しばかり遠くに遊びに行っても、その榎が見えるところまでだったら平気だったし、夕暮の中で本物の仁王様に見えてくる頃は、逃げ帰るようにそれぞれの家に飛び込んでいったものだ。
遊び仲間のガキ大将は、すぐ隣に住む大工の常さんの家の『しんちゃん』だ。
二歳ほど年上だった彼は、近所でも評判の腕白坊主で、同じ年頃の子供達の中でも図体も大きく、キラキラと光る大きな目玉が次から次へといたずらを探していた。
喧嘩も強く、年うえでも太刀打ちできないほどだったから、仕方なく子分に甘んじていたものである。
青白い顔をし、背も小さく、かけっこをしてもヒョロヒョロと斜めにしか走れないような泣き虫の私を、何故かよく庇ってくれ、なにくれと面倒を見てくれた。
赤黒い爪をカチカチと動かす怖いザリガニを、バケツいっぱい捕ってくれたり、大きなイチジクの木に登り、熟れた実をむしっては食べさせてくれたりした。
ある時、しんちゃんが大将の“兵隊ごっこ”で愛宕山に突撃したことがあった。
しんちゃん大将の前に、不用意に姿を出した大きな青大将は、奇声を上げて逃げまどうチビッコ軍団を尻目に、大将によってまたたく間に大きな石で頭をたたきつぶされた。
その戦利品はすぐさましんちゃんの首に巻かれ、意気揚々の凱旋となった。
戦利品の青大将は、父親の“常さん”によって切り裂かれ、串焼きにされた。
「ほら、ノボちゃん食ってみな。うめえぞぉ」
「ボクはいいよ」
「いつも、しんちゃんみたいに強くなりたいって言ってるじゃあ無いか、これを食べたら背も伸びるし強くなれるぞ」
おそるおそる食べたそれは香ばしく、そのくせ石綿をかんでいるような味だった。
今でも一抹の寂寥感とともに口の中に残っている。
続
次回 7月30日
こころ絵 『志不可満 楽不可極』
志不可満 楽不可極
電車の中で見かけた母親と小学生の姿から、志不可満 楽不可極(礼記)という言葉を想い出した。
休日だというのに重そうな鞄を膝の上に置き、懸命に勉強をしているのだが、その脇で母親が叱咤激励しているのだ。
「ほら、そこ間違えているじゃない!今日はテストなんだからしっかりしてちょうだい!」
小さく頷いて消しゴムを使う子を、分厚い眼鏡の底から冷ややかで厳しい視線が射すくめている。
今どきの小学生は休日返上で猛勉強しないと、希望する中学校に入れないのだそうだ。
なんのためにそんなに頑張るのかと聞くと、判で押したように「良い大学に入り、良い会社に入るためです」あるいは良い会社の代わりに上級の官庁に入るためだと答えるのをTVで観たことがある。
これらは子供達の志ではなく親の志なのだろう。
そんな子らが成人し会社に入り幹部になって企業の運営をしていく。
志は満たされたのだ。
このタイプの人間はそれ以降たどつだけである。
ひとつは子供のころ得られなかった楽しみを今ごろになって求めようとする。
もうひとつは自分の本当の志に気づき、それを満たそうと狂奔するタイプである。
子供の頃から競争心だけ学んできて、協調性など全くない自己中なのだから、どっちにしても企業にとって有益な人材ではなくなるし、思い通りにならないことを恨む“奇形な社会人”としてとんでもない事件や犯罪を引き起こしたりする。
『志は満たすべからず。楽しみは極むべからず』
古代中国の儒学者がまとめた“礼に関する書物”である礼記(らいき)は健全な社会人を作るための条件を教えてくれている。
「傲不可長、欲不可縦、志不可満、楽不可極」
傲慢にはびこると、頑固で独りよがりになり、何者も眼中になくて、大衆から浮き上がることになる。
私欲を放任すると、かってにでたらめをやり、救いようのないようになる。
志向に満足すると、新しいものを受け入れようとしない、向上心が失い、闘志を消耗する。過分に享楽すると、憂患を忘れ、災難を招くことになる。
この諺は生活や仕事の様々の方面から私達に警告し、なり続ける鐘のように、活用したら、人生の道には転んでしまうことが少なくなるだろう。
続・続 人間機雷 320
第六章 夢幻泡影
三 歳月
2 憂国 16
東京大学の剣道部は明治20年(1887)に榊原鍵吉を師範として設立された撃剣会から始まる。幕末の剣聖といわれた榊原鍵吉は、明治時代に催された“兜の試し斬り天覧試合”でみごと斬り込み成功し、剣豪としての名声を高めた。
“兜の試し斬り天覧試合”は明治天皇の天覧のもとでの晴の行事である。鉢試しというのは、鋼鉄の兜を日本刀で斬ることをいう。戦国時代には刃の分厚い、刃渡り四尺を超す野太刀で、兜を両断した記録はあるが、刃渡り二尺余の打刀で斬った前例は聞いたことがない。内示を受けるなり鍵吉は頭形の兜で試してみたが、刀を二本曲げた。とても刃のたつ代物ではない。天覧の場で斬るのは、明珍鍛え桃形兜である。
中央が突起し左右に急角度に傾斜のついた鋼の面に、刃をうちこむのは、怪力をうたわれた鍵吉にしても、無理であると思われた。同日午後二時、明治天皇は侍従長、宮内次官以下諸官を従え、午後二時過ぎ行幸された。便殿において、貞愛親王、同妃と参集の皇族、大臣に謁を賜ったのち、庭前に出御された。弓術競射が行われた後、鉢試しの番がきた。鍵吉はその日の朝、刀屋が届けてくれた堅牢な胴田貫二尺二寸の一刀を携えていた。
最初に名剣士上田美忠がうやうやしく聖上に拝礼し、兜に向かい合う。烈帛の気合いとともに打ち下ろした刀は、跳ね返り彼は宙に泳いでかろうじて踏みとどまる。つづいて立身流居合の達人、逸見宗助が試みたが、やはり刀身は跳ね返され、彼は仰向けに転倒した。最後に立った鍵吉は、兜に向かうと刀の棟が背筋に付くまでふりかぷり、一気にうちおろす。彼の胴田貫の刀身は、兜の八幡座にくい込んでいた。三寸五分の深さまで斬り込んでいたのだ。
剣友島田虎之助が残した名言「剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という一条を死ぬまで門弟に諭していたという。
そのような歴史を持つ東京大学剣道部だが、大正10年に始まった東大京大対抗戦や関東学生剣道優勝大会・七帝戦と呼称される国立七大学剣道大会などで、時として名を成すこともあるぐらいできたが、根津銀治郎が所属してからはどの大会でも目を見張るような活躍をしているのだという。
秀敏が雲峰寺に来たときには、すでに東京での下宿生活に入っていたから、まだあってはいないが、帰郷すると義父の主宰する公民館道場『錬成館』で、門下生を指導したりしているというから、いずれ竹刀を交える機会もあるだろうと楽しみにしている。
朝夕の日課としている大菩薩峠までの全力疾走での鍛錬をその日も終えた。山道を一気に駆け下りてきた秀敏は、山門のうえから西の山端を桔梗色の空に浮かび上がらせる赤い夕日を眺め、なぜか郷愁めいた感情にとらわれていた。その感傷はこの雲峰寺での1年にとどまらず予科練時代までさかのぼり、義に感じたままの衝動的連続殺人、それを忘れるために至誠館での血反吐を吐くような試練に耐えた日々、黒崎師範の引き合いであった慈母観音の桜子の面影、秋山征志郎との出会いと語らい・・・・それらが水に流されるかのように、脳裏を通り過ぎていく。その中に流れを止めて浮かんだままの面影があった。幼なじみの妙子だった。
予科練から復員し一度は添え遂げる望みを抱いたのだが、米軍軍属の日系二世に嫁いだのは、父親の欲得がらみからであった。きっぱりと諦めた秀敏が6年ぶりに出会ったとき妙子は浅草の芸者“菊弥”になっていた。秀敏23歳妙子22歳の時である。再会を機に狂ったような恋にふたたび落ちこんだ二人だったが、秀敏はその前年義のために4人を殺害している。昭和25年の横浜港連続殺人事件というのがそれであった。その結末も着かないままに、野毛に看板を上げる白神一家の先代松岡菊治から、遺品のようにして譲られた銘刀“國廣”に添えられた言葉は『国難に臨んで命を惜しむな』というものであった。それらの出来事は燃えたぎる恋心に水を差した。俺はいったい何をしているのか・・・・。いまいちど初心に戻り、剣の道に没頭することによって全てをやり直そうと捨てた恋だった。流れの澱みに引っかかっていた妙子のさみしげな笑顔が澱みから逃れ流れていった。
昭和30年もあと数日で終わろうとする日の夕間暮れのことだった。
下に見える村里の灯火が次第に明るさを増してきた。
続
次回未定
こころ絵 『己の欲せざるところ、人に施す勿れ』
『己の欲せざるところ、人に施す勿れ』
少しは大国の脅しが効いたのか、おとなしくなった感じのするかの国だが、かっての“無法国家の蛮行”が報じられる度に、世界で唯一の原子爆弾被爆国民としてみれば腸(はらわた)の煮えくりかえるような怒りを覚えずには居られません。
せめて無法国家にお仕置きを!と思ってみても、過去を振り返れば
同じ思いで怒り恨んだ大国が、ふところに核を隠し持ちながら「核を持
つとはとんでもない事だ」と、言ってもたいして期待できないですね。
「己の欲せざるところ、人に施す勿れ」 孔子
自分が好まないことは、きっと他人も好まないことであるから、他人に向
かってやってはいけないという対人関係の心得を説いた孔子の言葉で
すが、門人の仲弓(ちゅうきゅう)さんが「仁とはどういうものですか」と
問うたのにたいしての答えです。
“仁”は孔子の教えを一貫している政治上、倫理上の理想ですが、平た
くいえば他人に対する“思いやり”ということで、相手に嫌なおもいさせ
てはいけませんということ。
これを世界中の人が実践すれば、戦争やいじめや暴力や嫌がらせや悪
口やテロなどというひどい犯罪がなくなるのですがね。
苛つくこころをトゲトゲの鬼カサゴに描き添えてみました。
続・続 人間機雷 319
第六章 夢幻泡影
三 歳月
2 憂国 15
「存じておりますとも。浅からぬ縁がありましたから・・・・政吉さんと言いましたからしら。息子さん。出征なさったとは聞いておりますが、お元気なのでしょうか」
「はい、無事復員なさって、元気でおられます」
「それにしても奇遇ですわねえ。こうして始めてお目にかかった方から、政吉さんのことをうかがうとは・・・・それで今は何をなさっておいでですか?」
「三年前に小津組の五代目を襲名なさいました」
「小津組の燈明は消えなかったんですね・・・・良かった・・・・」
婦人は感慨深げに言った。
その言葉と面差しに不思議さを感じた大井は「失礼ですが、小津組とはどのような関わりがあったのでしょう?」と訊かずにいられなかった。
だが、そのことはまた・・・・と言い残し、話し込んでしまい申し訳ないと去ってしばらくその話に触れることもなく過ぎたのだが、数ヶ月後、月心老師、蒔田源一ともに留守をして、秀敏だけの夕餉が終わったあとの雑談の中で、ふたたび浅草界隈の話にふれたとき、貞子は思いきって前身の話をしたのである。
初対面の青年に小津組四代目であった根津恭一郎の妻であり、小津組の名跡を継いだと聞いた小津政吉から“姐さん”と慕われていたとはとても言えることではなかった。
いまではそんな時代があったことすら忘れて、この山間の古刹になじんだ暮らしをしてきたのだが、あまりにも懐かしい浅草とどことなく稼業人の匂をまとって、この山寺にきた秀敏が他人のような気がしなくなったこともあり、全てを吐露したくなったのである。
四代目が戦死した後、いちどは看板を下ろした小津組だったが、政吉が浅草に戻ってきたことを知った地元民から、三国人ヤクザや兵隊崩れの愚連隊に荒らされ放題の浅草を、昔に戻して欲しいと懇願された、江戸時代から続く老舗博徒小津組の復活を熱望されたこともあり、本来の血筋である小津政吉が五代目を襲名したことなどを秀敏は話をした。
恭一郎の右腕として組を仕切っていた小津政吉と、貞子は姐さんと舎弟の関係であったのだ。
人の世の縁の奇妙さを思い知らされたが、それは遠国に来ながらも親愛の情にくるまれているような安らぎのなかにあった。
小津組四代目であった夫、根津恭一郎が戦死した後は、その血縁を頼って忘れ形見“根津銀治郎”と共に住み慣れた東京を離れ、恭一郎の故郷・山梨に新天地を求めてやってきたものの、考えてもみなかった根津家当主の冷酷な仕打ちに遭い、再び東京に戻ろうと思った貞子親子だったが、そこで待っている生活も安穏としたものではないはずだと悩み続けた事も隠さず話をした。
そして春日野村の有力者一族から言われなき迫害を受け、そのさげすみに耐えかねて自分が朝比奈子爵の末裔であることを告白した。しかし逆に腫れ物に触るような扱いに豹変したことにも、不信はつのりこの地が安住の地で無いことを悟った。そんな幸せ薄き境遇から救い出してくれたのが、春日野小学校で銀治郎の担任だった蒔田源一であり、彼の剣の師で雲峰寺住職の小笠原月心であることも話した。
そして二人の気持ちを酌んだ月心老師の勧めもあり、結ばれたのだが、前夫恭一郎の忘れ形見“根津銀治郎”をともに立派な男として養育していきたいという気持ちが根底にあったのだろう。
その銀治郎も剣士としての天稟に恵まれたうえに、月心老師や蒔田源一の薫陶を受けて、いまでは東京大学剣道部に所属し、全日本学生剣道選手権大会で優勝したこともあり、東京六大学随一の実力を誇っているという。
続
次回7月16日
こころ絵 『醸す』
『醸す』
かもす
なんとも言えない雰囲気を“かもし出す”などというが“かもす”というの
は、酒を造ること「醸造」の“醸す”(かもす)からきた言葉である。
なぜ酒を造ることを“かもす”と言うようになったのか・・・・一説には“か
もす”は「噛(か)みす」からきたと言うのだ。
『古事記』のスサノウ命のヤマタノ大蛇(おろち)神話で使われた酒は、
蒸した米を口でよく噛み、唾液の酵素で糖化し、空気中に漂う酵母に
よって発酵行させる「口噛み」という原始的な方法で造っており、これ
が酒の起源といわれている「口噛み酒」(くちはみざけ)であり、醸造す
ることを「かむ」といったという。
稲作技術が大陸から日本列島に導入されると同時に、米を原料とす
る日本酒造りも伝えられたと想像されるが、初期の大和朝廷の時代、
神に捧げるために処女の巫女(みこ)達が、口で噛んで醸したお酒を
飲み、艶やかな装束の巫女達が捧げる舞を観賞する・・・・。
けがれなき巫女達が“口噛み”で醸した酒の味とは、一体どのような
味だったのだろう。
そんなことを想像しながら『醸』を描いてみた。
蛇足ながら“口噛みの酒”は、東アジア一帯や東南アジア、南太平洋
地域から中南米にかけて、広範囲にわたって太古から分布しているが、
共通するのが酒作りは女性達の仕事だということだ。
沖縄では明治時代まで祭事用の酒造りとして伝承されてきたという。
現在の米麹を使用する製法は、ずっと後の奈良時代初頭の頃からと
いわれている。
久しぶりに酒にまつわる『こころ絵』を描いたが、処女の巫女達が口
で噛んで醸した酒を飲みたくなった(笑)。









