表六玉の独り言 212
しんちゃん 7
(10) しんちゃん地蔵
影絵のような幼い日の思い出だけを、探しに来たわけではない。
心の奥底で思い出したくないと蓋をした筈の地獄の残像が、その重い蓋をこじ開けるようにして湧出し、それが夢遊病者を誘うように此処を訪ねさせた。
わずか五歳で、はからずもみた地獄図は朧々とした絵空事から、いま目前で繰り広げられた現実のように、色彩も音響も匂いも痛みすらも伴って、二十歳になった男の網膜と脳裏を埋め尽くし、やがてしんちゃんの面影と共に心の奥底に深く刻み込まれた。
人生が点と点を結んだ一本線であるなら、しんちゃんこそがその起点であり、己の人生に対して思索を始めた青年期という点に直結し、以来、今に至るまで魂の中の伏流水のように流れ続けてきたのだ。
また地蔵絵を描き上げた・・・・どの顔も『しんちゃん』に似ている。
わずか7歳で生涯を終えた、しんちゃんは、今でも私を見守るガキ大将のままだ。
私は、『しんちゃん』の分まで生きてきたのだろうか。
私は、『しんちゃん』に恥ずかしくない生き方をしてきたのだろうか。
『しんちゃん』は「よく頑張ってきたな」とほめてくれるのだろうか、それとも「相変わらず、泣き虫ノボちゃんのままだね」と笑うのだろうか。
瞬く間に過ぎ去っていった70余年の歳月は一人を老人に変え、一人を7歳の少年のまま置き去りにしたが、『しんちゃん』が「ノボちゃんの人生、苦しかった?楽しかった?」
と、あの真っ黒に日焼けした顔で私の眼をのぞき込みながら尋ねてくる時、私は5歳の子供に戻ってしまったかのように答える言葉を失う。
いくら探し続けてもまだ見つからない、『しんちゃん』への答えの代わりに、私は地蔵絵を描き続ける。
その顔はいつも穏やかに笑っているのに、心の中では泣き、怒り、悲しんでいる自分がそこにいる。
『しんちゃん』のような悲惨な死に様をする子供が、この国で二度とあってはならないと思う一念から、俺たちが阻止しなければ誰がするんだと、60年安保闘争の国会周辺デモにも加わったけど、象に挑む蟻のような闘いに敗れ、無力感のなかで、しんちゃんに何一つ誇れなくなった。
『しんちゃん』のような子供たちといつも一緒に過ごしたいと思ったから、小学校の先生になったのに、理想と現実の狭間で負け犬のように尻尾を巻いて逃げ出してしまった。
そして彷徨い出た実社会の濁流に揉まれ魂を汚し、時に冥府魔道に迷い、煩悩の怨炎に身を焦がし、傍若無人にも生き、人の裏切りを知りそして人を裏切ってきた。
だけど今になって考えれば、難行苦行のような人生の中で迷い、悩み、苦しみながらも、生きると言うことがこれほど贅沢なことだとは思っても見なかった。
人がそれを止めてしまう時、それは死んだ時なのだから
・・・・『しんちゃん』にはそれすらない。
人として物心がつきはじめた5歳の頃が、自分の人生の出発点だったと言えるけど、それは余りにも悲惨な世態の中での、起点であった。
だからそこで会った『しんちゃん』は、自分の人生を振り返るたびに思い起こさずにはいられないし、魂の奥底にはいつも、『しんちゃん』が居てくれた。
難関にぶち当たると心のどこかで、『しんちゃん』に語りかけていたような気がするが、
それは矢張り魂の根底にいてくれた父母兄弟親友のそれとは全く異質なものだったと思う。
諦観することが定めのような歳まで生きてきたけれど、未だ『しんちゃん』の魂魄にすがっている自分がそこにいる。
『しんちゃん』の命が消え、焼き焦げた一肉塊になってしまったのを見届けた朝、焼き尽くされた人家の灰燼に混じり、飴細工のように曲がった色とりどりのガラス類が、陽光を浴びて宝石のようにキラキラと輝いていた。
それを両手いっぱいに拾い集め
「しんちゃん。これはお花、これはお馬、これはお星さんだよ」
と言いながら、枕元に飾り並べたあの時から、なにも変わっていない自分がそこにいる。
ただ人間の命というものが、余りにも儚く限るあるものだと言うことを『しんちゃん』は身をもって教えてくれた。
だから精一杯懸命に生きてこられたのかもしれない。
それなのに泥沼でもがき続けるような人生の中で、知らず知らずに魂を見失い、永いこと『しんちゃん』の面影すら忘れていた。
ごめんな『しんちゃん』
『しんちゃん』と再びザリガニ捕りやホタル狩りが出来るのは、私の命の炎をが消えてからだけど、それがいつになるのかは神様だけが知っている事。だけどその日がくるまで一日も永く、子供のような純な心で、精一杯生きていくことが『しんちゃん』にたいして出来る最良の供養だと想っている。
『しんちゃん』に似ている地蔵絵を描き上げるたびに、人生という旅路を歩く途中で汚濁してしまった心が少しずつ洗い流されていくような気がして、今日もまた筆をとらずにはいられない。
【 後書き 】
毎年、終戦記念日をはさんで戦争の悲惨さや、ときに日本軍や軍人を称揚するような番組やドラマが数多く放映され、書店に本が並び、さまざまな紙面にあふれ出ます。
そんな中で当時5歳の少年が体験した戦争など、取るに足らないものかも知れません。
だけど73回目の“終戦の日”を挟んで、どうしても書き残しておきたかったのが、この拙文『しんちゃん』です。
だれも読んでくれなくても書き残すこと・・・・それは私と“しんちゃん”との73年前からの約束事のように思えて仕方ありませんでした。
この戦争では軍人が230万人、一般人が80万人死亡しました。
しんちゃんはそのなかの一人です。
その全ての死者の思いはただひとつ「二度と戦争をしてはいけません」ということです。
その思いを次世代につなげるためにも、どうしても書き残しておきたかったのです。
お読みいただいた方、しんちゃんの霊ともども心から感謝します。
完
こころ絵 『糸瓜』
『糸瓜』
へちまとは、なんとも不思議な植物である。
「世の中は なんのへちまと思えども
ぶらりとしては 暮らされもせず」
と一休さんは言うが、初夏の頃からけれんみのない黄色い花をつけはじめ、秋には長い実が滑稽なほどにゆらりとぶら下がる。
この洒脱(しゃだつ)味の溢れる植物は、ウリ科のつる性一年草で、原産は熱帯アジアだという。
日本には江戸時代の初めに渡来し、これがサッパリとした気質の江戸っ子に好かれて広く栽培されるようになったらしい。
一休さんの狂歌では、ぶらりぶらりと遊びほうけている怠け者を連想してしまうが、名前も姿もユーモラスのわりには、完熟した実が朽ちるとすじだけになって「ヘチマたわし」となる。
この入浴の垢すりはアトピー性の皮膚には良いとか聞いたことがあるし、茎から液を取り出した「ヘチマ水」は上等な化粧水として女性の肌に貢献している。
『をととひの 糸瓜の水も 取らざりき』 正岡子規
漢方で言う“ヘチマの効用”は熱を除き、痰を去り、血を冷やし、解毒の効果あり、血行をを活発にして、神経系統を整え、乳の出を良くし、小便を促し、腫れをとり、痛みを去って、皮膚病を治す・・・・などが挙げられている。
「糸瓜」という字を『こころ絵』にしてみたらこんな感じになりました(笑)
それにヘチマ棚の緑陰も、暑さしのぎに一役買っているという優れものなのに、なんでヘチマなんて滑稽な名がついたのだろうか。
日本に渡ってきた頃は中国にならって「絲瓜」(イトウリ)と呼ばれていたが、気の短い江戸っ子達は「どうも“イトウリ”っていうのは長ったらしくてイケねぇ“トウリ”にしちまおうぜ!!」と縮めてしまった。
が、それがまたなんで“ヘチマ”などという、縁もゆかりもない名前になってしまったのかというと“トウリ”(糸瓜)の“ト”が、いろはの“ヘとチ”の間にあることからヘチマ(間)と言われている・・・・が本当だろうか(笑)。
我が家にはヘチマならぬゴウヤが勢いよく伸び、緑陰をつくってくれている・・・・さて、江戸っ子だったらゴウヤをなんと呼ぶのだろう?
表六玉の独り言 211
しんちゃん 6
(9)送り火
それから15年後の夏、山梨大学空手道場での夏期合宿を終えた帰り道、幼い頃過ごした愛宕町のことがフト思い出され、かすかな記憶をたどりながら我が家の跡を探した。
愛宕町そのものがガリバー旅行記の街並みのように小さく感じたのは、子供の目で見ていた昔日と今との錯覚からだったろう。
大きく、広く、立派に見えた鉄の橋が、こんなに小さく狭く、みすぼらしい橋になってしまっている。
見覚えのある天神の小さな社が昔日のまま、橋のふもとに見いだせなかったら見まちがえていたに違いない。
街を横切って流れる富士川の将軍橋と三念坂橋の中間に掛かる、名前もない鉄の橋のまんなかで、子供の頃そうしたように坂の上の榎の大木を探してみたが、その姿が有ろうはずもない。
ただあの時、炎も上げず透き通ったように真っ赤に燃えた榎が、怒り狂った不動明王のように太い腕を天に向けて突き上げ、足を踏ん張って立ち続けていた情景がありありと思い出され、いっしゅん身震いに似た衝動が心の中を駆け抜けた。
眺め下ろした我が家の辺りには、軒を寄せ合って家々がひしめき建ち、あまりの変わりように親しみも懐かしさも湧いてこない。
立ち寄ったその街は、通りすがりの旅人が抱く少しばかりの感傷をも、他人の顔で拒絶しているかのようだった。
のろのろと後ずさりをするように天神さんまで戻り、真似事のように手を合わせ、立ち去ろうとした時である、“どうしなすった?”と、天神社前の家のうす暗い玄関に腰掛けた老婆が、ジッと見つめながら声をかけてきた。
「別にどうってこと無いですけど」
悪いところを見つかった子供のように、しどろもどろと答えた。
「さっきから橋の上に立って居なさったみたいだったし、気になってねぇ」
「いやぁ、昔この辺りに住んでいたものですから、懐かしくて来たんですよ」
「昔?昔っていつ頃だい」
その老婆の連れ合いとおぼしき痩せこけた老人が、家の奥から顔を出して尋ねた。
足が不自由の様子だった。
「終戦前です。空襲で焼け出され田舎に引っ込んだんですよ」
「どの辺りに住んでいたの」
「ちょうどあの橋の中程から見下ろす、向こう岸あたりです」
ちびた草履をひっかけ家を出てきた老夫婦は、私の指さす方を見やった。
「あの辺りは石原さんの家があったところだが。すると、あんたは石原さんトコの子かい?!」
それまで無表情だった二人が、突然と生気を吹き込まれたように強い口調で言った。
「そうです、石原です。四男の登です」
頭の先から全身までしげしげと眺め、身を寄せてきた。
「本当に、のぼるちゃん・・・・お母さんは元気なの?お父さんやみんなは」
胸の辺りまでしかない小柄な老婆は、目に涙を浮かべ、口元をわななかせ、撫でるように私の手を取った。
「大きくなったわねえ、そう言われれば子供の頃の面影はあるし、お父さんにそっくり」
老夫婦は戸惑う私の手を取ると家の中に引っ張った。
他に同居する人もいないのだろう、その薄暗い小さな家からは生彩というものが感じられなかった。
その老夫妻は、戦前からこの場所に住み、隣組ということもあって私の家とも懇意にしていたらしかった。
あの空襲では延焼を免れ、九死に一生を得て生き延びたが、少年航空兵に志願した長男は『立派にお国のために戦って戦死しました』と戦死公報は届いたものの、一片の遺骨すらこの家に戻ってこないという。
今はこうして二人だけで余生を送り、万が一にも少年航空兵だった息子がどこかで生きていら、必ずこの家を目指して帰ってくると考え続けての歳月でもあったという。
それに親子三人で空襲下を逃げまどう間に、はぐれた次男は焼け野原を三日三晩探し続けてもその亡骸さえ見つからず、その子の供養のためにもこの家を離れる気になれなかった。だから誰一人として昔の知人が住まなくなってしまったこの町に、こうして今も住んでいると時には涙を流して話し続けた。
もしかしたら目の前にひょっこりと、“今、帰ってきました”と二人の息子が姿を現すのを、長いあいだ待ち続けた老夫婦は、私を帰らぬ我が子の代わりとして、見ていたのかもしれない。
いつしか戸外の夕闇が家の中まで流れ込んでいた。
なにも無いが夕食を一緒に、と、ひき留められたが、とてもその気になれず家の者が心配しますからと断った。
「息子が帰ってきたような気がしてねぇ。あんまり遅くなると親御さんも心配するだろうし、おじいさん心残りだけど仕方ないねぇ。学校の帰りにでもまた寄って下さいよ」
「のぼるさんにこうして会えたのも何かの縁だ。どうだろう、せめて送り火を一緒にしてもらえまいか」
旧盆の最後の日だった。
真菰に包んだ盆の供物を抱えた二人の後に着いて、橋の下に降り川岸に行った。
夕暮れ迫る川端のあちこちに、家々で焚く淋しげに美しい送り火が川面に映る。
暗くなるにつれて数は増え、その幽玄さに言い難い衝動を感じた。
それは、時には恐怖におののきながら眺めた焼夷弾の炎となって映り、また、この川で生命を失った人々の怨念の炎となって胸中をかけめぐった。
このうちの小さな炎の一つは、あのしんちゃんの魂の炎でもあろう。
私にとっては見覚えすらない老夫婦であったが、川面に浮かんでは消える、しんちゃんの笑顔と断末魔の顔によって呪縛され、去りがたい情念に囚われるまま、小さな背中の二人と並び手を合わせ祈り続けた。
「ケンちゃん、トモちゃん、また来年のお盆さんに待っているからね」
チロチロと燃える送り火に照らし出された、しわ深い頬には涙が流れ光っていた。
“しんちゃん安らかに・・・・”川面を流れていく精霊舟の余りにもか細い灯に向かって心の中で呟いた。
何故か腹の底から悲しみが湧き、口惜しさが溢れ、こみ上げる嗚咽をのどでぐっとかみ殺した。
ひとつ、またひとつと送り火も消え、川杭にひっかかった精霊舟の灯も消え果て、辺りに闇と静寂だけが残る頃、その老夫婦に別れを告げ帰途についた。
ふと、坂の上の榎の辺りを振り返った。
愛宕山のシルエットだけが、星空の中に押しつけられていた。
もう此処には来たくない。
何故かそう思った。
続
次回 9月3日
こころ絵 『顰みに倣う』
『顰みに倣う』
眉間にしわをよせて顔をしかめることを「顰む」(ひそむ)というのだが、中国の春秋時代、越の国に“西施”という、楊貴妃・王昭君・虞美人と並ぶ古代中国四大美人の一人がいた。
西施さんは春秋時代も末に近い呉・越両国の抗争がしきりな頃、越“勾践”が呉王“夫差”の油断を誘うために献じた美姫五十人の中でも随一の女性なのだ。
その西施が胸の病にかかり、郷里に帰省したときのことである。
痛む胸を押さえ押さえ、眉を顰めて歩いていても流石は絶世の美人、得も言われぬ風情で、見る人々をウットリさせる。
それを見ていたのが村でも評判の大醜女の某女、自分もシャナリ・シャナリと胸を押さえ、眉を顰めて村の通りを歩いてみたが、村人達はウットリ見惚れてくれるどころではない。

ただでさえグロテスクな女の、とんでもない恰好に怖じ気づいて、金持ちの家では大門をピシャリと閉ざして外に出ようとせず、貧しい家でも、男達は妻子の手を引いて、村の外まで逃げ出してしまった。
そこから良し悪しも考えずに、人真似をすることを『顰みに倣う』という。
出典は中国の『荘子』で、当時の儒家たちがその“範”を過去に求める傾向を皮肉った一文である。
荘子は孔子の弟子の顔淵と、道家の師金と言う人物の対話の中で、師金の語る孔子批評の言葉に関連させている。
つまり春秋の乱世に生まれて、魯や衛の国に、かつての華やかりし周王朝の理想政治を再現させようと言うのは、とんでもない身のほど知らず、西施の顰みを真似る醜女みたいなもので、人から相手にされようがないと言い放ったのだ。
某国の某党はまずはここから学ばなければなるまい
表六玉の独り言 210
しんちゃん 5
(7) 地獄図 2
小さな家の小さな焼け跡だった。異様な匂いのする煙がモヤのように立ちこめる
その向こうから、悲鳴に近い泣き声を上げて、小さな子供の影がヨタヨタと近づいてきた。
「お母アちゃーん、お母アちゃーん、痛いよう! 痛いよう!」
服はベルトの部分だけを残して焼き尽くされ、炭のように真っ黒に焼けただれた顔や、身体のあちこちから血が流れ出している。
「あっ!しんちゃんだ!」
兄が叫んだ。
「おい!しんちゃん!しっかりしろ!」
父も母もその小さな影に駆け寄ると、母が抱きかかえ父が防空壕から引っ張り出した軍用毛布の上に寝かせた。
「お母アちゃんがいないよぉ~、お父ちゃんがいないよぉ~、痛いよぉ~痛いよぉ~」
「今探してきてあげるよ!」
父がしんちゃんの耳元で叫んだが、その顔を上げると母に向かって首を横に振った。すでにしんちゃんの両親も、幼い妹も、まるでひとかたまりのタドンのように重なり合って死んでいるのを知っていたのだ。
母は水筒から水を飲ませたが、貪るように飲むとゴボゴボとはき出し、焼けただれた首筋にこぼれ落ちた。
(8) のぼちゃん、アバナ
このボロ屑のような子供が、つい昨日の夕方まで一緒に遊んでいた元気で優しい、腕白坊主のしんちゃんだとは、どうしても信じられなかった。
苦痛のあまりに目をむきだして泣き叫ぶ形相のすごさに、しんちゃんと呼びかけることも出来ず、涙だけがボロボロとこぼれおちた。
翌日、父や兄は焼け残りの棒杭やトタンでバラック小屋を建てたが、家族が身を寄せ合い、やっと雨露を凌げるほど小さなものだった。急場しのぎのカマドも作った。
食品工場や倉庫からの放出品だろうか、お手玉のようにふくらんだ缶詰や、水飴が焦げたような砂糖なども配給された。
町内の炊き出しに場には長蛇の列ができ、手に手に食器や飯ごうを持って並んでいる。
そのすぐ近くの空き地に、男女の判別もつかない焼死体が何百と並べられ、その列の間を肉親を捜して歩く人々がいた、しんちゃんの両親も妹もその中に並んでいたのだろう。
錯乱したように泣き叫び、口から鼻から、耳からどす黒い血のアワを吹き出し、全身の焼き焦げを掻きむしって苦しみ続けていたしんちゃんが、フト静かになったのはそれから三日ほど経ってからだった。
「しんちゃん、しんちゃん」
と泣きながら、全身から滲み出る血を、濡れ手拭いで拭いてやっている時だった。
スーッと目が閉じられ、何かをつぶやいた。
「のぼちゃん、アバナ、またあしたナ・・・・」
「ナニ?しんちゃん!なんて言ったの」
焼きただれた口元に耳を近づけ聞きただしたが、微かに開かれた口はすでに息をしていなかった。
「しんちゃんが死んじゃったア」
泣き叫んだ私の声に父も母も駆け寄ってきたが、その顔は余りにも無表情だったような気がする。
「よく看てやったな」
父がポツリと言った。
「しんちゃんがネ、またあしたネって言ってたよ」
と泣きじゃくりながら話した。
「そう・・・・」
母は流れる涙をそのままに、私の肩をぎゅっと抱いた。
青空の広がる太陽の下でザリガニを採り、夕焼け空の中で缶蹴りをして遊んでいる自分を思い浮かべていたのだろうか、そして、私が家の中に消えるまで、門の所に立ち見送ってくれたしんちゃんが、いつも最後に言ったのが「のぼちゃん、アバナ、また明日遊ぼうナ」だった。
つい先日までの思い出が、死に瀕したしんちゃんの脳裏を、走馬燈のように駆けめぐっていたのかも知れない。
のぼちゃん、敵が攻めてきたらオレがやっつけてやるからナ!、と、真っ黒に日焼けした顔で胸を張っていたしんちゃんの、キラキラ輝く目がいつまでも忘れられなかった。
ムラ雲のごとく飛来したB29に、しんちゃんは石を投げつけたのだろうか、暗黒の空の果てを睨みつけていたのだろうか。
B29の爆撃手は、そんな幼い命が真下にいることを知りながら、雨のごとく焼夷弾を投下したのだろうか。
続
次回 8月27日
こころ絵 『知足』
『知足』
京都・竜安寺の茶室“蔵六庵”の露地に置かれている「吾唯知足の蹲踞(つくばい)」を観に行ったことがあります。
水が溜まる中央の四角いくぼみを「口」の部分にして、「五・隹・疋・矢」の4文字が刻まれた字形配置が見事です。
「“知足”のものは貧しいといえども富めり“不知足”のものは富めりといえども貧しい」
(“足る”ことを知る人は心は穏やかであり、足ることを知らない人は心はいつも乱れている)という釈尊の教えを伝えているのだといいます。
欲望を無限にふくらませ、華美な生活を求めて生きているような現代人にとって、すごく大切な言葉ではないでしょうか。
日本の古い言葉に「起きて半畳寝て一畳、天下とっても二合半」というのがあります。
“どんなに立派で広大な家に住もうとも、立って必要な面積は畳半畳であり、寝て必要なのは畳一畳もあれば足りる。また、どんなに栄華を極めても一人の人間が一日に食す米は、たかだか二合半に過ぎない”という『知足』(足るを知る)を教えている言葉です。
これは“あるものでがまんする”という禁欲や節約精神を言うのではなく“今”に喜びや幸福を積極的に見いだすことだと考えたいですね。
昔から人はややもすれば欲が深く、それがもとになって人を妬んだり、より多くのものをほしがったりするものです。
それこそが心が貧しくなる原因となり、ついには不幸を背負うことになるのでしょう。
現社会での犯罪は多くはここに起因しているような気がします。
いまの時代ようにモノが豊かであればあるほど『知足』の心を持つことは難しいのでしょうが、こころ豊かに生きたいのなら“取りあえず今日食べるものがあって、今夜眠る場所がある。それでじゅうぶん幸せではないか”ということを、こころの中で呟いてみることではないでしょうか。
“一椀の粥”にも「ごちそうさま」「もう充分」「もう結構です」と感謝できるこころを持ち続けたくて自戒のために描いてみました。
表六玉の独り言 209
しんちゃん 4
(6) 坂の上の榎
このM69焼夷弾の開発は、太平洋戦争の18年前からされていたという。
大正12年(1923)関東大震災による東京の被害について、アメリカは救助活動のため、詳細なレポートと研究をまとめた。
これ自体は災害救助のための真摯な研究なのだが、軍がこのレポートに着目し、燃えやすい紙と木でできた日本家屋と、都市部に対する有効な攻撃方法の研究に着手し、その結果開発されたのが“焼夷弾”だったのだ。
既にこの時から、アメリカは日本を敵として見据え、一般民間人を対象に含む、都市爆撃の基礎研究を始めていたということになる。
そして彼等の思惑通り紙と木の屑篭の中に、燃えさかる火を投げ込むほどの軽い気持ちで、庶民の家屋のことごとくを焼き尽くした。
その焼夷弾に混じって得体の知れぬ巨大な鉄皿が空から舞い落ちてきて、その直撃で頭を粉々に粉砕され死んだ人もいたというが、集束焼夷弾の弾頭部分だったかも知れない。
無限に続くのではないかと思われる恐怖の時は、頭上の布団の重さに加えいつまでも重くのしかかっていた。
おそるおそる取り除いた布団には、焼夷弾から飛び散ったゼリー状の油脂が貼り付き、燃え続けていた・・・・なまじの水では消えないのだ。
川面が真っ赤に見えるのは、辺りの家が燃える炎を映しているばかりではなく、シャツを赤黒く染めるほどの血が油とが一緒に浮いているからで、その中をまだメラメラと青白い炎をたてて燃え続けている小さな死体が、漂い流れていくのも見た。
いたたまれず岸に上がると、あちこちに縦横一メートル間隔で杭打ちをしたように、暗緑色六角形の焼夷弾筒が突き刺さり、中には激しい炎を吹き上げているものもある。
仏教では世の終末に全世界を焼き尽くすという大火があると説くが、まさにその劫火に燃えさかる地獄図がそこにあった。
あちこちで激しく燃え続ける家々の炎は、あたりを昼のように照らし出している。
子供をしっかり抱いた若い母親が重なり合って死んでいる。
衣服もなにもかも燃え尽くした黒こげの死体の下に、まだ白い子供の顔が見えた。
川端まで来て力尽きた老人だろうか、そのか細い腕は骨まで焼けている。
そんななかを父の姿を探し、家に向かって歩き始めたが、道端の石は焼けただれ、濡れた運動靴で踏むとジュッと音がするほどだった。
坂の上の榎が片腕をもがれたまま、まだ赤々と仁王立ちしている・・・・悲しかった
・・・・ただ無性に悲しくて泣いた。
おいでおいでをするように緑の枝をいっぱいに広げた榎はもうそこには無かった。
そして、わずか五歳の子供の網膜に焼き付き、おそらく生涯忘れることの出来ぬ、もう一つの地獄図がそこに展開されていた。
(7) 地獄図
すべてが焼き尽くされていた。そこここの見覚えのある石垣や燃え残った門柱がなければ、ここが山懐の緑に包まれた、静かで平和だった自分たちの町だとは信じられなかった。
愛宕山の麓まで、なんの遮るものもなく見渡せるし、複葉練習機の赤とんぼが飛んできた方向には、黒い巨大な円筒形をしたガスタンクや、遠くの市街地に見えるコンクリート造りの岡島百貨店が、妙にハッキリとその影を残すだけで、あとはまさに火の海原だった。
道端のあちこちには、無造作に投げ捨てられた炭俵のように丸焦げの死体が転がり、その中を無数の人々が夢遊病者のごとくさまよっている。
母はあとに残った父や家のことが気になっているのだろう、私と弟の手をしっかりとひいて、時折つまずく二人を引きずるようにして我が家に向かった。
兄たち三人も泣くことも出来ぬほど疲れ切ったのか、信じられぬほど無表情にその後をついて歩いてくる。
「オーイ、オーイ、ここだ、ここだ!」
影絵のような人々のなかから父の声が聞こえた。
互いに駆け寄ることもなく一家全員が、まだ燃えさかる家の前で再会をした。
長兄の要が、そして次男の理も、三男の毅も父の足といわず腕と言わず取りすがっていった。耐え難い恐怖からか三人とも泣き声すら失っていたようにおもう。
「家は駄目だった」
ポツリといった父の顔は、見覚えのある黒縁の丸い眼鏡や、こんな時でも物静かな優しげな声でなければ、見分けもつかぬほど油煙や煤で真っ黒になり、国防服は焼け千切れていた。
家族が揃って呆然と眺め続ける我が家は、やがて激しい火の粉をまき散らし焼け崩れ、透き通るほどに燃える炭を一面に敷き詰めた。
その瞬間つないでいた母の手に痛いほど力がこもり、その顔を見上げると涙が頬を伝わり落ちていた。其処にあるはずの家が、その姿をとどめなくなると言うことが、あれほど家族を落胆の底にたたき込んでしまうとは思ってもみなかった。
ただ茫然と立ちつくす家族七人に別れを告げるように、時折大きな炎を上げたりしたが、やがて焼けぼっくいの涙のような炎に変わっていった。
続
次回 8月20日
こころ絵 『而今』
而今
而今は、「にこん」と読みます。
今の瞬間を精一杯生きるということを意味する言葉です。
道元禅師というえらいお坊さんが中国での修行時代に、炎天下できのこを干している老僧に出会いました。
老僧は食事をつかさどる役の典座(てんぞ)です。
敷瓦も焼け付くほどの猛暑の中で、背骨は弓のように曲がり、大きな眉は鶴のようにまっ白な老典座が、笠もかぶらず汗だくになって、もくもくとしてきのこを干しているのです。
道元禅師はすこし哀れになって老典座に「なぜあなたがやらねばならないのか」と問かけました。
老典座は振りむきもしないで「他は是我にあらず」とだけ答え、きのこを干し続けています。
道元禅師は「どうしてこのような炎天下にされるのですか」と再び問いました。
すると「さらにいずれの時をか待たん」と答え、手も休めず干し続けたのです。
この時、道元禅師は言葉に窮し、未だ自分のいたらなさを知り、この老僧のようにあらねばと、思ったそうです。
「他は是我にあらず」というのはあてにできるかどうかわからないのが他人というものです。
「さらにいずれの時をか待たん」
来るか来ぬかわからないのが未来なのだから、確信の持てるのは、今、自分は生きているというこの一瞬だけなのです。
この老典座の言葉に、過ぎ去った日の、そしていまの自分を振り返ってみてどうだろか・・・・?
少なくも“わが人生に悔いなし”と言いきるためには、これからの生き方が大切なような気がして、自分への戒めとして『而今』を、きのこを干し続ける老典座になぞらえて描いてみました。
表六玉の独り言 208
しんちゃん 3
(4) B29(2)
近づいて来た黒雲は、やがて黒い大きな鳥の群れが空を覆い尽くすように見え、ユラユラと尾を引いて落ちてくる火の玉が、時折、きらりと鈍い銀色に光る機影を照らし出す。
屋根上で頑張っていた父は、防空壕に引き返してくると、その入り口を分厚い板で塞いでしまった。
暑いはずの穴蔵も、心は真冬のように凍り付き、身震いが止まらない。
恐ろしさで歯がかみ合わないのか、兄たちの口元からカチカチという音がし、時折ため息のような泣き声が漏れ続けている。
日頃、父が温和のぶんだけ気丈で男まさりの母は、こんな状況下でも毅然としていて「男のくせにメソメソするな!」と叱咤し、「ここから逃げ出す時には、要(かなめ)は長男なんだから理(さとる)と毅(つよし)の手を引いて行くんだよ。お母さんは登と稔(みのる)を連れて行くから」
「万一はぐれたら、あの榎木の下に来なさい」
と細々とした注意と指示を出し続けていた。
そんな最中、母に抱きかかえられた末弟の稔が突然、見よ東海の空あけて・・・・と、まわらない口で歌いはじめた。
「あらっ、稔いつ覚えたの、上手じゃない!ほらみんなも唄ってごらん。元気がわいてくるから!」
母も兄達も私も歌った。
『お山の杉の子』や『軍艦行進曲』知っている歌を声を限りに歌い続けたが、母の歌いはじめる歌には『あめふりお月さん』『あめふり』北原白秋作詞の『雨』等、いま考えれば紅蓮の炎をあげ、燃え続けているであろう外界に雨が降って欲しかったのだろう。
どのくらい時間が過ぎたのだろう、ズーン・ズーンという地響きが近づき、まわりの土塊がパラパラと頭や手に落ち始めてからは、その歌もぴったりととまってしまった。
一度閉じられた入り口の厚い板は、再び父の手によって取り除かれ、そこから異常に引きつった顔が覗き、こちらの暗闇に向かって怒鳴った。
「もう此処は駄目だ、川に逃げろ!」
(5) M69焼夷弾
防空壕からはい出してみると外は昼のように明るく、異様な匂いと煙があたり一面に充満していた。
暗い空の奥から、長く尾を引く光の玉が雨のように降り注ぎ、地面にぶち当たると、青白い炎の塊となって、四方八方に飛び散り、メラメラと燃え上がるのだ。
あらゆるものを包み込んでいる煙の向こうには、もの凄い火柱が幾つも空に向かって吹き上げている。
その炎の照らし出した道を、弟は抱きかかえられ、私は手を引かれ、三人の兄たちは互いに手をつないで川を目指して駈けだした。
隣のしんちゃんの家はゴーゴーと炎を吹き上げて燃えていたし、我が家の軒下辺りからも、大蛇の舌のような炎がのぞき始めていた。
それでも父は諦めることもせず、バケツで防火水槽から水を汲んでは、炎めがけて投げつけるようにかけ続けていた。
川をめがけて走りながら、フト坂の上の榎を振り返って見た。
すでに炎も上げず透き通ったように真っ赤に燃えた大木は、怒り狂った不動明王のように、太い腕を天に向けて突き上げ、足を踏ん張って立ち続けているではないか!!
見ている!ボクたちを見ている!そう感じた。
川に続く細い道は、われ先にと走る人々であふれかえり、親にはぐれた幼子が声を限りに泣きわめくのにも、誰一人として気にとめる風ではなかった。
そんな中を母に先導され、上流の浅瀬に向かってひたすら走り続けたが、泣き声もでないのに涙がボロボロと落ちてとまらない・・・・眼を射す煙と、炎のように熱くなった空気のためだったろう。
川の中に投げ込まれるようにして浅瀬に飛び込んだ。
どこからともなく降りかかる火の粉は、その辺りに落ちては消えた。燃えながら流れていく木片に照らし出された無数の人々が、狭い川にうごめき、その泣き声がウォーンと川面を伝わってくる。
白髪の老婆が身を伏せようともせず、組んだ両手を空に突き上げ、南無妙法蓮華経と、声を限りに叫び続けている。
流れてきた布団を手繰り寄せた母は、それを自分たちの頭の上にすっぽりと掛けた。
お母ちゃーん、お母ちゃーん、と泣き叫ぶ弟の声も、口の中に流れ込む泥水にふさがれ、ゴボゴボと咳きこんでいる。
母子六つの頭を覆ったその水浸しの布団こそ、私たちの生き残れた命綱であったと聞く。
真黒な空の果てから、ヒューンヒューンと不気味な音をたて、時にはヒトダマのようにメラメラと燃えながら落ち続けるのは、アメリカが日本を空襲するために開発した『M69焼夷弾』といわれるものだった。
細長い筒の内部に粘性のあるゼリー状の油脂がつめられており、このM69が三十八本束ねられた集束焼夷弾が、地上近くでばらばらになって落下し、屋根を突き破ったり着地すると5秒以内にまずTNT爆薬が炸裂、その中のマグネシュームによりナパームに着火する。
その燃焼する力で鋼鉄製の筒を吹っ飛ばし、三千度を超す青白い炎に包まれたナパーム性油脂を、三十メートル四方に飛び散らせるのだ。
飛び散ったそれは、地上の物体すべてに貼り付き、焼き尽くす・・・・もちろん人間もだ。
続
次回 8月13日






