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芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

それにしても売るということは難しいですね。まずは売る人にも商品にも信用がなければ売れません。ではその信用をどのようにつけていくかを吟味していくのがこのシリーズでの目的です。では、信用さえあればモノはうれるのか?となるのですが、さて、それはどうでしょうか?となります。

 

まず、経営資源なるものを考えなければなりません。経営資源はヒト・モノ・カネ・情報の4つです。この4つが最低限そろわなければ経営は無理であるというのが経営学における通説であります。このシリーズで行っているのはこの経営資源が全てそろった状態を想定しておりますので、この点にご注意ください。なぜこのようなことから書きはじめるかなのですが、先日、ある新聞記事に大変重要なキーワードを発見したのでした。それは「企業の個性化」でありました。なんといいますか、これは私が概念化した言葉でありまして、ではこの企業の個性化についてどれほど浸透しているのか、その記事を読み進めたところ、私が主張していることが見事なくらいに再現されており、その意味でその記事を書いた記者の素晴らしい読解力に感謝したのでありました。ところが、負の面もありまして、それはある中小企業の経営者の話が事例として掲載されていたのですが、そこには「企業の個性化とはいうものの、それはお金があっての話である。まず、その資金を作るのにどうするかが中小企業の抱える課題である」との意見がありました。これは一見するとごもっともな話でありますが、私はそうは思わず、むしろ資金を作るために個性化が必要であると考えております。(ただし、本シリーズについては話をモデル化するために運営資金はそれなりにある状況を想定して進めております。)

 

企業経営における運営資金の調達の方法ですが、何も間接金融だけではありません。直接金融という手段もありまして、芸能の世界では活動の初期の段階では直接金融を頼りにするしか方法がなく、その意味で芸能人としても活動している私からすれば直接金融は身近なものであります。現時点で私が金属ビスの中小メーカーの経営者であったとします。法人設立から1年しかなく、実績もないので間接金融に頼ることはできません。では直接金融はどうかというと、設立1年の企業にだれが融資しますか?ということです。八方塞がりとなり、たちまち企業の経営は難航します。そこで私はどうするかといえば、ギターを弾くわけです。世間様に「歌」や「曲」というもので私を見てもらうために芸を披露し、そこで信用なるものを獲得し、収入を確保するのです。最初はビールの一杯をお客さんからプレゼントしていただくところからとなりますが、続けていくうちに人脈を含め、様々なものを手に入れることが可能です。その意味で音楽は努力次第で成り上がることのできる夢の商売であるといえるのではないでしょうか?アメリカンドリームのようなことが起こりにくい日本の中で、唯一、夢に向かって進んでいけ、そして「自分の名前」を全面的に出していける商売ではないかと思っております。

 

そうはいっても、では音楽をやるのにそれなりの技術が必要ですよね?という話になり、社会人にそのような時間はない!!という反論が必ずでてくるのですが、まあしかし、現金を引っ張るというのは、すなわち、血の小便が出るくらいの覚悟がいるということでしょう。手っ取り早く現金をつかむというのは考えない方がよいかと思います。然るに、努力次第で現金は入ってくるという理論をうまく説明できることでもありますので、楽よりは苦を選ぶのことが近道であるとの仮説を導き出すことができます。

 

ところで、前回の続きのペルソナですが、ペルソナとは一言でいうと「見た目」のことであります。人への印象というのは一瞬で決まるというのが本当であれば、嫌いな人の前では相手が嫌がる格好をするだけで相手は退散するという仮説となりますが、果たしてそうでしょうか?この理論が正しければ、いじめもなくなるような気もしますが、そうはいかないところが人間であります。見た目での人への評価は一瞬でなければそもそも成り立たないとして、無意識でありますから、意識化できないはずです。ですから決まらないのです。その決まらない事に対し複雑な思いが湧き出てくるのです。そこにコンプレックスがミックスされるととんでもない方向へ向かうことになり、そこで出てくるのが「人は見かけによらない」という言葉です。

 

現在の話の主人公は最初にアニマが出現し、しかしその女性的な美の追求だけでは物事が成り立たないということに気づき、次なるステップとしてペルソナを活用させようとするものであります。ペルソナとなるとある程度決まった「型」を見ていくことになりますから目標を定めやすくなります。しかしその一方で、ただの「パクリ」となる危険性も大いにあり、このさじ加減が難しくなる段階であります。

 

なぜこのようなことになるかですが、ペルソナとは見た目のことでありますから、無意識の向かう方向が「外」になります。ユング心理学では外があれ内も考えなければならず、その意味で外見ばかりを気にしていると中身がなくなり、それによって個性を失うという結果となります。A氏は女性の方向へ向かって行ったことに対して失敗したゆえにペルソナの方向へ向かうという、その行動が正解か否かは別として、少なくとも内に向かって失敗したから次は外へ向かうという観点に対しては素晴らしいものとなります。但し、ここで気を付けなければならないことは、アニマを捨て去らないことであります。人間には男性的な部分と女性的な部分とが同時に存在するからこそ人間らしいとするならば、失敗したアニマの存在をもペルソナに加味しながら前に進んでいくことが重要ではなかろうかと思います。

 

ここまでくると、ではどのようなペルソナの人物からアイディアを拝借しようか?という考えに至ります。ここでお気づきいただきたいのは、この時点でペルソナを見ていくだけの「基準」ができていることです。例えば、男性であるならば「アニマ+ペルソナ」です。アイディアを拝借する対象にアニマ的な部分があるか?そして見た目に普遍性があるのか?これだけでもモノを見る力がずいぶんとつくはずです。そしてこのようなものの見方こそが「芸術的」と称されるもので、芸術家はこの基準に照らし合わせ、それを実際の行動へ移していくという作業が必要となってきます。つまり、ペルソナを使う段階へ入ると、「見た目を見た目で選ぶ」ことが必要となり、その際に「アニマ」の力を存分に借りなければなりません。女性であればアニムスの力を借りることになります。

 

これで少しはイメージできたでしょうか。次回はペルソナとアニマ・アニムスの力を利用しての物の見方についての方法論を吟味しようと思います。ご高覧、ありがとうございました。

話を戻していきましょう。芸能界を目指す男性のA氏はアニマを出しながら売れずに現在に至り、そこで少し方向転換をしようと考えます。つまり、心理学的にはペルソナを使う戦術に切り替えようとします。さてこれも成功するのでしょうか?というストーリーを考えてみたいと思います。

 

ここで重要なことが、芸能界を目指すA氏とそれを受け入れようとする市場とでは求めるものが逆であることです。つまり、シーズとニーズは逆のものであることです。そして、男性と女性とでまたニーズは異なりますし、シーズの出し方も異なります。ここが難しいところです。A氏が女性的な部分を出してある程度変化し、女性化したことで見た目もきれいになったとします。そうすると男性のニーズは増えるでしょうけど、女性のニーズは減ります。これは当然のことで、同じ女性の一部分、つまり女性的な部分を熱狂的に好きになることはありません。なぜなら、同性であるからです。ではどうするか?なのですが、ユング心理学においては男女が一体化していることで表現します。錬金術師がこの状況を絵にして表現しているのを見てユングは結合が不可能であるとさえれる物質の結合は可能であるとの意味に捉え、これで完全体の完成形であるとみなすのであります(対立物の結合)。ちなみに、この状況を見て多くの人はユングがオカルトの方向へ行ってしまったと思っているようで、現在でもその論争に終わりを見ることはないのですが、私としてはユングはオカルトの方向へ行きつつ、心の問題を追及したと考えております。

 

ここまで論じてみたところで、我が身を売っていく芸能界においてA氏は売れないことに相当悩み、自分自身を変えていこうとするのですが、ニーズはシーズの逆となりますので、自我は混乱し、とにかく考えれば考えるほどわからなくなるのです。なれると簡単なのですが、ステージに上がる人間は美を追求するものだ!という芸能人の勝手な思い込みとは裏腹に、観客は汚い人を見たくなるものであります。男性の観客であればきれいなものを見たいと思うかもしれませんが、女性の観客は男性的なものを見たいものであります。ペルソナを使ってきれいにしたとしても、ステージに上がってきたのは男性ですから、アニマを使ったくらいでは男性の観客に圧倒的な感動を与えることは困難でしょう。さらに、女性の観客にとっても、きれいな男性が出てきたとしても「美」の部分で男性としての魅力が半減するでしょうし、困りましたね。そこで私はA氏にアドバイスします。売れてる芸能人の身なりをマネしてはどうでしょうか?既に結果が出ているわけですから、ある程度の結果を期待することができますよといったとしましょう。そこでA氏も同意し、やってみることにしました。これがペルソナを使った方法であります。

 

しかしながら、これでも売れることはありません。なぜなら、ペルソナは元型であります。元型ということは人類共通でありますからそのような格好をした人は既に星の数ほどいるからです。マネをしてはいけない理由はここにあります。しかし、このプロセスを経ずに個性化はありえませんから、まずは失敗することを覚悟のうえでこの道を進むしかありません。この次に影や老賢者の元型が作用してくるのですが、このペルソナを飛び越えていきなり老賢者元型を出すことは理論的には可能ですが、市場が受け入れないでしょう。つまり、「なんの経験もないのに、何を偉そうなことを!!」となるからです。世の中は難しいですね。ゆえに時間がかかっても順に階段を上がるしかなく、これがまた無駄な時間の使用を防ぐことにもなります。

 

今回はここまでとします。次回はより深くペルソナについて論じます。ご高覧、ありがとうございました。

本シリーズの前稿においてはアニマについて論じました。今後にペルソナについて論じてみようかと思いますが、その前に元型なるものは常に自我に対して影響していることについて述べておこうと思います。

 

元型は常に自我に影響していると聞いて一般の方は驚かれるでしょうけど、専門家からすると通常の現象であります。元型が自我と完全に切り離され、元型が自我を覆い隠すようになると非常事態となるのですが、人の心は元型と自我とが仲良く向き合っている状況で通常の状態であります。とりわけ芸能人や芸術家はこの元型なるものに異常なほどの興味を示すのですが、いざ元型が自我に影響し始めると実に辛い状況となります。それでも元型を感じたいですか?というのが私からの問いかけであります。

 

例えば男性のビジュアル系バンドなる音楽グループがありますが、これは男性が女性に近い格好をしてステージに上がるのですが、男性が女性に接近しているという意味ではアニマが出ている状況といえます。この状況だけを見るとビジュアル系バンドのメンバーは非常に危険な状況であるといえるのですが、これを意識的に行っているのであれば全く問題はありません。ところがです、無意識というのは意識できないから無意識でありまして、たとえ「商売のため」と思っていても現実的にアニマを表現する格好をするわけですから、実際にはアニマが自我を占領し始めている兆候である可能性も否定はできません。ここが難しいのです。

 

いかがでしょうか、元型を感じていただけたでしょうか。そして男性から女性へ接近し、仕上がったメイクや衣装はそのまま「ペルソナ」となります。ペルソナとは「それらしい」と自我が思う現在の主体の在り方であります。つまり、頭で考えられた状況であり、本来の主体の在り方とは関連性はありません。男性だから男性的に、ビジュアル系だからビジュアル系にというのがペルソナであります。ここからいえることは、アニマを存分に発揮した結果として、「そのメイク、その衣装」なるものが存在します。その主体の心の状態が正常であるか否かは今のところ議論しませんが、その主体となる男性が「理想の女性」と思うその思いが表現されるのがここで意味するペルソナであります。このような見方をすると、メイクや衣装のセンスが非常に良い状況だと仮定すると(より深く女性を追求できている状態)、その主体の男性がどれほど深くアニマに触れ、そしてペルソナで自分を覆い隠そうとしているとなります。つまり、ビジュアル系として完成度が高ければ高いほど、女性の世界に生きる男性と見立てることが心理学的には可能であります。そんなアホなことあるか!!という声が多く聞こえてきますが、これが心理学であります。現代においてこのような状況が良いのか悪いのかについて言及することは困難でありますので、この点について言及することはしません。ただし、このような生き方に「辛い」と思うようになったビジュアル系の男性にとっては男性の世界に戻ることをお勧めします。

 

このように元型なるものはごく自然に心に働きかけているために気づかないうちに元型に自我が食われている状態になっていることもあります。今回は男性のビジュアル系バンドを例にしましたが、その他にも少年の元型が作用している人は人に自分の仕事を負わせるなどのことがあります。これは最近ではアスペルガー症候群などと病名がつけられておりますが、もっと広範囲で考えるのであれば少年の元型が作用していると考えれば理解しやすいかと思います。薬を必要としない場合はこの理解のほうが治療しやすいと思うのですが、専門家の先生方、いかがでしょうか?

 

では次回よりペルソナの話に移っていこうかと思います。本稿ではアニマ・アニムスの作用がペルソナに及ぼす影響についての序論的なものとしました。お気づきのようにペルソナは「本人は気づいていない」という観点より元型とされておりますが、表現の方法が外界へ向けてのものでありますからわかりやすい反面、なぜ元型なのか?という疑問も多いかと思います。今回はこの件について何となく理解はできたものかと思います。しかし、まだモヤモヤは残っているものと思われます。それが狙いなのですが・・・

 

次回よりモヤモヤを取る作業にかかろうと思います。ご高覧ありがとうございました。

本日よりブログのタイトルを変えて論じていこうと思います。

 

これまでに多く論じてきたように、マネジメントと心理学とは大きく結びついており、マーケットを知るには心理学を援用するのが良いのではないかという仮説を提示しております。多くの経営学者は経営学に心理学など必要ないと考えますが、私はそこに異論を唱えているわけです。学会とは真逆の立場でありますので、とりわけ学生諸君は私の意見は心にとどめておくのは自由ですが、これを研究発表の素材とするのは非常に危険であります。やめておきましょう。私の場合はここに中国哲学も入ってきますから、この点もご注意ください。

 

学会ではそうでも、では企業内において心理学と経営学を混ぜ合わせた意見が求められているかというとそうではなく、企業においては「儲かれば手段は問わない」という姿勢であることがほとんどであります。そして、答えが書いてある書物を探し求めるのでありますが、実のところ儲け話の本であるならば書店やネットで探せば星の数ほど出てきますし、また、それなりの効果も期待できます。私の経験する限り、経営学の教科書を実践するよりはハウツー本を実践したほうが成功する確率は高かったのは事実であります。数値を公表することはできませんが、それなりの効果があるかと思われます。

 

しかし、なぜ私がハウツーの話にしないのか?ですが、これも私の研究のテーマの一つですが、「考える」ことが成功への道だと考えているからであります。つまり、頭の体操が成功を生むのではなかろうかというものです。経営のハウツー本を読むとき、それは成功したいから読んでいる時がほとんどではないでしょうか。経営の話からはそれますが、急なスピーチを頼まれたとき、ハウツー本を読んでその場をしのぐ人が多いかと思いますが、しかし、その状況を考えてみた時、非常に緊迫した状況となっていることがわかります。つまり、ハウツー本を緊迫した状態で読んでいるわけです。では、緊迫した状況で経営学の教科書を読めばいいのでは?となるのですが、これにはいささかの問題があります。経営学の教科書に書いてあることは様々な困難な状況を取り除いた、いわゆる普遍的なことが書いてあります。つまり、困った状況の時に当事者がどのような行動をとればよいのかについて書かれていないのです。一方、ハウツー本は困った状況の時に使えるようになっております。

 

さてしかし、こんなこと言っている私は経営学の教科書を読んで今に至っております。また、ニューイシューというバンドもその経営学の教科書に書いてある理論をふんだんに使っているのも事実であります。矛盾しますね・・・これが現実です。

 

この矛盾を感じ、さらに問題提起できようになると学問が面白くなるのですが、前述の状況をよく考えていただきたいのです。つまり、経営学の教科書では困った状況を把握することができないことに困ったわけです。こうなるとこれを解決するための手段が必要となるわけで、ここに私は深層心理学を使ったまでのことであります。ですから、企業のニーズではありません。いわんや学会からも求められておりません。

 

ここでさらに考えていただきたいのは、やはり「考える」ということに解決策が見出されているような気がします。まず、急なスピーチを頼まれた人がハウツー本を読む状況や私が経営学の教科書を読んで困り、しかしながら学者としてのサバイバルをどのように企てるかについての緊迫した状況でのブレークスルーはやはり「考える」ことではないでしょうか。もちろん考えれば何でも良いわけではなく、あるテーマに沿って一貫性を持たせた考えであればブレークスルーは可能であるかと考えております。その結果として私は皆様方に「考える」ことをしていただきたく思い、ハウツー本とは程遠い論文という形式で情報を提供しているのであります。

 

ハウツーを書けと命じられればいくらでも書きます。どちらかと申しますとそっちのほうが楽です。ハウツーと論文をミックスさせ、どちらかというと論文の方に傾いている文章の方が頭の体操になり、より良い結果が出るのではなかろうかと思いこれを実践しております。こうなると日本国民がサンプルとなるのか?などの疑問がで出るでしょうけど、その前に内閣官房と関連する各省庁において事前の実験を行ってのことですからご心配なく。あとはこのブログの読者が実践していただけるかどうかであります。

 

今回はブログのタイトルを変えたこともあり、前回までのシリーズを中断し、その旨のご報告となりました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

そろそろこのブログのタイトルを変えようと思っております。IQプロジェクトはうまくいっていないようですね。見放すわけではないですが、ある程度のところで一区切りし、芸能界全体へ向けたブログにしようと思います。IQプロジェクトは陰ながら応援するという運びにします。今後とよろしくお願い申し上げます。

 

ところで芸能人が奇行したり自殺したりするのはなぜかと考えた時、元型が強く作用しているからだということを少しは感じていただいているかと思います。奇行というのは程度の高低がありますから、何も街中を全裸で歩くことのみが奇行であるわけではなく、私のように音楽をやっていても何も感じないことも奇行であります。というのも、何も感じないのに音楽をやっているからです。心理学的な意味での奇行とはこのようなことも含みます。元型というものはそれだけを取り出すと便利なものに思えますが、しかし、非常に恐ろしいものであります。また、元型のみが出てくると逆に孤立します。ここがまた難しいところです。

 

話を戻しまして、では芸能人として全国に向かって何を発信してゆけばよいのか?ということですが、前稿においては非常にまじめでしかも暗い性格のAさんを思い出してください。この方は意外にも芸能界にて活躍したいということで悩んでいるわけでして、Aさんの願いをかなえるにはどうすればよいのかについて具体的に考えてみようと思います。前稿においては元型を使えばよく、しかし、失敗すれば予定していた元型以外の元型が作用することもあり、非常に危険ではあるが、芸能人になるAさんの思いは妥協すれば叶うかもしれないということでありました。この妥協という言葉が一言多いわけですが、しかしながら、そういわざるをえない事情もあります。

 

まずカウンセリングを始め、うまくいけば最初に出てくるのがアニマ・アニムスです。これは決まってこうなります。先ほどのAさんが男性の場合で精神的に重度の問題のない人であれば真っ先にアニマが出現します。出現の方法はいろいろありますが、まずはやはり夢ではないでしょうか。そこから行動や外見にも変化が現れるのですが、このアニマを影と勘違いするケースがほとんどであります。つまり、これまでとは全く違う自分が出てきておりますから劇的に自分が変わったと思ってしまうのです。しかしそれは自分の中の女性的な部分がでてきているだけですから変化したわけではありません。ここが難しいところです。

 

自分を変えようと努力しているわけですから暗い性格のAさんは一見すると明るくなったように見えます。それはもちろん第三者的にも主観的にもです。それだけでも変わったと思えるようになるのですが、これにプラスして非常に女性的な面が出てきます。つまり、細やかな気遣いであるとか、ファッションを気にするようになるとかです。それまでは理髪店で髪を整えていたのが美容室に行くようになったり、アクセサリーをするようになったり、また、喋り口調も柔らかくなったりします。そうすると周りの人は「あの人は変わった」と思います。またそのように口にします。その評判を聞いてAさんは「これでいいのだ!」となってしまうのが常でして、実はこれからが本番なのにここで終わってしまうことが多いのが現実であり、残念なことであります。つまり、ここで終わる人が多いということは、周りの芸能人と差がついていないことになり、いわゆる普通の人で終わってしまうのです。

 

自分は変わったのに売れないのはなぜか?と疑問を持ち始めるようになります。しかしながら、周りの人は「それほど努力してダメなら、芸能界をあきらめましょう」とアドバイスし始めます。こうなるとまた不の連鎖が始まるのですが、それでも芸能界をあきらめたくない場合はどうすればよいのかということになります。簡単にいえばあきらめずに次なる元型を出していくことですが、アニマを出すだけでも相当な時間と努力を要することはこの事例でもお分かりだと思います。その上にまだ次なる元型を出していくとなると、また時間と努力が必要となってきます。この次は当然のごとくペルソナを意識していくことになります。それは、芸能人らしいとは何かを改めて考えていくようになるからです。一度は内面に向かった意識は、次は外面へと向かうのですが、実のところそれは内面のより深い層を行くことであり、しかしながら元型へのリビドーが外へ向かうという非常に矛盾した心の動きとなるため、ここで非常に大きな苦痛を伴うことになります。つまり、あこがれの芸能人の真似をして大失敗するという経験をここで積むことになります。

 

さて、Aさんは今後どうなるのでしょうか。次回をお楽しみに。ご高覧、ありがとうございました。