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芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

芸能人と影の問題について述べておりますが、実のところこの問題が客体の心をとらえるのではなかろうかという仮説で話を進めております。それならば影の問題は問題ではないのでは?という疑問もあるでしょうけど、影は元型ですからこれにかかわると精神的な負担はかなりのものとなります。それ故に、お金の話と精神的な話とを区別して考えなければならないという方向へも話は進んでおります。つまり、影を利用して芸能活動する場合、お金はもうかるかもしれません。しかしながら、精神的な負担はものすごく大きくなり、中には自殺する人もいます。これとは逆にお金はほどほどに活動する場合は影の力を借りる必要はないかもしれませんが、それでは生活が成り立たないのが芸能界では常であります。難しいですね。ではどうするかですが、やはりこれは影を利用するしかないのですが、精神的な負担を少しでも減らすことを考えながら進めるしか方法がありません。影の力を借りる以上、精神的な負担はさけられません。ゆえに、その負担を「軽減」させることを考え、活動していくようにしなくてはならないでしょう。

 

こうなりますと非常に危険な作業となります。というのも、医学的なことを例にしますと、未知の病原菌の研究をするために、実験者自らその病原菌を体内に入れるのとほぼ同じことになるからです。つまり、治療の方法がわかっていないととんでもないことが起こります。ですから、実行はできるだけ心理療法家のカウンセリングを受けながらにしていただきたいです。

 

では、序論的なことから入っていきますが、意識的に「暗い性格」とわかっており、友人たちからもそのような評価である人物、Aという人がいるとします。この人が私の話を聞いて思ったのは、「では、明るい性格」が実は備わっており、やりようによっては自分を180度変えることができると考えたとしましょう。ここまでの話は私が公演すればたいていの人はこのように思っているようです。そしてそれは私としては正しい理解だと思っております。しかしながら、心理学的には実に大きな間違えをしておりまして、では、自分の暗さはどこに由来しているのかを考えなければなりません。ここで役に立つのがタイプ論であります。外向的で暗い人はあまりいません。「あまり」というのは、完全なる外向的な人というのは存在しないからです。誰が見ても暗いと感じる人はまずは自分が内向的であることを疑ってみることでありましょう。ここでも曖昧な表現となるのは、その判断は実際のクライアントを前にしないと何ともいえないからです。つまり、外向的な人でも診療時に内向的な性格を前面に出すときがあり、その見極めはかなり難しいからであります。そこで典型例として、このAは典型的な内向型の性格であるとします。本来ならばこれに4つの心の基本類型が加わるのですが、ここは省きます。まず、内向的であるがゆえに「暗い」と評価され、さらに自覚症状もあるAという人物とします。このAが芸能界で活躍したいという思いで実はいっぱいで、この点からしても外向的な面が見え隠れするのですが・・・そこは気にせず、とにかく、暗い性格なのに人前に立つことはできるのか?について悩んでおります。そして私のところにカウンセリングを受けにきたとします。私は言うでしょう・・・「まずステージに立ちなさい」

 

このような典型的な人が現れれば私は常にこのように言っております。これはステージに立つ前からあれこれ悩んでも解決しないことを別の表現として伝えているわけです。このような場合、「ステージに立つ前に云々・・」といったところでカウンセリングにはなりませんから、Aが実際にステージに立つか否かはどうでもよいとして、まずはそのように言い放ちます。そうしますと今の暗い自分という自我が打ちのめされ、わかりやすくいうと「破壊」されます。そうしますと意識と無意識とが自動的に分裂します。これは理解できますよね?そうならざるをえないわけです。つまり、意識的に意識と無意識とを切り離すのは非常に困難なので、答えがわかっているものを先に壊すと、その逆の部分が出やすくなるという方法であります。この場合はもちろ影の部分を引き出すために自我を一旦は崩し、集合的無意識を出しやすくするというものであります。ところがこの方法は大きな問題がありまして、つまり、元型は影だけではないということです。影を出そうと思って思わずアニマやアニムスがでることもあります。さて、難しいですね。いきなりその人が永遠の少年として活躍しだすとどうなるか?これもまた非常事態であるかと思われます。また、壊れた自我が再生しない場合はどうなるか?など大きな問題が山積しております。ところが、芸能界で活躍するとなると、例えばAが男性だとします。そうしますと、男性が女性として活躍することも芸能界では多々あることでして、それも一つの生き方かもしれません。Aが男性であれば、最初の思いとは違う方向であるかもしれませんが、「逆の生き方」であることには変わりなく、世間が受け入れればその人は有名人となることは必至です。

 

さてこの事例を皆さまはがどのように思うかであります。実際にはこのような典型例に出会うことはまずありません。もっと複雑な心の問題を少しづつ解決していきながら先に進めていくのですが、今回はここで筆を置き、皆様方がどのように考えるかをまずは優先させ、その後にもう少し深い話に入っていこうと考えております。ご高覧、ありがとうございました。

前稿では影を例にして人生論を語ってみました。私のような若輩者が人生を語ることはまだまだ許されませんが、一応の例としてやらせていただきました。また、影の問題は河合隼雄博士が一冊の本として出版するほど奥の深いものであります。いわんやペルソナの逆とだけ考えていたのでは間に合わないのですが、そうも言っておれない現状もありますので、影についてよりお知りになりたい方はその本を読んでいただくとして、時間のない方は当ブログにて影に関する「感覚」をつかんでいただければと思います。

 

前稿では影に支配されるミュージシャンの話を行いました。主人は私なのですが、この話に肉付けをするれば小説となり、それなりに楽しいものとなるかと思います。また、芸能界にむいているのは努力家かそれとも影に支配された人か?との問題提起を行いました。私は結論からすると影に支配されている人だと考えております。ゆえに、私は影を取り去ろうとは思っておらず、むしろ影とうまく付き合おうと努力しているところです。しかしながら、これは大変な苦労があります。なぜなら、影は無意識であり、感じることが困難であるからです。また、完全に感じてしまうと影は消え去ってしまいます。影が消え去った田中誠一という、いわゆる「普通の人間」を誰が期待するでしょうか?と考えますと、実に影は良い働きをしている半面、精神的な負担は相当なものとなります。さらに、現代のマーケティングは人間の精神状態は全く考慮されていないことも立派に証明できております。つまり、「見たい」と思う方向へ進ませるのがマーケティングであるならば、演者の気持ちなど全く関係ないとするのが現代のマーケティングの姿であります。そしてこの点でアーティストと運営側で対立が発生し、バンドが解散となったり、芸能界を引退したり、場合によっては自殺ということにまで発展します。そして私は・・・心理学者でもあり、経営学者でもありますからそれを両立するために頑張っております。そしてその状況を皆様方にお伝えしているという状況です。

 

それにしても影に支配されたミュージシャンという題材は我ながら面白いと感じております。というのも、実際にはほとんど努力せずにプロの領域にまで達するのはなぜか?という疑問には答えやすいかと思います。もう一つ面白い事例があるのですが、私の親戚に東京大学の文1類にほとんど勉強せずに現役合格した人物がいます。その人はそれこそ人の目につかないところで努力をしているとおもっていたのですが、実際にはそうではなく、勉強はほとんど行っておらず、ご家族も相当苦労したという話を何度も聞きました。また、私の小学校からの友人は現役で京都大学の経済学部へ合格した人物がいました。その人物は多少は勉強しておりましたが、私よりも勉強する時間ははるかに少ないのに京都大学へ合格しておりました。その時から私はこの現象にかなりの疑問を持っていたのですが、私は勉強ではなく、ギターという楽器にかんして上述の人物のような状況に置かれていたようであります。

 

さて、事例がある程度そろったところで、どちらが幸せで、どちらが業界で活躍できるか?と考えてみてください。幸福度は影に支配された人物の方が低いですが、業界での活躍度は影に支配された人物の方が上になるかと思います。私は学者としても活躍しており、それに対する満足度は言葉では表現できないくらいに充実したものであります。しかしながら、音楽業ほど目立つ業績もなく、学会からは嫌われ、充実感とは逆相関する形で学者としては落ちこぼれております。これが元型が作用するという説を援用した人生論であります。人気ある芸能人が突如として芸能界で何らかのトラブルが発生させるとき、この影の問題が大きく作用しているように感じております。影の問題は自分自身の内面にのみ作用するのではなく、外界にも大きな影響を及ぼします。例えば、急に私が自殺したり、何らかの、しかも私のペルソナとは逆の問題を起こした時、皆さまはこのように発言するでしょう・・・「そのようなことをするようには思えなかった・・・」この一言に尽きるかと思います。これが影の問題であり、元型を感じることがいかに困難であるかを証明させる一言であります。

 

ところが、人気者になりたい!と思っている方は是非ともこの「影に支配されたい」と思うことでありましょう。その方法を教えてほしいという人はこれまでも数多くおりましたが、実行するにはかなりの精神的な努力を必要とし、既に何らかの心の病にある人がこれを実行すると逆効果となることもありますから、あまりお勧めしませんが、次回以降に方法論について論じていきたいと思っております。気を付けていただきたいのは、「私は心の病などない」と思っている人ほど危険であります。また、自分でも自覚症状がある人もまた危険であります。実際のところ心の病は誰でも持っており、その程度が強いか弱いか、ある程度意識できているか、そうではないかの違いであります。先んず、一番必要なのは主体の心の分析であります。これができれば乗り切れるかと思いますので、私がこれより論じようとすることを実行しようとする人はぜひとも心理療法家の分析を受けていただきたいと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。

前回はプロ論について論じました。プロの定義はいろいろありますが、深層心理学や易経の視座からは、「生まれもっての才能」を活かした職業に就いている場合にプロと定めようとしました。実際例としては大学教授の例をあげ、教授を目指して教授になった人と、教授を目指したわけではないが、周囲の人が持ち上げて教授になった人と比較し、検証を行いました。教授という役職の中で、全ての教授はある基準をクリアしておりますので教授であることに間違いはないのですが、教授としての人生は両者ではまるで異なることを指摘しておきました。なぜこうなるのか?同じプロでも苦労しながらのプロと、楽しみながら仕事をするプロがいるわけで、その違いは何か?ということですが、要は、運命的なものであり、苦労する人は学者としての実力はあるものの、天職ではない可能性が高いわけです。これを易経では「太極」なるもので表現され、ユング心理学では「元型」で表現されます。

 

ここで一つ心理学的要因によるもう一つの人生道を示してみようと思います。それは「影」によるものです。人間には誰しも影が存在します。影というのは生きられなかった半面のことです。わかりやすく言いますと、ペルソナの逆のことです。ペルソナは現在生きている半面であります。例えば、質素な服を愛している人の影は「ゴージャス」です。逆にゴージャスな服装を愛している人の影は「裸」です。面白いですね。ある国の人々がプライベートビーチにて全裸で海水浴を楽しむのは、まさに「影」をさらしていることになるのです。これは人間には誰にも備わっている元型でありますから、あとはその人のコンプレックスによって現れる元型の結果が異なるだけでありまして、その意味で、人間の一生というのはあらかじめ決まっているということができるわけです。そしてその「コンプレックス」による縛りが生れるわけです。

 

人間は生まれてから独り立ちするまで、誰かに育てられなければなりません。多くは両親のもとで育ちますが、ここで大きな縛りを受けるわけです。ここで両親によるコンプレックスを大きく受けることになり、その意結果として、「影」をも受ける可能性も高くなります。前述の影の例は主体自身の影の話ですが、主体が客体の影を受けることもあります。要は、父親か母親の影を受ける場合、逆に両親が子供の影を背負う場合があり、ここで運命が決定されることもあります。こう言っている私がまさにこの事例に該当します。とりわけ、私は父親の影を背負い、プロギタリストとして活動しております。

 

ではその具体例ですが、結論からいうと、私は学問とギターを比較すると、学問の方が好きです。ギターはどうかというと、正直なところ、ギターを弾いている感覚というのはあまりありません。もう少しわかりやすく表現しますと、風邪をひいて鼻が詰まっているとき、「味覚」がなくなりますよね?食べているのに食べている感覚がない・・・これと同じような感覚なのです。つまり、ギターを弾いているのですが、弾いている実感がまるでないのです。これは今になってそう感じるのではなく、私は13歳の時からギターを弾いておりますが、その時以来、現在に至るまでその感覚が続いております。ところが、自分の専門の学術書を読むとき、「私は本を読んでいる!」という充実感に満たされます。この差は何でしょう?ということですけど、これがいわゆる元型の作用です。元型が自我を凌駕しているため、ギターを手にしても何も感じないのです。具体的には影が自我を凌駕しているため、何も感じないままに手は動くという現象が起きているわけです。

 

実のところ、ギターを始めた少年時代から私はギターを弾いている感覚というものがほとんどなく、非常に変な感じでした。弾いている感覚はないのに上達していくことが非常に恐ろしく、子供ながらに「何かに呪われたか?」と恐怖の日々を送ったものです。しかし、日常生活に支障はでなかったのでこの件は私の胸の内にしまっておいたのです。そこから28年後、あるブログの記事を目にした時に衝撃を受けたのです。サラリーマン生活を送ってきた私の父はなんと、ギタリストになりたかったという衝撃的な事実を知ったのです。なぜ衝撃的かというと、私が41歳になるまで一言もそのようなことを聞いたことがなかったからです。しかも、ギターは嫌いとの発言をよく耳にしておりましたので、驚くとともに、まさに私は父親の影を背負って生きていることに気づき、ギターを弾くときの無感覚の理由も納得できたのでした。しかしながら、納得しただけでありますので、ギターへの思いが劇的に変化したわけではありません。現在でもギターを弾いている感覚はゼロです。しかし、それでいいのです。

 

このように、私は影に操作されながらプロギタリストとなっております。つまり、私自身の意思とは全く関係なのです。しかも父親の影の影響ですから、実のところ私がギターを弾いている姿は私の父の姿であり、私ではないことに注目していただきたいのです。ギターをプレイしている実態は私ですが、心は私の父親であります。ですから、皆様方は正確には私のギタープレイを見ているわけではなく、私の父親のギタープレイを見ていることになります。いかがでしょうか?頭がおかしくなりそうですね!

 

これも生まれもっての才能の一つです。ダメになった音楽業界をどのように生きていくか?と真剣に考える人もいれば、私のようにそのようなことは全く関係なく、むしろ影に支配されて前に進んでいるだけというプロもおります。さて、どっちの方が音楽業界に向いているのか?となるのですが、皆様方はいかがお考えになりますか?

 

今回はここで筆をおきます。ご高覧、ありがとうございました。

前稿ではブルーオーシャン戦略について触れ、レッドオーシャンへの対処法というのを吟味するところから本稿を始めようと予告しました。また、地方の芸能人が全国へ向かっていくにはどのようにすればよいのかについても吟味していこうとしました。もちろんそれから始めるべきであるのですが、しかし、それは私のマーケットの読みに誤りがあるのではないかというある発言を直接耳にし、本稿に入る前に、精神論から入ろうかと思います。

 

先日、ある地域のバンドに参加しているときにあるメンバーからこのような話を聞きました。「音楽業界、どのようにすればよいのかわからない」

 

この一言はかなり痛烈な言葉であります。文言だけを見ると言いたいことがそもそもよくわからないと見ることもでますし、「甘い!」という方もいるでしょう。さらには「それほど音楽業界はカオスなのか」とか、己の技術力、知己力の不足じゃ!などと、否定的な意見ばかりが多く出ることは必至です。しかしながら、それは音楽業界に布置されていない人々から見る布置によるものであり、これをただ単に否定的な意見としてくみ取るのは間違いであります。私もその人と同じ音楽業界に身を置く人間としてこの一言に身震いをしたのを覚えておりますし、この言葉がなければ今回の論文になっていないかったです。それほどまでにプロミュージシャンとしての強い思いが込められた一言であります。

 

では、「音楽業界、どのようにすればよいのかわからない」を翻訳するとどのような意味になるかというと、「音楽業界で生活する、ないし、生活をしようと志す人の道が閉ざされ、出口の見えないトンネルをひたすら走り続けているのが現在の音楽業界である」という意味であります。これは何も音楽業界だけの話ではないですが、「音楽は無料」のこの時代、特に音楽業界で生活する人は「どのようにすればよいのかわからない」というのが本音であり、しかしながら、世の中から音楽をなくすわけにもいかず、まさに「あいだ」に入る業界人はその「象徴」として活躍しなければならず、ものすごく苦しいわけです。音楽を絶やすことなく、無料の時代を生き抜く策とは何か?これを親身に感じた言葉であったのです。

 

よく考えてみれば、なぜ私は学者をやっているのか?とか、なぜ学者をやりながらもプロミュージシャンであるのか?を深く考えたことはこれまで一度もありませんでした。深く考えていたことはビジネスとして、また、社会人としてどうあるべきかは常に深く考えておりましたが、なぜ自分自身が学者となりえたか、またプロミュージシャンとなりえたかについて顧みたことはなく、まずこのあたりのことからお話しすることから始めたほうが皆様方もスッキリするのではないかと思い、理論編に入る前に、私の歴史を振り返ってみようと思ったわけです。まず、私がなぜ学者になったかを振り返ってみようと思います。

 

まず、私は学者になろうとしてなったわけではありません。そして、プロミュージシャンになろうとしてなったわけでもあありません。実のところそのような人物こそが何事にも「プロ」として活躍することが多いのです。皆様方が子供の頃にご両親や塾の先生からこのようなことをよく聞かされたのではないでしょうか?それは、「将来、どのような職に就くかを考えなさい。それを逆算し、文系に進むか理系に進むかを考えなさい。」 この言葉は私が小学校の頃は毎日のように両親や塾の先生から言われました。今から30数年前の話です。そしてその時の思いですが、「文系とは何か?理系とは何か?」でした。要は、文系や理系という言葉を知らないわけです。さらに、辞書を引いて調べたところでもっとよくわからないわけです。というのも、理系でも言葉を扱いますし、文系でも数字を扱います。なぜ「分けなくてはならないのか?」とい疑問を私は30数年前から抱いておりました。とても変な少年ですよね。今ではこのような疑問を持つ子供を「アスペルガー症候群」や「鬱」と診断するケースもありますから、私が現代に生まれていたならば、心の病を持つ少年として育てられたかもしれません。怖いですね。それはさておき、このように、常に「なぜ」を問う少年でありました。はっきり言って生意気で、さらに、大人からすると「可愛くない」少年の代表格であります。子供だから自分で稼ぐことができないのは当たり前のことですが、それにしても、自分で稼いでいないにもかかわらず、この生意気な状態はなに?とよく言われたものです。ところがそんな少年も約30年後に国内の博士号を3つ、そして海外の博士号を1つ、合計で4つの博士号を持つ教授になったわけです。なぜでしょう?

 

易経の教えでは人間の一生というものは生まれもって決まっていると考えます。その決まった中でどのような変化をつけていくかを考えていくのが易経の基本的な考え方です。例えば、A地点に行くのに道が3つあるとします。死ぬまでその中の一つの道を進んでA地点まで往復するのか、それとも三つの道をうまく使わけA地点まで往復するのか、など、目指すべきものは同じであってもそのプロセスに違いがあり、その違いの変化を見ていくというのが易経の考え方であります。ですから、私は易経は当たると思っております。なぜなら、帰納法的な論法だからです。あとは占われる側が「人生は初めから決まっている」ということをどこまで信じることができるかでありますが、これを信じる人などほとんどいないのが現状であり、またそれだけ科学というものが浸透している証拠であります。こう考えると日本の教育というものは「統一感」ということでは素晴らしいということができますが、一方で科学が行き過ぎてこれ以上に分けることができないくらいに分かれてしまい、そこに閉塞感が感じられ、迷う人が増えているようにも思います。

 

ここまで話したところで私の少年時代のことに話を戻しますと、私は誰に教えられることもなく、「問題点」を整理することを得意としておりました。ただし、周りの大人はそれに「イラッ!」ときておりましたが、それはいわゆるコンプレックスというものであるという理解を実のところ、子供の頃より理解できておりました。これを分析しますと、まず、

 

1:現象を見る

2:問題を作る

3:仮説を設定する

4:仮説を立証する

5:理論の構成をする

6:結論を下す

 

という、以上の6つのプロセスを子供の頃より誰にも教えられることなくできておりました。これは何も私だけではなく、学者で生活している人のほとんどは子供の頃よりこのような力が備わっております。ですから、学者を目指して学者になった人というのは私は今までほとんど出会ったことがありません。また、学者を目指して学者になった人は学者になってから非常に苦労している人がほとんどであります。それが本人にとってどうなのかについて、私が意見を言える立場ではありませんが、それにして、学者を目指して学者になった人はなぜそこまでして学者という職にこだわるのか?という人が多いように感じられ、ここに易経でいうところの「人生は初めから決まっている」というのが頭から離れないようになるわけです。ちなみに、上記の6つのプロセスは学術論文を書くときの目次の基本的な構成であり、これを何も考えずにできていたためにあとは研究するだけで事足りていたのが、他の競争相手とのリードタイムが短いという点において重宝され、気づけば学者になっていたというのが流れです。クリステンセンの理論では破壊的イノベーションの一つに「価格」というのがありましたが、学者の世界では「時短」というのが破壊的技術として通用するのが特徴であります。しかしながら、この時短の技術がどのようにして生まれたのかについては、はっきり申し上げて「謎」であります。なぜ私が子供の頃より、それも誰にも指導されたわけでもないのに、学者の方法論が子供ながらに備わっていたのか?これは私にはわかりません。否、誰にもわかりません。わかったら世界は破滅するでしょうね。。。

 

ではなぜ私がなぜプロミュージシャンとして活動しているのか?これはある程度、深層心理学的に解明することは可能です。しかしながら、それでもなお表面的な解説となることは否めません。この点を次回に論じ、本稿の最初の問題意識である「音楽業界、どのようにすればよいのかわからない」への解決法を見つけていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

前稿では経営資源が不足している状況かつ、人気もない状況の中でどのようにして芸能人として売っていくかを問題提起して終えました。お金があればテレビの番組枠を買い取って自作の番組を作り、そこに主演や司会などで出演すれば有名人の誕生となりますが、そう簡単に話が進まないのが芸能界でりまして、この最初のヒットをいかにつかむかに大きなエネルギーが必要となります。アイドルを含め芸能人が全国で活躍できるパイが狭いだけに余計に難しいのが現状です。但し、夢に向かうだけではなく、この厳しい状況を正しく理解すれば解決策も見出していけるかもしれません。そのヒントをこのシリーズでつかんでいただければと思います。

 

まず、実際に企業や組織同士の競争に勝っていくというのは相当大変なことです。ましてや全国で有名になろうとすると、当然、全国の企業や組織を相手にしないといけません。芸能界ではどうなるかというと、まず、地方の話からしますと、地方には地方の芸能界がありまして、例えば、大阪には大阪の芸能界があり、さらに大阪の北部地域の芸能界、南部地域の芸能界というように、地区ごとに営業エリアが暗黙の了解として定められておりまして、その範囲を超えての芸能活動というのは許されないのが現状です。これは大阪に限った話ではなく、47都道府県の全ての地域の芸能界がこのシステムです。このような現状のなかで全国に挑むというのは相当な覚悟がいるということは容易に想像がつくかと思います。今ではネット配信で簡単に全国へ情報発信できますが、「競争」という観点からすると、弱者はやはり弱い立場にあり、全国への切符を手にするのは至難であります。ではどうすればよいのか?ということになります。ここで一つ、「頭を使う」という戦術を使わなくてはなりません。これは自分のために使うわけではありません。芸能界のために頭を使うという思考が必要となります。

 

お金がない場合、そもそも芸能界では活動できません。しかしながら、最初は皆お金はありません。どうするかというと、お金を作るところから始めることになります。ではそのお金はどこに存在するかというと、銀行や投資家ということになりますが、この二つは簡単にお金は貸してくれません。では次に、家族や友人知人となりますが、家族や友人知人からの資金援助には限度があり、またすぐに底をつきます。最初の呼び水にはいいかもしれませんが、大きく全国で活躍していこうとするには他の手段と併用しなければなりません。では、最終的にどうすればよいのかですが、それは、全国展開している芸能事務所、ないし、全国の芸能に興味のある組合などに頼ることになります。これが最初の一歩ですが、芸能事務所に入ったけど、結局はデビューできないことが実のところ多いです。これはなぜかというと、芸能人として差別化できていないからであり、芸能事務所としても売り込みにくいという現実もまた存在します。ゆえに、前述のように、「芸能界のために頭を使う」という思考になるわけです。これは窮極的には「自分の仕事は自分でとってくる」というくらいの覚悟でなければなりません。芸能事務所に所属したからといって何もしないでいると結局のところ、全て自分に跳ね返ってきます。また、マネージャーというのはあくまでも代理人であって、芸能人ではありません。ですから、人脈は作りますが、最終的に芸能人として自分自身が頑張らないと売れることはありません。この点を理解するところから始めていただきたいです。

 

ここで新たな問題がでますね。人前に出るだけでも大変なのに、その上まだ経営の勉強をしなければならないのか?ということです。答えは「Yes」です。ここが芸能界の大変なところです。今から30年前まではこんなこともなかったのですが、やはり業界として成熟してくると生き残っていくのが難しくなってきます。これは「ブルーオーシャン戦略」などでいわれておりますが、成熟した市場(レッドオーシャン)において戦いを挑むにはそれなりの知識と努力が必要となってきます。芸能界においてはこのことがあまり認知されておらず、よって、情報もあまり出ないがゆえに気軽に足を踏み入れ、夢だけを追い続け、結果として失敗するというのがパターンとなっております。私が主張したいのは、レッドオーシャンの中にもブルーオーシャンが存在しますから、それを探して市場の拡大をしていくことです。ブルーオーシャンが拡大し、レッドオーシャンになろうとする頃、芸能事務所も大きく儲けていると思います。そうすると該当する芸能人にも大金が入ってきます。そのお金をさらに芸能界に投入して自分の顔を売っていく・・・これが理想であります。

 

ではこれを具体的にどのような方法で行っていけばよいのかについて次回から吟味していこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。