芸能の世界とマネジメント -11ページ目

芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

今回から新シリーズです。それも売ることを考えるという漠然としたタイトルです。具体的に何を売るかですが、それは様々なものです。とはいうものの、様々なものをカオスの状態で売ることを考えるのではなく、まずはアイドルにかかわるものを売る場合にどうすればよいのかを考えていこうと思います。まず、アイドル自身を売るにはどうすればよいのか、物品を売るにはどうすればよいのか。チケットを売るにはどうすればよいのか。私はチケットの売り上げとアイドル自身の認知度とは分けて考えております。認知度が高いからチケットが売れるわけではないのが芸能界であります。

 

ところで、これらのことを学問的に考えていこうとするのが私の狙いであります。実際の芸能界での商売のやり方は、アイドルをアイドルとして売る場合、テレビやラジオの番組枠を自主的に買い取り、制作会社に入ってもらい番組を制作し、それを放送します。また、二次使用にてネット配信などを行いながら世間様に存在を知ってもらい、ついでに公演のチケットを販売するというのが定番のやり方です。このやり方だといとも簡単に有名人になることが可能です。そこには私が以前に論じていたような「心の磁石」は必要なく、窮極的にはお金さえあれば有名になることは簡単な話であります。しかしそれは予算が十分に確保できる場合にのみ実行可能な方法でありまして、ほとんどの場合は低予算で見切り発車させますから、そこで戦略なり戦術が必要となるわけです。ちなみに、見切り発車でも売ることに成功し、現金を手にすることができれば自分で番組枠を買い、自分の番組を作り、自分自身をさらに売り込んでいくという好循環がうまれ、例えば、非常に長きにわたり芸能界で活躍している人などはこの手段で勝ち組に食い込むわけです。換言すると、芸能界で稼いだお金を芸能界のために使う構図となっており、総合商社が住宅を建設するときのお金の循環の仕方とよく似ております。ですから、芸能界で仕事を獲得するには芸能界に資金投下するしかなく、その投下する用の資金をどのように準備するかが成否を分けることになります。そして、最初の成功をもとに貯まった現金をプールすると仕事の量は減り、規模縮小となるのが芸能界であります。ただし、資金投下する量と人気の上昇が必ず相関するかといえば、例外もあり、事件や事故を起こすとお金とは関係なく仕事はなくなります。ここが難しい問題で、要は「金でものを言わせる」ことが不可能なところに芸能界の真の難しさがあり、お金は必要であるけれども、お金だけでは生き残れないのが芸能界であります。私が運営するニューイシューというバンドもそうなのですが、認知度が上がれば手数料収入(ニューイシューは国営バンドですから、売り上げという概念ではありません)が増えます。ところが、その収入をプールするということはどういうことかというと、ようは仕事をセーブすることになります。なぜなら、お金を貯めることは、逆に使わないことであるからです。簡単なことです。より大きく仕事をしようとするとき、入ってきた手数料収入をさらに使い、より大きな仕事をこなしていくというのが正解であり、そして認知度もさらに拡大するという構図です。

 

芸能界の裏話はここまでとして、では最初の一発目のブレイクをどのようにするかがものすごく重要となります。これもなぜかというと、基本的に日本人は知らない人の歌や踊りを見ることはありません。ところが有名になるとみてくれます。とすると、有名にならない限り見てもらえないという構図が完成するわけですが、これは実際に芸能界を経験したことある方には身に染みてお分かりだと思いま。、実際にこの現象は存在します。「有名=見たい!」、「無名=見ない!」です。世の中甘くはありません。このような常識が基本となる日本という国で芸能人として活躍するには相当な苦労が待ち受けております。でもやはり芸能界で活躍したいと思う方も多いでしょう。芸能界に入り込んだ初期段階では経営資源のヒト・モノ・カネ・情報、全てにおいて不足しております。では何を使うかですが、「頭」であります。頭は使っても減りません。しかも使えば使うほど状態は良くなります。ですから、まずは頭をフルに使うことを訓練してください。ところが、使用方法を間違うととんでもない失敗をするのもありますから、頭を使う基準というものをこのシリーズにて論じていこうとするのが狙いであります。

 

まず人は人気のない芸能人の芸を見ないか?について考えてみましょう。もし全世界の人がこのような状況だと芸能界は成り立ちません。ここでお分かりのように、人気がなくとも「素晴らしい芸」をすることにより振り向かせることができる地域があります。これが欧米諸国です。大道芸人が多いのもこの点にあります。ですから、芸を鍛えながらお金も入り、語学力もつきますから、欧米を旅しながら日本での活動資金をため、その資金で番組枠を買い取り、自分を売り込んでいくのも手段の一つです。しかしながら、その勇気がないという場合ですが、これは国内でどうにかしないといけません。しかし、「無名=見ない!」という土壌の我が国において、どのように最初の一歩を踏み込めばよいのか?が問題となります。これは一見すると難しい問題でありますが、理論的には存外簡単であります。ところがこの理論を実行させることができる「技術」が必要となり、これをいかにして習得するかがカギとなります。そしてこの方向へ話が向かうと、私のこれまでやってきた心理学の話を活かすことが可能となります。

 

本日はこれにて筆を置きます。続きをお楽しみ。ご高覧、ありがとうございました。

これまでこのシリーズを長く論じてきましたが、今回で最終とさせていただきます。次回よりまた別の問題を扱うことにし、個々の磁石を使い多くの人を取り込むことへのまとめを行っていこうと思います。これまたくさんのことを論じてまいりましたが、要点として、コンプレックス、元型、自我、布置、陰と陽の5点を全てミックスさせて考えることができればそれで事足ります。元型に関しては、最初にペルソナを活かし活動することを申し上げました。コンプレックスに関しては複雑なことを複雑なままに扱うこと、もし整理するのであれば布置論を使うこと、そして、それらを自我と統合させることにより完成するという一連のプロセスをもう一度思い出していただきたいのです。そしてこのいわゆる「個性化」なるものは陰と陽との絶え間ない混じり合いが必要であり、常に矛盾を生きていくということを示すものでありますし、ユング心理学的に解釈していくとそのような理解が必要となります。

 

芸術などのクリエイティブな職に就く場合、無意識からの作用が非常に役に立つことはよく知られている話です。しかしながら、だからといって、無意識のみを働かせると分裂の状態になり、統合失調症となります。統合失調症の患者が独り言をいうのはこの無意識からの対話であり、本人にとっては正常な状況であっても、通常の人からするとおかしく見えてしまうわけです。これを意識で蓋をすれば治るというのが深層心理学的な治療法の考え方であります。ですから、クリエイティブであればそれでいいわけではなく、現在の状況を自分自身で客観的に評価できる体制が必要となるのですが、これがいわゆる「自己」なるものでありまして、この領域になると神様的な存在となるわけです。これらのように、元型を作用させればそれでよいかというと、そうではなく、自我とうまく統合させていくことが必要であり、しかしながら、自我があまりにも強い人は逆に無意識との衝突もひどくなり、強い者同士のエネルギーの衝突が起こると次は「崩壊」へと向かいます。高学歴の研究者や公務員が事件を起こすのはこのようなことが原因であることが多いのであります。例えば、大学教授による学生や格下の教員への対応の悪い態度を吟味してみますと、そのような教授は非常に優秀であることが多く、換言しますとクリエイティブであるわけです。なぜクリエイティブかというと、自我を作用させすぎて無意識からの攻撃を受けておりますので、それでクリエイティブになっているのです。ところが、常に自我でそれを抑え込もうとするあまり人への対応もクリエイティブとなってしまい、結果としてその対応を受けた若い人たちは「いじめ」や「パワハラ」と感じるに至ります。ところが出てくる論文に関しては人気が出るので教授としての地位は高くなり、結果として有名な学者となるのですが、ついに無意識の作用が勝つと警察沙汰になる場合もあるわけです。気になるのは人への対応もクリエイティブとなる具体例なのですが、これは大学教授のイメージが悪くなると業務妨害となりますので実例はご想像にお任せします。但し、かなり「クリエイティブ(一般的な想像を超える多種多様な行動)」であることは間違いありません。

 

この例からしますと、大学教授というのは「教官」としてのペルソナを使っているのは一目でわかるかと思います。そして、意識的に詰め込んだ知識を駆使し、客観性豊かな論文を書いていくのですが、書いていく途中で無意識が意識の邪魔をします。どのように邪魔をするかというと、たくさんの本を読み実験をし、客観的なデータを取り込みそのデータが正しいと結論付けられた時、果たしてその結果が本当に正しいのかという不安になるのです。というのも、1+1=2であっても、リンゴ(1個)+バナナ(1本)=ミックスジュース(1杯)となるからです。いわゆる2という概念がミックスジュースと同じか?という迷いが出てくるのです。なぜこのような悩みが出てくるかというと、1+1=2は抽象的でありますが、リンゴ(1個)+バナナ(1本)=ミックスジュース(1杯)は具体的でありまして、そして結果として1杯となるからです。では掛け算すればよいのでは?と思われるかもしれませんが、2×2=4は1+1+1+1=4と同じことですから、結局のところ足し算も掛け算も大差ないといえます。手順の違いでありまして、具体事例からすると抽象的な概念に数値的なギャップが生じ、証明が不可能となることが度々現れます。私としてはここで意識のレベルを止めておけば面白い話をする教授としてもっと人気がでるものと思っているのですが、優秀な学者というのはこの数値的なギャップを埋めようとするあまりさらに自我を働かせ、無意識からの働きを抑え込み、ますますおかしな方向へ向かってしまい、最後には分裂を引き起こし、心の病に陥ってしまうのがお決まりのプロセスであります。

 

要は、上記の例が男性の大学教授である場合、アニマが抽象的な部分を穴埋めして具体性をもたせようとするサービス精神、要するに「アニマ」が強く影響していると思われのですが、これを男性的な自我が押させこむため、結果として「怖い教授」という結果になります。ではこのような教授が個人的な経歴からくる心のありかたを読み解くには彼のコンプレックスを見ないといけないのですが、優秀な学者に共通するのはやはり専門知識に対するあまりにも強すぎる感心であります。要するに、専門以外のことは若いころからほとんど経験しないので、コンプレックスに偏りがでておりまして、「世間知らず」な状況になってしまいます。これは日本の教育制度にも問題があるのですが、社会経験を積まなくても経営学者になれるような手厚い補助があるようでは偏りが出るのは当然であります。布置論からすれば、主体の内部と外部とのかかわりがあまりにも単調すぎて、もはや布置を考えるものでもない未熟な構造であることが多く、世間とのかかわりがもともと非常に少ないため、布置をも育てることもできず、よって、自分をどこに布置させられているのか、ないし「させるか」について考える必要もないため、せっかくのクリエイティブな作用も水の泡となってしまうのであります。

 

この事例から芸能人の皆様方に学んでいただきたいのは、「過猶不及也(論語、第六巻、先進編)」です。「中庸を越えると結局は及ばないのと同じことである」という孔子の言葉にあるように、陰と陽とのはたらきを大切にし、極度に偏らないのが「磁石」の働きであるように考えられます。磁石そのものを見ていただいてもお分かりになるかと思いますが、同じ磁石の+と-のどちらか一方の磁力が強いことはなく、同じであるように、磁石としての主体はそのバランスを保つことが磁石として存在する意味が出てきます。そして、磁石が磁石として機能することによりファンを獲得することができると考えることができ、よって、例えば元型とは何かのみを考えるのではなく、考えることと、そしてなにより「経験」を積んでいくことにより本当の知識を獲得していただきたいと思っております。では、その方法論とはいかにして成り立つのかを次回のシリーズへの課題とし、本シリーズを終えようと思います。

 

長きにわたりご高覧、ありがとうございました。次回をお楽しみに。

前稿ではタイプ論を使いコンプレックスなるものを吟味してみました。最近は中国哲学の論文も他のブログに入れておりますのでその関連と共に書いていこうと思います。また、これまでは書こうとしても書けなかった中国哲学の話を交え、話を進めていこうかと思います。また、私は中国哲学の分野で文学博士号を申請中であります。専門家に向かって一歩前進しておりますので、今後も変わりなくお付き合いいただきますと幸いです。中国哲学というと難しイメージがありますが、やはり難しくないといえばウソとなってしまいますから簡単だとはいいませんが、原理原則を理解できればものすごく簡単であり、単純であります。ユング心理学は中国哲学から大きな影響を受けておりますので、その意味で難しく思えますが、実はさほど難しくないことを知っていただこうと思うわけです。そして、人の心を引き付ける方法も実のところそれほど難しくはなく、これまではユング心理学のみを援用しておりましたので偏った説明となっておりましたが、今後は中国哲学の理論と共に芸能論を展開していこうと思います。

 

まず、そもそもコンプレックスとは何かといいますと、それは「複雑な状況」のことであります。もう少し翻訳しますと、「心全体」のことを表し、そしてその心というものは「複雑」であることを表現する単語であります。この状況がすぐに思いつけばもう一人前だと思います。この心のあり様が易経と似ておりまして、この易経と同時にユング心理学を吟味するとユングの言っていることがよくわかってきます。そして、なぜ私が「心の磁石」というタイトルにしているのかもよくわかっていただけるものと思います。そもそも中国思想というのは両面思考でありまして、例えば、優しい人が目の前にいるとすると、その人は必ず怖い面や恐ろしい面を持ち合わせていると考えます。怖い人が目の前にいればその逆を考えます。要するに、前面に何が出ているかが違うだけで、根本的に人は皆プラスの面とマイナスの面とを持ち合わせていると考え、これらが磁石のように引っ付くことで人間社会が成り立っていると考えるわけです。既に複雑ですよね。西洋や現代の日本であれば、ある人物の人格に関しては一面的にしか認めず、優しい人は24時間365日優しい人であることを求められ、何かの機会に怒鳴ったりすると悪人扱いされる始末です。これは心理療法家の常識と比較すると大きな間違えであり、このような思考が心の病を増やすものと思われ残念でなりませんが、ともすると、やはりバランスというものが非常に大切で、ここに「中庸」というキーワードが大切になってくるのです。

 

例えば、現在の芸能人はあるイメージで一貫性を保たなければならず、これが芸能人のサイクルの速さと、ブレイクの遅さを助長させるものと考えております。人間は誰しもプラスとマイナスの両方を持ち合わせておりますので、例えば、プラスの要素を全面的に前に出し、マイナスの部分を全て取り去った人間は、はらわたを取り去ったアユを食べるようなもので、一口目はいいかもしれませんが、二口目に続かないわけです。芸能人もこれと同じで、いい人の一面性だけでは芸能人としてやっていくには難しく、芸能人自身も辛いでしょうし、見ている側も同じく辛くなるかともいます。そして、共倒れになり、現在の芸能界の姿があるように思います。易経の「(泰)」がなぜ大吉なのかを考えてみればよくわかるかと思いますが、やはり、プラスとマイナスとのバランスがとれているからだと思います。然るに、陰と陽との組み合わせが坤が内卦で乾が外卦(否卦)ではなぜいけない?という疑問が当然のごとくあるかと思われます。私もそうお思いますが、そのような状況がすなわち、コンプレックスなのであります。そしてこのコンプレックスの状況からわかるように、コンプレックの解消というのは基本的にありません。よってコンプレックスに向き合い、心を納得させるしかありません。ここに個性化や自己実現という概念が投入されるのですが、まずは心というのは易経と同じように複雑だと考えてください。ちなみに、泰卦ですが、これは通常は吉でありますけど、男性が下で女性が上の状態です。そうすると、例えば、「父が土に還る」というように読むこともでき、状況によっては凶となる場合もあります。逆に、否卦が出たからといって凶になるとは限らず、「父、土から離れる」という解釈では、死神が去っていったと読むこともでき、これがコンプレックスの面白いところであります。要するに物事が複雑であるがゆえに様々なアプローチが可能であることを意味し、自然科学や社会科学のように唯一絶対の正解など存在しませんが、正解は正解として存在する世界というのが易経やユング心理学なのであります。

 

このように、引っ付きあう陰と陽との関係は、環境的な前提として「コンプレックス」というものが存在します。つまり、複雑な環境の中での陰と陽です。芸能界も同じことだと思います。演者がいて聴衆者がいまして、そこにスタッフもいます。聴衆者といえども十人十色で、一気に多くの人を取り込むにはどのようにすればよいのかについて、マーケティングでは顧客を分類するようなことをしますが、これは易経の考えからするとナンセンスでありまして、類型化しないところに真の分類が確立すると考えると、そもそも特定の人間を排除しませんから、多くのファンを獲得することができるという仮説を導き出すことが可能であります。60代の芸能人が10代の聴衆者を取り込むことも不可能ではなく、これができればビジネスとして本当の面白み、そして、お金ではなく、心底、仕事が面白くなると思われます。

 

ご高覧、ありがとうございました。

前稿では外向型と内向型の逆説を宿題としました。皆様方、良いアイディアはみつかったでしょうか。人間が二人集まればコンプレックスですから、1億人を超える我が国においては1億人分の大きなコンプレックスの塊であるといえます。皆様方、この複雑に入り組んだ社会に完全に自分を適応させていこうと思いますか?もし思っているのならばそれは無理な話です。それよりも、人間には様々な人間が存在するという認識の中で、自分は自分らしく生きていくというのが正解であるように思うのですが、いかがでしょうか?このような生き方を「個性化」、ないし、「自己実現」といいます。ですから、上述の私の意見をすんなりと受け入れられた人は個性化を意識せずに達成しているといえるでしょう。個性化とは何も難しいことはなく、この程度のものです。しかし、心と体のバランスが崩れている人にとっての個性化は非常に困難でありますから、この点を忘れずに個性化について考え続けていただきたいものです。

 

ここで前回の宿題への私からの解答ですが、タイプ論によると内向型と外向型は二律背反し、磁石のプラスとマイナスどころの話ではないと全稿では解説しました。これではユング理論として根底からおかしなことになるので、皆様方、不思議ではありませんか?と問いかけたわけです。タイプ論によりますと、人間というのは必ずしも外向型と内向型の両極に位置するわけではなく、外向型の人間には内向型の面も備わっており、逆に内向型人間には外向型の面が備わっております。これゆえに外向型の人間は外向型の人間と仲良くなりやすいという論理が通じるようになります。

 

ここまで理解できたところで、芸能人の話に話を移していきましょう。これも前稿において日本人のほとんどは内向型であるとの認識を申し上げましたが、これは学会での認識でもあります。しかしながら、芸能人は外向型でなければ難しい職業と申し上げましたが、では、外向型の人間が内向型の人間を取り込むにはどのようにすればよいかという問題がでてきます。しかしながら、これも存外簡単です。要するに、内向型の人間のことをよく理解し、できれば内向型の人間に接近すればよいだけのことです。幸いなことに外向型の人間は客体に依存する傾向が非常に高いため、内向型の人間に接近することは簡単であるはずです。この性質を利用すると簡単に内向型の人間を取り込めるはずです。逆に内向型の人が内向型の人を取り込むには難点がありまして、内向型の人間は非常に主観的であり、個人の世界に入り込む傾向が非常に強く、これが個人の殻を強化する傾向にありますので、実のところ、内向型同士が集まったとしてもまとまりを生みにくのが現実です。しかしながら、内向型の人間には外向型の一面があり、ようするに、無意識のレベルであこがれを持っている状態であり、ここに日本では少数派の外向型の人間を投入すると、一気に彼らを引き付けることが可能となります。

 

但し、このテクニックを使用できるのは内向型の人間に精通した外向型の人間のみであり、内向型の人はこの手段を使えません。内向型の人間が内向型の人間を集積させる方法はまた別にありますので、この件はまたの機会に行うことにします。ご高覧、ありがとうございました。

前回は人の精神状態を吟味する場合、まずは己の精神状態を知ることが大切だと論じました。自分と客体との相性が合わない場合、これは果たしてどこに原因があるのだろうかと考えることが必要であります。原因というような書き方をするとユング派から大変なおしかりを受けるのでもう少し詳しく説明しますと、原因は両者にあるというのが正解であります。

 

ここでまずタイプ論を使って吟味していきましょう。ユングはタイプ論において人間の心の基本的な構えとして「外向型」と「内向型」とに区分しました。ここに心的機能として、思考、感情、直観、感覚とに機能面を区分し、外向型と内向型のそれぞれに心的機能が加わり、合計で8つのタイプに類型化したのがタイプ論の概要です。まず、外向型の主たる特徴は、心が客体に向かって行くことであり、内向型はこの逆です。要するに、外向型と内向型とでは心のあり様が180度違います。ですから、職場で外向型の人と内向型の人が一緒に仕事をすることは難しく、生産性が上がりにくくなるという仮説を導き出すことができます。外向型の人はまずは客体に向かって心が進みますから、例えば、本に書いておることを忠実に解釈することが得意な人で、ゆえに、学者などが適職となります。但し、あまりにもこれが行き過ぎると、論文のデータの捏造などを行う傾向にあり、ここが欠点であります。逆に内向型は客体をとらえる際に、自分の心の内側にまで思いや印象を取り込み、あくまでも主観的に判断することに特徴があります。ですから、芸術家などが適職となり、欠点としては、非常にクリエイティブな割に、性格はネガティブとなってしまう点です。

 

ある日、職場の上司から2人でチームを組み、あるプロジェクトを行うことになりました。しかしながら、残念なことに、命令されたAさんは外向型、Bさんは内向型の人でした。心のあり様が180度違うわけですから初対面から意見が食い違います。そして両者ともにこのように思うのでした。「なんやこいつ?頭おかしいのとちゃうか?」。しかしよく考えてみてください。両者ともに心の基本的態度が異なるわけですから元々意見が合うわけがありません。彼らの意見が合うときがあるのか?というと、100%の確率でありえないです。もしそのようなことがあったとしても、それはどちらかが妥協をしている時であり、わだかまりがある状況の中での業務遂行となります。これはコンプレックスですね。非常にコンプレックスな状況です。では、この場合はどのようにすれば解決へと導かれるのでしょうか。源流をたどると外向型と内向型の従業員を平気な顔して組み合わせた上司にそもそもの問題があるのですが、心理学の専門的な知識を持った現場の実務家などほとんどいませんから、そこは目をつぶるとして、AさんとBさんの間でどのようにこの問題を解決するかといえば、まずは、Aさんは外向型の人間であることを自覚することから、Bさんは内向型の人間であることを自覚することから入っていき、お互いが180度違う心のあり様であるから、そりゃ、意見が食い違うのも当然だとお互いが理解するしかありません。しかしながら、お互いが自分たちが違う立場の人間であることを自覚できれば、コンプレックスが解消されるわけです。

 

これを芸能人に当てはめて考えてみると、芸能人というのは基本的に外向的な人間でなければなりません。客体に向かって走り続けなければテレビカメラは逃げていきます。しかしながら、日本人の多くは内向型の人間であるという学会の認識であります。ということは、まさにここで「矛盾」という状況に出くわすわけです。これを克服するにはどうするか?なのですが、これは理論では簡単なのですが、実践では難しいのです。結論から言えば、外向型の人間が内向型の人間を徹底的に知ることです。外向型の人間が内向型の人間になりきるくらいの覚悟が必要になります。そして、ここで重要なことにお気づきの方がいらっしゃるかと思います。それは、外向型は外向型、内向型は内向型というベストな組み合わせは、磁石で表現するとプラスとプラスとがベストとなる結論付けとになります。さて、この逆説をどのように解釈するのかを今回の宿題とします。

 

この論文を読んで何らかの参考にしている読者の皆様方は絶対に、一度はご自分でこの件について考えてみてください。予習は非常に大切です。次回をお楽しみに。