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芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

前回よりタイプ論を元にしてコンプレックスを論じております。そもそもコンプレックスとは何かについて解説を加える必要はないかと思いますし、これまでの私のブログのアーカイブスを参照していただきたいです。しかしながら、アーカイブスを参照すること自体が面倒だと考える人のために少しだけ解説しますと、「イラッ!」とくることがコンプレックスです。そしてなにより、「複雑な状況」のことをそもそもコンプレックスとユングは表現しました。イラッとくる原因が複雑だからコンプレックスと換言することも可能かと思いますが、厳密にいうと違います。やはり、複雑な状況のことが正しいかと考えられます。「イラッ!」は、複雑な状況が転じてこのようになると考えてただければ結構です。

 

さて、日ごろ生活していると、自分と合わない人に多く出会うと思います。そして、生きにくい世の中であると考える人も多いことでしょう。なぜあの人はあれほど怒るのだろうか?とか、なぜあれほどまでに矛盾点が多いのだろうか?とか、なぜあの人は自慢ばかりするのだろうか?などと思いうことは多々あるかと思います。これらの人が全て主体に対して「心の健康状態が健全な人」と思うからこそこのように思い悩むことがあるかもしれません。また、自分自身のコンプレックスに気づかず、全て相手の性格が原因だと考える人も実のところ多いです。このようなことから、心理学を学ぶ場合、ご自分の心理状態を正しく理解されていなければならないというのは前回の最後にお伝えしておきました。例えば、職場の人が、「私は昨日のディナーに高級ホテルのレストランへ行ったけど、そのせいで今週は厳しいわ・・・」といったとします。それに「イラッ!」とくる人は自分自身のコンプレックスに由来するものなのか、それとも、相手の性格と根本的に異なることが由来するからなのかについて客観的な診断が下せないと真実は見抜けません。

 

イラッとくる原因に本人由来なのか、それとも客体由来なのかについてですけど、前述の例を本人由来で考えてみると、高級ホテルの食事ができない、ないし、できたとしても年に1~2回の経済状況だとすると、イラッ!とくる可能性が高く、所得の問題があるにせよ、これは本人由来の原因だといえます。これとは逆に、客体由来のものだとすると、心的タイプの違いがイラッ!とさせると仮定できます。まあしかし、いずれにせよ、人間が二人集まれば十分にコンプレックスですから、組織という概念はそもそもコンプレックスだと仮定すると、とにかく、「世の中は複雑だ」とこころより納得させるほかありません。

 

ここでもう少し掘り下げて考えてみたいのですが、高級レストランで食事をした話を自虐的に話をする人に「イラッ!」とくる方、その状況をまずはよく考えていただきたい。そのように言っている人は社交のために自腹を切り、自分自身として非常に頑張った結果として、家計が苦しくなったといえるかもしれません。それを第三者的にみて「イラッ!」とくるようであれば、それはあなたのコンプレックスとしか言いようがありません。しかしながら、客体が相手に自慢しようと思いそのようなことを言っている場合、それは基本的な性格の違いが由来するものです。この点を十分に考慮していただきたいのです。ここで自分のコンプレックスに気づくか、それとも気づかづに自分の思いを通すかで大きな違いが出ることが出てくることは容易に想像できるかと思います。自分に原因があるのか、それとも客体に原因があるのか・・・とても難しい問題です。しかし、これが理解できない限りにおいて、心理学をマスターしたとはいえないのです。

 

この問題を企業の組織の問題に当てはめると、例えば、職場に「自分はできる人間だ」と信じる部下を抱える課長がいるとします。しかしながら実際のその部下の働きや実績は散々なもので、どのように接していけばよいのか非常に悩む人物がいるとします。その人物は高学歴かつ、有資格であり、独立して士業で生きていくことができる能力がある場合、この人物をどのように判断するかですが、近年ではこのような人物にはアスペルガー症候群と病名がついておりますが、実際にそのような人物を目の当たりにした時に、その課長はどこまで対応できるかが腕の見せ所となります。課長さん、あなたはアスペルガー症候群と正面から向き合えることができますか?そして、その症状を見抜けますか?という根本的な問題が発生します。これとは逆に自分がアスペルガー症候群であり、自分の意見と対立する意見をする人物を常に排除しようとしている現場の課長さんはいませんか?

 

次回より、主体と異なる人間とどのように接していけばよいのかについて論じていこうかと思います。最近は忙しくしておりましてブログの更新も不定期になっておりますができる限り更新をしていこうと思いますので、お付き合いの程、宜しくお願い申し上げます。

心の磁石と題して論じておりますが、簡単に言うと、磁石のプラスとマイナスがひっつくようにすれば人が集まるのではないかという仮説を説明するために長々と論じております。ところが、人の心は非常に複雑な構造をしておりまして、そう簡単にプラスとマイナスの関係にならないのが常です。例えば、企業にお勤めの方なら担当部署内の人と心から信頼できる人はどれくらいいるかというと、ほとんどいないのではないでしょうか。しかしながら、これを克服していくことに生きていく価値があるように思えます。また、芸能人に至っては見知らぬ第三者を味方につけていく技術が必要となり、これが芸能人生を大きく左右するものと思われます。ではなぜこれほど人間関係が難しいのかというと、個人の心の構造がそもそも複雑であり、その複雑な心が主体の周りに集まることにより、さらに事は複雑になります。ではどうするればこれを克服できるかというと、コンプレックスを知ることだと思います。コンプレックスとは複雑な様相を表現する単語ですが、ユング心理学でもその意味で使用します。複雑な様そのものを意味し、これを一つ一つ整理し、統合化することをコンプレックスの克服といいますが、この方法をこれから見ていこうと思います。

 

例えば、内向型のAさんと外向型のBさんが一緒に仕事を行おうとします。内向型と外向型は対照的な性格なので一緒に仕事するには不向きです。なぜなら、意見が合わないからです。しかしながら、一緒に仕事を行わなければなりません。どうでしょう、複雑ですね。AさんとBさんとが出会った時点で一つの組織が出来上がっておりますが、この組織は仕事がはかどらない組織であり、この組織に名前をつけるのであれば、「性格対照コンプレックス」となるでしょう。Aさんから見れば外向型コンプレックスの組織、Bさんからすると内向型コンプレックスの組織となり、主体の立場によりコンプレックスに違いがでており、これがより一層強いコンプレックスを形成します。頭の痛い話ですね。

 

組織であれば組織の枠内でことは済むとはいえ、かなり複雑なことになりますが、まだ限定的であるといえます。しかし、芸能人となると話はさらに拡大し、見知らぬ客体と接していかねばなりません。例えば、アイドルなどは物販の時にファンと直接対話しますから、そこでこのコンプレックスはより複雑なものとなります。例えば、あるアイドルの態度が外向的で、そのファンの態度も外向的であったとしても、機能面で違う場合が多々あります。外向的感情型のアイドルと外向的直感型のファンが出会ったとき、これも対応が難しくなります。このように、芸能人は無限大のコンプレックスの中で生きていくことを余儀なくされる職種ですから、非常に神経を使う仕事であり、また、人間の心理状態を瞬時にして把握しないといけません。また、ここが重要なのですが、客体の心を理解するだけでは不十分でありまして、主体の心も十分に理解できていないと相手の心の状態などわかるはずもなく、したがって、自分の心の状態をどれほどまで理解できるかが重要になってきます。

 

コンプレックスの克服には自分を知ること、そして相手を理解することの両方を行っていかねばなりません。この方法を次回より解説していこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

前回は今シリーズの5シリーズ目における設問の二番目を論じました。今回は最後の三番目の設問を論じていこうと思います。その設問ですが・・・

 

有名になるまで時間がかからないか。

 

これは切実な問題ですね。実務家の人から特に強く質問されるのがこの、「短時間で簡単に・・・」であります。これまで述べてきた方法は私からするとものすごく簡単な方法であり、なぜできないのか不思議に思うのですが、心理学に免疫のない人々にとっては難解で時間のかかることであると感じております。ではなぜそうなるのかですが、ユング心理学というのは心理療法の現場から生まれてきた理論ですから、心がおかしな状態になっている人を直視し、その原因を探っていかなければなりません。また、教科書にはその方法が詳しく書かれております。しかし、その教科書を読んで勉強する人は健常者であるため、ここにねじれが生じ、よほどのことがない限り理解ができない状況となります。換言しますと、「気のおかしい人の気持ちを健常者が理解し、気持ちを正常な方向へ戻してあげる」という覚悟が必要となります。これができれば短時間で立派な芸能人になれるかと思います。

 

これとは逆に、そのようなことはやはり無理だと感じる人には無理でしょうし、心理学の勉強をすることに対して気は進まないものの、有名になりたいがゆえに心理学の勉強をしていこうとする人も時間はかかるでしょう。私が提唱する方法で時間のかかる人のもう一つの特徴は、自我が強く作用している人もその傾向にあるように思います。有名になりたいという自我が強すぎてコンプレックスや元型をうまく利用できないような人は結局のところうまくいかないことが多いです。要するに、自我が答えとなってしまいますから、自我の赴くままとなってしまい、これまでの経験や集合的な没個性化を組み込むことができず、いわゆる「孤立」という現象が起きてしまいます。簡単に表現すると、ただ単なる「目立ちたがり屋」になってしまいます。こうなると再起することはかなり困難となるでしょう。

 

では、心理学の臨床の経験がない人がどのようにして成功をつかみ取るのかですが、これはただの一点を貫くしかありません。それは「勇気」です。これまで何度も指摘しておりますが、ステージに立つときは主体と客体との作用が非常に重要となります。具体的な内容は何度も論じておりますが、ここでもう一度、復習をしてみたいと思います。

 

1:まず、ステージに立つ主体は客体に対して「同化」しないといけません。これは換言すると「没個性化」であります。これができなければ客体は受け入れてくれません。当たり前の話ですが・・・

 

2:次に、ステージにたつ主体は客体の個性を否定しなければなりません。換言すると個性的な主体といいます。これも当たり前の話ですが、客体と違うから客体は主体を観覧しているわけです。客体と主体が全く同じであれば、わざわざ会場にまで足を運ぶ必要はありません。

 

3:客体を軸にステージを見るとこれと逆のことが起こっておりまして、個性的な主体を見たいわりに、心理的には閉鎖的な状態です。要するに、受け入れ態勢に関しては閉じられている状態です。ゆえにステージに立つ主体はこれを打ち破っていく行動に出なければなりません。

 

そして、ステージに立つ人や、それ以外の人でも、政治家にしても企業の営業の人なども含め、外に出ていこうとする職種の人が特に気を使わないといけないのが、1の話です。特に芸能人は目立ちたい人が多いがゆえに、「没個性化」に対して異常なほどの恐怖心を覚えるものです。人前に出ていくことが得意なのは理解できますが、その気持ちをコントロールし、没個性化しない限り、マーケットは解放されません。非常に勇気がいることで、芸能人によっては恐怖以外の何物でもないでしょうけど、覚悟をもってやるしかありません。没個性化が大きなキーワードです。

 

次に、人前に出ることが苦手であるにも関わらず、有名になりたいという人ですが、これについてはまずは人前に出ていくしか方法がありません。これも勇気がいりますね。このような人に必要なのは打たれ強さでありまして、前述の人前に出ていくことの得意な人と逆の行動をとらねばなりません。ですから、まずは独りよがりになることから始めてみてはいかがでしょうか?勇気がいりますが、そこは我慢して耐えるしかありません。頑張りましょう。

 

前述二つのタイプの人に共通するのは、やはり自我が強い人です。頭でいろいろと考えすぎるがゆえにステージがうまくゆかない人の典型例であります。人と違ったことをやる・・・それが差別化・・・なのに売れない・・・という芸能人の方、一度ご自分の心理状態を見直してください。道は開けていくはずです。

 

このように見ていきますと、難しいことはさておき、「勇気」をもってステージ上での「恐怖心」と対峙することができれば、私が提唱する方法で、短時間に自分を売っていくことが可能であるはずです。但し、何度も繰り返しますが、それには勇気がいります。そして、前述の主体と客体の絡みの例からお分かりのように、主体が恐怖と思っていることは客体にとっては「エンターテイメント」であり、要するに、主体が恐怖や恥と思っていることは主体が勝手にそう思っているだけの話であり、客体からするとむしろそれを受け入れる体制であることを主体は感じ取らなければなりません。もっと言うと、恐怖と感じているのは主体だけの話ですから、堂々とステージに立つことをお勧めします。

 

最後に、舞台での恐怖心(良くも悪くも)が無くなり、ある一定の評価を得られたのなら、あとは意識と無意識とのレベルの中庸を心がけましょう。これを繰り返すうちにユング心理学が手に取るように理解できるようになります。こうなると好循環です。面白いほどに人の心が読めてきます。そして、どのステージに立ってもお客さんは味方となってくれます。このように考えてみると、ステージ上でのパフォーマンスの方法は一瞬にして変えることができますが、それを変えることに対する意識を改革することの方に時間がかかるものと思われます。これは心理学的には「退行」という現象でありまして、意識的には何かを変えないといけないと思っていても、個人的無意識がこれまでの経験則からして新しい方法を否定するときなど、この退行が起こります。しかしながら、退行は長くは続きません。収まった段階であたらなる企画への実行へ移していきましょう。

 

以上で3つの設問を論じ終えました。ステージ慣れしている人は「没個性化」、ステージ慣れしていない人は「個性化(ここでは目立ちたい自分と解釈してください)」を意識することによって、時間短縮ができるのではないかと考えております。しかしながら、退行という心理作用があるため、これを逆算して事を進めることをお勧めします。退行は必ずしも起こるわけではありません。退行しない人なら、次回のステージでいきなり自分を180度変えることも可能であるはずです。

 

それでは、皆様方の幸運をお祈りします。このシリーズ、コンプレックスのシリーズはもう少し続けようと思います。来月をお楽しみにください。ご高覧、ありがとうございました。

このシリーズの5シリーズ目から急に高評価をいただいております。大変ありがたいのですが、書き手の私としてはなぜ高評価なのか全く理解できておりません。間違った理解をされている方も多いかと思いますので、本題に入る前に、コンプレックスについて、概要的に復習しておこうと思います。また、コンプレックスについて詳しく書かれた書物として、下記の文献を参考にしていただきますよう、お願いします。

 

河合隼雄 『コンプレックス』 岩波新書

 

コンプレックスというのは、主体の内面(個人的無意識と集合的無意識)での出来事と外面(現時点で起こっている事実)での出来事が複雑に絡み合っている状態のことを意味します。ゆえに「コンプレックス」です。ここで重要なのは、主体の外面が複雑に絡み合い、それに混乱することがコンプレックスではありません。例えば、企業の外部環境に対するコンプレックスのことを経営学者のマイケル・ポーターは、「クラスター」と表現しましたが、これはコンプレックスとよく似た概念でありますが、企業の内部環境のことが事業ドメインの範囲でしか語られておりませんので、コンプレックスの概念とは全く違いますし、ゆえに、理論の展開が浅くなっております。これで大まかにお分かりになっていただけたでしょうか?このコンプレックスをきれいに整理したものが「布置」となります。厳密にはコンプレックスそのものも布置に含まれますが、分析の手段としての布置を考える場合、整理されたものと考えても差し支えありません。そして、このコンプレックスは個人的無意識となり、これが個人の特性を定義していく重要な無意識となります。

 

先ほどは主体の内面に個人的無意識と集合的無意識を含めましたが、一般的にユング心理学においてのコンプレックスは個人的無意識に由来するものであります。しかしながら、人間長い間生きているあいだに心の内面において集合的無意識が個人的無意識に作用し、そして自我との葛藤を起こすことも多々あり、ゆえに、「内面」という場合、集合的無意識も含めることになります。ここが難しいところです。臨床の経験がない方にとっては超難解であるでしょうけど、ここを理解できない限り、先に進むことは難しいです。では、個人的無意識とコンプレックス、さらに布置の違いは何か?となりますが、この議論については結論が出ないわりに、はっきりした結論がありまして、これは臨床経験がない限り理解不能であるとご理解いただければ幸いです。これがユング心理学であります。先んず、私が先ほど行った定義に沿って考えてください。

 

今回は二つ目の問題、 「主体と客体の個人的無意識と地域コンプレックスという対立概念を克服できるのか」について吟味しようと思います。

 

例えば私は大阪の出身で、その他関西圏でウロウロしましたが、成人するまでの成長期において関西で生まれ育ったがゆえに、関西以外の地域についての生活習慣や慣習を何も知らずに育ちました。これが私の経験であり、その経験がコンプレックスとして形成されていったのであります。これはすぐにご理解いただけるかと思います。これがさらに深い集合的無意識の領域に分け入ったとしても、関西人としての「ペルソナ」を身に着けたことになりまして、ここに集合的無意識と個人的無意識が融合を果たします。これはものすごくわかりやすい現象であるかと思います。しかしながら、そのようなことを意識して生きているわけではなく、何となく過ごしているだけでもそこに「関西人」という自分がいるわけです。また、それに気づかずに生活しているがゆえに個人的無意識と集合的無意識は「無意識」であるわけです。逆にこれを意識化し、ステージで披露しているのが田中誠一と内村宗子という人物でありますが、これはコンプレックスを布置し、さらに意識化し、外部環境に適応されている状況のことであります。簡単に表現すると、意識的に「精神を分裂させている」状況であり、意識的な統合失調症を人工的に生み出している状況であります。これはあくまでもステージで芸を披露しているときだけのことであり、日常の生活ではその逆となります。要するに、どの地域で主たる生活を送っているのか、客体は全く理解できない状態になります。その証拠に、私たちはいつも、当日にライブを行う地域の住民であると思われております。例えば、名古屋でライブを行うため名古屋のライブハウスに入り、そこで仲良くなったミュージシャンのほとんどは私たちのことを「愛知県人」と思うようになります。

 

では、関西人コンプレックスをと東海人コンプレックスとの融合ですけど、地域や文化的には東海と関西ではかなりの違いがあります。しかしながら、それも含めて日本であると考えてみると、日本も広いと考えることができ、融合は可能であると考えることは可能です。原理的には、ここでは個人の経験ではなく、「ペルソナ」という非常に未分化、原始的、ないし集合的、没個性、これを一般の方にわかりやすく表現すると、関西という「わかりやすい仮面」をつけながら、私の個人的な経験を交えることにより、「没個性でありながら個性的」を表現することが可能となります。もう少し突っ込みますと、「集合的無意識×個人的無意識」という状況になります。ここに外部環境、ステージが名古屋であるならば名古屋コンプレックスと私の自我と、先ほどの「集合的無意識×個人的無意識」をどのように組み合わせるかの問題が浮上しますが、自我は名古屋コンプレックスと「集合的無意識×個人的無意識」を個別に認識しております。つまり・・・

 

名古屋コンプレックス(客体)

自我(主体)

集合的無意識×個人的無意識(主体)

 

上図のような格好となります。ただでさえも主体の無意識と自我とが分裂しているときに、名古屋コンプレックスまでもを取り込むことは至難であり、また、このようなことを一般的には「神業」と表現されることが妥当でありましょう。しかし人間というのはこれも修行次第で可能となります。この外部環境と分裂している内部環境とを統合させるのが「自己」であります。感じるのは自我しかありませんから、厳密には分裂した無意識と自我とを統合させるときに出てくるのが自己でありますが、ステージ上ではそんなゆっくりとしたことは許されず、そこに外部のコンプレックス、ここでは名古屋コンプレックスを統合させることが必要となります。ここで「自己」に登場していただき、分裂した主体と客体とを統合する作業を行っていきます。原理的には、自己により自我と無意識とが統合されている場合、それで既に個性化されていますから、名古屋コンプレックスとは大きな差別化が図られております。また、名古屋コンプレックスは関西コンプレックスとは大きな違いがあることが最初から分かっているわけですから、最初から違いを求めているものの、あまりに大きく違いすぎると受け入れを「拒否」せざるをえなくなりますが、関西コンプレックスをもつ主体はペルソナを意識化できているので、それが人間として生きていくための仮面であること(没個性化)を名古屋コンプレックスに知らしめることが可能となります。ここで、名古屋コンプレックスは、「人間は万国共通」と認識してくれますから、むしろ、「主体と客体の個人的無意識と地域コンプレックスが対立していたほうが、物事はうまくゆく」となります。

 

また、話している内容に老賢者的な要素、換言すると、妙に深い話に聞こえるのも自己による統合が行われているためでありまして、それゆえに、ただ単に深い話をすればいいわけではなく、そこには分裂と統合の作用が働いていなければなりません。では、地域コンプレックスとは何かが大きな問題となりますが、これについては私のもう一つの「実学道」のブログにおいて解説を進めていこうと企画中です。

 

今回の話も難しく感じるかもしれませんが、ポイントは「中庸」であります。偏ってはいけません。バランスが大切なのです。この点に注意し、マーケティングを考えていくと成功への道も開けるのではないでしょうか。今回はこれまでです。ご高覧、ありがとうございました。

中身のある人間とよくいいますが、これは本来的にどのようなことを意味するのでしょうか?ということを考えたことがあるでしょうか?という二重の質問を投げかけているのですが、勉強はできても人間的にダメとか、高い社会的地位にいながらにして嫌われている人物というのをよく見かけるかと思います。また、企業にお勤めの方ならば、上司が中身のない人間だと感じている人も多くいるかと思います。この「中身」ですが、これを心理学的に翻訳すれば、個人的無意識となります。これが実際に自我の方へ作用しだすと「コンプレックス」となるのですが、要は、主体の個人的な履歴が蓄積されているのが個人的無意識となります。人間は生きているとそれなりの履歴は蓄積されていきますが、ただ単に生きているだけでは「豊かな」履歴は蓄積されません。勉強だけを行い、それ以外のこと、例えば、自然科学者になろうとしているにもかかわらず、自然に接したこのない学者や、経営学者であるにも関わらず、企業経営を経験したことがないなど、このような経験不足であるにもかかわらず高い地位にある人はこの世に大勢いらっしゃいます。このような方々が一般の人の前に立つとき、多くの人は、「?」という印象になるかと思います。言っている内容はわかるが、言葉が軽いという印象です。しかしながら、その人は自分たちより上にいるのはなぜか?と疑問に思うことも多いかと思います。この原理については、要は経験不足、個人的無意識の層が成熟していないからであるといえるのですが、このシリーズを終えてからじっくりと説明することにして、今回は実践的なコンプレックスの活用法を解説してまいります。

 

前回はいろいろと論じた後に3つの課題を提示しました。本日はそのうちの1番をやっていこうかと思います。その課題を引用しておきますと、

 

一番最初の布置は正味の身内を使うことができても、他の地方ではどうするのか。 

 

前回は芸能人として自分自身を商品化し、売っていくにはどのようにすればよいのかについて、心理学的に考えてみたのですが、そこで活用すべきは「布置」であると述べました。布置というのはここで経営の実践の言葉で言い換えますと、「パッケージ化」となります。要するに、主体と身内と身内以外のファン層を一つにまとめパッケージ化することにありまして、このパッケージ化したものを他の地方へ売り込んでいく形になります。地元では有名であっても他の地方へ行くと無名となりますから、地元以外では一から信用を築かなければなりません。しかしながら、そのような時間はありませんから、あらかじめパッケージ化された信用を他の地方へ持ち込み、一気にファンを取り込むという作戦を行えばよいかと思います。企業であれば、融資を受ける際に預金通帳の原本が提出書類の中の最重要書類となり、最大の信用となりますが、芸能人はファンの数で勝負をすることが一番の信用となります。では、その地元のファンの数を他の地方の人に証明するにはどうすればよいかといえば、これは、まず、演技や演奏が他の演者と比較してズバ抜けてうまいことは基本的なこととして、重要なのはそれ以外に、ネットやマスコミに情報を公開しないことであります。

 

これは通常の考えとは逆の考えで驚かれるかもしれませんが、最初に演技や演奏を見てもらう場には目の肥えた人しか集まらない場所となります。演技や演奏にあまり興味のない一般層にいきなり見てもらうわけではありません。ですから、演技や演奏の善し悪しは一目見れば判断してくれますし、また、場慣れしていることも瞬時に見抜いてくれます。そして、そのような状況となった時、当然のごとくネットで情報を調べようとします。ところが少しの情報はあるものの、ほとんど情報が出てこないとなると、明らかに何かがおかしいことに気づいてくれます。「非常に高い技術をもち、場慣れしているにもかかわらず、情報が出回っていない」となると、そこにいるプロたちは次にこのように考えます。

 

「きっと、多くのファンがこの人たちの情報を出回らないようにせき止めている。そのくらいに強いきずなと多くのファンを取り入れている」

 

このように判断してくれます。これが信用となり、他の地方での「布置の核」となるファンを獲得できるようになります。この核となる布置を拡大させ布置を大きくし、それなりに成長したところで次の地方へ巣立っていくというサイクルを繰り返すうちに主体は大きくなるという構図です。

 

ではなぜネットに情報公開すると売れにくいのかというと、その人の「布置」が丸見えになるからです。これまで私の論文を全て通読している方ならお分かりかと思いますが、人間には表と裏が必ずあります。そして、人間関係にも表と裏があります。その「裏」の部分が見えないところに人間としての魅力が増すわけです。ですから、ネットですべてを公開するとその人の影やペルソナが全て剥がれてしまい、人間としての魅力がゼロとなり、逆に信用がなくなり、売れにくい状況を作り出してしまいます。例えば、全裸の警察官を考えればよくわかります。全裸の警察官と制服を着た警察官がいて、道を教えてもらうのにどちらの人物に尋ねますか?ということです。ファン層の布置という問題でいえば、表立って宣伝をしてくれるファンがいるなかで、主体をしっかりと守ってくれる、縁の下の力持ち的なファンがいる状況の中で、では、その縁の下の力持ちなるファンを一目見てみたいと思うのが人情であり、こうなるとファンもタレント化し、ともに仕事をするパートナーとなり、より良き関係を構築していくことが可能となります。

 

まず、地元で成功し、それなりの評価を得ることができたのであれば、とにかく、必要最小限の情報を流すにとどめ、ファンにもその旨を伝えておくことが必要です。例えば、バンドのホームページは作ったほうが良いです。しかしながら、細かなライブの情報や活動履歴などは隠しておいたほうがよく、ファンがツイッターで情報を拡散するなどはご法度であります。このように厳重な体制をひいても情報が拡散される場合、ご自分の個性が足りなかったということになり、また一からやり直しとなりますが、失敗は成功のもとともいいますから、成功するまで根気強く頑張りましょう。また、この方法はまず、地元で成功する必要があります。これから何か事を起こそうとする人にはこの方法を使うことはできません。しかし、これから事を起こそうとする人は土台が真っ白ですから、そこを活用し、情報の流し方に細心の注意を払いながら活動を行えば、後の行動が楽になります。

 

以上が前回の課題の一番目に対する回答です。一言でいえば、主体にも集団にも「表と裏」を作ることが大切であるということです。逆に地元では表も裏もありませんから、他の地域で活動するときに表と裏を作ることがとても難しく感じるでしょうけど、例えば私を見てください。学者という表の顔とミュージシャンという裏の顔、そして裏の顔を知る人は私のファンしかおりません。このように、常に表と裏の二重構造を意識し、活動していけば新たなる道を開いていける可能性が高くなるかと思います。

 

次回、来月となりますが、残りの二つの課題について解説をしていきたいと思います。ご高覧、ありがとうございました。