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芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

回を重ねるごとに難しくなってきておりますが、お付き合いをよろしくお願いします。それとともに、IQプロジェクトが始動したということで、おめでとうございます!遅ればせながらお祝いを申しげます。LinQ本体の規模はかなり縮小されましたが、LinQを去っていったメンバーの分も頑張っていただきたいと思います。今後も継続して応援致しますので、素敵な舞台を今後も見せていただきますよう、お願いします。

 

話を戻しまして、前回はコンプレックスとマーケティングとの関係を解説し、コンプレックスの重要性についてご理解いただけたかと思います。これは私の実学道のブログにも並行的に述べておりますが、個人的無意識やコンプレックスがあるがゆえに、全ての人間を一人の人間が取り込むことは不可能であると結論付けております。もしある人物が全世界の人々を支配できるようになれば、とんでもない世の中となってしまいます。これができないようになっている仕組みを心の問題として取り上げたのですが、しかしながら、ある一定の枠の中ではすべての人を取り込むことは可能です。例えば、家族はどうでしょう。家族の中の誰かが芸能界デビューしようとしているとき、家族全体が反対することもあるでしょうけど、多くは家族全体の支持を受けるものと思われます。そしてCDを売ろうとするとき、友人知人の手を借りようとするでしょう。そこに家族の友人知人や親戚の友人知人と広げていきますと、かなり大きな支持層へと広がります。ところが、血縁関係を離れてCDを売ろうとするとき、急にCDは売れなくなります。なぜならば、人間関係が切れているからです。その切れている人間関係を作る際に重要となるのが「布置」であります。ここでの布置は「グループ」と置き換えてもいいでしょう。

 

布置という考え方を導入するときに大切なのは、外面と内面の両方を考える必要があることです。心理学的には意識と無意識の両方を分析することにより、心理状態を吟味していくのですが、これを芸能人の布置というものを考えていくとき、該当する主体の芸能人の血縁者や知人友人といういわゆる「身内」の状況と、それ以外の第三者の状況とを同時に考えなければなりません。地方のアマチュア芸能人が陥る失敗の多くは、ただ単なるグループを作り、身内の数が増えたことに「人気」を感じ、そのまま東京へ出ていき、失敗する例です。この場合、身内以外の支援者を増やすことを考えず、外部環境を全く無視した結果としての失敗ですが、芸能人が生まれ故郷へ戻っていく例のほとんどはこの例です。では、どうすればこれを防げるかというと、地元において身内以外のファンを増やすということです。地元だからといってすべての人が身内であるはずはなく、身内から外れた地元のファンを増やすことが大切となってきます。理由は簡単です。人間の心は意識と無意識からなっておりまして、これらがバランスよく統合されたときに個人としての力を最大限に発揮できます。これをファン獲得に当てはめると、地元の身内のファン以外に、主体のことを第三者的に見ることができるファンを取り込み、このファンと身内のファンが統合されたとき、芸能人として最大限の力を出すことができるという仮説です。少なくとも私はこの方法で各地のファン層を増やしていっております。

 

このようにすると、規模は小さいながらその枠の中では占有率100%の状況を作ることが可能であると考えております。そしてこの占有率100%の布置を増やしていくことにより、全国制覇を狙うというのが私の目論見です。ここで問題となることも多く見ることができますので、それをご紹介しましょう。

 

1:一番最初の布置は正味の身内を使うことができても、他の地方ではどうするのか。

2:主体と客体の個人的無意識と地域コンプレックスという対立概念を克服できるのか。

3:有名になるまで時間がかからないか。

 

以上の3つに集約されるかと思います。特に1と3は芸能人を目指すうえで気になる部分だと思います。しかしながら、1を克服できれば3は気にすることはありません。戦術的には台風や竜巻とよく似た原理をつかいます。一つを巻き込めばあとはスパイラルし、地域を回れば回るほどに自分の力は拡大していきますから、逆に時間の短縮へつながります。

 

今後説明する方法をうまくつ使いこなすことができれば有名になるまで1年くらいです。しかも、ほとんど苦労することもなく、お金も使うことなく、想像を絶するスピードで有名になることができるはずです。但し、繰り返しますが、今後、私が説明する方法をマスターできればの話です。ところが、一気に全国展開を実現させるとマスコミは主体が苦労している姿をくみ取ることができないため、見せ場がなくなるのが弱点ですが、今後は私が実践した、また、実践している全国展開への方法をご紹介していこうかと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。

前回はコンプレックスが人の好みに大きく作用していることの概要をお伝えいたしました。また、元型と自我との作用についても言及しました。元型と自我とが作用することにより、人間はかなりクリエイティブになれることがわかりました。しかしながら、非常に苦しむことも理解できたと思います。そして、クリエイティブなその考えは誰しもが一度は通過する道であり、芸術家や哲学者、芸能人のみが歩む道ではないこともご理解いただけたと思います。換言すると、最近では身近な存在となった芸能人は、常に、その苦しい環境下に置かれており、その苦しいのを「苦しくない」ように見せる努力をするのが芸能人でありまして、そこで生まれる強烈なエネルギーを見る側が感じ取ることにより、両者の関係が成立しております。要するに、芸能人に自分の内なるものを投影しているわけです。

 

ここで芸能人が深く考えなければならないことは、芸能人を見て投影している客体があり、その投影され方によりファンの数が決まると仮定することが可能であるということです。ここから考えられることは、では、どのような投影をしてもらえるかについてを真剣に考えなければなりません。芸能人が考えるべきマーケティングとは客体の心の中のマーケットを知ることであるところがまた面白いのです。マーケットを知る一番簡単な方法は、元型を投影してもらうことですが、元型というのは全人類に共通でありながら、それゆえ、あまりにも元型を出しすぎると逆効果となります。なぜなら、全人類に共通するほどに「単純」なものだからです。ここに少しひねりを加えるためには「コンプレックス」を使うのがいい方法であります。ここでは心の3層を個別に語っておりますが、実際は、元型が自我に作用するとき、コンプレックスに自動的に影響することが多いです。ここで、元型が脚色され、「好み」が発生してきます。要するに、全人類を取り込むことが非常に難しくなるわけです。考えてもみてください。ある特定の人物が世界を操るようになると大変な事態になりますし、またそのような人物はこれまで現れたことがないことを見ると、世界征服などできないような心理的システムが人間には備わっていると考えて良いでしょう。これが性善説と性悪説のどちらに偏っているかについて私は言及しませんが・・・人間というのはよくできていると思います。

 

ところで、人の好みですが、私の親しい男性の友人のことを例に考えてみましょう。この男性は私と同じ年齢です。そして心身ともに非常に健康な人物です。家庭も持っております。彼は私のよき理解者であり協力者でありまして、これほどまでに心を通じる人物は実のところいないと思っております。しかしながら、女性を見る目については非常に異なっており、これがなぜかということですが、コンプレックスに由来しているとしか考えようのない現象を観察できております。

 

まず、彼は学生のころから一貫してある女優さんのファンでありまして、付き合う女性、それ以外の芸能人を応援するときも、常にその女優さんと似ている人であるのが大きな特徴であります。そして、その女優さんに似た人物が実際に目の前に現れると体が硬直したようになり、普段はよくしゃべる典型的な関西人なのに、とんでもなく緊張し始め、息苦しくなり、その女性が「嫌い」なのか?と思うほどの症状になるのです。そして第三者として私が存在するのですが、その女性は私からしてもとても美人で、そこにきて人柄も良ければモテるだろうなとは思うものの、それ以上の感覚に陥らないのです。ここが面白いところです。私の友人と私は共にその女性を「美人」と評価するのですが、私はそれ以上の感覚に襲われない、要するに、アニマを増大させることができないのですが、私の友人はそのアニマが極限の状態にまで引き上げられ、全身が硬直するに至るわけです。私はこの現象が若いころから続いていたことに長期間にわたり不思議に思っていたのですが、心理学の専門家を目指すにあたり、あれは彼のコンプレックスに由来するのでは?と考え始め、これまで彼が決して語らなかった事実を聞き出すことができたのでした。

 

一見すると彼はものすごく恵まれた環境で育ってきたように思っていたのですが、彼の母親は実の父親の再婚者であり、実の母親ではないと教えてくれました。そして、実の母親は彼が9歳の時に亡くなったとも教えてくれました。そこで私は問いました。それは、「君の実の母親は、君がファンである女優さんと似ているのだね?」というと、それを認めてくれました。要は母親コンプレックスが大きく影響していることが判明したのです。彼自身は母親コンプレックスを持っていることを当然、気づいていません。しかしながら、事実関係を整理すると、彼のアニマが母親コンプレックスと結びつき、それを自我が感じ取り、彼の女性の好みが固定化され、そこに「好み」が出てきていることを知ることができます。このように、人によりコンプレックスに違いがある分、好みも十人十色となるわけです。では、どうすればファンを一気に取り込むことができるのか・・・となるのですが、これは芸能人にとっては大きな問題ですね。

 

これは対象を個人に向けるから、個人に対する好みというのが出てくるのです。これを地域に対してとか、国に対してというように、対象の範囲を広げると、その問題は解決できるかと考え、今現在、私はその理論を実証するために動き回っております。

 

では、まだ仮説の域をでませんが、次回からはコンプレックスの対象を地域に拡大したときにどうなるかを考えていきたいと思います。ご高覧、ありがとうございました。

コンプレックス再考と題して進めておりますが、これはコンプレックスの応用編です。少なくともユング心理学においてのコンプレックスの概念はプラスにもマイナスにも作用する概念です。コンプレックスとは何かといえば、人間の経験や体験が蓄積された複合体であり、ゆえに、プラスに働くときもあればマイナスに働くときもあります。一般の方々はコンプレックスといえばマイナスのイメージでしょうけど、ではそのマイナス面はどに由来するのかというと個人的な経験や体験の記憶からくるものです。これを個人的無意識という層に蓄積され、この層が自我と作用し、様々なことが起こってくるのです。ここが面白いところです。現在の最新の心理学は人の行動を観察し、原因を与えることにより結果を得ようとするわけですが、実は、人間というのは個別に様々な体験をしておりますので、ある原因を投げかけたところで、十人十色の結果となり、それゆえに、数学的な結果、要するに、統一見解を見出すことができず、ひたすら迷い続けているのがまた印象的です。統一見解が見いだせたとしても元型が作用している時のみでありまして、結果としてユング心理学の精度の高さを裏付けるものとなっているのがより興味深いところです。

 

話はそれましたが、人間は人それぞれに個別のコンプレックスをもつ、翻訳しますと、人間は人それぞれに個別の経験や体験を持つがゆえに、好みも変わってくるのは当然のことです。元型論としては、男性には聖マリア的なイメージのアニマなるものが存在し、漠然と女性というものを意識できます。しかしながら、元型だけでは経験が伴っていないがゆえに具体的な人物像がイメージできません。そこで身近な存在である母親がその対象となるのですが、これがいわゆる母親コンプレックスを引き起こし、場合によっては病的にもなるのですが、それを克服するために様々な女性を観察することにより自分なりの女性像を、いわゆるアニマを育てることになります。アニマを育てていく過程、ようするに男性は女性に接近しようとして性格までも女性化させようとします。そしてそれが行き過ぎると精神的には本当の女性となってしまうのですが、多くの男性は女性と同化していく過程で男性性を取り戻すのです。女性は全てこの逆のプロセスをたどります。ほとんど神秘の世界ですけど、これがまた現実の世界でありまして、神秘と現実は表裏一体なわけです。

 

さて、様々な経験を経て先の男性はアニマを育てるのですが、そのうちに特定のイメージにたどり着きます。それはその個人の好みの問題となります。その個人の特定のイメージなるものがユング心理学では「象徴」といわれるもので、心の奥底から響く女性の声と現実の女性の声とが対決することにより、その例えようのない感情が一つのイメージとして浮かび上がってきたとき、それを象徴とユングは言ったのでした。では、この象徴がでてくるのはなぜかと考えた時、そこにコンプレックスが出てきます。ユング心理学は元型論であると思っている人も多いかと思いますが、実は違います。元型だけを勉強してもあまり意味がありません。心全体として元型を見たときに意味が出てきます。

 

ではそのコンプレックスはどのように生まれるのかについてですけど、これは基本的には個別の人間の個別の話となりますから、説明は困難です。しかしながら、食べ物についてなら少しばかりは説明ができるかもしれません。例えば、前回に九州地方の人が鯛かイサキかを選ぶときに、イサキに集合性を見出したことをしたためました。これが北海道に行くと事情は異なります。なぜかというと、九州地域においてイサキは日常的な魚です。要するに、イサキがたくさん捕獲できるのです。しかしながら、北海道にイサキは存在しません。ゆえに、イサキを知らない人も多く、このことからしても九州の人がイサキと鯛とではイサキを選び、北海道の人は鯛を選ぶというような構図が浮かび上がってきます。ただし、九州の人でも鯛が好きな人も多いですし、北海道の人でイサキを知らないがゆえに食べてみようと思う人もいますから、ひとくくりに地域コンプレックスをまとめることはできませんが、おおよそそのような傾向にあるというようにご理解いただければ幸いです。

 

このように、コンプレックスというものは人間の経験の蓄積が複雑に絡み合ったものです。そこから出てくるアイディアやイメージというものは年を重ねるほどに相当なものになり、ゆえに、年配の人を見て若い人は「老賢者」をイメージするわけです。実際には老賢者ではなくとも、見ているほうはそう感じるわけです。ということは、老賢者らしいペルソナに、老賢者らしい言動があれば人は真なる老賢者として見てくれることになります。ここでお分かりかと思いますが、元型の老賢者を働かせるだけでは真の老賢者にはなれないのです。そして、元型から自我までの全てが老賢者となれば見ている側は老賢者とみなすわけですから、芸能人としてはこの原理原則を活かさないわけにはいきません。ここで重要なのは、見た目も人間としての中身も一貫した状態でなければ見ている側は老賢者とはみなしてくれません。ですから、芸能人として大成したいのなら、薬物に手を出すのではなく、心を高める修行をすることが最も重要なことになります。

 

しかしながら、現実的には生きているうちに様々な元型がコンプレックスに作用し、自我との問いかけを図ってくるため、心を高めることは非常に難しいのですが、この難しいことをやってのけるところにプロか素人かの差が出てきます。プロの芸能人は自身の心を自在に操れる神的な存在でなけれななりません。ゆえに古より芸能人は神の祭事において欠かせない存在となっているのです。現在の芸能人はこのことを忘れていは行けません。江戸時代の日本には『役者論語』というものが存在し、芸能人の多くが読んでいたとされます。今一度、芸能人の心のあり方を再確認する時期に差し掛かっているのでないでしょうか。

 

話はそれましたが、要するに、人の好みにはコンプレックスが大きく作用することをご理解ください。そしてそれを大いに活用していくところに芸能人の仕事の面白みがでてきます。

 

次回はこの続きをやっていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

前回はコンプレックスを知ることの重要性を確認しました。ここで復習していただきたいのは、そもそもコンプレックスとは何か?です。この意味を知らずしてこれ以降の論文を読むことは不可能です。コンプレックスについては私が「実学道」のブログ、当ブログにて詳細に論じておりますので、そちらをご覧ください。その他、河合隼雄博士の論書も大変参考になりますので、そちらも併せてご覧いただきますよう、お願いします。そして、これ以降は基本的に、読者の皆様方はコンプレックスについて熟知しているものと判断し、話を進めていきますので、当ブログにおけるコンプレックスは既に「概念」になっていると解釈していただきますよう、お願いします。

 

ところでなぜコンプレックスの議論をさらに繰り返すように、それも「再考」と題しているのかですが、これまでの私の全てのブログにおけるコンプレックスの議論はコンプレックスのみに限定して論じておりました。実際には人間の心には元型なるものが備わっておりますので、それと自我との関連で本来は論じなければいけないのですけが、近年における、とりわけ、平成世代の方々は、大きな塊を塊のまま論じると理解できないような教育環境にありますから、実際にはありえない状況ではありましたが、コンプレックスのみを抜き出して論じてみたのでありました。これは大変な効果がありましたが、やはり副作用として、コンプレックス以外のことは何も理解できていない状況となっておりましたので、今後は「統合」という作用をそれこそ「個別」に強調しながら話を進めていくことが狙いであります。そこでひとつの問題を設定するのですが、その一つは前回にあげた問題、「 好みなるものはどこからどのようにして現れるのであろうか? 」をじっくりと考えてみたいと思います。

 

関西の皆様方、ポテトチップスといえば塩ですよね?北海道の皆様方、焼き肉よりもジンギスカンですよね?九州の皆様方、魚は鯛よりもイサキですよね?沖縄の皆様方、焼き肉よりもステーキですよね?

 

前述した各地方の食べ物に関する大まかな好みを表現したのですが、例えば、関西人の全ての人が塩味のポテトチップスしか食べないというわけではなく、関西の人々の多くはポテトチップスの塩味を好んで購入するという意味です。ポテトチップスに限定して話をしますと、私が全国各地を回って思うのは、塩味をあれほどまでに好むのは関西地方のみでありまして、例えば、九州の福岡県を例にしますと、関西地方では考えらえないほど多くの種類のフレイバーのポテトチップスが販売されています。これは九州の他の県においても同じことがいえ、さらには北海道でも沖縄でも同じことがいえますが、フレイバーの種類の多さは福岡県が他の都道府県を圧倒しており、同じ日本人でもここまで食べ物の好みに違いがあるのかと驚かされます。それと同じ趣旨のことを前述四県を代表例として記述したのですが、ではなぜそのような違いが生れるのか。しかし、違いがあれ、ポテトチップスの塩味は日本全国のみならず、世界中の人々が食べる非常に普遍性の高いフレイバーであるわけで、ここで「共通」と「違い」という対立概念が発生します。ここに元型とコンプレックスとを結びつけるヒントがありそうな気がするのですが、このブログの読者の多くはそのことよりも対立とは何か、すなわち、好きなのに好きではない状況とはどのようなことか?の方に興味があると思われますので、先んずこの件からやっつけようと思います。

 

例えば、関西や関東に生まれ育った人が鯛とイサキの両方のうち、どちらを食べるかですが、これは圧倒的に鯛でした。私の友人の内で調べた結果ですからサンプル的には非常に少ないのですが、鯛が好まれます。ところが、九州地区においては事情が異なりまして、イサキの方が好まれます。また、釣りが好きな人が仲間同士で釣りに行き、イサキが釣れた場合、こっそりとクーラーボックスの底の方に隠しもって家路につくとされていまして、要は、それほどまでにイサキを好む傾向にあるということです。かといって鯛が嫌いなわけではなく、鯛とイサキならイサキを選ぶというコンプレックスです。他方、関西と関東地区の私の友人はイサキが嫌いなわけではないが、鯛を選ぶというコンプレックスです。どの地域においても鯛もイサキも両方好きでありながら、一方を排除するようになります。これはまさに鯛とイサキで対立が起こっているからであり、「両方ともうまいながらもどちらか一方」という心の作用を見て取れます。では両方とも同じ程度に好きな場合、どうなるのかですが、このような状態の場合、人間の思考は停止します。心理学的には退行という現象です。そして停止したままの状態は、実は長く続かず、プラスの方向かマイナスの方向かのいずれかに舵を切ります。これを永久磁石で例えますと、永久磁石の、真ん中には磁力がありませんから金属は引っ付きません。しかしながら、永久磁石を磁力のない真ん中で切ると、たちまち磁極が現れます。このようにして常にプラスとマイナスという対立する磁極が一つとなっているのが特徴です。人間の心も同じで、対立しながらも常に一つであり、その対立の在り方が偏ると神経症となり、バランスが取れてれば問題はないとなります。

 

前述のことが要するに、「好きなのに嫌い」という状態を示すものでありまして、ある男性が女性のアイドルグループから、ある一人の推しを選び出せるのはなぜかと考えてみるとき、実に、前述の作用が働いているからではなかろうかという仮説が成り立つのである。では「好みの布置」の構造を次回に見ていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。

このシリーズも19回目となりました。私の実学道のブログがようやくコンプレックスを抜け出しまして、少し議論の幅に広がりが出てきましたので、こちらのブログもそれに合わせて幅を広げていこうと思います。いきなり専門的な話をしても共感を呼ばないと思いますので、少し基礎的な話から行っていこうと考えております。このブログでは既にペルソナを使った芸能人の売り出し方について詳細に書き綴った覚えがあります。しかしながら、コンプレックスとの関連をわざと空白にして現在に至っております。わざと空白にしておいたのは実学道のブログと歩調を合わせるためでありまして、ようやく応用編にまで時間を割くことができそうな気配となりましたので、コンプレックスとの関連における集合的無意識を意識しての戦略を考えていこうかと思います。また、経営学的にはゲイリーの論文を使用し、学術的な議論を既にこのブログにて行っておりますので、過去の記事を掘り起こしていただき、参照していただければ幸いです。私がリンクを張ればいいのですけど、ブログの記事は読み捨てるものだという思いがありますので、削除はしませんが、上位記事にする予定は今後もありません。ご了承ください。

 

まずこのシリーズは心の磁石と表現しているように、客体が主体に引き寄せられる原理を詳細に述べていこうとするものであります。また、芸能人として「売れる」という現象は上述の現象をさし、主体が客体に飛び込んでいく現象ではないことをこれまで何度も指摘してきました。原理的には元型というものが投影という作用を通じ、意識化されるプロセスがありまして、それ故にこのような現象となるわけです。逆に、主体は個人なわけですから、大勢の聴衆者の一人一人を吟味し、元型を投影させることは現実的に不可能であり、そのような理由から、客体にすべてを託す戦術に打って出ることが重要であるとの見解を示しているのであります。これまではここまでの話を行ってきました。その時は集合的無意識における元型を利用すべしとの結論を下していたと思いますが、ここに客体の個人の好みが入ってきます。この点についても併せて議論したと思いますが、では、その好みなるものはどこからどのようにして現れるのであろうか?また、いわゆるコンプレックスの問題として捉える場合、主体の生活基盤が大きくかかわるはずであり、そこに「地域性」なるものが存在するのではないか?さらには、それらがミックスされた場合、すなわち、元型とコンプレックスが結びついた場合の効果は?など、このブログにおいてはこれら三点について議論をしていく予定です。

 

ここまでで気づいた方も多いかと思いますが、ようは、深層心理学において元型は確かに大切な概念でありますが、元型だけで深層心理学の全てを語ることは不可能であります。元型で語れることは元型のことのみです。しかしながら、心とは三層構造をなしており、それらすべてを統合して初めて心でありますから、その意味で、元型と共にコンプレックスのことを詳しく知ることは非常に重要なことであります。そしてそのコンプレックスがどのようにして生成されるのか、また、その生成されたものに元型のようなパターンはないのか、つまり、類型化できないのかについても知っておく必要があり、ここに心の磁石の難しさがでてきますが、一度理解できると面白いほどに人に好まれるようになります。いわゆるスターというのはこの手法を心得た人々のことでありまして、そこから学ぶことも大切ですが、それ以上に、実行していくことの方がより大切なことになりますので、このブログを読んである程度の知識を得たのであれば、あとは実行へ移していただくことを願うばかりであります。

 

ところで、ずいぶん前にこのブログにてペルソナとの関連においてマトリックスを使い、ベンチマークをしていくことを進めるように書いたような記憶がありますが、その時はまだ基礎分野が進んでいなかったこともあり、自分の好みの、既に売れている芸能人をベンチマークするように書いたのですが、それよりももっと効果的なのは、相手のコンプレックスを刺激するコンプレックスを主体が認知することの方がより効果的であるという結論に至ります。これは説明するまでもないでしょうけど、元型とコンプレックスとの関連で概要をお伝えいたしますと、まず、客体のアニマかアニムスを主体が刺激することから事が始まるのですが、しかし、ここで客体の好みが出てきて、ふるいにかけられます。ようするに、見た目がいいだけでは売れないという根拠がここにあります。そこで相手の好みを探ることになるのですが、ここにおいてマーケティングの概念である「ニーズ」を頼りにしますと、逆にニーズはとらえにくくなり、ぼやけてしまいます。ニーズというのは個人的なことであり、個人によって違いがあるがゆえに、ニーズに特徴が出てくるというのは論理的につじつまが合わないのです。ニーズというものはユング心理学でいうところの自我とコンプレックスに該当する部分の総体でありますあら、個人的な考えの窮極的な有様です。しかもコンプレックスは不可視であり、自分では気づけないわけですから、調査対象となる人物はその個人的な考え自体、ごく一部しか気づいていないわけですから、そこから出てくる数値の変動というものは、ニーズのごく一部が表現されている、いわゆる、自我の部分に該当する部分が数値として現れているだけでありまして、その数値を信用すると、ごく一部のファンしか獲得することしかできません。では、より多くのファンを囲い込むにはどうすればよいのかというと、やはり布置を見分けることにより、相手の自我とコンプレックスを見抜いていくことが必要となるのです。

 

例えば、地方の個性化の議論にしましても、コンプレックスのみを分析のツールとするのでは物事の一部しか見ることができず、その地方の元型は何か、また、コンプレックスがどのようになっているのか、そのコンプレックスを見ることにより、リアルタイムでのものの見方、つまり、地方の自我について、それこそ集合的に見ていく必要があるように思いますし、実際に私はそのようにして地方を観察しております。

 

次回からはより詳細に前述の三点について吟味していこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。