心の磁力の活用(具体策 25 コンプレックス再考 7) | 芸能の世界とマネジメント

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このシリーズの5シリーズ目から急に高評価をいただいております。大変ありがたいのですが、書き手の私としてはなぜ高評価なのか全く理解できておりません。間違った理解をされている方も多いかと思いますので、本題に入る前に、コンプレックスについて、概要的に復習しておこうと思います。また、コンプレックスについて詳しく書かれた書物として、下記の文献を参考にしていただきますよう、お願いします。

 

河合隼雄 『コンプレックス』 岩波新書

 

コンプレックスというのは、主体の内面(個人的無意識と集合的無意識)での出来事と外面(現時点で起こっている事実)での出来事が複雑に絡み合っている状態のことを意味します。ゆえに「コンプレックス」です。ここで重要なのは、主体の外面が複雑に絡み合い、それに混乱することがコンプレックスではありません。例えば、企業の外部環境に対するコンプレックスのことを経営学者のマイケル・ポーターは、「クラスター」と表現しましたが、これはコンプレックスとよく似た概念でありますが、企業の内部環境のことが事業ドメインの範囲でしか語られておりませんので、コンプレックスの概念とは全く違いますし、ゆえに、理論の展開が浅くなっております。これで大まかにお分かりになっていただけたでしょうか?このコンプレックスをきれいに整理したものが「布置」となります。厳密にはコンプレックスそのものも布置に含まれますが、分析の手段としての布置を考える場合、整理されたものと考えても差し支えありません。そして、このコンプレックスは個人的無意識となり、これが個人の特性を定義していく重要な無意識となります。

 

先ほどは主体の内面に個人的無意識と集合的無意識を含めましたが、一般的にユング心理学においてのコンプレックスは個人的無意識に由来するものであります。しかしながら、人間長い間生きているあいだに心の内面において集合的無意識が個人的無意識に作用し、そして自我との葛藤を起こすことも多々あり、ゆえに、「内面」という場合、集合的無意識も含めることになります。ここが難しいところです。臨床の経験がない方にとっては超難解であるでしょうけど、ここを理解できない限り、先に進むことは難しいです。では、個人的無意識とコンプレックス、さらに布置の違いは何か?となりますが、この議論については結論が出ないわりに、はっきりした結論がありまして、これは臨床経験がない限り理解不能であるとご理解いただければ幸いです。これがユング心理学であります。先んず、私が先ほど行った定義に沿って考えてください。

 

今回は二つ目の問題、 「主体と客体の個人的無意識と地域コンプレックスという対立概念を克服できるのか」について吟味しようと思います。

 

例えば私は大阪の出身で、その他関西圏でウロウロしましたが、成人するまでの成長期において関西で生まれ育ったがゆえに、関西以外の地域についての生活習慣や慣習を何も知らずに育ちました。これが私の経験であり、その経験がコンプレックスとして形成されていったのであります。これはすぐにご理解いただけるかと思います。これがさらに深い集合的無意識の領域に分け入ったとしても、関西人としての「ペルソナ」を身に着けたことになりまして、ここに集合的無意識と個人的無意識が融合を果たします。これはものすごくわかりやすい現象であるかと思います。しかしながら、そのようなことを意識して生きているわけではなく、何となく過ごしているだけでもそこに「関西人」という自分がいるわけです。また、それに気づかずに生活しているがゆえに個人的無意識と集合的無意識は「無意識」であるわけです。逆にこれを意識化し、ステージで披露しているのが田中誠一と内村宗子という人物でありますが、これはコンプレックスを布置し、さらに意識化し、外部環境に適応されている状況のことであります。簡単に表現すると、意識的に「精神を分裂させている」状況であり、意識的な統合失調症を人工的に生み出している状況であります。これはあくまでもステージで芸を披露しているときだけのことであり、日常の生活ではその逆となります。要するに、どの地域で主たる生活を送っているのか、客体は全く理解できない状態になります。その証拠に、私たちはいつも、当日にライブを行う地域の住民であると思われております。例えば、名古屋でライブを行うため名古屋のライブハウスに入り、そこで仲良くなったミュージシャンのほとんどは私たちのことを「愛知県人」と思うようになります。

 

では、関西人コンプレックスをと東海人コンプレックスとの融合ですけど、地域や文化的には東海と関西ではかなりの違いがあります。しかしながら、それも含めて日本であると考えてみると、日本も広いと考えることができ、融合は可能であると考えることは可能です。原理的には、ここでは個人の経験ではなく、「ペルソナ」という非常に未分化、原始的、ないし集合的、没個性、これを一般の方にわかりやすく表現すると、関西という「わかりやすい仮面」をつけながら、私の個人的な経験を交えることにより、「没個性でありながら個性的」を表現することが可能となります。もう少し突っ込みますと、「集合的無意識×個人的無意識」という状況になります。ここに外部環境、ステージが名古屋であるならば名古屋コンプレックスと私の自我と、先ほどの「集合的無意識×個人的無意識」をどのように組み合わせるかの問題が浮上しますが、自我は名古屋コンプレックスと「集合的無意識×個人的無意識」を個別に認識しております。つまり・・・

 

名古屋コンプレックス(客体)

自我(主体)

集合的無意識×個人的無意識(主体)

 

上図のような格好となります。ただでさえも主体の無意識と自我とが分裂しているときに、名古屋コンプレックスまでもを取り込むことは至難であり、また、このようなことを一般的には「神業」と表現されることが妥当でありましょう。しかし人間というのはこれも修行次第で可能となります。この外部環境と分裂している内部環境とを統合させるのが「自己」であります。感じるのは自我しかありませんから、厳密には分裂した無意識と自我とを統合させるときに出てくるのが自己でありますが、ステージ上ではそんなゆっくりとしたことは許されず、そこに外部のコンプレックス、ここでは名古屋コンプレックスを統合させることが必要となります。ここで「自己」に登場していただき、分裂した主体と客体とを統合する作業を行っていきます。原理的には、自己により自我と無意識とが統合されている場合、それで既に個性化されていますから、名古屋コンプレックスとは大きな差別化が図られております。また、名古屋コンプレックスは関西コンプレックスとは大きな違いがあることが最初から分かっているわけですから、最初から違いを求めているものの、あまりに大きく違いすぎると受け入れを「拒否」せざるをえなくなりますが、関西コンプレックスをもつ主体はペルソナを意識化できているので、それが人間として生きていくための仮面であること(没個性化)を名古屋コンプレックスに知らしめることが可能となります。ここで、名古屋コンプレックスは、「人間は万国共通」と認識してくれますから、むしろ、「主体と客体の個人的無意識と地域コンプレックスが対立していたほうが、物事はうまくゆく」となります。

 

また、話している内容に老賢者的な要素、換言すると、妙に深い話に聞こえるのも自己による統合が行われているためでありまして、それゆえに、ただ単に深い話をすればいいわけではなく、そこには分裂と統合の作用が働いていなければなりません。では、地域コンプレックスとは何かが大きな問題となりますが、これについては私のもう一つの「実学道」のブログにおいて解説を進めていこうと企画中です。

 

今回の話も難しく感じるかもしれませんが、ポイントは「中庸」であります。偏ってはいけません。バランスが大切なのです。この点に注意し、マーケティングを考えていくと成功への道も開けるのではないでしょうか。今回はこれまでです。ご高覧、ありがとうございました。