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芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

影の問題は前回で終了しました。それにしても売ることを考える際に、なぜ心理学的に、さらには元型にまでさかのぼって考えなければならないのか?という疑問も多いかと思います。それはこのシリーズの序論にて既に論じておりますが、ここでおさらいしておきますと、芸能人として活躍するには「資本」が必要となるからです。それもイニシャルコストとして5千万円ほど必要となります。換言すると、このイニシャルコストを捻出できない人は芸能界に入ることすらできません。しかし、夢を追いかけたい!!という人のために、さらには最初から5千万円の現金を用意できないので、まずは芸能界に入門するための5千万円を何としてでも手にしたい!!という人のために何らかのお手伝いをしたいという意図からこのシリーズはスタートしております。また、既に芸能人として活躍している人であっても、次のステップを考えている人のお役に立つことができればという思いから論文を書き続けております。私にはこれくらいのことしかできませんから、今後も書き続けようと思います。

 

今回から老賢者の話に入りたいところですが、実際に芸能界で活躍するにはどのようにすればよいのかについて論じてみようかと思います。話は脱線しますが、私は大阪の音楽業界の改革も任されておりますので、その意味で、主に大阪の人々に向けて私から発信を行ってみようと思います。

 

芸能界で活躍するには、まずその登竜門としてテレビに出演することです。それ以外にもネットTVという手段もありますが、世間様に向けての発信力の強さはやはりテレビの方が強いかと思われます。テレビに出演すと自動的にネットにも映像は違法な手段であれ合法な手段であれ、ネットでの配信がなされます。これがネットでの配信だけであると、それがテレビで放送されるかというと、よほどのことがない限り放送はされませんから、やはりテレビに出演することが芸能人として活躍することの第一歩となります。しかしながら、どのようにしてテレビに出演するかであります。

 

テレビに出るには実のところ簡単で、番組枠を買い取れば誰でもテレビに出演できます。但し、放送法なるものがありますので、その趣旨にのっとり番組の構成を行い、その構成に従った進行ができなければなりません。細かい規定はいろいろあるのですが、要するに、番組枠を買い取ればテレビに出演することは誰でも可能であります。

 

この番組枠の買い取りですが、どのような枠が販売されているかについてはテレビ局によって違いますから、各テレビ局にお問い合わせください。ここでは一般的な事例をあげることにします。

 

まず、番組枠の概念ですが、これもテレビ局によって大きく異なります。ですからここでは理解しやすいように時間というもので「枠」を買うという考え方をご紹介します。例えば、テレビに出演したいと思い、番組枠を買うことを検討します。その際に、やはり見ている人が多い時間帯を狙いたいと考えます。そうすると必然的に19時~21時頃の時間帯になるかと思います。予算は限られますし、ましてや19時から買うとなると非常に高くつくので、20時30分から21時の枠を買うとします。これを全国ネットで放送するかローカル放送とするかでまた価格は異なりますが、ここでは全国ネットで考えます。そうすると、仮に、200万円で枠だけは買えたとしましょう。そしてテレビでの出演権は獲得しました。しかし忘れてはならないのは、枠を買っただけで、テレビ用のセット(美術)、盛り上げ役のゲスト、エキストラをどうするか、さらにはカメラさんや音響さん、収録であれば編集も別に発注しなければなりません。音楽番組であれば音楽番組の専用スタッフを発注することになります。このようなことをやっていると、平日木曜日、20時30分から21時まで、キー局による全国ネット放送となると安くて1千万円くらいの費用が発生します。それも1本での制作費用ですから、週に一回の放送を一か月続けると4千万円となります。さて、この費用をどのように捻出するかです。

 

上述の事例は個人で番組枠を買い取るときの話としましたが、番組の制作費というものは基本的に誰がどのように作ろうが上述の条件であれば安くて1本で1千万円はかかります。ですから、芸能事務所に所属していたとしても、その芸能人に30分で1千万円以上/1本の経済効果がある場合にのみ出演が許されるわけです。要するにカネの世界であります。しかし、このカネを引っ張ってくるためにどうすればよいのか?を考えるときに、やはり多くの視聴者を取り込むだけの力が必要であり、そこに心理学の力を借りようとするのが私の戦術であります。

 

これらの芸能界の原理原則を単純化すれば、「ファンを多く取り込めば、カネも自動的に入ってくる」という長所となります。これが芸能界のおいしい部分であります。この部分を最大限に活かせる人が芸能界で活躍できる人であります。ですから、大阪でミュージシャンを育て、全国へ羽ばたかせていこうとするのであれば、まずは大阪でミュージシャンを目指そうとする人が日本全国の多くのファンを取り込まなければなりません。そのためにはこれまでの大阪の人の心構えでは成り立たず、まずは心の問題から改革を進めていく必要があります。なぜなら、これができていれば私が大阪で「音楽の街化事業」を取り組む必要がそもそもないからです。

 

もうあと数回にわたり芸能界の仕組みについて論じていこうかと思います。ご高覧、ありがとうございました。

前回より影について論じております。実際には影のみならず、芸能人と影との関係を論じているのですが、皆様方はいかがお考えでしょうか。実際に影の問題にまで接近できる人はかなりの努力をしている芸能人であり、その数も少ないのが現状です。それもそのはずで、例えば、アニマ・アニムスのことを考えてみてもお分かりだと思いますが、自分の本来の性の逆を生きるだけでも精神的にかなりの負担となります。それを乗り越えて第三の性を確立していくわけですから、第一段階ですら非常に大きな困難が待ち受けていることがおわかりだと思います。

 

それにしてもこのような視座で芸能人の軌跡を眺めてみますと、やはり経験が非常に大切な商売であるといえるのではないでしょうか。経験をしない限り元型イメージの各段階を体験することもできず、ここにステージやカメラの前に立った時の大きな差が出てくるのではないかと考えております。確かに歌はうまいけれど、それにしても地に足がついていない・・・と感じる歌手がいたとします。そのような歌手はやはり個性化についてうまくいっていないのかもしれません。個性化が全てではないですが、それにしてもやはり大きな要因であるかと私は考えております。仕事の現場では「何事も経験すること!!」と上司から叱咤激励を受けることも多いかと思いますが、これを論理的に解説すると元型との関連で説明は可能であるかと思われます。逆に考えると、個性化には行動と経験が必要であり、行動しない人にとって個性化への実現は困難であるでしょう。かといって行動したから個性化できるものでもなく、これが人生の難しいところです。

 

ところで前稿からの続きですが、成功者としての芸能人を目指すA氏ですが、ここでまた大きな壁にぶつかり、どのようにしようか非常に迷っている状況であります。彼は男性から女性になり、あこがれの人になりきったと思えばそれに裏切られ、心身ともに疲労困憊なのであります。ここまではまだ視覚的なものを活かして新たな道を開拓できましたが、影の問題となるとそうはいきません。なぜならそれは自分自身の生きられなかった半面を見つめることになるからです。生きられなかった半面なるものは実のところ生きたくない半面であるかもしれず、それを見つめなおすことは至難であります。音楽が嫌いな人が実のところギターくらいは弾いてみたいと思っていても、音楽そのものが嫌いなので逆にギターに嫌悪感を抱いている人が、生きられなかった半面としてギターを弾けるようにするという影の部分を認めることは困難を極めることは想像するに難しくないと思います。なぜその道に生きていないのか?を考えるときに、その他にも大学教授になりたい夢はあったけれど、お金がなく大学院の進学をあきらめ、一般企業に就職し、そのまま定年退職を迎えた人などを考えてみてもよいかもしれません。この場合はまだ影の部分に触れることは可能であるでしょうけど、それにしても影と真剣に対決するのは容易ではありません。なぜか?それは本当にあるべき自分の姿と現在の自分との対決であるからです。

 

既に何度か述べておりますように影の問題は性別に関する問題を既に超えたものであります。ですから、問題の解決そのものをこれまでとは全く異なる観点より見つめなおす必要があり、この影の問題と向き合うようになるのは50歳くらいからとなるでしょうか。もっと早くにこの影の問題と対決しないといけないのが芸能人でありますが、通常であれば豊かな人生経験を送ってからまだなお悩みが生じてくるものとしての影の問題であります。これを例えば30代で体験しないといけないとなると、一般的な人よりも20年分もの人生を短縮させねばならず、精神的な負担は相当なものだと思われます。

 

このようにして若くして第三の道を歩まなければならなくなったA氏が次にとった行動は・・・これまでと違ったパートを演じることです。つまり、主役を狙っていたのであれば助演を狙うなどです。しかしながら、その助演俳優というカテゴリーにおいては右に出るものはいないというくらいに徹底した意思であるならば、助演として非常に「有名」な俳優となる可能性が出てきます。音楽関連で話をするならば、ギターリストとベーシストの関係なるものがあります。ギタリスト、それもリードギタリストなるものは俳優の世界で例えると「主演」に相当します。ですから実に煌びやかな世界であり、その世界を演じ切らなければなりません。これとは逆にベーシストは「助演」に相当しますが、家に例えると「大黒柱」に相当します。ちなみにドラムは基礎です。そもそも基礎があっての家ですから、これがなければ元も子もないという状況です。ボーカルはフロントマンですからこちらが本当の主演となりますが、ギタリストと並んでツートップでいなければならないのがまた難しいのです。

 

話はそれましたが、例えば、A氏がギタリストとして活動しようとしていたところ、個性化の過程においてベーシストに転向しようとしたとしましょう。これがいわゆる私の意味するところの第三の道であり、影の問題について克服した結果であると見立てるのであります。実際のところ、ギタリストからベーシストへの転向は多く、それ故に私はベーシストを新たに募集する際は必ずギターの経験の有無を聞きます。過去にギターの経験がある場合、ベーシストへの転向の理由について詳しく聞くようにしております。その時に非常に心のこもった返答である場合、まずは実際に加入していただくことにします。このように、過去の自分とうまく向き合ているかについては非常に大切なことであり、影の問題がコンプレックスにからみつき問題が深刻化しているミュージシャンであるならば、次なるステップの老賢者元型のイメージとの対決が難しくなることが予測できますので、加入していただくとしてもその先に大きな困難が待ち受けていることを先に知らせたうえでのことにしております。

 

さていかがでしたでしょうか、影の問題。このくらいの段階までくると芸能の仕事も本当に面白くなってきますが、同時に対決する相手もまた強くなってきております。ギタリストとして夢をあきらめてベーシストになる・・・これがどれほどの葛藤があるかについては当事者にしか理解不能であるかと思われます。私だったらどうするかを考えてみると、音楽をやめると思います。もちろん、私の影がベーシストであるとは限らないのですが、実のところ私はドラムにも興味がありまして、その昔はドラマーとして活躍していた時もありました。いろいろある中でリードギタリストの道を選んだのですが、ではそれをあきらめてドラマーになれといわれたら・・・しかしながら、私の影を背負うといいますか、逆方向の生き方をしている妻の宗子がおりまして、この関係の在り方が20年以上の信頼関係の源だと考えております。

 

影の議論は今回で終わりにしようと思います。ご高覧、ありがとうございました。

前稿からペルソナから影の段階への変遷を述べております。少しだけ話を戻しまして、ペルソナを具体的に感じていただける歌詞がありましたのでご紹介します。The Blue Heartsの『チェインギャング』からの引用です。

 

仮面をつけて生きるのは息苦しくてしょうがない

どこでもいつも誰とでも笑顔でなんかいられない

 

心理学的に素晴らしい歌詞であると思いまして、引用させていただきました。ペルソナ自体は元型イメージですから直接触れることはできません。しかし、それを表現したものとして可視化しますと上記の引用歌詞において非常によく読み取ることができるのではないでしょうか。仮面はすなわちペルソナです。仮面を演じ続けるのはやはり精神的に辛いものです。それが爆発していくプロセスが歌詞としてうまく表現できているかと思います。

 

これを私のバンドに例えますと、パールジャムの仮面をつけていたけど、逆にこの仮面に押しつぶされて破綻することを意味します。ゆえにどこかにオリジナルな部分を組み込んでいかなければミュージシャンとして生きていくことは不可能であると解釈することができます。では、仮面に押しつぶされアニマ・アニムスが露呈した状況の中でどのようにして生きていくかですが、ここに第三の道なるものが出現します。これが「影」です。影については既に河合隼雄博士が『影の現象学』講談社学術文庫、1987年という論書の中で詳しく論じておられます。ユング自身が論じている影についての論書は、翻訳書としては高橋義孝『無意識の心理』人文書院 1977年があります。まずはそれらの書をご一読いただきたいのですが、まず、ペルソナに押しつぶされていたとしても完全にペルソナがはがされた状態ではないことをご理解いただきたいです。例えば、警察官が警察というペルソナに押しつぶされたがゆえに、私服で自由なスタイルで勤務することは許されませんし、そのような人を見たこともありません。私たちのバンドでパールジャムのカバーに押しつぶされそうになったがゆえにパールジャムの看板を全く放棄するわけではありません。そこで私たちは彼らの曲にオリジナルの日本語の歌詞をあてがうことによりペルソナとの調和をとっております。警察官が警察という職業に嫌気がさしているときにどのように対処しているか私は存じ上げませんが、おそらく警察という業界の中で独自の解決法があるはずです。そうでなければ既に警察という組織は崩壊しております。

 

ここで実例として嘉門タツオさんを考察してみようと思います。嘉門タツオさんは替え歌で有名ですが、しかし替え歌だけでプロとして生活しているわけではありません。そこに嘉門さんのフルオリジナル曲がしっかりと存在します。なぜこのように替え歌とオリジナル曲の混合でうまく認識されるのかについて不思議に思いませんか?通常、ミュージシャンはカバーのみかオリジナル曲のみで生活するものです。しかしながら嘉門さんは替え歌のイメージが強いものの、オリジナル曲を作るアーティストとしてもまた有名であります。代表的なのが『ヤンキーの兄ちゃんのうた』、私が個人的に好きなのは『ハンバーガーショップ』です。ここでペルソナという元型イメージのみではとらえきれないものが存在すると認識していくべきでありまして、そこに影という概念が出てきます。

 

まず、元型イメージとして最初はアニマ・アニムス、次に影が出現してきました。具体的な解説をしますと、男性なら女性的な面を全面的に出し、しかしそれではうまくいかないのでペルソナをつけて男性的な部分をプラスするなどのプロセスであります。つまり、主体の在り方とは180度逆のことを繰り返す構図となります。この論文の主人公である男性は女性化してある程度成功しましたが、ある時期に失敗し、その次にペルソナをまとい男性的な部分を引き出し復活しましたがまた失敗しました。ここまでは男性と女性とを交互に入れ替えるという戦術でありましたが、ではここでもう一度女性になってみたところで大きな成功がないことは安易に予測することができます。ではどうするか・・・ここで第三の道としての「影」が出てきます。影は生きられなかった半面を意味します。つまり、男性のAさんは既に女性も男性も経験しておりますのでその中で生きられなかった半面とは何かを考えなければなりません。このあたりまでくるとプロの芸能人として非常に仕事が面白くなってくる時期でありますが、要は性別で方向性を決めることができないので、全く別の方法を探さなくてはなりません。ゆえに第三の道であります。そして生きられなかった半面とは何かを考える際に、例えば私のバンドのニューイシューでは「オリジナル曲」を披露していくことではないでしょうか。しかし、ペルソナとしてのパールジャムを捨てるわけではなく、パールジャムのテイストを残したまま、生きられなかった半面を生きていくわけです。

 

嘉門タツオさんはニューイシューというバンドとはプロセスは真逆で、最初オリジナルから、その後に替え歌へ参入されたのですが、行く先は同じでありまして、ともに「プロミュージシャン」であります。この個性化へのプロセスを目に見える形で伝えている大先輩が嘉門タツオさんでありまして、心理学的に非常に興味深いミュージシャンであります。

 

影と音楽業界との関わりについてご理解いただけたでしょうか。次回も影について論じてゆきます。ご高覧、ありがとうございました。

いろいろと義異論しておりますが、要するに曲がヒットすればそれでいいわけです。そのためにどうすればよいのかですが、この部分がむずかしいでのです。ライブので評判が良くても、音源をリリースするときに販路がなければどうにもなりません。例えば、インターネットの世界は平等だと考えている人々も多いかもしれませんが、人目に触れる位置に自分の音源を紹介しようとするとそれだけ費用は高くつきます。ホームページの検索エンジンでもそうですが、高いヒット率を獲得するためには無料というわけにはいかないことが多いです。勿論、課金せずに上位にインデックスされることもあるでしょうけど、これは私の経験からして稀とまではいかなくとも、非常に少ない成功事例のカテゴリーとして整理しております。こうなりますとやはり、音楽をやるにも資本なるものが必要となってきまして、しかし、この資本を引っ張ってくる技術もミュージシャン自身が行わなければならない世の中になってきたことが最近の音楽業界の変化の部分ではないでしょうか。

 

融資や寄付をうけ、それを資本としていくには、まずをもってミュージシャンとして投資家や資産家にミュージシャンとして認めてもらわなければなりません。そこで得たまとまった金額を元手に次に金融機関での間接金融でバンドを運営できるようになると好循環となるのですが、実のところそこまでいくミュージシャンはほんの一握りです。しかし、それではあまりにも夢のない話となってしまいますから、少しくらいは夢をもてるようにしていこうというのが本ブログの狙いです。

 

モノを売っていくには音楽に限らず、先方の心をとらえることが最優先となります。したがって、マーケティングの知識も必要となりますし、さらには、自身の音楽をマーケットに合わせていくということは、自身が行いたい音楽を世に広めることになることは少なく、むしろ、自分の知識がどれほど世間に通用したかについて満足できるようにならなくてはなりません。この部分を理論とすれば、具体事例入れて血を循環させてみようと思います。

 

これもあくまでも例えなのですが、私が本当にやりたい音楽というのはパールジャムであるとしましょう。これはカバーをしたいくらいの中途半端なことではなく、パールジャムになりたい!!というくらいの思いであるとしましょう。しかしながら、現実的にパールジャムになることは100%不可能でありますし、さらに、パールジャムは日本では有名でありません。それゆえにパールジャムになりたいという本心を世間様に伝えたとしても何の意味もないわけです。そこで私は考えました。では、少しでも彼らに接近し、バーチャル・パールジャムを体験したいと思い、そこで私たちは彼らの曲に日本語の歌詞をあてたとしましょう。これでペルソナまで完了です。しかし、そのバーチャル・パールジャムが世間様から評価されたとしましょう。そうすると、これは大変なことに、バーチャル・パールジャムが評価されたことになり、パールジャムが評価されたわけではなくなります。そして、この瞬間にパールジャムになりたい!とかパールジャムのペルソナは全面的にはがされる結果となります。ここまではご理解いただけるでしょうか?

 

先方の心をとらえることは、自身の心が分裂するほどの体験が必要となります。そして、先方の心をとらえるということは、同時に先方の影も背負うことになっておりまして、ここに売れ始めのミュージシャンとしての二重苦が待ち受けるのであります。

 

ペルソナがはがされた主体は次にどうすればよいのかですが、ここがまた難しいのです。主体が男性であるならば、ペルソナがはがされた状態なるものは、つまり、女性的な面が全面的に出ている状況です。女性的な面をペルソナによって男性的な部分とバランスをとっていたのですが、これがなくなります。しかし何とかしないと生きていくことができませんから、次に登場するのが「影」であります。これはこれまでに生きてこれなかった半面のことを意味する概念です。これも実のところ気づくことは困難ですし、人によって生きられなかった半面なるものは異なります。人間が十人十色であれば、影も十人十色であります。ニューイシューというバンドを例にすると、パールジャムのカバーを行い、パールジャムの仮面を皆に自慢していたところ、それでは生きていくことができないことに気づき、日本語の歌詞をあてたところ、「半オリジナル」という状況となってしまいました。この段階でパールジャムのペルソナは剥がされております。そして、それが契機となり人のマネをする生き方とは逆の道を歩んでいくことになります。つまり、オリジナル曲を披露していくことになります。

 

これが影なのですが、しかしこれはあくまでも演者の側の話であり、客体のことについては全く触れておりません。ペルソナがはがされたから影を使えばよいというような単純なことではなく、やはり曲を聴く側のことも考慮しなければなりません。これを経営学では「ニーズを知る」と言われている部分ですが、経営学ではなぜ該当するニーズが生れてくるのかについての原理原則については追及しません。私はここを問題視し、経営学に取り入れようとしているのですが、音楽の場合、主体がやりたい音楽と客体が聞きたい音楽とは、心理学的には基本的に同じであるはずであります。しかし、ジミヘンが好きな人もいれば嫌いな人もいるのはなぜか?と考えるときに、ここに心の問題やマーケティングの問題をもっと深く考えていく必要があるように思います。

 

これで影の問題についての概要はお分かりいただけたでしょうか?影の問題については「転移」の問題と共に考えていかねがなりませんし、影を背負う状況などとも総合して考えていかねばなりません。このように考えてみますと、芸術活動なるものは、これは非常に厳しい現実でありますが、若いころから個性を活かすと、やはりその後(成功した後)が大変となるのではないでしょうか。そもそも成功すること自体が至難であるわけですが、私の経験や観察、易経や中国哲学などの教えから思うのですが、人間は誰しも成功する要因をもっていると思われます。それを使うか使わないかの差となるでしょうし、成功は人生の中で一度だけとも思えます。ユングは個性化は人生の中で何度か可能だとしておりますが、「バランス」を重要視するユングの考え方からすると、例えば、大きな成功の後には大きな失敗があるとなります。大きな失敗の後にその人が生きていることができればよいのですが、生きていられないこともあるでしょう。このように表現すれば皆様方は「自殺」を思い浮かべるかもしれませんが、そうではなく、20歳くらいで大成し、その後、50歳で転落人生を歩んだとしますと、再起は難しいのではないかと思います。

 

逆に「失敗は成功のもと」ともいいますが、失敗ばかりしているからといって悲観することもないかと思います。成功するまでやり続けると、きっといつかは成功するのでは?とも思えてきます。但し、繰り返される失敗で心が折れそうになることもあるでしょうけど・・・

 

今回はこれで筆を置きます。次回は影の問題をもっと深く探っていきます。ご高覧、ありがとうございました。

芸能とペルソナの関係について論じているのですが、ペルソナとは奥が深く、簡単なようで難解な概念です。一言で表現すると見た目のことですが、その見た目に含まれるものを分析(物事を分けて考える)すると、ペルソナとはいかに難しいものかよくわかるかと思います。また、見る側と見られる側についての違いも考えねばならず、見た目を気にすることは重要ですが、客体からどのように見えているのかについても吟味検討しなくてはなりません。簡単なのは売れている人物のマネをすることで、芸能界に入った初期には芸能事務所から先輩のマネをしろとの命令が下されることもあるほどです。

 

これは一見すると芸能事務所のブラックな部分が露呈しているように感じるかもしれませんが、これまでの私の議論から考えると、むしろ正解を叩き込んでいるようにも思えます。この点についてはさすがは芸能のプロの教えであると、実のところ私はそのように考えております。ここで気づいていただきたいことは、「ブラック」の部分です。元型に関わることを指導されてブラックと感じるわけです。これをどのように解釈するかですが、要はマネすることを強要されて気分を害す状況です。しかし、元型なるものの正体とは実はこの「ブラック」でありまして、無意識に触れることの精神的苦痛なるものを常に私は主張しておりますが、その苦痛なことがここではペルソナによる苦痛となります。現代では様々な事情から正味のブラック芸能事務所も存在するようですが、しかし、芸の道を鍛え上げる意味でのペルソナへの接近に気分を害し、その点についてブラック企業と決めつけるのは間違いであるかと感じております。マネをすることによるコンプレックスが作用している場合もありますが、その場合、「マネをしろ」と命じられた瞬間に嫌悪感を感じる場合はコンプレックスです。その場ではそれが正しいと感じた場合、それはペルソナへ接近していくことになります。

 

ペルソナとはこのように、触れることは簡単なのですが、実際に触れると気分的に楽ではないものです。例えば、私はパールジャムのカバーを行っておりますが、これもペルソナに触れる一つの方法でありまして、彼らの曲をカバーすることによりペルソナに触れることになります。これは主体の話です。これが観覧者にとってどのような影響を与えるかですが、高評価を得られ時の反応は大きく分けて2つに類型化できます。低評価の時はそもそも話にならない状況ですからここでは触れません。

 

1:パールジャムっていいバンドですね!

2:あなたのバンドは素晴らしいですね!

 

これら2つの反応となり、ではこれをどのように評価していくのかです。

 

私としてはせっかくパールジャムのカバーをしているわけですから演奏の後には「パールジャムは素晴らしい!」といってほしいわけです。私たちが素晴らしいのであれば本末転倒であります。しかし、現実はそうではなく、それを越えて評価される場合、つまり、私のバンド自体を評価される場合も少なからずあります。私たちのライブを見て気を使ってそういっている人が大半だと思うのですが、演者からすると、正直なところもっとパールジャムを評価してください!!と思うものです。ところが、パールジャムというペルソナを追求すればするほど、「パールジャムは素晴らしい!」という声が聞こえなくなってきます。なぜでしょうか?

 

ここに一つ「追及」というキーワードが出てくるのですが、見た目や演奏の方法を極限までに追及していくことは逆にオリジナルの方向へ向かうという、おかしな状況となります。カバーバンドとしては危機的な状況であります。ですから、カバーバンドとして活躍することを目的とするには、オリジナリティーを追求すればよいかと思います。逆に、心理学的な視座より、演奏の技術なども含め総合的にカバーしていくことを追求すると、逆相関が発生するのではなかろうかという仮説をもつに至っております。ここに影や老賢者の元型の登場となるのですが、今回はこれらの課題を残し、筆を置きます。ご高覧、ありがとうございました。