芸能の世界とマネジメント -7ページ目

芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

前稿では音楽業界の事業ドメインの変遷について、そしてそれに絡めてA氏の老賢者元型に関する序論を述べるに至りました。音楽業界に関しては無料で良質の音楽が手に入ることにより娯楽としての楽しみ方は非常に増え、需要も多くなってきている様相でありますが、如何せん無料であるため、供給が追い付かない状況であります。ミュージシャンもデビューする前は無料でもいいから世間様から評価されたい!と思うものの、それがその後数十年間続くとなるとうんざりするどころか、道半ばで活動資金が底をつき、音楽活動を断念せざるをえなくなります。現在の日本の音楽業界はまさにこの渦中にあり、よって、需要に対して供給が追い付かない状況となっております。これに関しては仕方のないことだと思います。私としては業界がどのようになるかは各業界が決めることなので、個人的に音楽業界を盛り上げていこうという思いは全くなく、むしろ、教育者としての立場として、教育産業としての音楽については大いに盛り上がっていただきたいのであります。

 

具体的には、娯楽としての音楽が衰退するということは、これは音楽を作る側と聞く側とにマーケットが分かれているところに問題があるわけです。これを話し出すとかなり長くなりますからシリーズを新ため、本稿では割愛しますが、要するに、音楽を楽しむ場合は自分で音楽を作り、そして自分で演奏し、自分で収録し、自分で聞けばよいのです。しかしながら、そんな難しいことはできないから聞く側に回っているのだ!というお叱りを受けることは必至となりますので、その代わりに音楽の楽しみかた(音楽の作り方から楽器の演奏方法などを総合し、パッケージ化したサービス)を国が責任をもって提供していくことを企画するように法案を思案している途中であります。教育といえどもここに音楽大学をその中心とするわけではなく、音楽をやっていくには経営の知識も必要となりますから、それらを総合して教育することができる機関を新たに設立するなども視野に入っております。

 

それにしてもそのような行政サービスなど受けている時間がない人も多いかと思います。その場合は教育を受けた人々が発表会を兼ねてのライブを日本国中の多くの場所で随時開催されるように準備しておりますので、足を運んでいただくか、それこそインターネット配信で楽しむのもよし、お好きなように楽しむことができるようにしますが、基本的に今後の音楽は聴くものから「演奏するもの」へ変わっていき、そのための教育に力点が置かれていくようになるかと予測しております。少なくとも日本政府としてはそのような考えでありますが、実際にそのようになるかについては実行してみなくてはなんともいえませんので、適切な時期が来ればテストを行っていく予定であります。

 

ユング心理学においては布置という概念も重要視されますが、この布置、前述の音楽業界の議論からすると、音楽業界と行動の主体との関わりなどが鮮明にわかってきだすと「老賢者元型」が現れたと見立てます。つまり、行動の主体の内面とその内面が関わっている外面との関係をうまく理解できるようになってきている状態をもって老賢者元型が出てきたと表現されます。ですからこの段階となると、その老賢者とは初対面であってもその人の説得力なるものは非常に大きなものとなっております。それはなぜ客体がそのように感じるかというと、老賢者は主体と客体との関係を瞬時にして理解し、それに応じて布置という名の迷路をうまく進むことができるからです。

 

ここでいつものA氏を例にしますと、彼は影の問題に直面し相当な心的ストレスを抱えることになるのですが、そこで気づいたことは、「自分のマーケットを作ること」でありました。換言すると「A氏ファッション」を作ることが今後の芸能生活には必要だという、まさに第三の道を考えつくのでありました。そしてA氏は心の旅だけではなく、実際に日本全国を巡る音楽ツアーをすることを決意するのであります。

 

A氏という老賢者は右でもなく左でもない独自の答えを見出すにいたりました。ここまでたどり着いたことは非常に素晴らしいことだと思います。そしてこれは見る人によっては「悟り」だという人もいますが、悟りの領域にはまだ程遠いです。なぜなら、自己実現なるものは自己を見なければならず、まだ布置を読めるようになっただけでのことで悟りにまで到達はしておりませ。むしろ全国ツアーをすることにより「退行」を促進することになります。各地域を回るごとに各地域での個性化なるものが必要で、各地域の「個性」を全て混ぜ込んだ真なる個性化を遂げることによりA氏の自己に到達するものと考えるのが筋であります。これはあくまでも全国を知るという目標を持つ場合のみであり、ローカルミュージシャンを目指すのであればその地域でのみ個性化すれば事足ります。自己は全ての物を囲む概念でありますから、A氏は相当に大きな目標を老賢者として持つにいたりました。それ以外にも自己には重要な意味があるのですが・・・

 

全国を政府からの経費で旅することができていいですね・・・と私ども夫婦はいつも誰かにいわれます。しかし、実のところ旅する範囲が増えれば増えるほど精神的な負担は増加することは前述のA氏の例でお分かりいただけるかと思います。つまり、地方ごとに個性化を遂げねばならず、そして、各地方の個性を総合し自己の領域へ進めなければなりません。何事も楽な仕事はありません。一見すると楽に見える仕事ほどその裏で何らかの大きな影の部分があるものです。

 

A氏は様々な困難を経て老賢者となり、全国へ旅することを決意しました。しかしながら、そこには「退行」という現実が待ち受けております。この退行に対しA氏はどのような判断をしてゆくのか。続きはまた来月。ご高覧、ありがとうございました。

これまで影の問題を再考してきました。モノを売るということはその時点での状況にもよりますが、音楽の世界は食品や家電とは異なりまして、一人で一つの音源をもてば十分でありまして、あの曲がすごくよかったから、再度、同じ音源を購入するなどはほとんどありません。稀に該当するミュージシャンを金銭的に支援するために同じ曲を複数購入することはありますが、それは稀なケースです。現在の音楽のマーケットでは、誰か一人が音源を購入し、それをインターネットを通じて共有することが前提となっておりますから、その機会損失分を合計するとかなりの額になるかと思われます。しかし、これも時代でありますから仕方ありません。そこで私が考えた戦術は、音源を制作しない、ライブの告知も行わないことです。つまり、音楽の技術部分の育成だけにとどめ、それ以外は全て放棄しております。例えば、動画配信サイトにてたくさんの視聴回数を稼ぐとそれだけでも収入になるのではないか?という意見も多くあるのですが、複製の問題があり、そこでの収入以上の損失が発生します。つまり、無料で音楽を聴くことができる時代になりましたが、音楽のマーケットは確実に縮小しておりまして、音楽業界の衰退、ミュージシャンの減少、最終的には技術の継承までが困難な時期に差し掛かっております。音楽に対する需要は増加しているのですが、供給側として無給で働くわけにはいかず、需給関係のバランスが非常に悪い状態となっております。せめてこの技術的な部分だけでも継承していこうと活動しているのがニューイシューというバンドであります。

 

今後の音楽業界は音楽の技術を継承いていくという形で新たなる発展を遂げることになるかとおもわれます。逆に現行のマーケットは縮小を続けるかと思われます。つまり、音楽は娯楽ではなく教育へとシフトしますので、教育産業としては栄えることになるかと予測しております。その副作用として現存する「娯楽としてのマーケット」は縮小を続けることになるかと見ております。

 

ここで話を戻しまして、このように、業界全体や経済界全体を見渡して、そこでの結論や未来予測までをきるようになると老賢者元型の登場を確認することができます。老賢者元型の老賢者とは昔話に出てくるいわゆる「老賢者」のことでありまして、現代の言葉で翻訳しますと、「知恵者」となるかと思います。一を聞いて十を知るような人物のことでありまして、様々な困難のあった後に現れるのがこの老賢者元型であります。すべてが理解できた、つまり、仏教用語でいうところの「悟り」を感じたような言葉が数多く発せられるため、十分な経験を積んだ心理療法家でも治療の段階では「自己」にまで達したかのような錯覚に陥るのですが、よく聞いてみるとまだ悟りには達していないことが多く、その意味で心理療法家や心理学者はその見極めをしっかりとできるように訓練しなければなりません。

 

そこでこれまでの主人公であるA氏でありますが、A氏は性別を超えた次元での自分自身の裏の世界に対して大きな悩みを抱えることになりました。そして彼の選んだ道はベーシストという道であります。しかしながら、これは大きな決断でありまして、まず、性別に関して乗り越えたことを吟味すると、アニマの問題を克服したことになり、つまり、「おしゃれなA氏」からの決別を意味します。その流れからのペルソナの問題ですが、あこがれの人のマネを一生懸命行い、「おしゃれで、かっこいいA氏!」を実現したのですが、ペルソナに呑み込まれたA氏はついに「これでいいのか?」という中年の危機にもにた影の問題に遭遇します。難しですね。ここで次に多くのミュージシャンがとる行動は、ファッションや流行を追うことをやめ、流行を「作る」側に舵を切ります。多くのミュージシャンが変わった服装や行動をとるのはこのためであり、見た目は「汚い」けれど、なんだかそれが「かっこいい!!」と思えるのはこの精神状態があるからです。経営学的に翻訳しますと、いわゆる「新市場の創造」なるものを志すことになります。このように考えてみますと、新市場の創造は個性化一歩手前の部分のことを意味し、その意味で、そう簡単に行えるものではありません。既存の経営学者の多くはこの言葉を非常に軽く使います。しかし、新市場の創造とは一人の人間が全生命をかけた大勝負であることを認識しなければなりません。それを見ている側は、やはりその人物は「老賢者」でありますからかっこよく見えるのですが、実のところはまだ道半ばでありますから非常に大きな痛みを伴いながらの行動であることを理解しなければなりません。

 

さて、老賢者ともなると貫禄もついてきて見ている人を引き付ける力もついてきます。つまり、A氏を見て「かっこいい」と思える状況となるのはこの段階からでありす。そして多くの人はこの老賢者を支援しようとしたくなり、人が集まり、結果としてお金も集まってきます。ミュージシャン自身が自分が「売れるかも?」と思う瞬間がこの時でありまして、この時の思いをどのように感じ、それを今後に活かしていくかを深く考えることにより「自己」へと到達します。

 

次回からは老賢者元型にまで達したA氏のプロセスとその後の行動、それが物販にどれほどの影響を与えるのかについて順に論じていこうかと思います。ご高覧、ありがとうございました。

モノを売っていく際にやはり人の心を読んでいくことが必要ではなかろうかという仮説に基づき、このシリーズを進めているのですが、実のところマーケットの心理も重要ですが、売る側の心理も重要でありまして、これら二つの心理がクロスするところで物は売れるかと考えられます。どちらか一方のニーズを満たすだけではマーケットは成長しないのではないでしょうか?というのが私の仮説であります。ところが、芸能界では売る側の心を満たすことばかりが先行し、マーケットを無視する傾向にあり、これが現在の芸能界の衰退の要因の大きな一つであると考えております。人の心を打つミュージシャンが存在したとしても、人を引き付けるのみではミュージシャンとして独立することはできず、やはり、自らもマーケットへ飛び込んでいく覚悟が必要であります。何事も一方的なことを避け、トータルバランスで物事を考えていくのがユング心理学であることを常に心がけていただきたいです。

 

本題に入りますが、老賢者元型の作用の考察の前に、影の問題を再考していくことが前稿からの課題でありました。通常、影の問題は「中年の危機」ともよばれ、つまり、現代では50歳くらいから影の問題について思い悩むものとして認識されております。当然のごとく学会でもその認識であります。ところが、芸能人はこれを20代で経験しなくてはいけません。早い人は10代の後半で経験しなければいつまでたっても独り立ちできず、貧しい人生を送らなければなりません。しかしながら、経験したからといって成功するわけでもなく、影の問題を背負ったがゆえに死を選ぶ芸能人もたくさんいるのが現状であります。この状況を何とかしなければならないと思い、私は書き続けているのですが、この思いはどこまで通じているのかわからないのが、世の中、難しいですね。

 

ところで、影の問題というのは生きられなかった半面のことをいいます。音楽の世界で例えるならば、本当はギタリストになりたかったベーシストなどは代表例となるでしょう。この心の底から「本当は」と思えることが必要でありまして、なんとなくギタリストになりたいというような中途半端な心理状態では影の問題とはなりません。強く志望するがゆえに心が歪み、悲鳴をあげるのです。こう考えてみますと、アニマ・アニムスのように先天的なものとは違い、ペルソナなり影の問題は後天的な問題であることが理解できます。但し、アニマ・アニムスに見るように、人間には表の顔と裏の顔とを両方の面を持ち合わた生き物と理解するのが妥当ではないかと私は考えております。ここでの結論として、ペルソナ、影、老賢者、自己などの元型はユングが人の心の発展段階を可視化するのに使った概念であり、実際に元型として存在するのはアニマ・アニムスのみではなかろうかということ、ゆえに重要なのは、人間というものは「両面体が完全体」という考え方であるかと考えられます。

 

ユングは多くの論文にこのことを「対立物の結合」と表現することにより論じておりましたが、多くの論文を読んでいくうちに例えば、「ペルソナ」という心の状態があらかじめ備わっているかのような心理状態に陥ってしまうのです。実際に何度も読み返してみると、ペルソナという心の状態が発生していることを論じているわけですが、ユング自身の論じ方として、「ペルソナというものが心の奥底にありまして・・・それは外的事実が心の内に向かって行き、その心のあり様が無意識に表に向かって発信されるとペルソナとして機能し、自我との対決となる・・・」という、まずは存在そのものを認めた形で論じられているがゆえに混乱を呼ぶわけです。ユングを責めるわけではないですが、ユングが何を思ったのかを読んでいくのが研究者として面白みを感じているのですが、ユングは死の直前に一般の人々に向けた象徴に関する本を出版しておりまして、その本に人間の染色体を拡大した写真が掲載されており、「やはり、対立物の結合なる理論は正しいのではなかろうか?」という大きな仮説を残しており、しかし逆にアニマ・アニムス以外の元型について深く掘ることもなく、これらのことから判断しても、元型なるものは基本的に心の成長と発展を可視化するものとして活用させたと理解し、アニマ・アニムスという概念によって人間の心の基本構造は「対立物の結合」によるものと考えると理解しやすいかと私は考えております。

 

ここで老賢者とは何かを考えてみますと、「人間なるものは表と裏の両面を持ち合わせるものだ」と心底の理解をできている心理状態の人であると定義することが可能であります。換言すると、汚い面も含めて物事を判断することができる心の状態であろうかと考えられます。私の祖母が私に算数を教える際、どうせ覚える気などないことを十分に理解していたがゆえに、私にとって理解しやすい算数となったといえるでしょう。これとは逆に、学校の先生は生徒は覚えてくれるものという前提でありますので、覚える気など全くない生徒に関わると先生としての機能が全く失われることになります。ですから学校の先生は生徒というものは、一生懸命学習しようとする生徒もいれば、学習をしない生徒もおり、一生懸命学習している生徒であっても、学習したくない心も同時に持ち合わせており、また、学習放棄している生徒であっても、学習意欲は必ず存在していることを肝に銘じなければなりません。その中で先生としてどのような個性を発揮するかが重要となります。その時に安易に「私は老賢者になる!!」などと答えを出すと、とんでもない失敗をすることはこれまでの私の論文を読んでいただければご理解いただけるかと思います。

 

次回からはこのシリーズの最初から登場しているミュージシャンのA氏を例に老賢者元型を考察しようかと思います。ご高覧、ありがとうございました。

影の問題について一応、終了をいたしまして、次に老賢者の話に移ろうかと思うのですが、影の問題から老賢者元型イメージが現れるまでの中間的な期間が存在するのもまたその特徴であります。例えば、このシリーズの主人公のA氏は男性でありますが、男性のミュージシャンではある日突然としてアニマを見せることがよくあります。しかしながら、理由はよくわかりません。とにかくわかることは、アニマが現れるときはある程度意識的に、つまり、意識がアニマを無理やり受け入れる格好で現れることがあるのは確かです。この後にうまく意識とアニマがかみ合うかは別の問題ですが、「世に自分を売り込むのであれば、アニマくらいいくらでも前面に出してやる!!」というような格好で、なぜか急に女性化する男性ミュージシャンが多いことが私の関心ごとであります。

 

その点において影から老賢者へと移るプロセスはそれほど急ではなく、その変化のプロセスをじっくりと見ることができることが多いのが特徴であります。老賢者とはいわゆる老賢者のことでありまして、現代のネット用語では「知恵者」と翻訳できるのではないかと思っております。今の10代の若い人たちからすれは団塊の世代の人々を見て、そして接しみてどのように思うか私には到底理解できないことですが、団塊ジュニア、つまり、私の世代からすると団塊の世代の親に当たる人々とは子供のころから多く接してきたので、その時の感覚を述べますと、理由も理屈もよくわからないのですが、少し突拍子がないことでも妙に納得できたものです。例えば、「敷居を踏むな」とよく言われました。その理由として、父親が死ぬからと私の祖父母は言っておりました。敷居を踏む=父親が死ぬ?という構図ですが、論理的には破綻しております。しかし、もしかして父親が死ぬかもしれないとすれば、やはり敷居は踏むべきではないと思ったのは事実であります。私以外の子供が全てそう感じるわけではないでしょうけど、多くの子供はそのように感じるのではないでしょうか。科学的には、敷居は大黒柱とまではいかなくとも、敷居に負担をかけてしまえば戸のスライドができなくなり、それどころか家が傾く恐れまで出てきます。そうすると家に住むことができなくなります。そうなれば大変なことになります。それを伝えるために「敷居を踏む=父親が死ぬ」という言い回しが出てきたものと思われます。

 

ところで、なぜ「敷居を踏むと家が傾く恐れがあるから、絶対に踏んではいけない!」と科学的に教えないのでしょうか。私の祖父母が科学的知識がなかったからでしょうか。もしそうであれば問題は簡単なのでありますが、私の祖父母は敷居を踏むと家が傷むことの原理を知っておりました。ではなぜこのような物語として伝えるようにしなければならないのでしょうか。私の子供の頃は異常なほど教育における競争社会が発生しておりまして、その反省からゆとり教育が始まったほど近代的で科学的な教育が盛んであったころ、私の祖父母は科学的なアプローチではなく、むしろアナログな方法で私に科学的な情報を伝えていたのはなぜでしょうか?という疑問を感じていただきたいのと、論理的に破綻している事項について、なぜ客体が「正論」と思えるのかについての原理について考えていかねばなりません。

 

高齢者が言ったことがゆえに老賢者的な元型イメージというものではなく、このように、論理的には破綻していたとしても、相手を説得させるだけの力がある場合、それは年齢に関係なく、それが老賢者の元型イメージであると私は主張したいのであります。あくまでもイメージでありまので仮説の域を出ることはないのですが、老賢者元型なるものはどのようなものかと問われると、私はこのように説明するようにしております。

 

老賢者元型イメージのもう一つの特徴は、論理的に整合性が整っており、非常に納得できる場合です。これは前述の事例とは真逆です。私の祖父母は私によく算数を教えてくれました。それはなぜか私の両親、それに学校の先生に教えてもらうよりも頭によく入りました。これも原理的にはやはり心の問題としか考えられず、教え方としては学校の先生の方がうまいのは確かです。しかし、なぜか頭に入ってこないのです。ところが、私の祖父母は教え方としては雑でありますが、非常に頭に入ってくる教え方をします。算数などは100%正解の答えがあるわけで、その答えを導き出すプロセスは学校の先生も祖父母でも同じなのですが、なぜか頭に入ってくるのです。ここに老賢者としての知恵があるわけですが、私の祖父母はそのことにまったく気づいていないのは言うまでもありません。

 

このような領域にまで到達するにはやはりそれなりの経験が必要でありまして、例えば男性の女性化から始まり、その仮面に押しつぶされそうになり、マーケット重視の行動に疲れ果て、ついには「自分とは何だろう?」と思い悩み、そこを乗り切った時に明るく見える一筋の明かりとしての老賢者元型(イメージ)があるのであはないでしょうか。

 

では、影とは経験に由来するものなのでしょうか?という疑問もあり、アニマ・アニムスのように先天的に感じられるものとは違うようにも感じられますし、突き詰めると、では元型とは一体何?ということにもなりまして、つまり、影の問題を考え、次のステップに入ろうとするとき、心が健康である人でさえもこの段階で大きな考えの変化を認めざるをえなくなるのです。ここにユング心理学の奥深さがありまして、これまでは比較的、元型については「簡単だ」と思っている方も多かったことだと思います。しかし、元型イメージの概念についての真の難しさはここからでありまして、考える側も老賢者への変身を余儀なくされます。

 

さて、1+1=2である、この一言で「天才だ!!」と称賛されることがあれば、これほど楽なことはありません。しかしながら、世の中にはこれを実現させる人と実現できない人がいます。アインシュタインが1+1=2というのと、私が1+1=2というのとでは全く重さが違います。しかしながら、両者はともに同じことを言っております。ここが人間の面白いところです。両者ともに正解を導き出しているにも関わらず、私が言えばマイナスの方向へ向かいます。芸能人として自分を売っていく際、この点が非常に重要となってきます。ステージへ上がって、「どうも!」の一言で観客が大喜びするミュージシャンとそうでないミュージシャンの差は何でしょうか?と考えてみるとご理解いただけるかと思いますが、ここに心の問題が潜んでいると私は考えております。

 

次回からは影の問題の再考に入り、そこから老賢者元型の話に移っていこうと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。

前回より芸能界の仕組みについて論じておりますが、芸能界というのは現実にはカネの世界でありまして、実力がなくともカネがあればだれでも有名になることは可能です、しかし、そのカネをどこから工面するかが大きな問題となります。世の中のほとんどの人はイニシャルコストとしての5千万円を若いうちに手にすることは不可能です。こうなれば最初から5千万円を持っている人に芸能人として活動してもらうのが一番早いのですが、しかしその人が人前に出ることが苦手である場合、これはまた非常に困ったことになります。つまり、芸能界は常にカネと人とのミスマッチが生じており、慢性的な人手不足である業界であります。ですから、イニシャルコストさえ用意できればあとは非常に楽に芸能人になれます。なぜなら、常に枠は空いているからです。

 

こう考えてみますと芸能界というのは夢を追う業種なのかカネを追う業種なのかよくわからなくなってきます。正直なところ私もそのあたりのことはよく理解できなくなってきております。芸能界を目指している当初はやはり夢を追うものでありましたが、そのような夢はすぐに打ち砕かれ、やはりカネの世界かな?と思ったりしたものです。しかしここで重要なのは、前述の芸能界の現状を考慮すると、夢とカネの両方が必要であると考えることができます。つまり、夢だけ追っていては夢で終わってしまい、カネだけを追っていれば夢がなくなり、集客ができなくなり、カネが逃げていくわけです。ゆえに両方が必要となってくると私は考えております。

 

基本的に芸能界は東京を中央としての芸能界とそれ以外のローカルな芸能界が存在しております。現在のところ日本全国で有名な芸能人になろうと思えば東京に出ていくほかありません。しかし、大阪府と大阪市(以下、大阪地域)は芸能界の中央的な役割を担っていこうとしております。これは非常に面白い試みである反面、これまでの大阪地域の人々の考えとして、全国でやりたいのであれば大阪地域以外の地域に行ってやってくださいというのが基本的な姿勢でありました。ニューイシューというバンドも同じことで、女性のドラム&ボーカルでハードロックをやるような奇抜なバンドは大阪から出ていけ!!と面と向かって罵声を浴びせられましたので、東京へ行ったところ非常に好評でありまして、このまま芸能界入りとなりました。ところが私たちに罵声を浴びせた大阪地域が何を思ったのか、今度は逆輸入しようとする動きとなったわけです。これは私としてはうれしい反面、クリステンセンのイノベーションのジレンマ論からすると、大阪発で全国展開するミュージシャンを育て上げるというのは非常に困難であること感じており、一般的な言葉で表現すると、「二番煎じ」である状態の大阪地域が東京の音楽業界を越えていくことは困難を極めます。

 

まず、5千万円は必要とされるイニシャルコストを大阪で用意できるかという問題です。ここは非常に重要な問題です。早い話が、このイニシャルコストを大阪で用意できるような状態であれば、今頃になってあえて二番煎じの戦略を実行する必要はなく、既に東京を抜いているかもしれません。このイニシャルコストを大阪で用意することができないために、夢が夢で終わっていく現状をまずは直視していただきたいです。大阪地域の誰が各種ミュージシャンのためにこのイニシャルコストを出資してくれるのでしょうか?

 

次に、夢を追う側、つまり、演者サイドにも問題がないわけではありません。正直なところ、大阪地域で活動するミュージシャンの方々はマーケティングなるものを意識しているでしょうか?という問題です。私は全国の様々な地域にて「生活」してきた経験から申し上げますと、大阪地域の方々は非常に頭の回転が速く、物事の道理をわきまえた人で構成されている、素晴らしい人々が圧倒的多数であると感じております。しかしながら、それが逆に災いし、大阪地域の枠内にこもってしまう傾向にあります。

 

道理をわきまえ、非常に頭で考え、意識的に操作された音楽・・・

 

それならクラシック音楽を聴いていればよい話で、何もロックなどを含むポピュラー音楽を行う必要はないわけです。カバーを行うにも完コピを要求してくることが多いのも大阪地域の特徴であります。これゆえに、私のバンドではパールジャムのカバーをドラム&ボーカルで行っておりましたが、それは完コピではないというレッテルを貼られ、東京へと追いやられたわけです。

 

技術の大阪地域・・・

 

キャッチコピーとしては素晴らしいかと思いますが、逆にこれが日本全体のポピュラー音楽のマーケティングを無視する格好となり、大阪発はより厳しくなるものと私は考えております。

 

いろいろと述べましたが、クラシック音楽であれポピュラー音楽であれ、活動を行うにはカネが必要です。しかしながら、カネだけではどうにもならず、やはり夢も必要であります。この両方がかみ合ったときに一流のミュージシャンが誕生します。このように考えますと、演者、そしてそれを支援する人々の基本的な考え方を全国レベルにまで変えていかねばなりません。技術は素晴らしいものがあるわけですから、あとはマーケティングをしっかりと理解していただき、全国標準なるものと関西独自の技術をミックスさせ、後発であることの弱点を克服していただきたいものです。

 

9月から私のバンドは大阪にて先陣を切って本格的に活動をいたします。その時の皆様方からの視線を感じつつ、今後の大阪地域の音楽業界についてもっと深く考えていこうと思いますので、温かいご支援のほど、よろしくお願いします。

 

ご高覧、ありがとうございました。