モノを売っていく際にやはり人の心を読んでいくことが必要ではなかろうかという仮説に基づき、このシリーズを進めているのですが、実のところマーケットの心理も重要ですが、売る側の心理も重要でありまして、これら二つの心理がクロスするところで物は売れるかと考えられます。どちらか一方のニーズを満たすだけではマーケットは成長しないのではないでしょうか?というのが私の仮説であります。ところが、芸能界では売る側の心を満たすことばかりが先行し、マーケットを無視する傾向にあり、これが現在の芸能界の衰退の要因の大きな一つであると考えております。人の心を打つミュージシャンが存在したとしても、人を引き付けるのみではミュージシャンとして独立することはできず、やはり、自らもマーケットへ飛び込んでいく覚悟が必要であります。何事も一方的なことを避け、トータルバランスで物事を考えていくのがユング心理学であることを常に心がけていただきたいです。
本題に入りますが、老賢者元型の作用の考察の前に、影の問題を再考していくことが前稿からの課題でありました。通常、影の問題は「中年の危機」ともよばれ、つまり、現代では50歳くらいから影の問題について思い悩むものとして認識されております。当然のごとく学会でもその認識であります。ところが、芸能人はこれを20代で経験しなくてはいけません。早い人は10代の後半で経験しなければいつまでたっても独り立ちできず、貧しい人生を送らなければなりません。しかしながら、経験したからといって成功するわけでもなく、影の問題を背負ったがゆえに死を選ぶ芸能人もたくさんいるのが現状であります。この状況を何とかしなければならないと思い、私は書き続けているのですが、この思いはどこまで通じているのかわからないのが、世の中、難しいですね。
ところで、影の問題というのは生きられなかった半面のことをいいます。音楽の世界で例えるならば、本当はギタリストになりたかったベーシストなどは代表例となるでしょう。この心の底から「本当は」と思えることが必要でありまして、なんとなくギタリストになりたいというような中途半端な心理状態では影の問題とはなりません。強く志望するがゆえに心が歪み、悲鳴をあげるのです。こう考えてみますと、アニマ・アニムスのように先天的なものとは違い、ペルソナなり影の問題は後天的な問題であることが理解できます。但し、アニマ・アニムスに見るように、人間には表の顔と裏の顔とを両方の面を持ち合わた生き物と理解するのが妥当ではないかと私は考えております。ここでの結論として、ペルソナ、影、老賢者、自己などの元型はユングが人の心の発展段階を可視化するのに使った概念であり、実際に元型として存在するのはアニマ・アニムスのみではなかろうかということ、ゆえに重要なのは、人間というものは「両面体が完全体」という考え方であるかと考えられます。
ユングは多くの論文にこのことを「対立物の結合」と表現することにより論じておりましたが、多くの論文を読んでいくうちに例えば、「ペルソナ」という心の状態があらかじめ備わっているかのような心理状態に陥ってしまうのです。実際に何度も読み返してみると、ペルソナという心の状態が発生していることを論じているわけですが、ユング自身の論じ方として、「ペルソナというものが心の奥底にありまして・・・それは外的事実が心の内に向かって行き、その心のあり様が無意識に表に向かって発信されるとペルソナとして機能し、自我との対決となる・・・」という、まずは存在そのものを認めた形で論じられているがゆえに混乱を呼ぶわけです。ユングを責めるわけではないですが、ユングが何を思ったのかを読んでいくのが研究者として面白みを感じているのですが、ユングは死の直前に一般の人々に向けた象徴に関する本を出版しておりまして、その本に人間の染色体を拡大した写真が掲載されており、「やはり、対立物の結合なる理論は正しいのではなかろうか?」という大きな仮説を残しており、しかし逆にアニマ・アニムス以外の元型について深く掘ることもなく、これらのことから判断しても、元型なるものは基本的に心の成長と発展を可視化するものとして活用させたと理解し、アニマ・アニムスという概念によって人間の心の基本構造は「対立物の結合」によるものと考えると理解しやすいかと私は考えております。
ここで老賢者とは何かを考えてみますと、「人間なるものは表と裏の両面を持ち合わせるものだ」と心底の理解をできている心理状態の人であると定義することが可能であります。換言すると、汚い面も含めて物事を判断することができる心の状態であろうかと考えられます。私の祖母が私に算数を教える際、どうせ覚える気などないことを十分に理解していたがゆえに、私にとって理解しやすい算数となったといえるでしょう。これとは逆に、学校の先生は生徒は覚えてくれるものという前提でありますので、覚える気など全くない生徒に関わると先生としての機能が全く失われることになります。ですから学校の先生は生徒というものは、一生懸命学習しようとする生徒もいれば、学習をしない生徒もおり、一生懸命学習している生徒であっても、学習したくない心も同時に持ち合わせており、また、学習放棄している生徒であっても、学習意欲は必ず存在していることを肝に銘じなければなりません。その中で先生としてどのような個性を発揮するかが重要となります。その時に安易に「私は老賢者になる!!」などと答えを出すと、とんでもない失敗をすることはこれまでの私の論文を読んでいただければご理解いただけるかと思います。
次回からはこのシリーズの最初から登場しているミュージシャンのA氏を例に老賢者元型を考察しようかと思います。ご高覧、ありがとうございました。