芸能の世界とマネジメント

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需要と供給との関係を論じております。一言に需要といってもその定義はあいまいであり、経済学用語における需要と一般的な意味での需要は意味が異なりますし、経済学者の中でも共通する部分と異なる部分をもちますので、相当に難しい概念であります。これと同じく、供給も難しい概念であります。製本機に印刷物を投入することを供給といいますし、企業がマーケットに向けて製品や商品を投入することを供給といいます。使い方は全く異なりますが、どこかに向けて何かを投入することを供給ということに変わりはなく、皆様方もそのような解釈であればそれでよいかと思います。

 

但し、学者はそれではいけませんし、いわんや大学の教員を目指す若い諸君もそんなことでは学会で通用しないのでしっかりと定義を行うことに慣れるようにしましょう。

 

前稿では供給者と需要者における象徴の重要性について触れました。迷える需要者に供給者は老賢者のごとく現れ、需要者の問題を解決してゆく話であります。この話は単純な話でありまして、家電量販店に出向いてどの冷蔵庫を購入しようか迷っているときに店員が現れ、その迷いを解決する状況のことです。ところが、実際には店員と顧客とはそのような関係にないことが多く、店員に話しかけられることが面倒であるから話しかけられないように身構える消費者も多く、また、店員に販売ノルマを課せられている場合、売りたい気持ちが相手に伝わってしまい、顧客から逃げられることが多いのではないでしょうか。需要はあるのに供給側の力量が足りず、機会損失が発生し、この規模が大きくなると不況になると考えることも可能であります。

 

もちろん、この逆もありまして、供給側の準備はできているのに、消費者が供給側のことを信用しようとせず、消費者が冷え込むケースです。また、両者がともに不信感を持つケースもあり、やはり、モノが売れる状況となるのは需要側と供給側の意識が一致したときにはじめて成り立つものであると考えることが妥当であるとあると思われます。この考えに立つと、価格は関係ありません。心と心がつながりあえば物は売れるとする立場であります。この典型例として古新聞の販売をする商売人の物語を述べたのであります。

 

しかしながら例外もありまして、いくら需要があるからといって、古新聞を100万円で販売するとなると、それは話は別となります。この点にご注意ください。

 

需給曲線においては量と価格の情報しか与えられません。先の古新聞屋さんの例では、そのマーケットにおいて一部200円でゴールデンクロスするとなります。ここで経済学者はこのように考えます。では、古新聞は200円にて販売可能!です。しかしながら実際は既に述べているように、そのマーケット特有の事情、そして古新聞屋の顧客に対する考え方がマッチした結果としてのことであり、古新聞を200円で販売したから売れたわけではないのです。ここが経済学の教科書と商売の実際とが乖離する点であります。

 

このように需要と供給とは専門分野によって定義が変わってきます。経済学者が意味するとこの需給関係も間違いではありません。しかしながら、正解でもありません。ここが難しいのです。この部分をどのようにして解決してゆくかを本シリーズにて考えていくものであります。まだまだ続きます。ご高覧、ありがとうございました。

需要と供給を同時に考えていこうとする企画であります。経済学的な視点で考えるのも悪くはないのですが、実際の商売には数字で表現することができない様々な現象がありまして、それ故に物語論的手法で話を進めております。

 

前稿においては古新聞を200円で販売する架空の商売人を登場させ、彼の方法論を吟味してみました。実際に彼のような商売に遭遇したことはありませんか?このほかにも競輪場へ行けば予想屋が実際にいまして、この予想屋がまた説得力あるように見えるのです。なぜそのように見えるのかというと、需要側が迷っているからです。さらに、需要側を迷わせる力もあるわけで、競輪新聞を片手に答えを瞬時に出してゆくあの姿を見ると、多少の金額を支払っても情報を買おうとする人は増えるのではないでしょうか。

 

モノが売れるときの要因は複数あるでしょうけど、もっとも単純なのは需要者を迷わせることではないでしょうか。迷っているところに商売人が現れ、迷いをとり、そして購入に至る。このようなサイクルが生れると商売人の存在意義がはっきりとし、しかも感謝されます。やはり、対面販売の良いところは心と心のぶつかり合いであるところでしょう。商売人は商品を右から左へ流すだけではなく、消費者の心のよりどころとなれば付加価値がつき、そこに信頼が生れることにより売り上げが上がってゆくというスパイラルがうまれると、企業は成長してゆくのではないでしょうか。

 

そう考えると、商売人は老賢者として歩んでゆくとき、非常に消費者から愛される存在となり、同時に、できる商売人として成長してゆくものと思われます。近年はインターネットの通販、それもECサイトが流行しており、しかしながら、問題も多くなってきております。インターネットでのショッピングはその品ぞろえの多さから便利であります。ところが、何を買おうか迷っているときに知恵を貸してくれる人がおらず、本当に迷ってしまう負のスパイラルが発生します。商品のスペックで判断するから問題はない!!という人もいらっしゃいます。しかしながら、そのような人の多くは全てのモノをインターネット通販を利用しているわけではなく、ごく一部の製品を通販に頼っている場合がほとんどであります。

 

便利であるインターネット通販にて、一戸建ての住宅の購入から食料品の購入までの全てをインターネット通販にて購入する人はごくわずかであります。なぜでしょうか?となるのですけど、例えば、家くらいは対人販売にて購入したいと考える人が多いのは、つまり、住宅について迷っているからであり、何の迷いもなければ無人販売で事足ります。家の無人販売はさすがに不安だ!と思う方はやはりどこかに迷いがあるわけで、その悩みを取って気持ちを楽にすることができれば、需給関係は非常に円満な結論へと導かれるものであるかと思われます。

 

この原理を心理学的にいえば、それは象徴なる概念となります。しかしながら、ユング心理学的においての象徴は一般的な象徴とはことなり、一言で表すと「あいだ」となります。一般的には「代表」と翻訳されますから、意味は大きく異なります。ここをまずご理解いただきたいです。ユング心理学的には大きく意味がことなる象徴でありますが、芸術の分野ではユング心理学における象徴の定義で話を進めることが多く、その意味で象徴論を勉強することにより、芸術家的な商売人を目指すことも可能になるのではなかろうかと思います。

 

次回以降は象徴を解説しながら、迷いの原理とその解決方法を吟味し、それを商売人との関連で総合してゆこうと考えております。ご高覧、ありがとうございました。

前稿において、人間の需給関係の欲望のみが存在するマーケットを想定してみました。私が思う理想のマーケットはこのようなマーケットでありますが、現実的にはそうはいかず、マーケットを操作して大儲けしようとする力が働く場合も多々あるのですが、先んず、そのようなマーケットは後回しにし、人間の需給関係のみが存在するマーケットで話を進めてみようと思います。

 

前稿において、あるマーケットにて古新聞を200円で売ろうとする商売人が現れました。信じられないような高額な古新聞でありますが、これがはたして売れるかどうかであります。前稿においては古新聞の供給者に3パターンあるのではなかろうかと想定したのですが、ここにいわゆるフリーマーケットにて古新聞を200円で売ろうとする供給者がいたとします。

 

常識的な考え方では古新聞を200円で購入するような人はゼロに近いかと思います。しかしながら、フリーマーケットという場所柄、様々なものが販売されており、出店者も様々であります。そこにはガラス製品や陶磁器製品(以下、総称として割れ物)を販売してる供給者も多いかと思います。供給者がマーケットに慣れた人であれば梱包資材を持ち込んで販売する人もいるでしょうし、梱包しない代わりに安く供給使用する供給者(以下、業者)もいるでしょう。この梱包しない代わりに価格を安くする業者には二つに分類され、そもそも梱包を想定しない業者、もう一つは梱包費を別に請求する業者です。

 

こうなると少し話が複雑となります。例えば、梱包費を別途請求する業者が一律に梱包費として300円として価格設定をしている場合、さて皆様方は梱包をオーダーしますか?ここが難しいところです。梱包サービスがそもそもない業者であれば割り切れるのですが、有料でありながら梱包サービスがあり、しかも割りたくない商品を購入する場合、迷いますね。そんな時に200円で古新聞を販売している業者を発見したとします。さて、この古新聞はその人にとってどのように見えるのかですが、これは多くの人が「うまいこと商売しよるな!!」だと思います。良い意味で「やられた!」となるかと思います。つまり、古新聞が200円とは高額ではありますが、でも必要だから高いといえるか?というところで迷いが生じるのであります。その迷える消費者は消費者としての象徴であり、この後にどのような結論を出すかによって個性化の方向性が決定されます。ここが面白いのであります。

 

何が正しいかはこの場に遭遇する消費者における個別の回答であります。つまり、古新聞を買うも正解、買わないも正解です。しかし、ここで消費者における消費行動に象徴性を持たせた業者は非常に優れた業者であると思われ、その意味で優れた業者であると評価せざるをえません。ここに成功する「企業経営者」とそうでない人との差が生れるものだと思います。

 

たかが古新聞でありますが、されど古新聞であります。古新聞で人をうなずかせることができればそこに投資を呼びかける人が出てきます。その時の駆け引きの道具として「需給関係」が使用されると仮定し、そこに「象徴」なる概念をうまくはめ込むことができると「なんだか言葉にうまく表現できないが、それでOK!!」という現象が生れます。商売とはこのような取引の連続なのではないでしょうか。

 

これを悪用するのが詐欺師であります。需給関係を持ち掛け、そこに良い話と悪い話の両方を提示し、相手を迷わせます。迷わせたところに老賢者が登場し、問題は解決し、被害者である象徴は負のスパイラルに巻き込まれます。才能ある商売人と詐欺師とは紙一重ですが、才能ある商売人は古新聞を200円で販売できるような大きな人物であるので、詐欺師の方向へ進まないのも特徴であります。

 

経済学ではこの古新聞を消費者が購入るか否かの二社一択の回答を求められ、経営学では200円で古新聞を売ろうする方法を一点集中で考えるところに特徴があります。要するに、一方的なのであります。これらの学問の主張するところはよくわかるのですが、やはり供給者がいれば需要者がいるわけで、逆に需要者がいれば供給者が出てくるでしょうし、これら二者の相互関係の中から物事を考えていくことも私は必要ではないかと考えております。そこに心理学的な考え方を援用し、問題を解決してゆこうとするものです。

 

次回に続きます。ご高覧、ありがとうございました。

需要と供給の両方を同時に考えてみようとする企画であります。本稿のタイトルであるならば通常は需給曲線の話からはいり、関数計算に入っていくのですが、例えばy=ax+bなる消費行動にかんする関数がある場合のゴールデンクロスした点の意味を考えてみようとなってきます。中学や高校の数学と違うのは、例えば定数aの値などを求めるところに意味を求めないところです。先に結果があり、その結果を数学にて解明するところに面白みがあります。音楽などで応用すると、倍音の出方と聞こえ方を矯正していくために、測定時の倍音の出方を微積分にて出してみるなどです。

 

関数は不思議なことに、数値を自分の財布に入っている貨幣の額として考えると驚くほどよくわかってきます。つまり、自分で努力してためたお金で企業を運用しだすと、これまで信じられないほどに関数が理解できるようになり、その意味で、数学教育はもっと現実的な話から入っていくべきではないのかと思っております。

 

話はそれましたが、商売をするときのことを考えますと、様々な邪魔者が影響し、物が売れていくときの条件が変わってゆきます。今でも紙媒体の出版物で行われる方法のほんの一例を紹介しますと、ある本を紙媒体として1万部作ることにしました。その時、1万部の全てが書店に陳列されるわけではなく、2千部ほどは自費購入し献本などにあて、3千部ほどを知人と友人に売りさばき、残りの5千部を書店に陳列する方法などがあります。こうすると、書店に並んだ時点で「5千部が売れているベストセラー!」などのキャッチをつけることでき、これを呼び水にして売れ行きが伸び、重版してゆき、最終的に10万部がうれた「超ベストセラー!!」となっていく例です。

 

需給関係の入門編にてこのような非常に現実的なビジネスの方法にて説明したところで意味はないと思いますから、このような現実的なビジネスでの話はこのシリーズを終えてから本格的に取り組んでいこうと思っております。先んず、このような様々な邪魔者がない状況、もっといえば、人間の心の欲望しか存在しない状況を想定し、需給関係を述べてみようと思います。また、モノを貨幣と交換する場所としてマーケットを想定します。それはフリーマーケットのような場所を想定していただくと、何となくではあるでしょうけど、需給関係の初歩を想像できやすいかと思います。

 

では、ある供給者が古新聞(朝刊、しかも一部)を200円で売ろうとしています。まとめて買うとなんぼや?という話もあるでしょうけど、ここでは値引きはなく、あくまでも一部200円の古新聞です。古新聞を一部で200円もとるとは、それは詐欺ではなかろうか?なる声も聞こえてきます。詐欺は古新聞を本日版の新聞として売ると詐欺ですが、古新聞として売ることに詐欺罪は適応できません。ですから合法です。しかも使い終わった新聞ですからどのような価格で売ろうが供給者の勝手です。極端な話、価値ある過去の号外は高額で取引されますよね?そういうことです。しかしながら、ここでは価値ある古新聞ではなく、一般的ないわゆる古新聞です。とてもお金を支払って買うものではありません。

 

ではなぜ供給者はそのような古新聞を200円で売ろうとするのかであります。理由は様々だと思います。一番簡単なのは供給者はマーケットを知らないということです。無知ゆえに無謀とも思われる戦術で戦っていると考えることです。もう一つは、かなりの戦術を盛り込み、古新聞に高額な価格をつけていると考えることです。最後はこの両極のあいだをとることです。さて、どうなのでしょうか?

 

これがもし売れるとすると、需給曲線のゴールデンクロスするところは販売部数に関係なく200円地点となり、夢のような商売となりますね!むしろ、単価を上げて部数の伸びを計測してみたいところですが、それでも部数に変化がなき場合、とんでもなく夢のある商売であるように思えます。

 

需給関係はこのように考えると、本来は妄想だけでも楽しめるものであります。ここに様々な要因が重なることにより話がややこしくなっていきます。まずは本事例のように、意味のなさそうなところに意味を見つけていくことに慣れていってもらえばと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。

前稿において、まずはこれまでのシリーズを一新し、さらにタイトルまで変え、需要と供給の両方について同時に議論していこうとする旨を論じてまいりました。需要と供給は需給曲線を知っている人であればある程度のイメージをすることは可能であると思われます。しかしながら、現実のマーケットはそれほどまで甘くはなく、供給が需要を生むような社会にあっては、供給者の失敗はそのまま企業の業績に跳ね返り、それ故に怖くて積極的にマーケとへ出ていくことができない企業も多いのではないでしょうか。

 

例えば、ネットの動画配信が儲かるからといって、今の時代からネットの動画が配信者になったところで非常に厳しい現実が待っているのは目に見えております。なぜなら、競争者が多いからです。これこそ供給過多となっており、「有名になるには?」をいくら考えたところで、最終的には資金力がモノをいう世界であることに気づき、ではどのようにして現金を手にすればよいのかについてを考えているうちに旬を逃す人がほとんどであります。しかもネットの情報配信の弱点は何といっても閲覧したい人しか閲覧しないことです。全世界は広すぎるとして、少なくとも日本国内にて有名になろうとするとき、やはり不特定多数の人に目にしてもらうことは非常に重要なことであると思っております。いきなりネットの動画配信から行うと、どれほど再生回数が上がろうとも、その動画を知っている人や検索で見つけた人以外の人の目に触れることは難しく、この点において、やはりテレビの役割は不特定多数の人に自分自身を見てもらうには非常に有益な手段であるかと考えております。

 

これはネットが正しいのか、ないしテレビが正しいのかなる議論ではなく、どちらも必要であるかと私は思っております。不特定多数向けのテレビにて情報を拡散させ、その後に専門的にネットにて接触を試みていゆくことが大切なのではないでしょうか。

 

ところで、需要と供給とのバランスを決めてゆく場所が存在します。それがマーケットであります。これは前稿においても既に述べておりますが、マーケットを市場(しじょう)と読む場合、そして市場(いちば)と読む場合があり、これはこの漢字を見る人の布置によるものが考えられます。厳密なる意味を求めるのであれば「しじょう」と「いちば」には大きな差があるように定義することは可能ですが、心理学者からすると本稿において「しじょう」であれ「いちば」であれ、それは誤差の範囲内であると考えております。なぜなら、人間は間違う動物であるからです。

 

この人間は間違う動物なる性質を利用することにより、逆に間違えを減らすように努力をしてみようと思い、私は本稿においては市場のことをマーケットと表現することにしました。

 

例えば、「しじょう」と読むと一般的にどのように感じられるかについてを想定してみますと、「経済学用語」ではないでしょうか。「いちば」と読んだ場合は近所の公設市場や中央卸売市場ではないでしょうか。マーケットとまでいくと「フリーマーケット」ですよね?経済学者は「しじょう」をマーケットとイメージする人がほとんどであるかと思いますが、一般の人からするとフリーマーケットであるように思われます。むしろそうあってほしいですね。言葉のイメージは重要であると思っておりまして、マーケット≒フリーマーケットと思うことで学問に対する垣根が低くなるように思っておりまして、しかもフリーマーケットそのものは売りたい人と買いたい人とが非常にダイレクトに感情のぶつけあいをする場所であり、そこには金融機関の介入があるからその商品を2万個ください!なる考え方は存在しにくい状況であり、需要とは何か、さらには供給とは何かを考えていくにはわかりやすい媒体であり、需給関係という対立する概念が見事にマッチしてゆくパラドックスを目の当たりにするには非常に良いかと思い、マーケットという言葉をもって市場を考えていこうとするものであります。

 

今回はこれにて筆を置きます。ご高覧、ありがとうございました。